『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

マコさんからの沖縄とれたてニュース

2015年04月30日 | E-mail news より

 沖縄の辺野古情勢は、日本の針路を左右する、重大な問題です。が、マスゴミは官邸に遠慮して、何も報道しません。

 ネットでは、多くの皆さんが配信しているnewsです。当ブログでも、沖縄に住みついている我らがマコさんからのメールを、配信したいと思います。

*********************************************

 昨日は漁船をチャーターして(10人乗り)、フロートぎりぎり海保の顔が見えるまで接近し、「海猿たちよ、恥を知れ、公務員ならまずは憲法を読め」と声をからして怒鳴ってきました。別のところで一艘ひっくり返され、帰ってきたら息子が心配していましたが、そんなこともあろうかと着替え一式は車に積んでいましたが。帰り、みんな辺野古、辺野古で手薄になっているもう一つの『圧殺の海』ヘリパットの高江に足を伸ばして激励。案の定、車輌侵入を阻止している重要なゲートに二人、本部らしきテントに一人、という心細さ。せめて・・・と皆でなけなしのカンパ。船チャーター料に加えて身軽になり過ぎた帰りでした。早朝からの出動で、もうエネルギー切れの爆睡、夜の「屈辱の日・那覇集会」はパス。

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2015年5月例会のご案内

2015年04月30日 | 月例会案内

 

阪神間道路問題ネットワーク
5月例会のご案内

2015年5月23日(土)13:30~15:30
西宮市立今津公民館第2集会室

風薫る5月が近づきました。夙川には鯉のぼりが飾られ、子供の節句を待っています▼今回は、勤労会館も青少年ホームも、それに市民会館も満室でした。散策するのにも良い、夙川公民館は改築中です。今津公民館となりますので、お間違いの無いよう▼尼崎で人権集会があったり、川西自然教室のTさんは差支え、北部水源池問題連絡会は会議が重なりました。4月例会も、そんなわけで少なかったのですが…▼震災後の1.17を神戸東遊園地で、竹灯籠のイベントが続いてきましたが、20年の節目を迎えて終了ということに。Yさんは、まだまだ元気なのですが、多くのメンバーの高齢化ということで、ご苦労様でした▼神戸市北区で、中国道・山陽道・第二名神のJCが出来るところのNさんのお話。第二名神の取り付けに伴い、高台にあった高圧電線鉄塔が平地に移され、赤白に塗られた問題。9mの土盛をしたら、航空法の規制で赤白に塗らずに済むと、住民側から指摘しているとのこと。関電も塗替えのメンテナンスがいらず、検討するとのこと▼川西の第二名神も工事が進んでいて、S画伯の現地見学会提案も、よい季節になってきたのかも。この第二名神、枚方・高槻は市街地を通るということで、この先不透明だと、S画伯は指摘するのですが▼例会会場現地での津門川バラバラ遺体事件は、容疑者が聴取されているようです。そんな話から、無人小型ヘリのドローンが、官邸屋上に落下した問題になりました。法案を手早く通すための、ヤラセ事件ではないかとの疑いも▼来る6/3~4は東京で、第40回公害被害者総行動が開催され、道路全国連も参加し、中央省庁交渉も行われます。そこで提出する署名を、例会参加者に持って帰ってもらい、直接、道路全国連事務局長に郵送して頂くことにしました▼最後ですが、もう『みちしるべ』5月号の季節になってしまいました。みなさんの原稿をお待ちしております。よろしくお願いします。(F)

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『みちしるべ』**横断車道(77)**<2015.3. Vol.88>

2015年04月14日 | 横断車道

横断車道―77―

ブログ版『みちしるべ』は重宝している。第87号を発行し、90号も近い。この「横断車道」も、77編目になる。これまで何を書いてきたか?振返るのに便利。読返してみて、≪道路問題≫から遠ざかっていることに気付いた。少しばかり軌道修正▼もう忘れ去られようとしているが、民主党が政権に就いたことがあった。その中で、公共事業の軌道修正が提起された。「時のアセスメント」など、長期に手つかずの計画を見直すとか…。道路建設に当たっては、B/C(ビー・バイ・シー)が考慮されることになった▼Bとはbenefit(利益)で、Cとはcost(費用)のこと。B/Cが1を超えることが前提となった。つまり、便益がコストを超えることが道路建設の条件。民主党政権下でもいい加減ではあったが、自民党政権が復帰して、デタラメは急加速。政権が代わっても、一旦制度化したものは、官僚機構では修正されない▼東京の高速道路の便益に、北海道やら沖縄の渋滞緩和を言うのだから、小学生にも言訳不能。B/Cのデータ開示を拒んできたのも納得。アベノミクスで、無軌道な高速道路建設にゴーサインが出た。B/Cを「や~めた!」と言えない官僚どもの、創作の顛末である▼B/CでD(demerit)が無いのはおかしいではないか?本来、B/(C+D)であるべきでは?道路が出来れば、利便性だけでなく、不利益が確実に起こる。環境破壊や景観破壊は避けることができない。日本の法曹界(裁判所)の後進性は、言うに及ばないが。環境権については、環境影響評価が環境基準をクリアーしていれば、問題なしになってしまう。その環境影響評価が、事後に達成されることは稀でしかないのだから…。また、景観権については、国立市での裁判で認められたのではあるが、例外と言うのが現状ではある。唯一、人格権だけが認められるようになった。つまり、公害病が発生する状態は、違法と認められるということだ▼裁判所の後進性は別にしても、事故も起これば救急車や病院の費用がいる。交通違反の取り締まりも必要だ。道路の維持管理や老朽化対策、これらの様々がコスト化されていないのも問題だ▼便益については、渋滞緩和による総時間に、人件費を掛けている。これもおかしなことだ。犯罪で逃走する車もあろう。日本の運送業者は9割が中小零細業者で、荷主の多くは大企業。高速道路が出来れば、運ばなくて良いものも無理やり運ばせる。運送業者が赤字を抱えることで、利益が出れば、加古川で造ったボルトを東京に運ぶのである。同じものを川崎で造っているのだが、川崎から東京までは正規の運賃が支払われているだけのこと▼道路行政とは、この程度の低次元でしか機能していない。アベノミクスの正体とは、この程度だと、若い人たちは心しなければならないだろう。“大阪都構想”などという、目新しさで淡い期待を抱くのも、同じことだ。(コラムX)

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『みちしるべ』**歌集十点**<2015.3. Vol.88>

2015年04月13日 | 前川協子

歌集十点

前川協子

京伏見「雪香具礼(ゆきがくれ)」とうカフェにて
          酒粕パスタの美味(うま)きに酔いぬ

灼熱の恋も知らずに年古りて
          脳科学者は慾持てと説く

裸木がXYと絡みいて
          梢が風に揺らぐ元日

今一度逢いたしとう賀状見て
          逢うが叶わぬ亡き人想う

老残の身を情無やとこぼしてた
     亡母(はは)懐かしき八十路(やそじ)の初春(はる)に

スケジュール真白な侭の如月(きさらぎ)を
          迎えて侘びし手術を前に

初々しお下げ髪の看護士が
          頬染め交替告げくる朝(あした)

娘(こ)の発(た)ちしあとの部屋には仄かなる
          匂い残れりカーテンを引く

手術後の点眼にも慣れ久々に
          春陽(はるひ)を浴びて外出(そとで)楽しむ

唐突にケキョケキョケキョと鶯の
          初音聞こえて閑(しず)まれり

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『みちしるべ』**スペイン舞曲を聴きながら(斑猫独語64)**<2015.3. Vol.88>

2015年04月12日 | 斑猫独語

スペイン舞曲を聴きながら(斑猫独語64)

澤山輝彦

 常磐道が全線開通《富岡⇔浪江間 3月1日》。東日本大震災と福島第一原発事故の影響で建設が一時中断した常磐自動車道が当初より三年遅れで開通した。復興事業の加速が期待される。開通区間には「問題の無い数値」の被爆をうける区間があるという。以上、毎日新聞3月2日朝刊による。道路問題に取り組んできた者として、こんな記事はちゃんと目に入る。反対運動もあったのだろうな、なんて考えるのだ。復興事業の加速という言葉が出るとこれに逆らうのはむつかしいところであるが、この記事と同じ面に、今週の予定という欄にJR山田線宮古⇔釜石間の復旧工事の着工式とあるのを見ると、現地の人々の日常にそった復興というものは、まだまだなのだと私は思う。さらにこの3月2日号2面コラム「風知草」は「去っていく男」と題して京大原子炉実験所の小出裕章助教の退官と小出の反原発の取り組みを書き、エネルギー消費拡大を懸念する小出と共に、エネルギー消費の維持拡大を前提に原発を守れという官民による日本の原子力複合体を批判している。このコラムのような記事を、来る日も来る日も堂々と毎日、第一面にキャンペーンする新聞がほしい。広告掲載で持つという新聞経営ではしかたがないのであろうが、新聞は公器であると言ったりするんだからあきれるし歯がゆいのである。

 もう一つ2月28日、毎日新聞記事から。岩国市であったことだ。第三セクターの鉄道に委託して運行していた「住民交通バス」。最終便の乗客がいなくなると、途中で運行を打ち切り車庫へひきあげていた。それは18年間つづいていたという。それが苦情で発覚したのだ。18年は長い。その間苦情は出なかったのだろうか。供給者、利用者ともなんらかの見直しをするという知恵は働かなかったのだろうか。地域のバス問題、これは岩国の「住民交通バス」だけの問題ではない。わが大和団地にあってもバス問題は発生している。利用者が少ない、赤字である、そして改善のための路線変更もままならない、そんなことを抱えているのだ。いずれも弱者へしわ寄せが行く。過疎地、限界集落など、遠くへ行かなくても高齢者社会が進むと今住む地域が過疎地、限界集落と似たり寄ったりの集落に陥ってしまうおそれがあるのだ。地方にも国にも弱者を大事にする政治が必要なのだ。

 これを書きながらBGMとしてスペインの作曲家グラナードスのスペイン舞曲を流している。もう一昔前になるが、一時FM放送をよく聞いた。そして気に入った音楽を録音した。今は三本カセットテープが残っているだけ。一つは前記グラナードスのスペイン舞曲、他の二つは広瀬量平と柴田南雄の現代音楽である。このスペイン舞曲は12曲からなるピアノ曲で、今はなきアリシア・デ・ラロ―チャ、グラナードスの孫弟子にあたるというおばちゃんの演奏である。12曲のうち5番のアンダルーサが有名だが、私は10番が好きだ。「なかなかいいもんです」。音楽に限らず芸術一般に言えることですが、好きだとか嫌いだとかは一人ひとりの勝手ですから、なかなかいいもんです。なんて書かれれば、勝手に言うとれ、と以前は思ったのですが、今、自分が書きました。どうぞ勝手に言うとれ、と思っていただいて結構です。作曲者グラナードスは第一次世界大戦中、アメリカから帰国中の英仏海峡で、ドイツの潜水艦によって沈められた船に乗っており亡くなっています。そういえばジャズオーケストラのグレンミラーも第二次世界大戦中、飛行機事故でなくなっています。

 グラナードスやグレンミラーなどのいわゆる有名人ではなく、もっと身近な人を戦争で奪われた人々をたくさん知っています。人を大事にしない戦争、人を消耗品扱いする戦争、戦争は絶対してはならない、戦争を放棄した日本国はすばらしい国なのです。だのに、戦争を放棄した憲法を改正し戦争のできる国にしょうとしているのが、現政権です。軍靴の響きなどいらないのです、聞きたくないのです。

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『みちしるべ』**赤い夕陽⑮「極東貿易」レセプション**<2015.3. Vol.88>

2015年04月12日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑮「極東貿易」レセプション

三橋雅子

 敗戦の年が暮れてまもなく、少しの間、ソ連が商社的な活動をすることがあったのだろうか。後の事は分からないが、ある晩突然「極東貿易」とやらの夜会があると言う。レセプションだろうか? 日本人の「令嬢たち」が振袖など着て出席することになった。

 ダンスが始まる。その夜の最高仕切り屋らしい軍人が、つかつかと十歳の私の前に来て膝を折り、ダンスを、と騎士の挨拶めいたことをした。真っ赤なビロードのワンピースを着ていた私を「クラースナヤ(真紅の)マーリンカヤ(小さい)お嬢さん」とか言って抱え上げ、頬擦りをした。髭はきれいに剃ってあったが、それでも少し痛かった。全員が拍手をする中、彼は私を片手に抱いたまま滑らかに踊った。小柄の方だったとはいえ、十歳の私を途中で抱え直すこともなく、乱れることなく良い姿勢で一曲を踊りきった(という)。一組だけの、いわゆるスターティング・デモンストレイション?満場の拍手の中、私を置くと彼は「オーチェン・スパシーボ(thank you very much)」と言ってまた膝を折っておでこにキスをし、立ち去った。私はポーッとしたまま何のことやら分からなかったが、後で思うに、彼は満場の令嬢たちの中の誰と最初に踊るか、という難しい選択を避けるために、子供の私を選んだのだろうと思う。あとはごちゃごちゃの、恐らく令嬢たちの誰ひとりダンスの心得のあるものはないらしい尻込みを、親達は着物で足が見えないから構わずくっ付いていけ、とお尻を押して、草履で踏んだり踏まれたりのステップが始まった。後の私のダンス熱は、もしかしたらこのパーティーにルーツが?

 お開きに、ソ連側は例の大した声量で、寄せ集めの即興とは思えない素晴らしい男声合唱を披露した。お返しに日本の令嬢たちも歌を、となったが、悲しいかな、みんなが知っていてすぐ歌える、といえば軍歌か、戦争賛歌しかない。誰でも知っている筈の童謡など、いずれも遠く、忘却の彼方に封じ込まれていた。仕方なく敗戦時、一番流行っていた「勝利の日まで」に決まった。さて難関は、私を抱いて踊った例の人物は、実は日本語ペラペラなのだという。姉がメモを回した「最後の歌詞『勝利の日まで』を 『平和の日まで』に直して歌うこと」が緊急の、最小限の措置だった。それでも最後のくだんの小節は、何人かの「勝利の日まで」がパラパラ聞こえた。

 あれはつかの間の、一夜限りの、華やかな宴。永い戦時中、袖を通すことなど夢にも思わなかったはずの、いわんや、日本が負けてしまった今、ぼろぼろの敗戦国民が装うはずもあり得なかった振袖が日の目を見るなどとは! たとえ一夜の宴であろうが、誰しも思いもしなかったわくわくの饗宴。今にして思う、ソ連の見かけによらない粋な計らいか、いや、間違いなく、あくまで彼らの、戦争に疲れた果ての、せめてもの慰めのために、あの一夜を設けたのであろうか?

その後、「極東貿易」の消息を聞くことはなかった。

 
振袖をワルツに翻す華の夜に 勝ちも負けしもいくさ癒しし

勝った国 負けた国 共に酔ふ 楽の調べの一夜の宴

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『みちしるべ』**迷惑通信【70号】過労死防止大阪センタ-結成総会より**<2015.3. Vol.88>

2015年04月10日 | 平出正人

迷惑通信 言いたい放題・もの申す 【70号】

平出正人

大阪から過労死をなくすために
過労死防止大阪センタ-結成総会より

 2014年6月20日、「過労死等防止対策推進法」(略称:過労死防止法)が成立し、同年11月1日に施行されました。同月20日の大阪における「過労死防止啓発月間シンポジュウム」には大阪労働局、大阪府の後援、労働3団体(連合大阪・大阪労連・大阪全労協)からも挨拶があり141名、41団体の参加がありました。

 2015年3月13日、過労死防止を願うすべての個人と労働組合、市民団体、経済団体に呼び掛けて、国や自治体とも連携して、過労死に関する調査研究の推進、教育・啓発、救済・予防に取り組むための過労死防止大阪センタ-が設立されました。結成総会参加者は137名(立見あり)でした。

 過労死がない社会を実現するためにこの活動に、立場を超えて多くの人びとが賛同し、共同していただけることを心から呼びかけます。大阪から、そして日本から「過労死」をなくす取り組みを大きく進めていきましょう。

 「過労死」が国際語「karoshi]となってから20年以上が過ぎました。しかし、過労死はなくなるどころか、過労死・過労自殺(自死)寸前となりながらも働き続けざるを得ない人々が大勢います。

憲法第27条 すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

  • 2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
  • 3 児童は、これを酷使してはならない。

 27条は勤労の権利と義務をうたっています。でも、つらいことを我慢し続け、身体や心が壊れるほどの労働を求めているわけではありません。「人は自分自身、家族、社会のために働く」という意味をもつのではないでしようか。

命こそ宝 中学校三年 辻田真弘君(2000年3月 父親死亡)

 僕は、父を小学校に上がる前に、亡くしています。父は過労自死でした。

 父は、市役所で働いていました。市の文書を扱う大切な仕事をし、係だけではけっしてできない大きな仕事を任され、毎日、仕事の相談に来る職員が後を絶たず、それにも父は親切に答えながら、毎日16時間以上仕事をしました。胃潰瘍になりましたが、仕事をたくさん抱えた状況では休む余裕もなく、通院しながら土日も出勤していました。議会に提出するための資料を必死で作り上げた時、あまりの忙しさに、たった一つ部下に任せた所に、間違いを見つけました。そのまま条例になってしまうことは、大きな問題です。でも、やり直す時間はない中、心身ともに追い込まれて、父は命を絶ちました。

 最後に、父は、11通の遺書を残しました。

 僕がこの遺書を初めて読んだのは、小学5年生になる春休みのことでした。多くの人の支えの中、父の死が公務災害だと認められた時、初めて母から見せられました。

 「真弘様 親らしいことが、何も出来ず 許してください。貴方の無邪気な顔をみていると、本当に疲れがやすまりました。先週の発表会を見に行きたかった。お母さんから、貴方が、ものおじせず、堂々と話しているのを聴いて、本当にうれしかったです。笑顔の真弘の顔が忘れられない。こんな幼い子を残して おとうさんは……どうか、お母さんの言うことをよく聴いて、助けてやってください。本当に御免なさい。」

 ぼくは、これを読んだ時、涙が溢れてきました。こんなに僕たちを愛してくれた父がどうして死ななければならなかったのだろうか。僕は自分の部屋で、思い切り泣きました。

 5年生になったある日、担任もいるクラス全員の前である子が、「辻のお父さんは自殺したんか?」と聞いてきました。僕は、事実だから、「そうや。」と答えました。すると、僕も知っているという声があちこちで起こってきました。それから後のことは、僕はもう覚えていません。思い出さないようにしてきました。父のことを知らず、自殺だという事実だけが、広がっている。僕の大好きな父を変に評価されることが耐えられない。あの時の言葉には、すごく冷たさを感じるものがありました。

 父は、心身ともに過労し、うつ病になってしまいました。こんな働き方をしたら、誰だって、倒れてしまいます。父は市民のために、いい法律を作りたいと、いつも勉強し頑張っていました。条例になってしまうとどんなに悪いものであっても改正するためには、人も時間もすごく掛かること、条例は、市民の命にも繋がることを母に語っていたそうです。まじめで、責任感が強く、優しく、頼りがいがあった父です。父は、普通の人の2倍も働きました。

 父と同じ仕事をする人が、もう一人いてくれたら、父は死にませんでした。公民の教科書に、労働基準法がありました。この法律が守られていれば、父は死ななかったと思いました。父と一緒にすごしたのは、わずか、6年間です。父が突然僕の前から居なくなるなんて考えてもいなくて、父に甘えていました。あのままずうっと、家族の生活が続いてくれていたら、僕たちは幸せだったのに。あの日を境に、僕たちの生活が変わってしまいました。ずっと、家でいた母は生活のために、働きに出るようになりました。生活も苦しくなりました。母も頑張っていましたが、疲れ切り、どうしようもないさびしさに包まれ、僕たちに、「お父さんの所へ行こう」と言いました。僕達の強い反対で、母は、自分を取り戻してくれました。一歩間違っていたら、僕達は、今、生きていませんでした。

 ぼくが、小学1年生の時、詩を作りました。

《僕の夢》
大きくなったら、ぼくは博士になりたい。
そしてドラえもんに出てくるようなタイムマシーンを作る。
ぼくはタイムマシーンにのって
お父さんのしんでしまう前の日にいく
そして「仕事に行ったらあかん」ていうんや

 三年前、大阪人権博物館から、この詩を展示させてほしいという連絡があり、今、労働者の権利というところで常設展示され、小・中学生の学習教材にもなっています。この夏、僕は、朝日新聞やテレビ大阪の取材を受けました。父の死と向かい合うことは、辛いです。でも、僕達のような悲しい思いをする人が増えてほしくないので、取材を受け、今回は作文にも書きました。

 僕は、仕事のための命ではなく、命のための仕事であると考えます。命こそ宝です。過労死・過労自死というものがこの世の中から亡くなってほしいと強く思っています。

全国過労死を考える家族の会 代表世話人 寺西笑子さん

 寺西さんは今年2月に尼崎市の人権啓発学習会で、自らの夫を過労自死でなくし、二度と夫のようなことを起こしてはならないと、遺族の立場から、過労死根絶への思いやこれまでの経験、そして、「過労死等防止対策推進法」成立における人権問題について講演されました。

 「過労死防止法」は、四半世紀に及ぶ長い間、過労死・過労自死で亡くなった尊い命が犠牲になってできた法律です。これから日本社会を背負って行く若者が過酷な労働に追いやられ、優秀な人材をなくすことは日本の未来をなくすこと。過労死は人災、働くしくみを改善すれば防ぐことができます。

 遺族は過労死した人の生き証人。無念な思いで亡くなった命を無駄にしないために、過労死の教訓を防止策に活かし、遺族の役割を果たしていく所存です。

 今こそ「過労死防止法」が大事です。人間らしい働き方、過労死をなくす社会の実現にむけて、ともにがんばりましょう!

 今も過労死は後を絶ちません。労働者を使い捨てる「ブラック企業」の問題も深刻化しています。声を上げましょう。そして力を合わせましょう。憲法が描く社会がきっと実現するはずです。

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『みちしるべ』**竹灯りに舞う白い雪**<2015.3. Vol.88>

2015年04月09日 | 山川泰宏

竹灯りに舞う白い雪

地震の後、突然海は黒い牙をむいて
         閖上の街をのみこんできた

生死を分けたのは神のいたずら
   我が家の屋根に上り、寒さと恐ろしさに
      体を温めあい過ごし、
         雪は無情にも降りそそぐ

4年の歳月、竹灯りに灯された
      神戸の希望の灯りが
            ユリアゲの文字を浮かばせる

静かに祈る人に雪は静かに積もる
まるで天国からの白い手紙のように
ささやき励まし未来を開くようにと
灯りを囲み、人は手をつなぎ輪になって祈る
言葉に聞く
灯り見る人の瞳に涙、涙
雪は伝えます
私たちの分も生きて欲しいと!!
雪よ、白い雪よ
ありがとう、ありがとう、ありがとう

神戸市民交流会事務局長 山川泰宏

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『みちしるべ』**4年目の東日本大震災被災で学ぶ**<2015.3. Vol.88>

2015年04月08日 | 山川泰宏

4年目の東日本大震災被災で学ぶ

2015年3月15日

神戸・市民交流会事務局長 山川泰宏

 私の震災ボランティアのかかわりは1995(平成7)年1月17日のあの未曾有と思える程の予期しないような自然災害の発生で、西宮、芦屋、神戸の街並みの壊滅的被害でした。

 多くの犠牲者を追悼と神戸の町の復旧・復興を願って開催した「1.17追悼のつどい」。震災から4年目のまだ会社員の現役時代に震災イベントを開催した仲間たちとの交流です。神戸市中央区の東遊園地の公園を利用した、竹灯篭に再生ローソクを浮かべて毎年開催してきた「1.17のつどい」が17年間開催の歴史、そして震災から20年目の節目を迎えたのです。その追悼行事の竹灯篭で開催してきた、命の竹灯篭については多くの人々の支援協力に関わるものでした。

 会場に並べる竹灯篭の提供は兵庫県下の社会福祉協議会や企業、そして個人そして宗教法人の多くの一人ひとりの力の協力支援でした。

 その支援協力に「ありがとう!感謝!」の気持ちを込めたメッセージを竹灯篭に記載したのは、2001年に始まります。そののち思いついたのが45度に切り取った竹灯篭の内側に鎮魂、追悼そして絆の文字のメッセージを書き込んで竹灯篭に命を与えたのでした。東遊園地を訪れる市民の皆様が思い思いの心に浮かんだ亡き人への命への哀悼の眼差しから、癒される人の心に寄り添えた気がいたしました。

 そして、2011年3月11日の東日本大震災による未曾有の津波による、町や村や人々の犠牲の多さでした。

 東日本被災地への追悼行事で、初めて足を踏み入れた宮城県石巻市、その後、毎年3月、8月に宮城県名取市閖上地区の追悼行事と津波犠牲者遺族や被災者の住まう、愛島(めでしま)東部仮説団地(総世帯数220戸)へ訪問する支援の旅でした。

 竹灯篭に津波犠牲者の尊名を書かせていただいた追悼行事。2014年3月11日の追悼行事は仮設住宅から外に出られず、それでも少ない参加者とボランティアの仲間で始めた追悼行事に、訪れるごとに多くの被災者の心に寄り添うことが出来たことは嬉しく思います。

 追悼行事で私の心に届いた祈る言葉を詩に作らせていただき、毎日新聞神戸総局の桜井記者が同行取材の記事に紙面を飾らせていただき、堀内圭三シンガーソングライターの補作・作曲により『竹灯りの歌』(愛島に捧ぐ)が生まれました。

 2015年3月11日宮城県名取市閖上の地はあの震災前の面影も無く、瓦礫が無くなっただけの被災地の現状が今にあり、復興・復旧は遠いかなたにしか見えませんでした。仕事から帰宅する人たちを待ち、竹に灯した灯りを囲み祈る人たちに降り注ぐ雪は、今生かされた被災者への天国からの白い手紙のように人々の瞳を涙で濡らします。

 竹灯篭で描かれた「ユリアゲ」の文字、希望の灯りは被災者と参加したボランティアの手で結ばれ、輪になって祈る言葉に明日への希望の夢を結びつないだように感じます。

 生かされた命、みんなの共助の絆の種が芽生え育つのを祈ります。ありがとう!ありがとう!ありがとう!

 被災地の仮設に暮らす市民の皆様に、震災前の町の生業と人々の笑顔と喧騒に溢れる町の復興を願って筆をおきます。

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『みちしるべ』**戦争の思い出**<2015.3. Vol.88>

2015年04月08日 | 単独記事

この記事は『らくがき』13号(2011年11月発行)に掲載されたものです。山川泰宏さんが著者に承諾を得て、新たに打ち直したものです。

戦争の思い出

駒場松桜会関西支部
駒十一 山田 道子

 私は昭和15年4月生まれです。多分戦争を知っている一番若い世代ではないかと思います。物心ついた頃には戦争も激しくなり、空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕に入る日々でした。洋服の左胸には白い生地で住所、氏名、生年月日・血液型が墨で書かれて縫い付けてありました。母や姉からそれを覚えるようにいわれて、よく口でとなえたものでした。それと出かける時には肩掛けカバン(ポシェット)をかけて、ハンカチ・チリ紙の他に薬の空き缶に入り大豆が入れてあり、それがカタカタと鳴りました。

 その頃住んでいた武蔵野、吉祥寺は東京の郊外で静かな町でしたが、近くに中島飛行場があり、空襲がだんだん激しさを増し、庭の砂場をつぶして父が防空壕を掘り、空襲警報の時は家族8人その中に入りました。私はラスクのお菓子の空き缶に座布団を置いて座っていました。私が最初に覚えた字が空き缶に書かれたカタカナのラ・ス・クという字でした。防空壕の小さな入口から見上げると、爆弾が飛んで行くのが見えました。兄は「あれは焼夷弾だ」と他の爆弾の種類を言ったりしましたが、私にはそれがどんな爆弾かはわかりませんでしたが私の町を通り越して行きました。だんだん空襲も回数が増えて、父の郷里の山梨に疎開することにしました。

 父は東京に残り、母と子供たちだけの疎開でした。母は妹がまだ赤ん坊だったのと疎開の準備に追われていたので、当時4歳8ヶ月だった私は中学1年の兄と小学校5年の姉に連れられて汽車に乗りました。昭和19年12月の10日前後だったと思います。中央線の日下部(今の山梨市)まででしたが、今の様に電化されておらず、山の傾斜のきつい所ではスイッチバックをしたり、山の中を走るのでトンネルの多い汽車の旅はとても長く思いました。その日は小春日和の穏やかな日で汽車を降りてから、一里以上兄と姉に連れられて歩きました。この文を書くので兄に疎開のことを聞きましたが、「4歳の妹を連れて、一里以上も歩いて心配だった?」と尋ねましたが、いい子して歩いたようで、特に手を焼いたことや、困ったことはなかったようです。今思うと、長い道中、トイレなどは如何したのかしらと、お腹はすかなかったのかしらと、もう一度兄に電話した方がいいかなと思っていますが、今でも覚えているのは、母がいなくても、さみしさはなく、冬の暖かい日差しが心地よく、兄と姉とハイキングしているような気持でした。

 叔母の家に着くと叔母や使用人やご近所の人までが迎えてくれ、4歳の子が親も付かずに子供達だけで疎開してきたとびっくりしたり、憐れんだりしていました。そこは空襲も無く、暖かい冬の陽が当たる縁側に布団が干してあり、猫が日なたぼっこしているのどかな暮らしがありました。

 その日から、正月をはさんで半月位伯母の家に預かってもらいました。その間に手伝いの、くに子が出産されたり、正月にくに子さんの家に連れて行ってもらいましたが、そこで、暴れ牛が家の周りを角を立てながら走り回り、家の中からドキドキして眺めていたこともありました。

 正月も過ぎた頃、母たちも疎開してきて父の親類の家に移りました。私たちの住むところは門長屋で、小屋に荒むしろを敷いただけ。台所の流しは戸の外に付けただけ。トイレは年が行かない私と妹は庭の隅に穴を掘ってそこで用を足しました。母や姉たちは農作業する時のトイレで戸も無いようなところでした。立派な格式のある家で手入れの行き届いた庭木や果樹があり、いたずらさかりの子供が悪さをするのではないかと、今思うと一寸堅苦しく、母も大変気を使ったのではないかと思います。

 食べ物も不自由していたのでしょう。一羽だけ鶏を飼っていて、卵を一個産むと兄妹で替わり番こに食べていました。母は時々着物などを風呂敷に包み、それを背負ってどこかへ行っていました。夕方、私は帰りの遅い母を町はずれの橋まで迎えに行ったりしていました。

 厳しい暮らしが続きましたが、この町でもあまり安心していられなくなりました。それは、10キロメートル以上離れた甲府の町が空襲にあったのです。その前に米軍機からビラがまかれ、それには「甲府良い町 花の町 四月五月は花の町 六月七月 灰の町 八月九月は米の町」こんな文句が書かれたもので、姉に教えてもらいました。今でも忘れずに言えるのはその位、強烈だったからでしょう。甲府の空襲の夜は西の空が真っ赤で玄関の前にもオンべロ(紙のもえかす)が飛んできていました。ビラの文字通り灰の町となり、八月十五日には大家の御隠居部屋に皆が集まり、ラジオを聴きました。放送が終わると大家の京子ちゃんと同級生の姉が玄関前の銀杏の木に向きあって泣いていました。

 これが昭和十五年生まれの戦争体験記です。

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