2011年 宮城県石巻市支援紀行文
山川 泰宏
東日本大震災から既に3年4ケ月が過ぎています。今年も8月15~18日にかけて東日本被災地、宮城県名取市閖上地区の愛島東部仮設住宅での、夏祭りとお盆の追悼行事に参加の計画を進めています。
神戸・市民交流会で東日本被災地への関わりは、故中島正義前会長の遺志を引き継いで、事務局長としての立場から始まりました。
最初の訪問は東日本大震災の地。2011年3月11日の大地震、其の後に襲ってきた強大津波により、多くの犠牲者が出ました。宮城県石巻市で開催の川開き流燈の行事に、石巻市商工会議所と神戸市社会福祉協議会の小池裕部長の要請で、神戸・市民交流会が計画しました。私は内視鏡検査で胃に潰瘍が見つかり、6月下旬に内視鏡手術で1週間以上入院しました。手術前から決まっていた計画で、病み上がりの中、3泊4日の観光バスでの行程でした。
石巻市内の街は津波被害からまだ4ケ月後、街中は津波被害の強大さを見せつける如くの惨状が至る所で見られました。
7月30日(土)17:00神戸市役所前から関係者に見送られ、一路観光バスで石巻市に向かい、早朝、石巻市の目的地、旧北上川の会場に落ち着きました。
会場である駐車場は7月31日毎年開催される川村孫兵衛の法要・東日本大震災供養祭の準備でした。
神戸から持ち込んだ竹灯篭を3・11の文字に並べ、津波が襲来した時刻に追悼の黙祷をさせていただき、石巻市民の皆様の祈りと共に竹灯篭に灯を灯しました。又、夕方の流燈と追悼花火の際にも、竹灯りに再度、灯しての追悼式を執り行い、当日、千葉県流山から参加した皆様共に参加した一日です。
市街地は津波被災の復興も手つかずの状況。昼食をする店は、中華料理店などの少数の店舗の営業であり、営業時間限定(昼食時間のみ営業)で、多くの被災地支援のボランテアで満杯状況でした。
追悼花火を終えて、石巻市街を外れたビジネスホテルに向かい、コンビニで買い求めた遅い夕食をとり、永い一日が終わりました。
旧北上川に面して発展した町は、堤防に守られていました。其の堤防の築造に情熱を注ぎ、今日の街の礎を築いた人が川村孫兵衛、その人。永く石巻市民が其の功績を讃えていたのです。
被災地の人たちから津波の状況を聞きますと、旧北上川を遡上した濁流は、堤防を乗り越え、一挙に街中に押し寄せたと、2階建ての家に住む人は語ります。
1階の車庫入り口から入った津波は、今にも2階まで届こうと暴れ、反対側の壁が水圧で破壊されました。このことが、家屋自体の破壊を守り、倒壊を免れたと語ります。その恐怖の時間は、今振り返るとほんの数分の出来事であり、助かった命はまさに奇跡としか言いようがない。又、津波から命を守れたのも、まさに奇跡の出来事としか思いません、と。石巻市民の方々の話が、今も私の耳朶に深く刻み込まれています。
翌日(8月1日)の朝、石巻市内に観光バスで戻り、午前中は石巻市内中心部の清掃活動にあてました。また、JR石巻駅と市役所周辺で開催する復興イベントで、全国各地から支援に馳せ参じた皆様の食べ物や飲物、たこ焼きなどのテントブースを見学させていただき、石巻市民との津波被害等の状況など、交流の時を持たせていただきました。
清掃活動で集めたごみや竹灯篭は、持ち帰る予定でしたが、折よく神戸市から派遣されていたゴミ収集車の職員のご協力を頂き、処分して下さいました。この偶然も、何かの縁と感慨深いものがありました。
会場近くに住む市民のかたは、被災地神戸からの支援に感謝しますとの言葉もあり、長旅で帰る私たちが拾い集めたゴミなど、被災地の皆さんが処分してくださるとのことで、甘えさせていただきました。交通整理する警察官も他市からの応援の皆さまでした。
竹灯篭や清掃活動、そしてイベントの風景と神戸から参加の皆様の写真を添付させていただきました。
前の集合写真中のドーム型の建物は、石ノ森章太郎漫画館で、津波被害の為閉館中です。会場の駐車場は地震により地盤沈下が激しく、そばを流れる旧北上川が満潮時間帯に冠水します。
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