『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(43)**<2007.1. Vol.44>

2007年01月08日 | 横断車道

「みちしるべ」創刊は99年9月。今年で8回目の正月。最初の正月号は第3号(00年2月)。「真の住民参加をめざして」と題し、前代表世話人の砂場徹氏が巻頭を飾る。その他、「公共事業への抑止力」(北部水源池問題連絡会*北神雄一郎こと今は亡き西庄勝治氏)、「若水」(現代表世話人の大橋昭氏)、「ドイツの環境を知る旅から」(前川協子氏)、「斑猫独語=初夢、正夢、逆夢 夢めぐり」(世話人の澤山輝彦画伯)など▼次の正月号は第9号(01年1月)。巻頭は同じく砂場氏の「私たちは真の住民参加を追求する」。それに「国土交通省の誕生に思う」(北神雄一郎氏)、「ストップ!エネルギーの浪費!21世紀は[クルマから自転車へ]」(大橋昭氏)、「初夢が正夢に」(芦屋道路問題ネットワーク*三木悦子氏)、「猪名川昔語り 川の道」(川西自然教室*畚野剛氏)、「逞しいカンボジア」(前川協子氏)など▼3年目の正月号には「座るのは誰か」(山幹の環境を守る市民の会*故 黒住格先生)など。4年目の正月号から「熊野より」(三橋雅子氏)が始まる。6年目からは巻頭は大橋代表世話人になる▼総て紹介するには紙数が足りず、申し訳ない気分。第30号発行に際し、記念集会(04/8/1)を西宮勤労会館にて行い、50名も参加して盛大に祝った。最近は原稿の集まりが低調で、編集長を悩ませる。毎年、正月には過去を振返り、将来への展望を描く習慣がある。今号で第44号になるが、小泉政権下で道路行政に逆風が吹き、住民運動も華々しさはなくなったように見える▼どうも政治の世界は庶民感覚では、計り知れないものがある。小泉政権で公団民営化はしたが、道路族の利権である、高速道路建設計画は総て保全。改革かと思えば、公団ファミリー企業の実態はそのまま。持ち株体制を帳簿上廃止し、ファミリー企業でなくしただけ。公団の負債は国の道路保有機構がまる抱え、道路(株)は有利子負債が無く、黒字なのは当然。小泉劇場でも道路建設は止まらない。順風を逆風に見せたのは、小泉マジックだった▼小泉政策を引き継いだ筈の安倍政権だが、リーダーシップの無さは対照的。「改革」の「仕上げ」に、道路特定財源(ガソリン税等)の一般財源化を、安倍氏は公言。しかし、道路建設に使って、余った部分を一般財源にすると、道路族に撥ね返された。道路特定財源は道路予算の6割に過ぎない▼ここへ来て、兵庫県でも新たな事業計画が浮上しだした。道路特定財源余らしてならじと、どんどん建設計画を立案するわけだ。余る訳も無いが、こんなに足りないと見せつけなければというところが、道路族らしい▼今年は新たな運動が持ち上がるかもしれない。止まっていた計画が、ある日突然動き出す、それは経験済み。そんな思いの新年である。 (コラムX)

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『みちしるべ』七癖粥**<2007.1. Vol.44>

2007年01月07日 | 澤山輝彦

七癖粥

埋草 草子

◎うちのカレンダーにこんな注意書きがある。「カレンダーをめくる時、とめ具や紙で指先を傷つけないようご注意ください」こんな物を読まないと指先に傷をつける人がいるんだなあ。でないとこんなこと正気で書ける?

「車は人を殺す凶器になります。ハンドルを握る時には殺人者にならないようご注意ください」こんな注意書きが車のどこかに書いてあるのかな。

◎国技大相撲。2007年初場所千秋楽最後の取り組み力士はモンゴル出身とブルガリア出身であった。私は瞬時国粋主義的な感に陥り大相撲は不幸だなと思ったが、だが「何とかしなくちゃ」なんて言う政治家が出ないのは幸せなのである。

◎賞味期限とはおいしく食べることが出来る期間で、それが切れても一寸まずくなるかもしれないけれど、食べることはできるのよ、我が家で通っている解釈である。

◎暖冬暖冬と言っても冬は冬。結構寒い。暖冬で儲け損ねた人のぼやきに乗ることはない。すごしやすい冬を私は喜んでいる。

◎六甲山で遭難した男が焼き肉のたれで命を繋いだという話を私は信じ、山行の非常食にこれを入れようと正気で考えた。だがこの話誇張誇張の作り話で、遭難者本人が否定していた「あんなもん辛くてとても食べられませんでした」と。

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『みちしるべ』斑猫独語(28)**<2007.1. Vol.44>

2007年01月06日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<ボディランゲージ>

 みなさま、よいお年をお迎えでございましたか。私なんか「今更お正月でもないよ」なんて言っておれば年相応なのかもしれませんが、まだお正月を喜んでいるのであります。元旦にはどこか違った雰囲気がありまして、「12月32日やないか、いつもとどこが違うねん」などとは決して言わないのであります。お菓子の不二家が消費期限を1日過ぎた牛乳を使っていたことがばれて(根はもっとふかいものでした)新年早々偉いお方が頭をさげておられるニュースを見ましたが、ペコチャンが泣いているのであります。

 さて、国から市町村までのお役所、会社やいろんな団体、そこで発生した失政、不正、スキャンダル、職員の犯した破廉恥行為そんな事に、それぞれの責任者であるお偉い方が横一列にお並びになって「まことに申し訳ありませんでした」と頭を深く下げてお謝りになる、そんな姿を昨年はテレビでよく見たもんでございます。昨年はよく見たと言いましても、昨年は26件、一昨年は14件と記録をしていたわけではありませんから、その辺はまあ大体の所で、よくと言ったのでございまして、いつもと同じ位のことが起こっているのかもしれません。ああして責任者が一列に並んで頭を下げる姿を見て、「こうして謝ってはるのやからまあ許したろ」なんて思うお方は、人がいいというか、よすぎるお方であって、まあ普通なら「あんなん芝居や」と一寸格好をつけて「許せん」なんて言ってみたりするのでございます。事実「一応謝っておく姿を見せておこうではないか。3時頃どうですか。テレビに取材の連絡しておいてや」こんな会話で始まるんや、なんて見てきたように言う人がいたりするのですから。まああの頭下げで、謝った、という形だけをとりつくらうことは出来るわけで、無いよりはましそれだけの物だ、という程度に認識しておけばまあ腹も立たないのではないかと思うのですが。昔なら人生幸郎が一々「責任者出てこい」と叫けばなければならないところを自発的に出て来はるもんですから、「まあそれぐらいのもんやけどせんよりましや程度は認めといたろ」と寛容な精神を発揮されるお方は多いかもしれませんな。

 私達同じ仲間同士では「おはようございます、こんにちわ」とお互いに頭を下げるのですが、一寸上のお方になるとふむふむ程度のお返しをされる方がおられます。これはまあいいのでして、相当目上でお偉いお方でも奢り高ぶっていない人はこちらが頭を下げれば下げて返されます。ところがこちらがおはようございますと頭を下げる時、ふんぞりかえっているような人にはもう頭を下げることはない。こちらもふんぞりかえればいいのですが、そんなことをしていると「あのおっちゃんら、曲がらん腰まげてイナバウアーの練習してはるわ、ぎっくり腰ならんときや」なんて見ていた子供が心配したりするのでございます。「あの人には頭が下がる思いがする」てなことを言いますが、これは尊敬の念を含んだ感嘆の思いを相手にささげているのでありまして、会話の中で、そんな人をお互いに知っておれば、「あの人には頭が下がる思いがしますなあ」「いやほんまにそうですわ」こんな言葉のやりとりに使うことがあると思うのですが、そんな人と向き合えば頭は自然に下がるものでございます。

 頭が下がるに対して「頭が上がらない」と言う言い方もありまして、こちらは負い目があったり、弱みをにぎられたりしていて、対等にふるまえない、卑屈になった時に発する言葉で「あいつには頭が上がらんねん」などと一応あいつなんて言っていますが、頭があがらないのでございます。人に弱みをにぎられんようにせんとあかんのです。

 私達日本人は頭を下げることで挨拶を交わし、謝罪をするのですが、この頭を下げる身振りが挨拶、謝罪を表すのは世界共通なのでしょうか。某大陸某族の間では、人と出会った時、頭を下げることは禁手でありまして、なぜかというと、頭を下げて相手の足元を見るということは、いつでも先に相手の足をねらって飛びつき引き倒すねらいがあるからだというのです。で彼らはぷいと横をむいてつばをはく仕草をする、それが彼らの「おはようございます、こんにちわ」なのです。この話、よそでせんといてください。よそでしますと、「それはどこの国の話やねん」などとつっこまれた時に困まってしまいます。実はこの話、私の作り話でございます。だが、かようなことが地球上にはあるかもしれない、ボディランゲージなんて言いますが、身振り手振りの意味は万国共通ではないこともあるということを言いたかったのでございます。例えばタイ国では、子供の頭をかしこい賢いとなでてはいけないと聞いていますし、イギリスとギリシアではあの勝利のしるしであるVサインを手を内にむけるか、外にむけるかで大いに意味が異なるのだそうで、第二次世界大戦中、チャーチルがギリシアを訪れた時、Vサインの出しように両者が困ったという話があったのだそうでございます。たしかフレデリック・フォーサイスのド・ゴール暗殺を計画する小説「ジャッカルの日」で読んだのだと覚えていますが、アムステルダム空港かアムステルダムの街路上でのことでありまして、暗殺者の所へ寄って来た男が何事かをささやきますが、言葉が通じない、そうと見るや、男は親指と人差し指で輪をつくり、もう一方の人差し指を差し入れる仕草をして、何かを誘ったと書いてあったんです。なるほどこれだけは万国共通であるなあ、と感心したのであります。何、わけが分からんて、難儀やなあ、まあここはすらっと行かしてもらうことにしまして、

亥の年や 手振り身振りをこきまぜて
猪突緩急環境守ろ
おそまつでした。

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『みちしるべ』上司小剣を知っていますか**<2007.1. Vol.44>

2007年01月05日 | 川西自然教室

上司小剣を知っていますか

川西自然教室教室 恵須川 満延

 明治、大正、昭和の文壇で結躍した作家、上司小剣(かみつかさ しょうけん1874~1947)をご存知でしょうか? 小剣は現在の川西市多田神社、その神主の子として生まれ、幼少から青年期を多田の地で過ごします。12才で母を、20才で父を亡くした小剣は出身校であった多田小学校の代用教員等をしながら、荒れ果てた大きな屋敷の中でただ一人、悶々とした日々を過ごします。やがて1897年(明治30年)24才の時多田の地を逃げ出すようにして上京し、読売新聞社に入社、文学新聞色が強かった当時の社の中で、徐々に作品を発表して行きます。後には編集局長にまで登りつめ、1920年(大正9年)同社を退社しています。

 1914年(大正3年)1月ホトトギスに発表した「鱧の皮」は当時の文壇で称賛され、既に重鎮であった田山花袋は「・・・・及び難い」とまで最大級の評価を与えています。

 大阪道頓堀で鰻屋を切り盛りする主人公のお文は女盛りの36才、婿養子福造は一獲千金を夢見ては失敗ばかりの繰り返しをしている興業師まがいの人物。今、家出をし東京にいる。その夫からお文の元に二通の手紙が届く。そんなところから物語りは始まります。手紙には金の無心ともとの鞘へ納まるための条件、最後に好物の「鱧の皮」を送ってほしいと書いてある。夫の好物であった「鱧の皮」わずか6~7時間の主人公お文の乱れる心の描写や振る舞いは、文字通り鱧の皮のように読めば読むほど味わいがあります。

 1963年1(昭和38年)夫婦善哉の続編として、同じく豊田四郎監督作品で、森繁久弥、淡島千景、浪速千栄子、淡路恵子、山茶花究、三木のり平・・・等々そうそうたる出演者で映画化され、東宝より配給されています。また晩年には厳しかった父母の事や、多田の地で過ごした時代の地域の人々との触れ合いを題材に多くの作品を書いています。また機会があれば、そんな作品も紹介したいと思います。

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『みちしるべ』熊野より(22)**<2007.1. Vol.44>

2007年01月04日 | 熊野より

三橋雅子

<遠い熊野>

 テレビで日本地図上に、東京からの距離を鉄道の所要時間で線に表していたが、新幹線が届いているところは東北も九州もきわめて短い線。近畿圏でありながら、本州最南端、紀伊半島先端の串本は当然、離島なみに馬鹿長い線で遠くに押しやられていた。私はうかつにも、ここ本宮は串本より少しは東京に近いかと思ったが、とんでもない、ここには鉄道そのものが通っていないのだから、新宮から不便なバスでトコトコ…となると串本より遥かに遠距離になる。高速道路もようやく紀伊半島に入ってきたが、これも熊野の入り口、口熊野といわれる上富田の近く、田辺・白浜にはまだ届いていない。息子連が「日本で一番遠い場所」と言うのも、ほぼ正しい。

 熊野のもともとの意味は「隅っこ」の「くま」だというのがある。都から見て紀伊半島の南のスミッコ、遠く離れた辺鄙な場所の意味では、その通り現代でもぴったり、と私はこの説が気に入っている。

 しかし遠い故か、他所にない便利さもある。東京行きの飛行機に乗るには白浜まで60数キロを走らなければならないが、空港に車を無料で自由に乗り捨てていける。先日関西空港から乗ろうとして、はたと日数と料金を計算したら、車を乗り捨てて行く怖さに気付いた。新宮から東京行きのバスに乗るのも、車はバス乗り場に何日置いておいてもいい。永いときは、「〇〇日頃に東京から帰ってきます」などと書いては置くが。

 それにしても一体「熊野」という領域がどこからどこまでなのか、かつて、この終の棲家を探すのに地図を片手に走り回っていたところが、後で辿れば熊野、その時そうとは気づかなかったのも道理、普通の地図に「熊野」は載っていない。熊野市(三重県)、熊野川町(和歌山県、現、新宮市)本宮を流れる熊野川はあるが、ここまでが熊野、と線で落としている地図はおそらくない。熊野古道を案内する語り部達、世界遺産としての<熊野>をPRする県職員…いろいろな「熊野」の関係者に出会うたび、私は訊いてみた。ほとんど皆が違うことを答える。辞書も同じ。A百科事典は「和歌山県と三重県に位置する…」といい、B百科事典は「和歌山、三重、奈良の三県にまたがる…」という。

 旧紀伊藩の四つの牟婁、東牟婁、西牟婁(和歌山県)、南牟婁、北牟婁(三重県)という、およそ紀伊半島南部の海岸沿いの地帯、というのがあらかたの通説のようだが、そうすると海なし県の奈良は入らない。都から「蟻の詣で」の行列をなして熊野に向かった、吉野を入れぬわけにはいかないと言う人もいる。が、吉野は別の文化圏だからこれは入れない、と言われればなるほど、とも思う。また南海岸沿いに限るとしても、西はどこから、東はどこまでなのか?紀伊藩の東の要所、尾鷲は別格、ここは伊勢により近く、独自の形成をしたから、これを入れると熊野のイメージが変わってしまう、とC氏が言えば、いや、尾鷲を入れない熊野は考えられない、とD氏は主張。私の質問から互いに譲らない、バトルになり、私はそっと傍を離れた。

 厳密な意味でいわゆる「熊野」を指すのは、本宮、新宮、那智の熊野三山を中心とした、西は勝浦、東は熊野市あたりまでの紀伊半島南海岸部、とするのが狭義の熊野だろうか?めいめいの気持ちの中で自分の好きな範囲をイメージすればいいのでは?と私は思う。

 最近、車のナンバープレートに「ご当地ナンバー」とかが認定されたという。「熊野ナンバー」申請の動きもあるとか。

 その時、どこまでの範囲で「熊野」が通用するのか?我々に「熊野」の意識はない、という串本、古座の住人たちや、むしろ伊勢神宮のエリアだという尾鷲の人々が、車には「くまの、くまの」と言い出しはしないか?と、私は意地悪く見守ることにしている。

 私にとっての熊野は、そっと「スミッコ」の熊野、ということにしておこう。熊野が黄泉の国の入り口と言われるのも、いずれは行くべきところへ近づいたことであり、その足がかりの終の棲家としては適切な選択だった、とこれにも満足している。

 鈍色の冬空に、果無山脈はその名の通りどこまで続くのか。その果ては、どう見ても黄泉の国へと消えていくように思える。そして四方、幾重もの山々の襞の奥に、日が昇る東の果てには想像だけの、みやびな「みやこ」があったに違いない。

 冬霧の熊野の果てはいづくにや

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『みちしるべ』**国土交通省(道路関係)概算要求【資料】**<2007.1. Vol.44>

2007年01月03日 | 単独記事

 本来、有料道路制度における概算要求も掲載すべきではある。しかしながら、読者諸氏もご存知のとおり、道路公団民営化が行われている。従って、「独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構」と「東日本・中日本・西日本・首都・阪神・本州四国連絡高速道路株式会社」の関係が複雑である。

 多くの一覧表を、如何に判りやすくまとめることが出来るか、思案しているところ。年明け国会で、概算要求に対して財務省内示と復活折衝を経て、政府案が出てくる予定である。何らかの機会を見て、有料道路制度の問題点が、判り易い一覧表に出来ればと思っている。

(世話人 藤井隆幸)

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『みちしるべ』**道路騒音問題はなぜ報道されないか**<2007.1. Vol.44>

2007年01月02日 | 藤井隆幸

道路騒音問題はなぜ報道されないか

世話人 藤井隆幸

はじめに

 最近、道路騒音問題がマスコミに取り上げられることはなくなった。長期的に沿道の環境を見れば、建物の防音性能向上やエアコン普及率がアップしてきたし、道路整備にも膨大な費用をかけてきた。また、自動車単体の騒音低減も進歩した。しかし、車輌の極端な大型化と交通量の増大によって、道路騒音の低減には程遠い現状にある。しかるに、なぜ問題提起されなくなったのか。

 道路騒音問題は80~90年代にかけて、毎年のように必ず新聞報道で取り上げられた。71年に発足した環境庁は、何年からかは知らないが、道路騒音の全国自治体調査結果をまとめてきた。道路騒音の環境基準は「公害対策基本法」(67年)第9条にもとづき、71年5月25日に閣議決定され、それに基づくものだ。

 手元に残る新聞記事によれば、90年の全国調査(4596箇所)結果で、環境基準をクリアーできたのは13.3%に過ぎなかった。記憶によれば、毎年同じような結果であり、この新聞記事が出た頃は、毎年僅かづつではあるが悪化傾向にあった。環境庁は全国道路騒音調査結果を記者発表するわけで、新聞各社はその惨憺たる現状を、競って報道したものである。

 その習慣が途切れたのは、環境庁告示第64号「騒音に係る環境基準について」(98年9月28日)が出され、騒音の環境基準が99年4月1日から変更されたことが原因である。00年からの環境庁の発表は、それまでとは天と地の開きのある調査結果になった。

環境省の道路騒音の全国調査

 昨年(06年)の道路公害反対運動全国交流集会(東京)の際、環境省によって道路騒音の全国調査結果を入手してみた。結果のほどは、騒音の環境基準の変更内容を理解していたので、予想はしていた。入手したのが昨年の11月なので、調査結果は04年のものである。05年のものは今年の3月末の金曜日に記者発表されるはずである。

 何と81.4%の戸数(環境基準の測定方法変更の為、測定箇所が評価戸数に変更された。)が基準をクリアーしている。これでは新聞社としても、ニュースソースにならない。現状は何も変わらないのに、環境基準が変更されただけで、10%前後だったものが80%ほどになってしまう。

 因みに、新しい環境基準での調査結果は00年から実施されている。環境基準をクリアーした割合は、以下の通りである。

 

 旧環境基準の場合、対象道路を代表される沿道の官民境界で、24時間の騒音を実測するだけで事足りた。従って、全国の5000箇所のデータを集約するだけであった。しかし、新環境基準の場合、実測を基に沿道50m以内の住居の一戸一戸を評価(推計)してゆかなければならない。膨大な作業量になる。開始された00年は、当然、最も騒音被害にさらされている道路沿道からはじめる。05年以降も調査範囲は拡大すると考えられるが、騒音があまり問題視されていない道路沿道に広がるのは当然で、今後達成率は飛躍的に向上するのは間違いない。

 これは数字のマジックとしかいいようがない。新聞記者の中には、環境基準が改悪された経過を知っている者もいるかもしれない。しかし、新聞記者の転勤はめまぐるしく、数年で担当部署を渡ってゆくのが一般的。記者に文句を言うのも筋が通らないかもしれない。

環境基準に特例の設定

 新旧の環境基準の詳しい説明は、『みちじるべ』第14号(01/11/15)に詳述してあるので、今回は割愛する。最も問題なことは、地域区分に「幹線交通を担う道路に近接する空間」という例外区分を設けたことだ。昼間(6~22時)で70dB(Leq)、夜間(22~6時)で65dB(Leq)以下の騒音は許容すると言うのである。国道43号線でも、このようなレベルの騒音を測定する地点ははめったにない。おまけに、屋外で達成できなくても、屋内で昼間45dB(Leq)、夜間40dB(Leq)であれば良いことになった。最近の木造建築の防音性能は30dB程度あるので、屋外で昼間75dB、夜間70dBであっても良いといっているようなもの。

 例外と言うのであるから、高速道路くらいかと思うのが当然。しかし、高速道路や自動車専用道はもちろん、国道から都道府県道総てと、4車線以上の市町村道もこの地域区分であるという。ならば、道路騒音が問題になる道路は、総て「幹線道路近接空間」ということになる。こうして環境基準の達成率が飛躍したのである。

 さらに注目すべきことは、対象道路の50m範囲の総ての住居を、一戸一戸評価すると言うのである。国道43号線沿道といえども、官民境界から50mも離れると、車道端からは60mもはなれることになる。沿道からは6~7軒目の住宅を含めるのである。道路端の住居が環境基準を満たしていなくとも、2軒目から7軒目が環境基準を満たせば、達成率は86%ということになる。

 尚且つ、鉄筋コンクリート住宅なら、50tの戦車がパレードでもしない限り、環境基準を超えることはない。国道43号線のような沿道でも、防音サッシの新築木造住宅では、通常環境基準以下である。となると、行政は道路沿道環境を改善しなければならないという、責任がないことになる。不幸にして、古い木造住宅に住む住民は、お前の家に問題があるといわれかねないのである。

道路騒音の実態

 公害や環境問題に取り組む住民団体の中でも、道路公害と言えば大気汚染と考えられている。確かに、大気汚染による公害被害は深刻である。呼吸器系の疾患に繋がり、命の危険性も包含する。また、アレルギー症状全般にも、大きな影響を与える。今日、花粉症の主原因がディーゼル排煙であることに疑う学者は殆どいない。

 ところで、道路沿道に実際に居住する人たちに被害を聞くと、真っ先に出てくるのは振動と騒音である。大気汚染による健康被害が、実際に出てくるのは沿道住民のごく少数の者である。もし多くの気管支ぜんそくなどを引起すのであれば、ディーゼルエンジンの車を走行させることは、殺人罪に当たる。また、呼吸器系の疾患やアレルギーは、直ぐに症状が出るわけではない。ところが、振動と騒音は住みだしたその夜から悩まされることになる。

 「騒音で死ぬことはない。」という人がいる。しかし、それは違うと考える。国道43号線公害訴訟の原告団役員をする中で、騒音に悩み自殺した人や未遂を冒した人の話を多くきいた。沿道で喘息になる人が少ないように、少数ではあるが、騒音で死に追いやられる人も実際には存在するのである。

環境基準は何故変更されたか

 では何故、道路騒音の環境基準が変更されたのか。きっかけは国道43号線道路公害裁判の最高裁判決であろう。同裁判の高裁判決直後の、日本音響学会・騒音部会に参加する機会があった。同裁判の原告団であるとか、環境運動の立場での話はしない約束で、紹介状を貰っていった。同部会では、判決が確定すれば環境基準の見直しが必要である旨の、合意があったように思う。それは学術上の問題であった。旧環境基準は中央値(L50)を採用しているのに対して、同判決は等価騒音レベル(Leq)を取り入れたことにある。

 ともかく、最高裁判決が下った直後の建設省の動きは素早かった。環境庁の関連部局へ、建設省の職員を出向させて、万全の体制をとった。住民よりの審議会委員であった長田氏を辞任に追いやるなど、シナリオは出来上がっていた。他の審議会委員の話でも、「騙された」との意見が聞かれた。「幹線道路近接空間」を設けることによって、沿道法による民家防音助成がスムーズに行えることを目指した、との説明であったという。実際はというと、民家防音助成どころか、道路騒音に於ける問題は発生していないということになった。

今後の課題

 国道43号線訴訟でも感じたのであるが、制度というのは法律的に大きな位置を占める。道路振動は深刻で、建物被害も多く出ている。現実に瓦がずれ、壁に亀裂が走る。この現実を見てもらえば、被害は認めてもらえると考えた。しかし、判決は容赦のないものである。振動規制法に於ける振動に達していない。であるから、振動被害を認めるわけには行かないと言うのである。

 道路公害の講演を頼まれた時、「阪神淡路大震災の時に震動計が国道43号線に設置してあったとします。このときの震動は、振動規制法の要請限度を超えると思いますか?」という質問をすることがあります。建物が崩れ、高速道路が倒壊するのだから、きっと要請限度を超えると思うのが当たり前。しかし、あの程度の揺れでは、要請限度を超えることはないのです。

 裁判を維持する上で、振動規制法を何とかしなければならないというのが、原告団の課題でした。結局何も出来ずに終わりました。幸い、騒音の環境基準については、国道43号線沿道で軒並み基準越えの状態でした。そのお陰で、騒音被害が認められて損害賠償請求勝訴という結果になりました。

 環境基準が変更された今日、同じ裁判をしたところで、勝訴するのは極めて困難になっています。国道43号線の沿道50m範囲内の住居の何%が、環境基準を超えているのか。国道43号線は4車線以上なので「幹線道路近接空間」とされるのは、20mの範囲。この範囲では絶対に環境基準以内。騒音規制法上の特例市の尼崎市と政令指定都市の西宮市に、一度評価結果をききに行かねばなりません。おそらく90%を超える達成率であるのは間違いありません。

 では、今後道路騒音では物が言えないのかというと、そうでもないのです。その道路が都市計画決定されたのが、99年4月(環境庁告示)以前であれば、旧環境基準を守る必要があるのです。これが法律の世界の訳の判らないところです。日本国中、殆どの道路の都市計画決定は、GHQ支配下の46年なのです。ただし、都市計画変更されたのが99年4月以降であるかどうかは、調べる必要があります。

 しかしながら、道路沿道の住民が、新しい環境基準の問題を指摘しなければ、誰も解決してくれません。振動規制法の問題共々、私たち道路問題に取り組む住民が声をあげない限り、誰も解決してくれるものではありません。事あるたびに声をあげ、仲間を増やし、行政にぶつけなければならないでしょう。

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『みちしるべ』環境・命・平和――悔いなき年に向けて――**<2007.1. Vol.44>

2007年01月01日 | 大橋 昭

環境・命・平和――悔いなき年に向けて――

代表世話人 大橋 昭

 新年明けましておめでとうございます。各位には健やかな新年をお迎えになられたことと存じます。旧年中の物心両面のご支援に心からお礼申しあげ、併せて本年も何卒よろしくお願い申しあげます。

 昨年は明るい話題の少なかった年だけに、今年こそは誰もが希望に満ちた穏やかな一年をと願いましたが早々からの禍々しい陰惨な事件の多発や、食品メーカーの不正事件や鳥インフルエンザ騒ぎなど、安心と安全を裏切られる不安なスタートになってしまいました。

 正月三が日はまずまずの天候でしたが、年初から異常な暖かさが続いています。このことと地球温暖化を即座に結び付けることは出来ませんが近年、地球的規模での異常気象の発生と無関係とは言い切れないものを感じます。地球温暖化の原因についてはすでに多くの問題が指摘されていますが、根本的には有限なエネルギーに依拠し「大量生産・浪費・廃棄」を繰り返しながら、利便性と快適性を追求する私たちのライフスタイルに起因することは否めず、地球温暖化を始め自然生態系へ修復不可能なまでのダメージを与えています。このことは毎年、地球のどこかで発生する異常気象として現れ、現実には世界各地に集中豪雨や千ばつなどをもたらしています。とりわけ水資源・農業への影響(食料危機)やマラリアなど伝染病の流行の予兆は、急速に具体化しつつあり、人類が初めて直面する危機故に、その影響が懸念されるところです。いうまでもないことですが、深刻化する温暖化対策に特効薬はなく、これにブレーキをかけ得るのは私たち自身が、自ずからのライフスタイルを真剣に変革することです。

 「資源枯渇」「環境汚染」の進行に対して、化石燃料エネルギー依存からの脱却をメーンに自然エネルギーの活用など、地球環境に負荷を掛けない代替エネルギーヘの転換が急がれるところです。

 一方、新年早々の一月四日、安倍首相は年頭の記者会見で「現在の憲法が時代に合わない」「今夏の参議院選挙で改憲の信を問う」と表明し、同時に憲法第9条の戦争放棄の条項の見直しを自らの政治課題と明言しました。また一月八日には戦争放棄を定める平和憲法との関係で、半世紀の間存在した防衛「庁」を「省」として独立させました。

 その記念式典で首相は「戦後体制から脱却し、新たな国造り(美しい国)への第一歩」と語り、今後集団自衛権行使の研究の推進を表明し、日本の防衛政策の根幹である専守防衛や非核三原則の見直しヘゴーサインを出し、この国の誤った過去の歴史に真摯に向き合おうとしない姿勢は、やらせ付き教育基本法「改正」でも如実に暴露しました。

 これら一連の動きを通じて、この国があの忌まわしい戦前の暗い時代に逆戻りしているのを感じます。安倍内閣の首相をはじめとして戦争を知らない戦後生まれの為政者たちは、アジア民衆に多大な犠牲を強いた侵略戦争への総括もせず、しかもまだ従軍慰安婦・強制連行・シベリア抑留・中国残留孤児・被爆者問題等、解決が急がれる戦後責任を放置し、あの戦争の惨禍の教訓から目をそらし、これらを生んだ責任を不問にしたままです。

 そして、今また対米追随を堅持し内戦化するイラク戦争に支持・加担し、北朝鮮敵視政策で戦争の危機を煽り、「核保有」を公然と言い放ち「いつでも戦争できる体制ヘの再編」を意図する姿勢は、国内のみならずアジアの人々にも大きな不安感を与えています。

 今、大切なことはいのちと生活のすべてを破壊し尽くす危険な戦争政策よりも、働いても働いても食えない若年者たちに仕事を保障し、福祉切り捨てで生存が脅かされる状況におかれている高齢者・障害者・生活保護者に、生きてゆく勇気と希望を与える政策の実行です。私たちには規制緩和と競争一辺倒を押し付ける政治の在り方を見直し、格差と差別のない人が人として尊重され、正義の通用する社会への大胆な方向転換が急務です。

 日々、地球を席巻し進行するグローバル化は政治・経済・環境・軍事のすべてを飲み込みつつ、この国をも戦後最大の曲がり角に立たせています。私たちはそれぞれの考え方や価値観の違いを大切に、平和といのちと環境を守り、日々の生活を大切にする人々との連帯を強め、一切の軍備を持たず「戦争をしないさせない国」つくりに向けた市民の団結が求められるところです。

 愚かな人間が行う戦争の加担者になることを拒否し、閉塞した社会の打開に向け悔いなき年にしたいものです。

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