『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』赤い夕陽(7)**「事実は小説より…」**<2013.3. Vol.77>

2013年03月21日 | 赤い夕陽

事実は小説より…(赤い夕陽 7)

三橋雅子

 北満の、いわゆる開拓団の避難民は、どんどんぞろぞろ新京に流れてきた。1945年敗戦から数週間後だろうか。狭い日本から「広い満州の別天地へ…」と多分鉦や太鼓での「国のお勧め」で、空襲も逃れようとのいわば疎開も兼ねての渡満だったと聞く。酷寒の慣れぬ土地へ、多くは幼子を連れての暮らしは容易ではなかったはず。新京でも、密閉した室内での炭による一酸化炭素中毒の事故をずい分聞いた。二重窓に目張りをして迎える冬に、炭火には必ず小窓を開けるように、と言われて育った満州っ子には考えられないことだったが。

 新しい厳しい暮らしに慣れるまもなく、夫には赤紙、続いてソ連軍の襲撃、敗戦…と「別天地」は悲惨の地獄と化し、女子供だけの命からがらの逃走を余儀なくされた。道中、日本軍の、シベリヤへ連行されるのを免れた幸運な解除軍隊は、日本へ帰るべく列車で南下していた。こうして日本へ向かっていると思いきや、中にはおかしいおかしい、何だか変だぞ、と思ったら、いつの間にか北へ向かっていてシベリヤへ連れて行かれていた、と言う不幸な連隊も多かった。砂場徹さんがその中にいらしたのであろう。私の兄の一人は、これはシベリヤ行きだと気付いた時、列車から飛び降りて、走って走って草むらに隠れたりしながら、無我夢中で脱走してきた。一緒に逃げた仲間も、後ろからバンバン撃たれては倒れていく中、何しろ足が速かったから先頭で走っているうち気づいたら誰も周りにいなかった、と、その話はあまりしたがらなかった。仲間のことを思うとやり切れなかったのだと思う。私たちは、除隊になった兵士を乗せた列車が毎日新京駅に入ってくるのに、いつまでたっても帰ってこない兄のことは誰も口に出さず、一体どうしてしまったのだろう?と誰しもが思っていた。内地で招集された他の二人の兄たちのことはもとより何も分からない。土壇場で南方に行ってることはないだろうな、と祈るしかなかった。何しろ、これからは戦死の恐れはないのだ、というだけで、敗戦はどんなに有難かったか。

 女子供のテクの逃走組は、側を通る除隊兵の列車が止まると、どうか子供だけでも乗せて行ってやって、と懇願したが全く受け付けられなかったという。自分らは軍規でそういうことは禁じられている、とことごとく振り切った。負けてしまった今、軍規もへったくれもあるものか、とそれを無視するものは居なかったのだろうか?

 そういう列車で帰還した元日本兵の辛い思いを聞いたことがある。列車が止まるのが、一番嫌だった、側を歩く避難民たちが群がってきてどうか助けて、この子だけでも…、と必死で無蓋車の縁に手を掛けて放さない、それを一本一本指をはがして、そうしてるまにまた別の手が…それを必死で剥がした、あの指の感触がいまだにこの手に残っていて忘れられない…と。それを気の毒に思うより、そんな軍規をこの期に及んで誰のために守った?と悔しい思いが募る。関東軍の司令官など、もうとっくにスタスタ逃げて居なかったんだというのに!(関東軍が通化に移動する、と称して首都新京を離れたのは8月12日)もとより彼らは、そんな関東軍のテイタラクを知る由もなく、依然軍規が自分らに及んでいると信じていたのか?何しろ負けたことがないから?いや、軍隊だの国だのは、大義名分で「国民」を好き勝手に動員するけど、いざという肝心な時は、何も助けてはくれないシロモノなのだ、ということを肝に銘じるべきだと思う。

 彼女らの多くは赤ちゃんに死なれ、いつまでも抱いているわけにもいかず、木の根方において、土をかぶせてやることもできず行軍の後を追ったとも聞く。この時、まだ生きている、この子だけでも生き延びられるかもしれない、と一縷の望みを託すのを、見兼ねたり、頼まれた中国人が引き取って育てたのが、中国残留孤児になった。

 

 新京には連日、身も心もくたびれ果て、腑抜けのようにうつろな目をした避難民たちが流れ込んできた。一様に、頭は坊主、あるいは毛が醜く生えかけてよけい見苦しく、顔には炭を塗ったのか汚れか、はたまた梅干を張り付けて見苦しく、あくまで女であることを隠し、否定し・・・の必死の努力で、いくらかは安全な新京に辿りついたのだった。

 日本領事館の施設など、避難民が収容されているところを、両親は毎日ご飯を炊いておにぎりを届けに行った。「あんなことでは乳も出なくなって子供を死なしてしまう」と帰ってくると暗い顔でこぼしている。うちから持って行ったおにぎりを、いつも、人より遅れて取りそびれてしまう人のことを歯痒がっていたが、とうとうある日、赤ちゃんをおぶった、その女の人を連れて帰ってきた。彼女は少し伸びかかった坊主頭を手拭いで覆い、もう赤ちゃんを負ぶうのもしんどそうにやつれ果てていた。口もろくにきかないのを、私たちはそっとしておくしかなかった。やがて赤ちゃんは少しづつ丸くなり、彼女も女らしい顔を取り戻していった。それだけに梅干や、炭を擦り込んだらしいシミは痛ましかった。しかし彼女の口は相変わらず重く、最小限のことしか口をきかなかった。

 やがて避難民優先で帰国の機会が来て、彼女と赤ちゃんは腰が曲がりそうにお辞儀を繰り返して去って行った。元気で日本に辿りついてね、ご主人が先に着いてるといいわね、と道中の無事を祈り、そのいたいけな姿を涙で見送った。

 

 ところがその夜だいぶ遅くなってから、玄関に人が立った。例の彼女親子と見知らぬ男性が、おずおずといるではないか。軍服姿の男性が、じつは・・・ともじもじ事情を説明するには、新京駅で彼女親子が引き揚げ列車に乗り込むところを、ちょうど同じホームに帰還兵の列車が滑り込んで、偶然にも三人が鉢合わせしたという。除隊兵を満載した列車と女子供を乗せる引き揚げ列車・・・お互い一縷の望みを託して、目を泳がせたかもしれない。それにしても、探そうとしても見つからない雑踏の中で、考えられないことだった。とりあえず、引き揚げ列車を見送り、夫の方も隊列を離れて三人で我が家に舞い戻ってきたのだという。「子供共々死にはぐれるところを助けていただいたそうで・・・・、ついでと言っちゃあなんですが、続けてわしも一つ一緒に置いてくれるわけにはいかんものでしょうか・・・」と彼は平身低頭。両親は「偶然とはいえ、こんなめでたいことはない、帰るのが遅れたって、三人一緒に越したことはないじゃないか」と喜んで招じ入れ、彼ら一家は我が家に住みつくことになった。

 「へえー、こんなことってあるのかしらねえ」と娘たちは姦しく、上の姉が「事実は小説より奇なり」と言った。この格言を私はこの時知った。この言い回しを聞くたび、私はこの一家のことを思い出す。

 彼は良く働き、男手の少なくなったわが家は重宝した。ただ奥さんは、表情はやわらいだものの、相変わらず無口のままだった。

 

 引き揚げてきてから東京の我が家へ、彼は農作物をたくさん背負って訪ねてきた。皆元気だと、満面の笑みで語る彼に、母が「奥さんはしゃべるようになった?」と聞いた。「いやあ、一向に。」と頭をかきながら「ありゃ、わしのせいでして・・・」と事情を語ってくれた。
彼は特高だったという。当時稀代のおしゃべりだった奥さんは、井戸端会議で、いくらたしなめても夫の動向をなにやかや、しゃべってしまう。そこで、もう一切ものを言うな、ときつく言い渡して以来、ぴたりとしゃべらなくなったのだという。到底想像できない、彼女の、ぺらぺらと楽しそうにおしゃべりするキラキラした姿を思い浮かべて、これも戦争の後遺症の一つか、と思ってしまう。父は「うーん特高か・・・」と複雑な表情で腕組みをしていた。

 私はおしゃべりだと言われるたび、このことを思い出し、特高の妻にでもならない限り治らないだろうな、と諦めることにした。

   赤き陽の下に数寄なる偶然は苦労の家族に幸をもたらし

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