『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』第82号(2014年1月号)印刷完了 配布開始しています

2014年01月30日 | 日記

 毎度のことですが、『みちしるべ』1月号の発行が、遅れ遅れでやっと出来ました。1月例会の日に出来上がり、各団体発送も終わりました。団体によっては、その団体誌の2月号と一緒に配布されたりで、お手元には、もう少し掛かるところもありそうです。

 今回も、前回と一緒で、郵送分は切手を貼ってポストに投函しました。毎回、深夜の≪ゆうゆう窓口≫に出していたのですが……。有難いことに、お二人の方から切手のカンパがありました。この2回は、頂いた切手を利用させて頂きました。

 私の担当分の団体等の配送は、いつものように自転車でしたが、2日とも雨にたたられました。これも日頃の精進の欠如によるものと、反省しきりです。

 さて、3月号の原稿を集めなければなりません。みなさん、よろしくお願いします。配送で立ち寄ったSさんが、「何か書こうかな?」なんて、嬉しいことを云っておられました。余りせっつかずに、期待したいと思っています。

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2014年2月例会のご案内

2014年01月30日 | 月例会案内

阪神間道路問題ネットワーク

2月例会のご案内

 

2014年2月23日(日)午後1時30分~3時30分

西宮勤労会館2階(第2和室)西宮市松原町2-37 TEL(0798)34-1662

『みちしるべ』1月号は例会前に、Kさんに印刷と折を済ませて頂き、例会で手分けしてセットしました。いつもの事ながら、遅くなりましたが、近々、お手元に届くと思います▼2月例会ですが、上記の通りです。尼崎市立労働福祉会館が廃館されることに伴い、尼崎での会場確保が困難になっております。隣接する西宮市でも、勤労会館に影響が出ているようです。予約が早目になり、今回、1ヵ月前だと思った部屋が取れなくなっていましたので、和室になりました▼そのような事情から、今後は西宮勤労会館、又は隣接する勤労青少年ホームに固定することになりました。交通事情と料金の関係ですが、詰まっている場合は今津・夙川公民館になることもあります▼これまで、会場を各団体の持ち回りにし、会場費等をホスト団体(個人)が負担しておりました。今後は会場固定により、会場費は会費から出費することにします。また、お茶とお菓子などは、各自持ち寄りという事にします▼財政緊縮事情から、会場費を各団体にご負担頂いてきたことに感謝です。支出の多くは『みちしるべ』印刷代ですが、酒井一事務所(以前は都築徳昭事務所)の原価でのご協力で、余裕が出来ています。また、切手や現金でのカンパも頂き、会場費の支出が可能となっております▼このように会場固定しますが、4月は桃の花が満開です。第1~2週に川西市加茂地区での、桃源郷の見学会なども計画します。このような提案があれば、お知らせ頂ければ幸いです▼以上のようなことが、1月例会で決まりましたので、お知らせします。今後、会場地図は原則として掲載しませんが、お問合せ頂ければ個別にお送りします。このお知らせも、ネット環境のある方には、電子メールでお伝えします。希望があれば、個人単位でも送信します。(F)

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≪E-mail news≫不当解雇を撤回し、安心安全なJALへ!

2014年01月24日 | E-mail news より

言いたい放題・もの申す≪迷惑通信≫by M.Hirade

みなさまへ

 1月21日(火)、大阪全労協から呼び掛けのあった「JAL東京高裁での勝利判決をめざす1.21学習決起集会」の方に参加しました。集会には大阪全労協や全労連の仲間112名が参加し、すべての労働者の連帯の力でJALの不当解雇を撤回させようと気勢を挙げました。下手な写真ですが添付していますので御覧になって下さい。

**********************************************

不当解雇を撤回し、安心安全なJALへ!
JAL東京高裁での勝利判決をめざす
1.21 「学習決起集会」

【解雇自由の社会を許さないために】

 社保庁の525名の分限免職や日本IBMのロックアウト解雇など、違法・不当な解雇が横行し、「ブラック企業」の無法ぶりが問題になっています。安倍政権は、「世界で一番企業が活動しやすい国」を作るため、「首切り自由」、「ただ働きさせ放題」の雇用破壊政策を次々と推し進めようとしています。

 憲法が保障している「労働者の生活権」を取り戻すため、労働者が連帯して闘いを強めていかなければなりません。すべての労働者の連帯の力で、JALの不当解雇を撤回させましょう。

日本航空の不当解雇撤回を目指す国民支援共闘会議のHP
http://www.jalkaikotekkai.com/index.html

不当解雇撤回・原告復帰を勝ち取り、「解雇自由」の社会を許さず、労働者の雇用と生活、ジェンダ-平等と人権が尊重される社会実現を心から訴えます。

『高裁審理の到達点』について詳しく話していただきました

ねらいは、安全を求める組合の弱体化!
解雇された多くは、組合役員をはじめ、活動の中心を担ってきた人たちです。明らかに組合の弱体化を狙ったものです。安全についてものを言う労働者や労働組合の影響力を削ぐことは、会社自らが安全を切り崩す愚行です。

必要のない解雇をするために、あらゆる企てが!
 解雇時点で、更生計画の人員体制は達成していました。会社はその事実を隠し、しかも、期限よりも3ケ月も前倒しして、解雇を強行しました。
 組合が提案したワ-クシェアなどの解雇回避策を一切検討しませんでした。組合対策として綿密な想定問題集を作成し、解雇回避努力を放棄していたことが明らかになりました。
 特定の人に対し、10月から「仕事はずし」を行い、管理職面談では、「希望退職か整理解雇か」と退職を強要して追いつめていきました。

 労組の争議権投票には、確立したら「支援機構は出資しない」と脅しをかけて介入。本件は東京労働委員会で不当労働行為と認定されました。
 そして、辞めさせたい人たちを解雇するために、意図的に「高齢者から解雇」「病歴」という基準で、解雇を強行しました。

世界中の航空会社で例のない解雇基準!
【解雇された人】
☆機長…………55歳以上
☆副操縦士……48歳以上
☆客室乗務員…53歳以上
☆一定数以上の病欠者
☆病気休職した者

経験豊かなパイロットや客室乗務員は、お客様に安全と安心を与える存在です。また、後輩に技術やノウハウを伝える大切な役割を持っています。
すべての航空会社は、航空法に基づき、体調に不安を感じたら、安全第一のために乗務をさせていません。この航空会社としての当たり前のことを解雇理由にするなら、空の安全は大きく揺らいでしまいます。

JAL不当解雇裁判 支援物資販売にご協力お願いします!
買って応援! 食べて応援! みんなの力が笑顔に!

☆正義の旗は我々にあり! ☆くろがねの扉を打ち砕こう!
☆憲法問題とJALの問題は相通ずる!

利益優先が招く事故、公共交通機関は安全第一!
JALの職場では、利益優先の経営姿勢に対して、職場から、「ベテランがいなくなり、安全に対して意見をいう人がいない」、「きつい勤務と管理強化で疲労困憊し、安全に自身が持てない」と不安の声が上げられています。
公共交通機関の使命は安全第一です

毎月29日、全国一斉宣伝行動日
大阪
1月29日(火)18:30~なんば高島屋前
2月27日(木)18:30~なんば高島屋前

東京高裁での裁判にみなさんのご支援を!!
解雇された者のうち148名が東京地裁に提訴しましたが、2012年3月に出された判決は、会社の主張を丸呑みにした整理解雇を容認する不当なものでした。判決は雇用破壊に道を開き、政府・財界が目指す「解雇の自由化」を、後押しするものです。2012年4月に控訴し、現在東京高裁で争われています。2013年12月24日客乗裁判、26日にはパイロット裁判が結審し、東京高裁判決は、客室乗務員5月15日、パイロット6月5日に決まりました。電通合同組合員のみなさん、不当解雇撤回に向けて、ご支援・ご協力よろしくお願いします。

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≪E-mail news≫原発30キロ圏:避難に最長6日…渋滞激化で 民間試算

2014年01月20日 | E-mail news より

 環境経済研究所の上岡直見さんからのメールの紹介です。

 原発が事故を起こした場合、周辺住民は避難しなければなりませんが、交通工学の立場から、避難は現実に不可能ということが判りました。

 毎日新聞に掲載されましたので紹介します。時間が経つとリンク切れになるので、以下にコピペしてみました。記事のURLは

http://mainichi.jp/select/news/20140114k0000m040095000c.html

 

原発30キロ圏:避難に最長6日…渋滞激化で 民間試算

毎日新聞 2014年01月14日 07時12分(最終更新 01月14日 09時54分)

 国内の全原発で、30キロ圏内の住民全員が避難するには少なくとも半日以上かかるとする試算を、民間団体「環境経済研究所」【東京都、上岡直見(かみおかなおみ)代表】がまとめた。地震との複合災害の影響などで避難路が国道のみに限られる場合、避難完了までに東海第2原発で5日半、浜岡原発で6日近くかかる。全原発を対象にした分析は初めてという。外部に放射性物質が放出されるような事故時に、すべての住民が被ばくを避けられる時間内に避難し終えることが不可能に近い実態が浮かんだ。【山田大輔】

 今月25日、交通政策を研究する「交通権学会」の研究会で発表する。

 政府の原子力災害対策指針で事故時の避難計画が必要な30キロ圏内の市町村を対象に、車両登録されているバスの3割、マイカーの5割が避難時に使われると想定。全住民が圏外へ同時に移動するとし、渋滞の発生などを考慮する交通工学の手法で分析した。被災や緊急車両通行のため高速道などが使えず、国道のみが使える場合と、国道に加えて高速道や主要地方道もすべて使える場合との2通りで試算した。

 その結果、国道のみで避難する場合、避難完了には最短の泊原発(北海道)で15時間、最長の浜岡原発(静岡県)で142時間半かかると推計。高速道などが使える場合でも、最短の大飯原発(福井県)で8時間、最長の浜岡原発で63時間かかると算定した。

 浜岡原発では、圏内人口が約74万人の割に、道路が限られているため、マイカーによる渋滞の激化で、バス輸送が難航することが長時間化に拍車をかけた。県庁所在地を対象に含む東海第2原発(茨城県)、島根原発(島根県)でも、同様の理由で避難が長引く結果が出た。試算は、前提を単純化しているが、一部の自治体が公表している詳細なシミュレーションと同様の傾向が出ている。北海道は泊原発の30キロ圏内の避難に12時間半かかると推計。茨城県も東海第2原発の30キロ圏内で17時間、常磐道が通行止めなら39時間半としたほか、京都府は高浜、大飯両原発の30キロ圏内で最大29時間20分と試算した。

 交通権学会副会長でもある上岡代表は「再稼働に向けた動きが本格化しているが、各原発周辺の道路事情は、福島事故後も抜本的に改善されていない」と問題視する。

 福島第1原発事故を受けた国会事故調査委員会報告書によると、重大事故発生から格納容器の損傷、放射性物質の放出までに要する時間は推定3時間~8時間半。今回の試算は、各原発でこの時間内に30キロ圏内から全員避難させることが難しい現実を突きつけた。原子力防災は原発の規制基準とともに「安全の両輪」とされ、今後の各自治体の防災計画づくりが再稼働を左右する可能性がある。

 政府の原子力災害対策指針では、5キロ圏内で事故後速やかに全住民を避難させ、30キロ圏内で1日以内をめどに放射線量を計測し、段階的に避難するよう規定。自治体は指針に沿って地域防災計画を策定している。

 対象となった原発の30キロ圏内では、いずれも6~7人に1人が子どもや障害者、高齢者、妊婦などの「交通弱者」だ。仮にその全員をバスで運ぶとすると、3~16往復ものピストン輸送が必要とされ、バスや運転手の確保に手間取れば避難はさらに長引く。学校や職場、田畑などに家族が分散している昼間の移動、雪の影響、行楽シーズン、ガス欠で立ち往生した車による渋滞など、試算で考慮していない悪条件が加われば、より長期化する。

 各自治体は、業界団体と協力し輸送手段の確保に努めているが、バス不足を補うものの渋滞を招くマイカーをどこまで許容するのか判断は難しい。さらに、ガソリン供給や交通誘導の在り方など、どう対応できるのか不確定な要素も多い。

 福島第1原発から5キロ圏外の福島県富岡町が事故で避難を始めた時、登録されたバス約100台の大半が他町に出払い、確保できたのは数台だったという。過去の経験を共有するとともに、避難道路の早急な整備など抜本的な対策を迫られそうだ。【山田大輔】

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環境経済研究所の上岡直見さんのホームページが出来るようです。今のところ製作中のようですが、以下のURLで一部が見られるようです。

http://homepage3.nifty.com/sustran-japan/office/office_f.htm

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≪E-mail news≫「自転車で東京をエコ都市に変えよう!」講演会

2014年01月20日 | E-mail news より

東京のY.Y.さんから下記のお知らせがありましたので、ご紹介します。

皆様
こんにちは、Y.Y.@西東京です。

 今年も、都市計画道路西東京3・2・6号調布保谷線について公害道路を造らせない運動を続けていきます。

 建設工事差止裁判敗訴後の昨年4月21日、南半分が開通してしまいましたが、4月11日に東京都公害審査会に調停申請を行い、現在話合いが進行中です。

 西東京市の大気汚染状況は深刻であり、なんとか交通量を抑制しないと被害が拡大するため、大気汚染と騒音の公害低減対策として、自転車レーン整備等で4車線の配分を変えることを求めています。

 このような状況において、自転車を活用したまちづくりについて以下の講演会を開催します。講師は、自転車ツーキニストの疋田智さんです。都市交通としての自転車の位置づけ、メリット、海外都市の事例(ロンドン等)、国と東京都の自転車政策について等の内容になる予定です。

 間近のお知らせになりましたが、ご関心のある方は、ぜひ、お誘い合わせてご参加ください!チラシを添付しますので、ご利用ください。

  • テーマ:自転車で東京をエコ都市に変えよう!
         ~オリンピックまでにできるゾ~
  • 日時:2月2日(日)14時~16時30分
  • 場所:西東京市柳沢公民館視聴覚室(西武新宿線西武柳沢駅南口徒歩1分)
  • 講師:疋田 智さん(自転車ツーキニスト、NPO法人自転車活用推進研究会理事、TVプロデューサー)
  • 資料代:100円

主催:緑・住環境どうなる、保谷3・4・6道路ちょっと待ってよの会
西東京市公民館市民企画事業

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『みちしるべ』行く年来る年(斑猫独語 59)**<2014. Vol.82>

2014年01月18日 | 斑猫独語

行く年来る年(斑猫独語 59)

澤山輝彦

 NHK紅白歌合戦から逃れるのが私の年末の行事になってもう数十年になる。この歌番組を国民的だとか言うのがまず嫌いだし、この番組の宣伝の多すぎるのも腹が立つことの一つで、とにかく見ないのである。ここを抑えて黙って付き合うのが大人かもしれないが、私はそれが出来ない。まだがきなのである。そこで風呂へ入る、本を読む、寝る、ぼやっと考え事をする、画を描くなどいろんなことをして過ごすのだ。私の日常生活が31日の晩にも変わりなく続いているというだけのことである。妻はこの時間が非日常なのであり、楽しみなのでそこを邪魔することはないと心得ている。テレビ番組に触れたついでだから言うが、あまちゃんとか言うドラマも見なかった。これはあまちゃんに限らす朝ドラというのは見ない。15分の間にもめ事が出る、朝からもめるなよ鬱陶しいのである。また物を食う場面がやたら多いのも嫌いだ。日曜日の大河ドラマも見ない。そう言えば、家族にかんぱいという番組も初めの頃は面白いなあと見ていたが、だんだん笑福亭鶴瓶のくどさが鼻についてきて見なくなった。あれが鶴瓶の持ち味かもしれないが、くどすぎる物言いがいやになってしまったのだ。(俺のだじゃれもそろそろ飽きられているかもしれないな用心しなければ)

 では一体あなたは何を見ているの、テレビ見るの? と言われるかもしれないが、一応はニュース番組を見る。面白くないニュースが多いがまあ見る。安倍が何かしゃべれば音は消す。BSの世界街歩きは好きだなあ。あのテーマ音楽のCDを買ったんだから。ただ一つ無理を言えば、テレビでは匂いがしないのだ。だからいいのかもしれないが、異国の匂いはきっと独特のものがしているはずだ。日曜美術館も数少ない見る番組だ。

 さて、妻はテレビを見ながら年賀状を書いている。12月15日までに出す年賀状より心がこもっていると私は思う。私はもう数年になるが年賀状をやめた。年賀状だけの付き合いという言い方があるが、そんなもの付き合いでもなんでもない。付き合いとは月に一度、二月に一度でもいい、顔を合わせて話し合う仲だとおもう。年賀状が来ないからもう付き合わないなんて言う相手ならこちらから付き合いはごめんこうむる。今のところ年賀状をやめたことで私の付き合いに影響はでていない。ただこれはうれしい、という年賀状をもらった時には、寒中見舞いとして返事は書く。

 テレビにいちゃもんをつけたが、テレビ、新聞などいわゆるマスコミの流す情報には批判眼を持って接しないと、情報操作に乗せられてしまうことがある。注意が必要だ。景気が良いと言った翌日には、倒産件数が相変わらず多いと出るし、消費は上向きだと言った翌日には、働く者の給料は相変わらすだ、と出る。低所得者にも税金は容赦ないが、大企業は様々な税の控除を受ける。まあいろいろあるが、難しく考えることはない。命を大事にすること、そう言っているか、しているか、うそはないか、そこを見抜くだけでいいのである。今年がいい年でありますよう。

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『みちしるべ』パリの挨拶② お店では**<2014.1. Vol.82>

2014年01月18日 | パリ&東京&沖縄より

パリの挨拶② お店では

三橋雅子

 店に入るとボンジュール、客もボンジュール。迎える方も迎えられる方も同じなのはいいな、と思う。日本では「いらっしゃいませ」に、まずは客はしらんぷり。声を掛けられているのに無反応、というのは実はあまりいい気持ちではない。田舎だと、まあ大体顔見知りだから双方挨拶だが、その時は「いらっしゃいませ」ではないように思う。もっと近しい「おはようさん」だの「いいあんばいだね」とか。客の方も同じような挨拶。「いらっしゃいませ」はあくまで、よそよそしい不特定多数向けの辞令か。スーパーやコンビニなどでは当然「いらっしゃいませ」の連発と、しらんぷりの洪水。店側のヘリクダリと、客の「客たる態度」が歴然。パリびいきをするつもりはないが、パリの店に関しては、「対等」の心地よさと、双方にっこり、という温かさがある。これはあるいは、個人商店がまだまだ健在、の由縁かもしれない。もっとも「自称パリつう」によれば、客の「ボンジュール」は、「私は怪しいものではありません、品物を見に来たんですよ」という挨拶で、双方の「ボンジュール」の意味合いは違うのだそうだが。もし小説の中でこの情景を訳すとすれば、客は「こんにちわー」と言って入り、店では「いらっしゃいませ」と言って迎えることになるのかなと思う。私は、シャネルは無論のこと、グッチもジパンシーも一切高級ブランド店には入らなかったが、そういう場所では「お金ばなれのいい東洋からの大事な客」にどういう挨拶をするのだろうか?入ってみればよかった。

 折しも広げた『井上ひさしの日本語相談』の中で、「すみません」の乱発を憂える意見に対して、彼は「私たち人間は、だれでもたがいに、その行い澄ました顔の奥に相当の凶悪なホンネを隠し持っていることを知っています。別にいうと、おたがいに相手が何を考えているのか分からないので、不安なのです。そこで何を考えているか分からない相手と出会うたびに緊張します。・・・・(中略)満員電車で押しつ押されつする相手にどっちかが「どうもすみません」と挨拶を送れば、相手が悪意を持って押しているのでないとわかってホッとし、お互い満員電車に揺られて辛い目に遭っている同士なのだ、という仲間意識さえ芽生えてきます。」と「すみません」の効用を言う。

 押される、といえば満員のバスで降りしな、「パルドン、パルドン(すみません)」といいながら戸口に向かっていた時、大きく揺れて、前の人に思わず手が触れた。ほんのちょっと。慌てて“パルドン”といったが既に遅かりし、その女性はキッと振り返って「ヌ、ム、プスパ(私を押さないで)!」と鋭く言うのにびっくりした~もう。触れる前にパルドンを言わなければいけないっていうの?日本なら、こんなちっちゃな白髪の異国のおばあさんが、よろけて少しもたれかかったって、目を吊り上げるどころか、大丈夫ですか?と支えてくれるだろうに。

 個人主義の発達した社会では、自己と他者の厳しい区別が、特に「私は怪しいものではありません」という挨拶を必要とさせるのかもしれない。仲間意識旺盛な日本の社会より必要なのかもしれない。となると、昨今の極度に個人主義と過剰な混雑が発達した東京の、ぶつかっても、ほとんど口も利かない徹底した無挨拶は、過渡期の異常さなのだろうか? 過渡期というには永過ぎる、健全な市民社会への移行が出来ない歪みの一つかとも思う。

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『みちしるべ』俳句好きの俳句知らず**<2014.1. Vol.82>

2014年01月17日 | 藤井新造

俳句好きの俳句知らず

藤井新造

浜風に一喜一憂若き日々  江夏豊

 俳句の解釈は難しい。年末から今日まで二週間余り、毎晩、寝る前に「第17回;毎日俳句大賞」の句を読んでいた。又、この夏、尼崎在住で大のタイガースファンの俳人、木割大雄さんの句集「庵」を買ったのを読んだり、「新選俳句歳時記」(多田道太郎;著)の本をぺらぺらとめくりながら、音楽を聞き寝ついている。

 しかしあまり本を読み過ぎると、ついつい寝入りが遅くなり、翌朝睡眠不足になり困るので適当にきりあげている。

 俳句は作るのも、解釈するのも私にとっては困難な作業なので、近年は短歌、特に全国紙の短歌欄に眼を通し、気に入ったものをノートに記入している。家で購入している新聞で飽き足らず、図書館で、全国紙に載っているいいと思ったものを手帳に記入して帰る。これも近年少しづつさぼり、自分では老化現象と思っていないが、意外と加齢のせいかも知れない。

 短歌なら少しは理解できるが、俳句が難しいのは、俗に言われているように言葉が短すぎるからである。

 俳句大賞のこども部門には、次のような句がある。「南からつばめが運ぶ空の色」、これなど本人が「小学4年生になって理科の授業で、つばめのことを学習した。そんなとき、校内で巣を作ったつばめの親子を見て思いつきました。」と言っている。つばめが子育てのために南の国から日本にやってくるのを、いかにも見事に言い得ているのに感心する。私が小学校4年生の時は、終戦の年で物が何にもなく、食べもの事ばかりを考えて飢えない程度に生きていた。

 つばめが運んでくる「空の色」など想像することも出来なかった。それも「南から」なんて言葉は、今の社会での学校でこそ学べたと思う。時代の違い、それも平和な社会であるからこそ勉強できたのであろうと痛切に感じている。

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 つばめに関して私には、にがい想い出がある。亡くなった母親は、つばめがくる家は、この鳥が幸せを運んでくれると――本当にそう思っている――何時も私に語っていた。そのため毎年、巣づくりのためやってくるつばめのために、玄関の戸の上部のガラス部分の一角を、切りとり入りやすくしていた。

 そうであったが、何時しか私はすいすいと飛んでくるつばめを、どうしても手で握りしめたくなった。ある日、ほうきを持って家に入ってきた一羽のつばめを追いまわした。さして広くない家であったが、奥の4畳半の部屋へ閉じ込めることに成功した。つばめは天井板にはりつき、必死にあっちこっちへと逃げ、私も懸命に追いかけたが、つばめの逃げ方が早くとらえることができなかった。つばめはそれこそ命がけで逃げていた姿が未だに忘れられない。残酷なことをしたものだった。

 して本題に戻ろう。

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 こどもの部門の俳句大賞の続きである。次の句もわかりやすい。「あさがをがとなりの花としゃべってる」(本田彩来)「ゆうだちだかみなりさまのみずあそびだ」(沼田優子)「雨蛙葉っぱの上のおにごっこ」(高尾菜央)

 それに比べると一般の部はわかるようでいて難しい。大賞が「春潮に触れむばかりに着陸す」(鹿野登美子)の句である。大分空港に着陸する直前、飛行機は国東半島の上を西に向けてゆっくりと降りて行く。私も経験があるが、地上にいて春潮すれすれに機体が触れんばかりに急降下する模様を眺め、その一瞬をとらえて成功した句であろう。しかし、地上にあっても機内でも同じ経験はあるだろう。そのことが知り得ないのだ。どちらであってもいい句なのだろうが……。

 準大賞として、「白神の雪解の水を田に満たす」(岩田秀夫)「百歳の母の声聞く夜長かな(福西礼子)、の句は言葉通りの解釈でいいと思う。だが、<一般の部優秀賞><一般の部入選>の句も各々句としては、上位の句とそん色なくいい作品ではなかろうか。甲乙つけがたいと言いたいのだが、どうであろう。

 次に、各々の入賞者には高齢者が多いことが眼につく。例えば「稲架を組む夫婦に月の上がりけり」(山賀春江・90才)「手話の指さくらさくらを合唱す」(當摩八千代・84才)「八方にある漁火や夜の秋(平田幸子・95才)「万緑の中鍬の柄で立ち上がる(茂木妃流・87才)の人である。俳句ほど年齢差なく作れる文芸作品は他になかろう。

 何回も言うが俳句を作れない人間からするとその解釈は難しい。前記の木割大雄さんは、阪神タイガースのエースであった江夏豊と、甲子園球場周辺を吟行したことがあると、彼の本の中で書いている。その江夏に「すいすいとモーツアルトにみずすまし」の句がある。多田道太郎は「即興でモーツアルトのタクトを振り、即座に名句をものにする」人として、江夏を賞めている。しかし、理解できそうで、私はそう解釈できず困ってしまう。「浜風に一喜一憂若き日々」、これなどは野球を少し知っている人であれば、誰しも理解できよう。理解、解釈のできない俳句にぶつかると、俳句は難しいと思わざるを得ない。

 木割さんの本を、本人から直接買った時、この有名な俳人は本にサインをしながら私に、「俳句を作るのか」と問いかけてきた。私はすかさず「作ろうにも作れないんです」と答えるしかなかった。その晩、彼の句集とエッセイ『俺』を読み、俳句を創りはじめると一生の仕事になりそうな気がして、私にその才能がなかったことを幸いに思った。

 そしてこの一年間、何を思ったか『高浜虚子』(冨士正晴;著)を読みかけ、読みかけては中断している自分にあきれかえっている。まだ半分にも達していない。又、芦屋浜に建っている虚子記念館の前まで行って、何故だか入館しなかった。比較的近い所に居るのだから、今年は是非入館する予定である。そして、冨士正晴の『高浜虚子』の本を読みきりたいと思っている。

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『みちしるべ』分断が進む一方で、行政不信も強い被災者**<2014.1. Vol.82>

2014年01月17日 | 神崎敏則

分断が進む一方で、行政不信も強い被災者

尼崎・神崎敏則

≪第81号(2012年11月)掲載「富岡町の復興ははるか遠い道のり」の続編≫

仮設住宅の被災者――行政への不信はぬぐえない

 翌日は、いわき市内の仮設住宅に行き、そこの自治会長さんのお話を伺いました。中央台高久第1仮設住宅(地図によれば第10まである)のN自治会長、途中から生活支援相談員のKさんも合流してお話していただいた。

 第1仮設住宅は2011年5月から入居。最初にできた仮設なので、至急入居を要する人が入った。189世帯のみなさんは、いわき市の全域と双葉郡のあちこちの町村の方だ。他の仮設は市町村ごとに、例えば広野町からの避難者の仮設住宅、あるいは、楢葉町からの避難者の仮設住宅とかためられている。

緊急時に一番肝心なのは情報、なのに届かない

 N会長は震災までいわき市久之浜町に住んでいた。いわき市は、面積1,231㎢(尼崎市の25倍近く)で太平洋に面する海岸線は60㎞もあり、沿岸部は津波の被害にあっているが、いわき市全体ではそれはほんの一部になる。久之浜町も津波被害を受け、町の人口6,000人のうち10名不明、60数名が死亡した。

 福島では、地震と津波の後で火災も発生し久之浜町では60軒以上が燃えた。そして原発事故が顕在化した。

 久之浜町では、防災無線が鳴らなかった。防災無線がきちんと鳴っていれば、被害がいくらか少なかったかもしれない。その代り、消防車がマイクで津波警報を流していた。その消防車も津波にもっていかれた。

 N会長の自宅は海から500mも離れていたが、2m以上の波が来て、畳や床板を天井近くまで持ち上げ、家の中にはガレキがつまった。

 震災の日は寒くてみぞれまじりで、避難先では、非常用の毛布の数が足りず、取り合いになった。ストーブはあっても灯油がなかった。寒くてしょうがなかった。非常用備品は全く足りなかった。

 自宅で寝たきりの人が中学校の保健室に運ばれていた。保健室のベッドも足りなかった。

 地元の先輩が避難所で泣いていた。孫と自分の嫁が流されたと言っていた。かける言葉がなかった。

 津波にのまれるとき、奥さんを握っていた手が離れて、奥さんだけが流された友人もいた。

 3月12日の朝、1回目の原発の爆発の時、屋内退避を指示されていただけで情報がこなかった。たまたま外出していると、消防から駅舎内に入るように言われたので入ると、扉が閉められた。1時間はそこに入れられていた。その日の昼に地元の中学校に行こうとしたら検問がはじまっていて「中学校に行っても誰もいないよ」と言われ、「それでも用があるので」というと、「自己責任で」との返事だった。市民には知らせずに、行政の側は緊急対応をしていたのだろう。

分断されている被災者

 第1仮設の189世帯のうち原発の補償を受けているのは約20世帯。やはり補償を受けている人と受けていない人との間で軋轢があるそうだ。

 双葉郡からの被災者といわき市民の被災者との間にも溝があると言う。「ゴミ出しでは、分別がきちんとできていない」、「双葉郡の人の自動車の運転は、怖くて、車間距離を大きくとらないとこちらが巻き込まれる。何故って、ウィンカー出さずに平気で右折するから。とろとろ走る車がいたら、双葉郡の人だとすぐ分かる」など、簡単に乗り越えられる溝ではなさそうだ。

政府からも県からも見放されているのか

 「海辺の町の復興では、『高い堤防を造ってくれ』という人が多い。でも高い堤防を造ると海の様子が分からなくて、余計に危険だ。それよりも、家が無くなった人の家を建ててほしい」とN会長は熱弁をふるった。

 「双葉郡の子ども達が、線量の低いいわき市の仮設にいるのに、わざわざバスを出して線量の高い小中学校に通学させている」そうだ。子ども達の安全が優先されない。当たり前のことが通らない。理不尽なことを福島県民はずいぶん味わわされた。

 Kさんは言う。「東京でオリンピックをやるのをよろこんでいる福島の人はいません。とんでもないことがはじまったとみんな思っています」と福島県民の思いを代弁する。いまだに苦渋のただ中に福島県民をおいておきがら、それを忘れたかのような政府や日本国民。
 県立医大による健康管理調査がおこなわれている。

 調査の主旨を県のホームページから引用しよう。「福島県では、東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散や避難等を踏まえ、県民の被ばく線量の評価を行うとともに、県民の健康状態を把握し、疾病の予防、早期発見、早期治療につなげ、もって、将来にわたる県民の健康の維持、増進を図ることを目的とし、『県民健康管理調査』を実施しています」と謳う。しかし県の本音は、県民が数年後に仮にガンなどの疾病にかかった際に、「原発が原因ではなかった」、「東電への賠償は発生しない」、と言いくるめるための調査である事を感じているのだろう。(※注)

 県民は政府からも県からも見放されているのかもしれない。

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(※注) 毎日新聞記者・日野洸行介著『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』(岩波新書)によれば、「2011年9月の県議会で、子どもの内部被曝を調べるため乳歯の保存を県民に呼びかけるよう提案する自民党県議からの質問に対して、(中略)当時の福島県の保健福祉部長は『さまざまな意見があるようだ。今後研究したい』と述べるにとどまり、その後、福島県が何か具体的な行動を起こすこともなかった」そうだ。乳歯を保存しておけば、ホールボディカウンターですら放射性物質のストロンチウム90の内部被曝を測定できないが、事故後に抜けた乳歯を分析することで内部被曝を後から証明できる可能性がある。

 著者は、同年12月19日の朝刊に事実関係をつかんで批判記事を書き、広く県民の知るところとなった。

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『みちしるべ』1・17のつどい19回目に思う**<2014.1. Vol.82>

2014年01月17日 | 山川泰宏

1・17のつどい19回目に思う

2014(平成26)年1月2日
  山川 泰宏(西宮在住)

 毎年開催している1・17のつどいの竹灯篭についてわたくしの関わりについて少しお知らせさせてください。

 私が参加したのは、1999年1月17日、まだ会社勤めの現役時代の頃でした。震災当時、関西アサノポール株式会社大阪本社技術課長でコンクリートパイル建設技術協会(コピタ)の関西支部の技術委員長の役職を兼務、阪神淡路大震災でのコンクリート建築物の被害状況調査を担っていました。同業会社の技術者と手分けし西宮市、芦屋市そして神戸市の耐震設計以前の建築物の被害状況を調査していたとき、偶然目にした震災モニュメント交流うぉーくの看板に興味がわき参加。その時、今は亡き中島正義氏とその仲間たちとの交流が始まりました。ローソク作りや竹灯篭の準備作業に誘われて以来、2011年2月24日肺がんで死去した中島正義氏の葬儀の一部を執り行い、神戸・市民交流会の事務局長として継続し15年の長き歳月を経て今日に至っています。

 振り返れば1999年、毎日新聞の宝満記者の協力で、この西宮市内で開催した、震災モニュメント交流うぉーく。阪急夙川駅から夙川小学校、大社小学校、西宮震災記念公園、そして最後は大手前大学の教室をお借りして交流会を開催。初めて新聞記事に自分の名前が紹介された、懐かしい思い出ででもあります。この運動がのちの東遊園地に建立された希望の灯りの一翼となったのです。(震災モニュメント設置場所の訪問うぉーく)

 阪神淡路大震災から5年目の2000年は、NHKの実況生放送で阪急夙川駅から芦屋の津知公園や精道幼稚園、芦屋の如来寺を巡る希望の灯りのリレーでした。最終到着場所は淡路、須磨区、北区の仲間と合流し希望の灯りに点灯されたのです。

 2001年当時、西宮市役所秘書課に市民による追悼行事の開催を打診したのですが、当時の秘書課は実績のない追悼行事開催に難色を示し、賛同を得ることが出来ませんでした。市行政の姿勢は、新しい試みを受け入れようとする対応なく失望し、神戸市の市民活動に巡りついた経緯がございます。《参画と協働の言葉は聞こえますが、役所主体、失敗を恐れる市行政の姿勢には、問題が多いと感じます。》

 NHK神戸放送局のデレクターと最終打ち合わせをして、希望の灯りにともす灯を遺族の西宮市民に、阪急夙川駅前に持参する段取りの準備をして、郷里の父の見舞いで帰郷。函館に到着したその日、夫婦で父を見舞い帰西の計画でしたが、2000年1月14日、長男夫妻の見舞いを待つように父善司(享年91歳)は天国に旅立ちました。毎日介護していた母や妹は、死に目に会えなかったのです。そのような理由から2000年のつどいは喪主として故郷古部で過ごし、神戸のつどいには参加できませんでした。

 さて、1・17のつどいの竹灯篭は毎回10,000本程が、県下社協や諸団体からの無償提供で賄われています。ローソクは使い古しのローソクを再生して、毎年、多くのボランテアの皆さまによって準備されています。その多くの支援に対して感謝をこめて、団体名を竹灯篭に書かせて頂いたのが2001年の1・17つどいからで、点の場所に飾らせていただいています。

 その団体名がテレビや新聞紙上で広く報道されました。神戸に送られた竹灯篭の名前を見て、多くの支援者の輪が広がったのです。このことが多くの団体からの竹灯篭や再生ローソクの原料提供につながっています。

 2002年、斜めに切断した竹の内側に、追悼・鎮魂・祈り・命の文字を書き込んだのが、NHK神戸放送局の毎週火曜日18:00~放映の震災メッセージのオープニングで流され続け、忘れがたい私の書体を通じた、メッセージになりました。

 メッセージを書いた最初のつどいで、偶然に目にした相生市に住む方が、入院加療の病室で自分の提供者名に、病気に負けてはならないと希望をもらい、毎年、東遊園地に一家総出の協力が今も続いています。そして人の輪が大きく育っています。私の発案で生まれた竹灯篭に名前を書く作業準備も無償の奉仕活動です。あの震災から生まれた、思いやり、絆、そして命の大切さを伝える大きな追悼行事なのです。

 追悼行事のもう一つは、多くのボランテアの活動と国内外で起きた、自然災害への支援の心を育てる場所でもあると思います。どうか、此の追悼行事に足を運び、身を以て体験して下さることを願います。神戸だけでなく、神戸から発信する人の優しさを伝える希望の灯りなのです。

 今、神戸の希望の灯りは岩手県陸前高田市、岩手県大槌町、福島県南相馬市、宮城県川崎町で「3・11希望の灯り」として地域の復興を願い、燃え続けています。

 

2012年東遊園地と神港学園硬式野球部の選手たちの準備風景です。

 

毎年再生される水に浮くローソクの出来上がり具合です。

 今年は阪神淡路大震災から19年目の1・17のつどい開催です。東日本被災地への竹灯篭の追悼行事に東遊園地で使用した、竹灯篭を再利用して(短く切断)宮城県名取市閖上での3月11日や8月14日の追悼行事を参加支援しています。

  

東遊園地の「希望の灯り」

 

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