『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』道路行政の歴史と問題点 Vol.3**<2003.5. Vol.23>

2006年01月09日 | 基礎知識シリーズ

日本道路史の基礎知識
道路行政の歴史と問題点 Vol.3

世話人 藤井隆幸

6 戦後の道路建設の飛躍と現実

 今日、自治体の企画局の職員に言わせれば、何をするにも道路が中心に据えられているという。都市計画の中心は道路であり、白地地区の改良も区画整理で道路が中心である。港湾整備も空港計画にも道路が絡んでくる。圃場整備までも道路予算で成り立っている。鉄道の立体交差も、新交通システムも路面電車も道路予算である。

 その良し悪しは別にして、道路中心主義とまで見られる、道路予算の肥大化を実現してきた諸制度の実態を分析してみよう。

6-1 道路建設を支えた三つの打ち出の小槌

 焦土と化した戦後の日本に、道路を整備するだけの充分な財政力はなかった。そこで考え出されたのが、三つの打ち出の小槌である。現在では財政再建のお荷物となっている制度であるが、戦後復興に大きく貢献したことは間違いない。

 一つ目は区画整理事業である。焼け野原となった都市部に、戦災復興土地区画整理の網を掛けた。阪神淡路大震災後の「震災復興」土地区画整理と違っているのは、土地の減歩の不利益にあったのは、多くは大地主であった事であろう。ともかく道路用地を、行政は無償で入手することになったのである。

 今日に於いて、ある日突然、行政当局が街路計画を発表し、住民が戸惑うことがある。その街路計画の都市計画決定は、必ずと言って良いほど昭和21年である。それはGHQ占領下に於いて、GHQの指令のもとに、戦前の都市計画法(現都市計画法制定はS.33年)によって、計画された街路計画の残り粕である。

 二つ目は、特定財源制度である。ガソリン税等を道路整備の財源に特定し、徴収する制度である。車が走ると税金が入り、道路が建設される。道路が建設されると、また多くの車が走り税金が、また多く入る。永久に拡大する事はないにしても、税目・税率の拡大と共に、未だに拡大方向にある。この特定財源制度の端緒も、占領下(昭和24年)の揮発油税の復活である。

 三つ目は、有料道路制度である。財源が確保できてから道路を建設するというのではなく、借金をしておいて道路を建設し、通行料金を徴収して借金を返済する制度である。一定の制約の範囲内で制度が運用されていれば、それなりの効用は無いではない。しかしながら、制限を越えての運用となっており、道路公団の破綻は年々深刻になりつつある。70年代までは、国内では資金が集まらず、年利14%にもなる世界銀行からの借金のウエイトが大きかった。旧国鉄の借金も、無理して建設した新幹線に於ける、世界銀行からの借金が尾をひいていた。

6-2 公共事業の7割は建設省・その内の4割は道路

 毎年3月ともなると、国会で次年度の予算が決まる事となる。その中で、マスコミ各社が問題にする項目に、公共事業の枠組みの事がある。前年対比で枠組みの変化が1%未満である事への批判である。財政の硬直化と、政策的変更枠の無さに、驚きと失望があるからである。

 時代を遡って調べてみると、財政の枠組み、特に公共事業の枠組みの硬直が始まったのが、80年頃からである。良くも悪くも、政権与党内に政治を執行できる大物が居なくなった事が挙げられる。派閥・族議員の利害を調整するドンが居なくなり、与党内の抗争は収拾されなくなった。田中角栄が実権を失って以降、窮余の策として、大平内閣は財政をシーリング(封印)してしまった。以来、財政は政策的必要性を論じられることなく、総ては前年対比(元は派閥間の力関係)という事となった。

 三つの打ち出の小槌の力で、道路族は大きな力を持っていた。その力が、公共事業の7割は建設省(現、国土交通省)の所管、その内の4割は道路事業と決めてしまった。公共事業の最大の28%(0.7×0.4×100)もの大枠は、道路族のテリトリと決まってしまったのである。かくして必要性はさて置き、道路建設は地球上類例の無い規模で、現在進行形・継続中である。

 口角泡を飛ばし議論される整備新幹線年間予算は1000億円に過ぎず、無駄なダムと言われる年間予算も3000億円に過ぎない。一方、道路事業の年間予算は、マイナス・シーリングの現在でも、11兆円(最大は2000年度予算の12兆7546億円)に及ぶことを見ても、如何に偏った予算であるか理解できる。

6-3 道路建設に巣食う悪魔のトライアングル

 年間道路投資額は60年には2000億円余り、70年には1.6兆円弱、80年には5.8兆円余り、90年には10兆円を突破し、2000年には12兆円に及んだ。この年間投資額の6割は、大規模プロジェクトに投下されるのである。

 戦後の道路行政に一貫して続いてきた大型投資は、道路族議員・道路建設官僚・大手ゼネコンの完全なる癒着構造を、完璧なものに仕上げた。道路族の実権は田中角栄以後、竹下派・小渕派・橋本派と、政権自民党の最大派閥が牛耳り続けてきた。

 また、ゼネコンを傀儡として動かしてきたのは、実に財界の中心である大銀行であった。手を汚す仕事は銀行に成り代わり、ゼネコンが行ってきた。ゼネコンは下請け・孫受け・曾孫受けと、ピラミッド型の構造をしており、末端の業者は税務署も相手にしない個人商店となっている。

 大手ゼネコンは自らの帳簿操作をする事無く、末端の個人商店に請負額の何パーセント・バックを指示さえすれば、ピラミッドを逆流して受注額の何パーセントかの金額は裏金としてストックされる。これは「キック・バック」と呼ばれ、政界に還流されていることは公然の秘密となっている。

 このような裏の構造を支えているのが、官僚組織である。全国に建設省の職員は4000人に及ぶと言われ、官庁でも最大級の組織である。その他に、全国2000程の自治体の殆どに、出向職員を配置している。出向職員にはノートパソコンが与えられていて、毎日のように、本省からのメールが届き、指示に従っている。3割自治と言われるように、東京都を省く自治体は建設省の補助金が無ければ、殆どの事業は成立しない。それを楯に、出向職員は本省の意のままに、自治体を動かしてゆく。

 余談になるが、芦屋市の汚職で逮捕された富田助役は、その様な建設省の出向職員の一人である。芦屋市の土木事業は、富田氏のサジ加減で決まるといわれていた。芦屋市のトップである北村市長でさえ、富田氏の手中であったと考えられる。

 こうして悪魔のトライアングルは、鋼鉄の組織を誇っているのである。そして、国民の意とは程遠く、大規模道路プロジェクトに傾斜してゆくのである。

6-4 徹底した産業優先政策

 明治維新後の命題は「富国強兵」であった。対して戦後の命題は「産業優先」である。「最早、戦後は終わった。」と言われながら、未だに「産業優先」意識と現実からは脱却していない。日本人は年間1000万人もの海外渡航があるという。欧米諸国にも多くが行って、交通事情も見ている筈でもある。日本人の戦後慣れした「産業優先」を奇異に思わないのであろうか。
住宅街の真中を産業道路が通過する。都心に高架高速道路を、平気で通過させる。昼間に住宅街を大型トラックが、平然と疾走する。震災直後に、復興には何等関係のないコンテナトレーラーに通行許可を与え、交通渋滞に拍車を掛けた。先進国と呼ばれる国で、このような事は在り得ない事である。

 日本の自動車保有台数に占める貨物車類の比率は、50年は81%、60年は76%、70年は49%、80年は37%、90年は39%となっており、70年にやっと乗用車類が過半数を占めたのである。世界における先進国の貨物車類の比率は、日本32%(96年)、アメリカ36%(96年)、イギリス11%(97年)、フランス16%(97年)、ドイツ5%(96年)、イタリア9%(96年)となっている。アメリカの比率が大きいのは、日本では乗用車類に分類されるワゴン・ワンボックス・ハッチバック(クーペやセダン)等が、貨物車類に分類されているからと思われる。

 世界的に見ても、日本の貨物車類の保有は異常に多い状態である。それにもまして、走行距離の総計に於いて、日本では乗用車類を貨物車類が凌いでいる事である。世界の先進国ではありえない出来事である。

 背景には、産業優先の貨物車優遇政策がある。ガソリン1リッター当りの税金は53.8円に対し、軽油は32.1円でしかない。自動車税の年額は、2000ccタイプの自家用乗用車が39,500円に対し、どんなに大きくても営業用トラックは18,500円でしかない。重量税については、4.5倍もの差がある。

 これらの政策の中で、産業優先の意識は国民の中に定着化され、企業利益の追求が、国民の文化生活に優先すると言う、奇妙な感性がまかり通っているのである。そして、道路のあり方が、その様に定着していることは憂慮すべきことである。

6-5 国鉄分割民営化の影響

 日本の道路交通事情に大きく影響した事柄として、国鉄分割民営化が挙げられる。そもそも国鉄分割民営化が考えられたのは、国鉄の保有している土地資産額が、当時800兆円にもなると評価されていたからである。この土地を不動産取引の対象(土地転がし)にすれば、巨万の富が転げ込む筈であった。

 しかし、国鉄法に従えば、国鉄は人と物の輸送以外の仕事をする事は禁じられていた。当時、駅の売店でさえ国鉄共済会(キオスク)が行っていたのである。私鉄各社には不動産部門が必ず存在するが、国鉄にはなかったのである。そこから民営化論が発生した。

 国鉄民営化議論には諸説あって、国民の目には本筋が見えなかったと言うべきかも知れない。国労・動労などの組合が強いので、利用者の利益にならないとか。親方日の丸で士気が低下し、事故が多くなるとか、赤字体質が改善されないなど。中曽根流のデマが流された。今日のJRとの比較をすれば、それらが如何にデタラメであったか明白になった。本稿の論旨とは違うので、深入りはしないが、今日の「道路四公団民営化推進委員会」の小泉流と共通するところがあり、要注意である。

 まず、国鉄分割民営化の下準備に何が為されたかである。国鉄の土地で最も注目されていたのが、首都圏の汐留操車場と関西の大阪駅操車場・吹田操車場である。都心の一等地でありながら、広大な土地の規模である。これらの都心にある貨物の操車場を廃止することから始めた。そうすると、国鉄貨物輸送は幹線ルート以外、不可能になり、一挙にトラック輸送の分担が増える事となった。

 欧米では鉄道の貨物輸送分担率が数割に及ぶにもかかわらず、日本では数%にしかならない。産業界では日本工業製品における物流コストが高すぎて、国際競争力を損なうと嘆いている。勿論、トラック輸送が便利なものもあるのだが、鉄道輸送のほうが有利なものは決して少なくないのである。これも国鉄分割民営化の影の部分であろう。

 本来の国鉄分割民営化は、800兆円の土地転がしであったのであるが、バブルの崩壊により塩留も吹田も大阪駅北側の操車場跡地も、その利用計画は進んでいないのは皮肉である。残ったのは、貨物輸送の屋台骨を抜かれたJR貨物の能力不足のため、随意性はともかく非常に低効率のトラック輸送が、欧米では信じられないほど多用されている。

 国鉄時代、赤字ローカル線の赤字を全部足しても、東北新幹線の赤字には及ばなかったと言うのに、ローカル線の廃止が続いた。その為、地方の足が自動車に頼らざるを得なくなり、その地方の自動車はそのまま都市部に乗り込むことになった。反対に、都市部から郡部に行くには、都市部から自動車に頼ることになった。

 今日の日本における過度の自動車依存体質は、国鉄分割民営化にも
原因があるといえる。それが道路建設必要論の根拠にされているのである。

7 おわりに

 戦後の日本の道路史には、アメリカの占領政策と、その後の経済・軍事支配の思惑。それに、自民党政権、特に田中角栄の分析は重要である。道路史に拘らず、すべての問題で重要であり、小生が語り尽くせる物でない事は明白である。

 バブル崩壊後の後退する日本経済に、期待をかけた小泉首相だったが、期待は外れであったようだ。そもそも彼は三世議員である。地盤・看板・カバンを引き継いだ御先祖は、戦争犯罪の張本人達であった。彼が靖国神社に固執するのは、出生にあるのは間違いない。しかしながら、彼は星条旗に誓いを立てたかのごとく、極端にアメリカ一辺倒である。世界世論からは異端で、イラク侵攻を真っ先に支持した。

 戦後のアメリカの対日政策において、ファシズムの撲滅は重要ではあった。が、民主化を進めたら左翼が力を持った。アメリカは、朝鮮支配のせめぎ合いで、ソ連と新生中国の影響力が日本に及ぶ事が恐ろしかった。レッドパージや、戦前の戦犯勢力を担ぎ出し、政権につけた思惑は、その辺にあった。小泉にとって、その恩義は終生忘れられないのも理解出来る。

 その様な日米政権の間柄で、唯一、アメリカと対等に渡り合った首相がいた。日本を頭越しに米中国交回復したニクソンに対し、お伺いも立てずに日中国交回復したのは角栄であった。戦後の日本外交で、アメリカの許可を得ずにした唯一の外交であった。その辺を今も中国は評価をするが、真紀子までもアメリカに失脚させられた。

 竹中平蔵は論文を書けない学者だが、アメリカの指令には敏感である。アメリカに忠誠を誓う小泉の重要な副官である。このような日本の政権の中で、道路行政がいかに変質したのか、その辺の分析は又の機会に譲ることで、このシリーズを終える。

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