三橋雅子
<本宮の大逆事件③>
私の「大逆事件の周辺Ⅰ」――社交ダンスの草分け玉置真吉
大逆事件の直接の犠牲者になった6人のうち5人(大石誠之助、崎久保誓一、高木顕明、新村忠雄、蜂尾節堂)と共に玉置真吉が右端に写っている写真がある。(前出・辻本雄一・佐藤春夫記念館館長の「熊野川を遡る『新思想』」<南紀州新聞>に紹介。)玉置の代わりに本宮の成石平四郎でも入っていれば、全員が紀州組の犠牲者というわけだ。玉置真吉だけが、おや?と思わせる異端児のように見える。この中ではただ一人、逮捕を免れた人物である。そのせいか、玉置の顔だけが切り取られた同じ写真もあるという。仲間ではない、という隠蔽の配慮か、一人だけ「犠牲」にならなかった恨みか、と著者も判断を避けている。
玉置真吉という名前を見たとき、ふっと半世紀ほど前の場違いな(と感じた)ダンスの情景が浮かんで、奇異な感じがした。夜陰にジョギングなどする情景がまだ市民権を得ていなかった頃、運動不足をかこって、私は社交ダンスにウツツを抜かしていた。ダンス教室などは当時、世間からも「良家の子女」の踏み入れる場所とは認知されていなかった。私が誘った「お嬢様」も家には内緒で出てくる始末で長続きはしなかった。お花、料理、手芸や裁縫となれば、ブツが残らなければならない、茶道もたまには和服でなければ・・・と外出の花嫁修業口実には事欠かなくてもダンスのうそはつき通せなかった。私が正々堂々「ダンスに行ってきまーす、今夜は大分遅くなるかも、送り狼が送ってくるかもよ」などと豪語して出かけられたのも、母が私の世代の母親としては年をとっていた明治半ば(鹿鳴館時代の終末期)の生まれだったこともあってか、社交ダンスの流行を経験していたからかも知れない。
私は小さい時、物置の片隅に奇妙な履物の片方を見つけて、何だろうと不審に思っていたが、それはダンス草履というものだと、大きい姉が説明してくれた。母が昔使っていたのだという。それは中ほどが、いくらか外側に湾曲していて、ダンスには左右の別がある、特別の履物がいるのだということが印象に残った。後に、シンデレラの物語は日本の文化の中ではありえなかった、とある時気付いた。落として来た金の履物が下駄や草履だったら、特定の個人の「小さな足」でなくても、よほどの規格外でない限りは、たいていの足に適合できるものだから、といたく感じた時、この時の記憶「かなり小さくて、左右の別のある草履」の印象が強く残っていたと思われる。
日本に社交ダンスを紹介、定着させた玉置真吉がダンス草履も開発したのだろうか?それは和服で踊るための必需品だったのか。と今になって思うが、それはさておき、私には懐かしい玉置真吉の名前が、大逆事件の「逆賊」達のすぐ近辺にあった事に、少なからず驚いた。その名前は、私にとって当時ほとんど唯一のダンスの指南書の著者であって、社交ダンスの神様のように思っていたから。私の記憶違いか同姓同名か?と。
真吉は1885(明治18)年、新宮に近い紀和町(三重県)に生まれる。(なんと父と同じ年、父はダンスは嗜まなかったらしいが、母のダンス通いを黙認した。私が結婚してダンスに行こう、と誘っても、何だあんなもん、と不潔気に厭う昭和の男より余程太っ腹の明治男、と思う。)小学校の教員をしていたが、大逆事件の捜査で新宮での家宅捜査が始まると、真吉の手紙類や書物を焼却するよう父親が手配したというから、「危険分子」の臭いは充分あったものと思われる。真吉は校長の助言に従い依願退職をしている。上京して明治学院に学ぶが、帝劇のオペラ公演に魅せられ音楽、演劇に関心を持ち、新宮出身の西村伊作が作った文化学院に勤め、山田耕筰に学び(舞踏詩)、小谷寛猛に社交ダンスを習う、とあるから、私が思っていたような、日本に社交ダンスを導入した最初の人ではなかった。しかし大正末期からのダンスの流行(警察がうるさくなる)で、ダンスホールの黄金時代を迎え、真吉はダンス紹介の本を出したり玉置舞踏学院を開設したり、ますますはげしくなる官憲の取り締まりのみならず、まだまだ強かった社会の偏見に対して、果敢に「新しいもの」の普及に努めたと思われる。不当な権力介入による冤罪の犠牲になった、仲間たちへの鎮魂を込めた、彼の精一杯の生き方だったのだろうか?冒頭の辻本氏は「あの時絞首台に上っていたら」という思いを胸に、開き直って「覚悟胸にダンスにかける」生涯だったのか、と説く。
そうとも知らず、私はただ、音楽に合わせて体を動かす快適さに酔い、「タンゴは良いねえ、ゆるりゆるりと気持ちよくてタンゴが一番だ」という母に「あら、タンゴはテンポが速くてビートが利いてて、一番動きが速いわ」と言い争っていたのが懐かしい。母のダンスの方が草分け玉置真吉の教えに近い正統派だったのか。
真吉の没年は1970年だから、私は東京にいて、まだ存命の両親と同世代の彼に会おうと思えば叶ったかも知れないのである。真吉が南紀の出身とも知らず、自分がここ南紀に住むようになるとも露思わず、大逆事件についても教科書以上のことは知らず・・・つくづく出会いとは決して偶然ではなく、自分で作るものだと痛感する。少なくとも母の生存中に玉置真吉のことを調べて語り合いたかった。