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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』熊野より(34)**<2011.3.&5. Vol.68>

2010年05月05日 | 熊野より

三橋雅子

<本宮の大逆事件③>

私の「大逆事件の周辺Ⅰ」――社交ダンスの草分け玉置真吉

 大逆事件の直接の犠牲者になった6人のうち5人(大石誠之助、崎久保誓一、高木顕明、新村忠雄、蜂尾節堂)と共に玉置真吉が右端に写っている写真がある。(前出・辻本雄一・佐藤春夫記念館館長の「熊野川を遡る『新思想』」<南紀州新聞>に紹介。)玉置の代わりに本宮の成石平四郎でも入っていれば、全員が紀州組の犠牲者というわけだ。玉置真吉だけが、おや?と思わせる異端児のように見える。この中ではただ一人、逮捕を免れた人物である。そのせいか、玉置の顔だけが切り取られた同じ写真もあるという。仲間ではない、という隠蔽の配慮か、一人だけ「犠牲」にならなかった恨みか、と著者も判断を避けている。

 玉置真吉という名前を見たとき、ふっと半世紀ほど前の場違いな(と感じた)ダンスの情景が浮かんで、奇異な感じがした。夜陰にジョギングなどする情景がまだ市民権を得ていなかった頃、運動不足をかこって、私は社交ダンスにウツツを抜かしていた。ダンス教室などは当時、世間からも「良家の子女」の踏み入れる場所とは認知されていなかった。私が誘った「お嬢様」も家には内緒で出てくる始末で長続きはしなかった。お花、料理、手芸や裁縫となれば、ブツが残らなければならない、茶道もたまには和服でなければ・・・と外出の花嫁修業口実には事欠かなくてもダンスのうそはつき通せなかった。私が正々堂々「ダンスに行ってきまーす、今夜は大分遅くなるかも、送り狼が送ってくるかもよ」などと豪語して出かけられたのも、母が私の世代の母親としては年をとっていた明治半ば(鹿鳴館時代の終末期)の生まれだったこともあってか、社交ダンスの流行を経験していたからかも知れない。

 私は小さい時、物置の片隅に奇妙な履物の片方を見つけて、何だろうと不審に思っていたが、それはダンス草履というものだと、大きい姉が説明してくれた。母が昔使っていたのだという。それは中ほどが、いくらか外側に湾曲していて、ダンスには左右の別がある、特別の履物がいるのだということが印象に残った。後に、シンデレラの物語は日本の文化の中ではありえなかった、とある時気付いた。落として来た金の履物が下駄や草履だったら、特定の個人の「小さな足」でなくても、よほどの規格外でない限りは、たいていの足に適合できるものだから、といたく感じた時、この時の記憶「かなり小さくて、左右の別のある草履」の印象が強く残っていたと思われる。

 日本に社交ダンスを紹介、定着させた玉置真吉がダンス草履も開発したのだろうか?それは和服で踊るための必需品だったのか。と今になって思うが、それはさておき、私には懐かしい玉置真吉の名前が、大逆事件の「逆賊」達のすぐ近辺にあった事に、少なからず驚いた。その名前は、私にとって当時ほとんど唯一のダンスの指南書の著者であって、社交ダンスの神様のように思っていたから。私の記憶違いか同姓同名か?と。

 真吉は1885(明治18)年、新宮に近い紀和町(三重県)に生まれる。(なんと父と同じ年、父はダンスは嗜まなかったらしいが、母のダンス通いを黙認した。私が結婚してダンスに行こう、と誘っても、何だあんなもん、と不潔気に厭う昭和の男より余程太っ腹の明治男、と思う。)小学校の教員をしていたが、大逆事件の捜査で新宮での家宅捜査が始まると、真吉の手紙類や書物を焼却するよう父親が手配したというから、「危険分子」の臭いは充分あったものと思われる。真吉は校長の助言に従い依願退職をしている。上京して明治学院に学ぶが、帝劇のオペラ公演に魅せられ音楽、演劇に関心を持ち、新宮出身の西村伊作が作った文化学院に勤め、山田耕筰に学び(舞踏詩)、小谷寛猛に社交ダンスを習う、とあるから、私が思っていたような、日本に社交ダンスを導入した最初の人ではなかった。しかし大正末期からのダンスの流行(警察がうるさくなる)で、ダンスホールの黄金時代を迎え、真吉はダンス紹介の本を出したり玉置舞踏学院を開設したり、ますますはげしくなる官憲の取り締まりのみならず、まだまだ強かった社会の偏見に対して、果敢に「新しいもの」の普及に努めたと思われる。不当な権力介入による冤罪の犠牲になった、仲間たちへの鎮魂を込めた、彼の精一杯の生き方だったのだろうか?冒頭の辻本氏は「あの時絞首台に上っていたら」という思いを胸に、開き直って「覚悟胸にダンスにかける」生涯だったのか、と説く。

 そうとも知らず、私はただ、音楽に合わせて体を動かす快適さに酔い、「タンゴは良いねえ、ゆるりゆるりと気持ちよくてタンゴが一番だ」という母に「あら、タンゴはテンポが速くてビートが利いてて、一番動きが速いわ」と言い争っていたのが懐かしい。母のダンスの方が草分け玉置真吉の教えに近い正統派だったのか。

 真吉の没年は1970年だから、私は東京にいて、まだ存命の両親と同世代の彼に会おうと思えば叶ったかも知れないのである。真吉が南紀の出身とも知らず、自分がここ南紀に住むようになるとも露思わず、大逆事件についても教科書以上のことは知らず・・・つくづく出会いとは決して偶然ではなく、自分で作るものだと痛感する。少なくとも母の生存中に玉置真吉のことを調べて語り合いたかった。

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『みちしるべ』斑猫独語(40)**<2010.5. Vol.64>

2010年05月04日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<百円投資の楽しみ>

 ブックオフ、古本市場という従来の薄暗く黴臭い古本屋というイメージを振り払った、でも古本屋には違いない古本屋が全国に店を広げている。そこでは、この本がなんで百円、というものが出ることがある。そんな掘り出し物をさがすのを楽しんでいるが、ささやかな楽しみと言えばきれいけれど、貧乏くさい話なのである。そんな掘り出し本がどんどん溜まって行く。それらを、気が向けばあれをとり、これをとり、あっちをぱらりこっちをぱらりと読むのだが、それをやると結構時間を費やすことが多く、その時、この本に投資した百円は知識欲を満たす高い利息を産んでいるのだ、と自己満足するのである。

 「続消えたわが母校」――なにわの学校物語――赤塚康雄著(2000年8月*つげ書房新社発行*2800円)もそんな一冊である。

 この本の第四章 野田、鷺洲あたり、というところに「芦分小学校」が出ている。小学生の頃、昭和20年代だが、あちこち出歩くのが私の遊びの一つだった。でもまだ子供だ、その行動範囲はしれている。その西の果ては、安治川右岸に近く工場や倉庫が並んでいる寂しいあたりで、そこには「芦分小学校」の跡である木造校舎が残っていた。なんでこんな寂しい所に学校があるのだろう、子供心の疑問であった。頭の底に沈んでいたそんな記憶がこの百円本でおよそ60年ぶりに掻き回されて出てきたのである。百円で動いた記憶攪拌機は値打ちがある。学校の歴史は読んでわかった。ここに書く必要はない。ついでに思い出した記憶が一つある。それは学校の隣だったと思うのだが、「日本アスベスト」という会社があったのだ。その頃、アスベストとは何か分からなかったし、誰かにそれを聞くこともなく、カタカナの響きだけで記憶していたのである。そして昨今のアスベスト公害が浮上したことから、やっと何の会社であったかを知ったのである。一寸待て、アスベスト公害が新聞等で報道されだしたのは、この本を手に入れるはるか前ではないか、その時、学校とアスベストの会社が隣り合わせにあった、と言うことは思い出さなかったのか、思い出してるなあ、ということは、べつにこの本が無くても「日本アスベスト」と「芦分小学校」とが結びついた記憶はよみがえっているのではないか。それをこの本から思い出しただなんて嘘じゃん、まあお許し下さい。作文作文。「作文しちゃった」からなのである。

 とにかく、学校とアスベストの会社が隣り合わせにあったというのは、アスベストの毒性はまだ知られていなかったからだろう。あの会社は事務を取り扱っただけで、製造部門は無かったのだ、とすれば、それはそれでいいのだが、そのことが、免罪符になるということは、アスベストの毒性はすでに知られていた、ということになる。だからこれはあり得ないことと考えないと大変なことになる。科学製品や化合物質が生物に悪影響をもたらしそれを公害と呼ぶまで、人々は様々な面で何事もなくのどかに生きていたのだ。ここでインターネットで日本アスベスト会社の沿革を調べ、芦分小学校の歴史と比べて見ると、日本アスベストは1896年(明治29)大阪府西成郡下福島村にて設立とある。西成郡下福島村は後大阪市福島区に変わる。まさにあの芦分小学校の場所なのだ。芦分小学校の開校は明治6年と日本アスベストより遙かに早いが、私が覚えている学校の校舎が出来るのは1908年(明治41年)とあり、その位置も最初期の場所とは変わっているから、芦分小学校がアスベスト会社にすり寄ったのである。アスベストの毒性に気づき、アスベストによる疾患が社会的に取り上げられるようになったのはいつ頃のことなのか、歴史の一齣にはアスベスト会社の隣に小学校があったこともあるのだ。2010年4月23日 小学校で石綿公務災害 教諭、初認定へ、という見出し記事を新聞に見るのである。

 様々な分野の様々な情報が様々な形態であふれかえる現代社会で、書物の持つ意味は、書かれた物はいつか目に付き読まれて、そこから何らかの意味を持った働きが生まれる源になる、そんな所にあるのだ、と私は思っている。いつか読もう、読むだろう、そんな本に埋もれて喜んでいるのである。

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『みちしるべ』街を往く(其の五)**私の桜の花見 断片記**<2010.5. Vol.64>

2010年05月02日 | 街を往く

街をあるく(其の五) 私の桜の花見 断片記

さまざまの事をおもい出す桜かな 芭蕉

藤井新造

 今年も桜の花見の季節が終わり、これまでの私の記憶に残る「花見」をつれづれに綴ってみた。私が育ったのは、坂出市のはずれで北東にあたる小さな村(旧松山村)である。

 その村には4つのがあり、そのなかでも新しいであろうと想像される大藪(現大屋冨町)が生れた所である。

 このから東の方向へ徒歩で1時間も山道を経て登ると、青海町に88ヶ所巡りで有名な81番の札所・白峯寺がある。この寺から2~3分も歩くと崇徳上皇の御陵があるので、このの歴史は古いものがあろうか。

 それに比し、私が育ったは海と小高い山、五色台連山に挟まれ、田畑の少ない百姓の家が多かった。北の海岸線は、塩田が網の目のようにへばりつき座っていて、そこでこの土地は行きどまりになっていた。

 旧地名で<大藪>とあるのは、きっと籔林を切り開いて譲成された土地であろう。余分の話だが、開墾者の発起人の氏名に祖父の名も小さく刻まれている。

 この新しいにも神社があり、境内とそこまでの参拝道の両脇に桜の木が植っていて、花が咲く頃ちょっとした「花道」に見えた。

 但し、桜の花見に興いる村民はいなかった。戦中、戦後の何年間は花見をするような落着いた世相ではなく、ましてこの土地の人はよく働き「花見」など眼中になく、毎日の労働を最優先していた。そして国全体でも、誰しも働かねば食っていけないような貧困状態であった。

 戦後10年もすると少し社会が豊かになり、私が20才頃この神社に夜桜を見に行った。母方の伯父の誘いによるものであった。その夜は全体で花見をするのを決めていたように大勢の人が集って、酒を飲んで賑っていた。かなりの広さの境内があり、いくつかのグループが、酒のせいか会話がはずみ大きい声が飛びかっていた。なかには、レコードに合わせてダンスをしていた男女もいた。

 しかし、提灯など明かりのない薄暗い夜だったので、誰か知っている人がおるだろうと、彼らの容貌をたしかめようとしたが見きわめることもできなかった。

 多分、遠方からの花見客が大勢いたのであろう。何が理由であったか今だに想い出せないが、私の気持ちはそのような雰囲気の中に卆直に入れず、2人だけの茶碗酒の時間も間が持たず、早々に短時間でその場を引揚げたことがあった。田舎の村での花見は後にも先にも、この1回のみである。

嵐山での花見、あわや乱闘騒ぎに(?)

 それ以降は上阪してからの花見である。勤務した職場は人数も少なく、ここでの仲間との花見の経験はない。が、仕事上10年間零細小企業の労働組合活動にかかわっていたので、それらの組合より時に花見の誘いの声がかかりノコノコと出かけて行ったことがある。

 なかでも印象深く、今でも忘れられない花見があった。当時、旧国鉄の軌道上の枕木をコンクリートで作っていた職場からお声がかかった。参加者は50人前後である。場所は京都の嵐山の長州である。ここで車座になって花見をしていたが、突然周囲が騒がしくなったので、よく見ると若者がビール瓶を持って殴り合いがはじまっている。あとでわかったことであるが、どうも他の見知らぬグループと身体が触ったとか触らなかったとのことから、口論になり喧嘩がはじまったらしい。こちらの年配者が、間に入りビール瓶を取り上げようとするがなかなかおさまらない。そこへ突然中年の女性が立ちあがり、「あんたら花見に来たんやったらおとなしく酒を飲んで楽しめ、そうでないとさっさと帰れ!」と声を発し怒鳴った。すると屈強な若者どもは度肝を抜かれたごとく、途端におとなしくなり、ことはおさまった。

 私は、側にいて事態のなりゆきを心配し、心中ハラハラドキドキするばかりであったが、世の中たいした度胸の持主の女性がいるものと感心するばかりだった。

 次は鉄鋼の下請会社の組合員で在日の人、数人より誘われて、夙川公園の満池谷への花見である。孫請、下請労働者のなかでは何人か寄り集まって組として、元請会社に入って仕事をしていた。今でいう請負労働者である。

 尼崎では私の知るかぎり、出身地ごとに、沖縄の宮古島、鹿児島の奄美大島、徳之島出身の人、又は在日の人同志の仲間が寄り集まり、現場の1番きつい肉体労働についていた。

 そして、共通したことは彼らの年功序列型の身のこなし方は、身分関係にある種の秩序(年配者に敬語を使う、上下関係がきつい)があることを知った。

 それは別にして、在日のメンバーよりお声がかかり、初めて満池谷での花見の経験をした。周知のように満池谷が、野坂昭如の小説(「火垂の墓」)の舞台になっていることはよく知られているが、行ったことはなかった。

 ここの桜の花は、たしかにきらびやかさと華やかさを併せもち、人の噂にたがわぬものであった。華麗なる桜の花とはこのことと納得した。そして彼らの持参してくれた食べ物の御馳走にあづかった。

 私は、親しくなった現場労働者より自宅へ遊びにくるように言われ、時に出かけて行ったものである。そのせいか「花見」にも誘いの声をかけられたのであろう。

 今から45年前の頃の出来事である。

芦屋川での桜の花見も遠ざかる

 その後、夙川公園への花見は亡くなった義母を伴って1度行ったきりである。

 そして、2~3年後芦屋市に移住し、義母と一緒に芦屋川、岩園公園へ桜の季節に花を愛でるため何回か出かけている。

 それも義母の高齢が加速するにつれ、やがて近くの芦屋川での花見もできなくなった。

 昨年久し振りに、熟年者ユニオンの仲間の花見に明石城まで出かけて行ったが、生憎く雨の中、立見のコップ酒になったが、それでもちょっぴり楽しさをもらった。

 話も芦屋川の花祭りに戻すと、最近は芦屋市の商工会を中心に、地域の諸団体も出店をだし、色んなイベント、なかでも生バンドの演奏もあり賑やかな催しとなっているらしい。

 この「宴」に私は1度だけ、見物がてらにのぞいてみたが、何処かしら私にはそぐわない雰囲気があり、私の気持ちに野球場の外野席にいるような疎外感をもたらした。

 それで残念ながら「見学」もあきらめ今日まできている。

咲きあふれ こぼるるときに容赦なく
                    花はおのれを崩し終わりぬ  斉藤 史

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『みちしるべ』**IT時代と「みちしるべ」**<2010.5. Vol.64>

2010年05月01日 | 藤井隆幸

IT時代と「みちしるべ」

世話人 藤井隆幸

 はじめに(技術の進歩について)

 世はIT時代となってきました。これからの社会が、何処へ向かって行くのか、予測のつかない時代になりました。人類の進歩は、これまでもあったことだし、これからも常に続くものです。しかし、その機器の進歩のスピードが、加速度化しているというのが実感です。

 銀行預金などが急速なオンライン化しだしたのは、80年代のことでしかありません。現在は電子マネーが飛交う時代で、貨幣というものの形態が変わりつつあります。阪神淡路大震災の時には、携帯電話など持っている人は珍しかったのですが、昨今、持っていない人のほうが希少となっています。僅か15年の歳月が、生活パターンを激変させる機器を圧倒的に普及させてしまいました。

 200年前の産業革命は、蒸気機関の発明によってもたらされました。その急速な発達は、2億年かけて地中で炭化した植物の化石燃料を、一気に燃焼させてしまい、二酸化炭素の大気濃度を上昇させるまでに至っています。そのことが地球温暖化という負の遺産を生み、人類に生存を脅かす課題を突きつけています。

 20世紀の最大の発明は自動車だという人もいます。これについては、進歩の反作用としての道路公害に対して、私たちは常に問題提起してきたところです。航空機もライト兄弟の成功から、本格的な発達をさせたのは第1と第2次世界大戦でした。今は一般化しているジェット機やヘリコプターも、戦後の普及ということになります。ヒットラーの飛ばしたロケットは、今や宇宙へ人を運ぶことに成功し、遥かな宇宙の探査に向うこととなっています。

 さて、ITも20世紀の発明によるものですが、コンピューターとその機能であるインターネットは、爆発的な発展をしています。200年前の産業革命になぞらえて、『IT革命』と呼ぶ向きもあります。70年代に大手銀行にあったコンピーターは、空調を整えた特別室に巨体をすえていました。その機能は今日、何処の家庭にでもあるコンピーターに機能を超えられてしまっています。

 今も急速な進歩を加速度化させているコンピューターですが、インターネット技術と伴に、行く末は予測もつきません。今や、紙媒体から電子媒体に、情報伝達が移行しています。事務所のOA化(オフィス・オートメーション)が進めば、紙の使用量は減るといわれていました。が、現実には圧倒的に増えているのです。世界の木材の輸出量の6割は、日本が輸入しているのが現実です。その多くは紙の材料となり、地球温暖化を加速させる森林伐採の原因でもあります。

 では、OA化は紙の使用を加速させましたが、何が原因であったかは、正確に見ておく必要があります。紙媒体を電子媒体に置き換えられなかったという側面よりも、情報伝達量の圧倒的巨大化を、OA化が体現してしまったと見るべきでしょう。そのことは、如何に電子媒体の情報量が巨大化しているかという査証でもあります。

 今後、紙媒体から電子媒体への移行が進むことは現実でしょう。その流れのなかで「みちしるべ」は紙媒体であるのですが、如何なる影響を受けるのでしょうか。

電子情報のシンポの流れ

 澤山画伯の指摘に拠れば、「日本における総ての著作物は、その内の3冊を国会図書館に寄贈すること。」になっているそうです。発禁本はともかくも、エロ本までが対象となっているそうですから、日々大量の本が国会図書館に送られてくるのです。そのため、国会図書館には地下10数メートルの地下書庫があるそうです。

 それでも収納できなくなる本のために、70年代頃からマイクロフィルムに収めるようになったようです。それでも膨大なフィルムの管理は大変です。奈良の地中に埋もれている木簡(薄板に墨で記した記述文書)は、1000年の風雪に耐えています。が、マイクロフィルムはそれほどの保存能力はありません。そのために今日では、電子記録に置き換えられつつあるようです。

 パソコンを使わない人には理解できないのでしょうが、写真として保存するのが簡単です。が、記憶容量を多く使用します。そのため、文字情報として記録することが望まれます。文字を写真として保存する場合と、文字認識して保存する場合では、10,000倍も記憶容量の差があります。また、写真であると、その文章を利用する場合は、キーボードで再度打ち込む必要があります。文字認識がされていれば、コピーして張り付けるだけで利用できるので便利なのです。

 紙に書かれた文字を、電子情報に置き換える技術も進んでいて、私も簡単なソフトではありますが、利用しています。「みちしるべ」の原稿を活字で頂いた場合は、「読んでココ」というソフトを使って、大雑把に電子文字化してしまいます。ただし、点検をしなければ、読み取り間違いもあるのです。手書き原稿をキーボードで打ち込むよりは、活字文字を読み込むほうが圧倒的に楽ではあります。とはいうものの、原稿不足が決定的な状況のなかでは、手書き原稿も大歓迎というのは実際の気持ちです。

 このように文字情報を電子化しておくと、保存の収納スペースが省けます。また、電子情報も機器に保存しておくと、機器が壊れた時に困ってしまいます。CDやDVDに記録しておくのがベターですが、それとて奈良の地中の木簡のように、超長期の保存には限界があります。しかし、CDやDVDの劣化の前に、新しいものにコピーするのは簡単にできてしまいます。コンビニのコピーのような膨大な手間は、全く掛かりません。これは電子情報の保存のメリットの第一です。

 次の電子化のメリットは、伝達に便利だということです。「みちしるべ」の原稿を頂くのに、電子メール(電子郵便)は便利です。頂いた文字情報を編集原稿に貼り付けるだけで済むのです。手書き原稿はキーボードで打たなければなりません。FAX原稿もスキャナー(読取装置)にかけ、電子文字に置き換えなければなりません。

 “熊野の山姥さん”こと三橋雅子さんは、熊野大社から車で20分もの山奥ですが、自宅から我が家まで、電子メールで原稿を送ってくださいます。この便利さは、お隣さんのようなものです。

 こうしてできた「みちしるべ」は、現在、完全な電子データで保存しています。砂場さんが当初、編集されていた頃は、富士通オアシスというワープロでした。我々の大先輩の世代の割には、工業技術試験所に勤めていた理科系の人物でした。それでもワープロは、メーカーによって情報が共有されているわけではありません。それにワープロでは、写真などのデータを加工・保存できません。したがって、砂場さんの編集していた第5号までは印刷した紙情報での保存です。文書だけは砂場さんのフロッピー・ディスクに保存があるでしょうが。

 ついで編集長を勤められた澤山画伯は、一応、パソコンでの編集ですが、ページごとの編集で、一体化されているわけではありません。写真やイラスト、それにページ番号などは切り貼りの原稿でした。画伯の性格によるものですが、「みちしるべ」が完成した後のデータ保存は、原則としてありません。

 第56号、これは砂場さんの追悼特集となりましたが、画伯の奥さんの怪我がきっかけで、私が編集を臨時で交代しています。あくまでも臨時ということを、全体で認識を共有しておきたいところです。が、さりとて人材不足にはなす術もなく………。

 この号より、1号ごとにファイル(紙のファイルのように情報をまとめたモノ)にしています。「みちしるべ」は500部と少し印刷していますが、若干の配布残りが生じています。必要な方にはバックナンバーをお届けすることもできますが、電子データでのお渡しも可能です。

 現在、「みちしるべ」は完全に電子データ化されている訳ですから、インターネット上に登場することも可能となっています。紙に印刷するのではなく、パソコンで見る時代も遠くないのかもしれません。

「みちしるべ」のインターネット化のハテ?

 「みちしるべ」が完全電子データ化されたとはいえ、即インターネットというと、そこには問題点も多数存在します。とは言うものの、インターネットで見る人の紙印刷をしないで済む。また、フルカラーが可能なので、写真などは非常に鮮明できれいになります。写真の転用も容易になります。

 しかし、インターネットに接続していない人は、かなり遠い将来にも残ることは確実です。そのための印刷体制と、配布ルートを維持していなければ、衰退と廃刊の影が迫ってくるのは現実の問題です。いかに両立の道を探るかということは、これからの運動を如何に見定めるかの観点ということでしょう。

 また、阪神間道路問題ネットワーク以外の人にも見てもらえるというメリットと、見られては不都合という情報もあります。原則的に「みちしるべ」は具体的個人情報を明かさないようにしています。当局と対峙している際の情報は、取捨選択しています。好ましくない人にも伝わってしまうからです。インターネットは、さらに注意が必要です。世界の誰でも見られるところへ出すには、それなりの校正過程が必要になり、編集会議というものが必要になるでしょう。

 もっとも大きな課題は、誰が仕事をするかということです。今時、ホームページやブログを立ち上げるのに、無料のサイト契約は一般的で、その意味ではお金がかかるわけではありません。ただし、電子データ化されているものでも、一定の加工をしなければホームページやブログに載せることはできません。このことが一番のネックになることは間違いありません。

 それから、インターネット上にアップする言うことは、“言論の攻撃”を受ける可能性が増します。その反論ができないということは、問題にもなるでしょう。それに、当ネットワークを意図的に攻撃する、組織的攻撃を受けた場合。何かのきっかけで、膨大な掲示板サイトで話題になってしまったときは、圧倒的物量で押さえ込まれてしまいます。めったにないことですが、インターネットでは“炎上”という表現をします。

「みちしるべ」IT化の現実

 巻頭に色々と書きました。今は殆どいない若い世代が、当ネットワークに参入してきた場合のお話をしました。「10年一昔」といいますが、時代の変化のスピードは確実に加速しています。頭の隅に、既に置いておく必要性のあることでもあります。

 まっ、しかし。原稿を集めるのに四苦八苦している編集者の言うことではないだろう!まさしく、その通りです。足元の課題から、何とかしなくては………。

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