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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』街を往く(其の五)**私の桜の花見 断片記**<2010.5. Vol.64>

2010年05月02日 | 街を往く

街をあるく(其の五) 私の桜の花見 断片記

さまざまの事をおもい出す桜かな 芭蕉

藤井新造

 今年も桜の花見の季節が終わり、これまでの私の記憶に残る「花見」をつれづれに綴ってみた。私が育ったのは、坂出市のはずれで北東にあたる小さな村(旧松山村)である。

 その村には4つのがあり、そのなかでも新しいであろうと想像される大藪(現大屋冨町)が生れた所である。

 このから東の方向へ徒歩で1時間も山道を経て登ると、青海町に88ヶ所巡りで有名な81番の札所・白峯寺がある。この寺から2~3分も歩くと崇徳上皇の御陵があるので、このの歴史は古いものがあろうか。

 それに比し、私が育ったは海と小高い山、五色台連山に挟まれ、田畑の少ない百姓の家が多かった。北の海岸線は、塩田が網の目のようにへばりつき座っていて、そこでこの土地は行きどまりになっていた。

 旧地名で<大藪>とあるのは、きっと籔林を切り開いて譲成された土地であろう。余分の話だが、開墾者の発起人の氏名に祖父の名も小さく刻まれている。

 この新しいにも神社があり、境内とそこまでの参拝道の両脇に桜の木が植っていて、花が咲く頃ちょっとした「花道」に見えた。

 但し、桜の花見に興いる村民はいなかった。戦中、戦後の何年間は花見をするような落着いた世相ではなく、ましてこの土地の人はよく働き「花見」など眼中になく、毎日の労働を最優先していた。そして国全体でも、誰しも働かねば食っていけないような貧困状態であった。

 戦後10年もすると少し社会が豊かになり、私が20才頃この神社に夜桜を見に行った。母方の伯父の誘いによるものであった。その夜は全体で花見をするのを決めていたように大勢の人が集って、酒を飲んで賑っていた。かなりの広さの境内があり、いくつかのグループが、酒のせいか会話がはずみ大きい声が飛びかっていた。なかには、レコードに合わせてダンスをしていた男女もいた。

 しかし、提灯など明かりのない薄暗い夜だったので、誰か知っている人がおるだろうと、彼らの容貌をたしかめようとしたが見きわめることもできなかった。

 多分、遠方からの花見客が大勢いたのであろう。何が理由であったか今だに想い出せないが、私の気持ちはそのような雰囲気の中に卆直に入れず、2人だけの茶碗酒の時間も間が持たず、早々に短時間でその場を引揚げたことがあった。田舎の村での花見は後にも先にも、この1回のみである。

嵐山での花見、あわや乱闘騒ぎに(?)

 それ以降は上阪してからの花見である。勤務した職場は人数も少なく、ここでの仲間との花見の経験はない。が、仕事上10年間零細小企業の労働組合活動にかかわっていたので、それらの組合より時に花見の誘いの声がかかりノコノコと出かけて行ったことがある。

 なかでも印象深く、今でも忘れられない花見があった。当時、旧国鉄の軌道上の枕木をコンクリートで作っていた職場からお声がかかった。参加者は50人前後である。場所は京都の嵐山の長州である。ここで車座になって花見をしていたが、突然周囲が騒がしくなったので、よく見ると若者がビール瓶を持って殴り合いがはじまっている。あとでわかったことであるが、どうも他の見知らぬグループと身体が触ったとか触らなかったとのことから、口論になり喧嘩がはじまったらしい。こちらの年配者が、間に入りビール瓶を取り上げようとするがなかなかおさまらない。そこへ突然中年の女性が立ちあがり、「あんたら花見に来たんやったらおとなしく酒を飲んで楽しめ、そうでないとさっさと帰れ!」と声を発し怒鳴った。すると屈強な若者どもは度肝を抜かれたごとく、途端におとなしくなり、ことはおさまった。

 私は、側にいて事態のなりゆきを心配し、心中ハラハラドキドキするばかりであったが、世の中たいした度胸の持主の女性がいるものと感心するばかりだった。

 次は鉄鋼の下請会社の組合員で在日の人、数人より誘われて、夙川公園の満池谷への花見である。孫請、下請労働者のなかでは何人か寄り集まって組として、元請会社に入って仕事をしていた。今でいう請負労働者である。

 尼崎では私の知るかぎり、出身地ごとに、沖縄の宮古島、鹿児島の奄美大島、徳之島出身の人、又は在日の人同志の仲間が寄り集まり、現場の1番きつい肉体労働についていた。

 そして、共通したことは彼らの年功序列型の身のこなし方は、身分関係にある種の秩序(年配者に敬語を使う、上下関係がきつい)があることを知った。

 それは別にして、在日のメンバーよりお声がかかり、初めて満池谷での花見の経験をした。周知のように満池谷が、野坂昭如の小説(「火垂の墓」)の舞台になっていることはよく知られているが、行ったことはなかった。

 ここの桜の花は、たしかにきらびやかさと華やかさを併せもち、人の噂にたがわぬものであった。華麗なる桜の花とはこのことと納得した。そして彼らの持参してくれた食べ物の御馳走にあづかった。

 私は、親しくなった現場労働者より自宅へ遊びにくるように言われ、時に出かけて行ったものである。そのせいか「花見」にも誘いの声をかけられたのであろう。

 今から45年前の頃の出来事である。

芦屋川での桜の花見も遠ざかる

 その後、夙川公園への花見は亡くなった義母を伴って1度行ったきりである。

 そして、2~3年後芦屋市に移住し、義母と一緒に芦屋川、岩園公園へ桜の季節に花を愛でるため何回か出かけている。

 それも義母の高齢が加速するにつれ、やがて近くの芦屋川での花見もできなくなった。

 昨年久し振りに、熟年者ユニオンの仲間の花見に明石城まで出かけて行ったが、生憎く雨の中、立見のコップ酒になったが、それでもちょっぴり楽しさをもらった。

 話も芦屋川の花祭りに戻すと、最近は芦屋市の商工会を中心に、地域の諸団体も出店をだし、色んなイベント、なかでも生バンドの演奏もあり賑やかな催しとなっているらしい。

 この「宴」に私は1度だけ、見物がてらにのぞいてみたが、何処かしら私にはそぐわない雰囲気があり、私の気持ちに野球場の外野席にいるような疎外感をもたらした。

 それで残念ながら「見学」もあきらめ今日まできている。

咲きあふれ こぼるるときに容赦なく
                    花はおのれを崩し終わりぬ  斉藤 史

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