『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

2018年4月例会のご案内

2018年04月16日 | 月例会案内

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阪神間道路問題ネットワーク
4月例会のご案内
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2018年4月21日(土)13:30集合
集合場所=阪神芦屋駅東改札
阪神高速5号湾岸線側道の歩道(南芦屋浜~深江浜)を歩きます
雨天決行、荒天の場合は駅周辺のお店で打ち合わせをします。

5月例会のご案内
 5月19日(土)13:30~15:30
 勤労青少年ホーム(ぷらっとアイ)会議室B(3F)

三寒四温、体調管理が難しいですが、ご自愛ください▼今月は11月に引き続き、フィールドワークの例会です。阪神芦屋駅からタクシーに乗り合わせて、南芦屋浜まで行きます。そこから湾岸線側道(歩道)を歩き、深江浜まで行きます。湾岸線の下が航路になっているようで、非常に高いところを歩きます。行程は1km程度です▼こんな歩道を通る人がいるのかと疑ったのですが、日常の生活に使っている人もいるようです。そんな人以外には、結構、不思議な道であることは確かです▼深江浜に到達しても、あまりお店がないのですが、どこかで休憩します。阪神深江駅までは1.3kmです。歩くのかタクシーを呼ぶのかは、現地で決めたいと思います▼『みちしるべ』99号は10日に印刷したのですが、やたらとバタバタしていて発送が遅れています。もうしばらくお待ちください。いよいよ記念すべき100号を、5月号として出版します。4月中に原稿を頂ければ幸いです。関係された皆さん(勇退された方も含め)全員に、何がしかを書いて頂ければ幸いです。既にお亡くなりになった方も多いです。そんな方の意を酌んで、追悼文なども…▼6月頃には、記念レセプションも行うことが決まっています。あまり派手には出来ないのですが、みなさんが集まりやすい計画を、ご提案頂ければ幸いです▼シリアへの米英仏の戦争行為も気になる所です。(F)

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『みちしるべ』**横断車道 ―89―**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月11日 | 横断車道

横断車道 ―89―

老年期を迎え、何と多くの無駄飯を食らってきたか、反省する昨今。幼少の子たちを見ていると、可愛くって仕方がない。この子たちは日本の宝物、いや世界の宝だ▼訳あって、他人の婆さんの介護の手伝いをしている。一人っ子と同居であるが、成人はしているものの、アスペルガー症候群ではないかと、介護関係者からは見られている。婆さんは、長期にわたり風呂にも入らず、着替えもせず、お漏らしを続け、ゴミ屋敷状態であった。何とか介護制度にこぎつけたものの、独居でない事が支障になって、進捗は遅々としている。行き掛かり上、大小便で汚れた衣服の洗濯から、居室・台所の清掃、更には見守りと話し相手の役割もしている▼また、ある生活保護受給者の支援も。保護費需給日の直後から、経済的ショートを起こしだした。何年もの付き合いになったが、段々と悪い方向。「貧困ビジネス」のカモにされている可能性を疑うが、本当のことを言わず、嘘か方便か悩ましい。受給者を通して「詐欺ビジネス」の被害者にはなれない。最近は最低限の食の補助だけにしている▼周辺からは、そんな支援は止めておけとの意見が強い。が、放っておく訳にもゆかず、長く続けているので、「よく頑張るね」と励まし(?)のお言葉を頂くようになった。障がい者支援となると、褒められるのであろうが、このような場合、世間の目は冷たい▼考えてみるに、お金を儲けるのが勝ち組で偉く、そうでないものは敗者というのが世間相場。しかし、それってオカシイのではないかと考る。目先の利益追求に突進するあまり、社会矛盾が激しくなっている現実。認知症もアスペルガー症候群も、生活保護に陥っているのも、広い意味では障がい者なのだが。昨今は障がい者を隠すことがなくなってきたというが、この意味での障がい者は今なお隠され続けている▼その人の肩書で、人物の優劣を言う場合が多いが、それは障がいを持った人への差別ではないのか?例えば、日本国首相は偉いのか?若輩者なのであるから言わせてもらうが、三世のボンボンで地位を保証されただけ。学力があるわけでもなく、やっていることはアメリカの指令を忠実に守っているだけなのだから。でも、だからと言って「暴走族」扱いをしている反対勢力にも疑問がある。なぜ傀儡だと言えないのか?彼も精一杯やっているだけの事なのだから。悪い所を大胆に指摘してあげなければ、彼が悪の張本人という事になる▼戦後の世界を蹂躙してきたアメリカの支配層も、行き詰まりが激しくなって、危機感をあらわにしている。内部衝突も生じている。して、奴らが何をしでかすかは、非常に危険になっている。その被害者は、眼に入れても痛くない孫たちであろう▼吾輩は今まで、何をしてきたというのであろうか!大器晩成もせず、穴に入っても尻まで入れないでいる不様さ (コラムX)

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『みちしるべ』**次号「みちしるべ」が100号を迎えるにあたって**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月11日 | 単独記事

次号『みちしるべ』が100号を迎えるにあたって

 「馬鹿は風邪を引かない」というが、何十年も風邪を引かなかった編集長代理ではある。如何した事か2月に入って、インフルエンザに感染。80代になって「五十肩」と診断され、若くなったと喜んでいた亡き父の遺伝子を受け継いだか?

 何やかやと、安請負の仕事が出来ず、生業の仕事も含め、断りや代理手配の電話で、余りゆっくりとした記憶がない。早目の受診と投薬のおかげか?それほどの熱も出たようになく、馬鹿の域を出きらずにあるのか?体力に自信を持ったところ、高齢者は免疫力の低下で、高熱が出ないことがあるとのこと。

 ともかく、発症の峠は越えたようではあるが、正常値を取り戻しても、2日はウイルスを放出するので、自宅軟禁が必要との医師の忠告。買い込んだ食料も底を尽きだし、メニューに様々な工夫をしている。

 この間、日頃出来なかった作業も随分と進展した。『みちしるべ』99号の作業も、頂いている原稿は総て編集を終えた。とはいえ、原稿不足で完成には程遠いのが現実。何本かの原稿予約は頂いているが、首がキリンさんのように伸びきっている。

 さて、肝心のお伝えしたいこと。この分で行くと、記念すべき100号は5月号となりそう。一部カラー印刷でというご意見もあります。出版に際しては、記念行事をとの提案もあります。さりながら、100号本体の完成が無ければ、意味のないお話。是非、これまでに係ってこられた総ての方々に、短くとも何らかのことを書いて頂きたい。

 創刊からのバックナンバーをお持ちの方も少なくなったと思います。ブログ版『みちしるべ』にアクセスすればわかるのですが、1999年9月号が創刊号です。当ネットワークの初代代表の砂場徹氏が「創刊にあたって」を書かれています。その砂場氏は2009年1月7日に84歳の人生の幕を下ろされました。『みちしるべ』2009年2月号(56号)が、氏の追悼号になったことは、記憶されている方も多いかと存じます。

 18年余の『みちしるべ』の歴史の中で、様々なことがありました。誌上に書かれていないことも多いです。この際、一言でも、書きそびれていることを、綴って頂けないでしょうか。みなさんの原稿をお待ち申し上げております。

編集子

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『みちしるべ』**難聴から難癖へ**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月11日 | 澤山輝彦

澤山輝彦

 暦の数字の並びにこじつけて「何々の日」とするのが日本人の好みだ。三月三日を耳の日、八月七日が鼻の日となるのである。

 寄る年波には勝てないと言う。どんな波がどこにおしよせるのか、ひねもすのたりのたりと寄せる春の海の波は目で見ることが出来るし、まだ泳ぐにはやすぎるので、これはどうでもいい波だ。目には見えないが押し寄せる波、音波、言葉の波、こいつが押し寄せては私を負かす勝てない波なのだ。人声である音波をきっちり受け止め正しく神経系統に伝達させる機能が、寄る年波に洗われ海辺の貝殻のように磨り減り衰えてきている。加齢に伴う難聴なのだ。

 飼い犬の太郎がまだ元気で私も今より十数年も若かった頃、太郎と散歩に出た時(特に夜)、テレビの音が大きく外まで聞こえてくるお宅があちこちにあった。あ、ここはドラマ「水戸黄門」だ、耳の遠いご老人が観ておいでなのだなぁ。ここはニュースの時間か、するともう9時、帰らねば、なんて考えながら歩いたものだったが。先日、自宅の雨戸を点検に出た時、テレビの音量の大きさに気付き、俺もとうとうあの頃の人の仲間になったかと、つくづく思い知ったのであった。もちろん、それまでも人の話やテレビの音が聴き取りにくいという自覚症状はあったし、家内からは「一度耳鼻科へ行ってちゃんと診てもらわないと」と言われ続けていた。まあ日常生活には別に不自由を感じることはないし、うまく難聴のせいにして好都合だったりすることもあったりして、それ相応の付き合いをして来たのであった。でも、意見を述べねばならない会議や座談の折には一寸困る。頓珍漢を言うわけにはいかないし、あまり何度も聞き返すというのもなんだから、ここは不便というより困るところだ。いつか、もうこういう場を乗りこせなくなる時がくるのだろう。その時は補聴器の世話にならねばならないのだ。

 耳と言えば、画家のゴッホが耳を切った事件は有名だ。耳を切った後、本人は耳に包帯を巻き、パイプをくゆらしている自画像を画いている。包帯を巻いた自画像は鏡を見て画いたから右耳に包帯があててあるが、切ったのは左耳なのだ。耳を切った理由は様々言われているが、錯乱状態だったゴッホは何も覚えていなかったそうだから、諸説すべて類推なのだ。その中で、以前に画いた自画像の耳の書き方がまずいと批判されて、頭にきたというのを私はとりたい。

 ゴッホはとにかく、私は会話などで聴き取りにくい時は、耳介に手をあててしのいでいるが、あまり格好のいいものではない。先にも書いたが、日常生活には別段困ることはなく、車のエンジン音・走行音とかは十分聞き取れるので、それによる事故の心配はないと自分では思っている。しかし、最近よく見るハイブリッド車が、電気モーター走行している時の静かさ、あれの接近には驚かされる。これは聴力の優劣の問題を超えた危険性を含んでいる。

 ハイブリッド車ではない純粋電気自動車の開発も進んでいるようだが、私が小学生の頃にも電気自動車はあったのだ。小型のたしかタマという名だったと思う。前車軸と後車軸の間に積んだ黒い大きなバッテリーが動力源だった。そんな当時、大阪市内は市電が全盛であった。架線からポールで電気を取っていたが、時々ポールがはずれ、スパークと共に架線が切れる、そんな光景を我家の前で度々見たことがある。架線が切れたら修理車がやってくる。それはトラックで後部に昇降式の高所作業用の台を具えていた。そんな車の中に電気自動車があったような気がするのだが、思い違いかもしれない。

 子供の頃、自動車が大好きで中学生になった時には、運送会社の社宅に住んでいた先輩と自称自動車部を名乗り、新車の発表会を見に行ったり、カタログを集めたりして自動車のあれこれを研究したものだ。当時まだ日本車には搭載されていなかったトルクコンバーター自動変速機についても、そのしくみなど十分理解していたのだった。大人になって自動車を持てるようになった頃、私にとって自動車は公害に加担する道具にすぎない所に停まってしまい、個人として所有するのは罪であるとまで考えるようになり、車を持つことに興味はなくなった。ただしスタイリング、デザインとして自動車の形状には未だ興味をもっている。最近の乗用車のヘッドライト回りの目がつりあがったような、鮫の目を連想させるあの部分は大いに気にいらない。狡猾でずるそうな顔つきをしている。大きな口を開いたようなラジエーター周りもきらいだ。あの目のまわりとこの口、まるで人食鮫ジョーズではないか。

 難聴の話から自動車のデザインに難ぐせをつけて終わり、埋め草の役目を果たしたつもりである。

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『みちしるべ』**キューバ道路、自動車事情 他**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月11日 | 川西自然教室

キューバ道路、自動車事情

川西自然教室 田中 廉

 2016年7月に友人とメキシコ・キューバを旅行した。旅行会社の添乗員付きのパック旅行で、面倒な手続きのいらない気楽な旅であった。今回の旅行の動機は、米国の経済封鎖といういじめに負けず、貧しいながら、必死に、けなげに何とか頑張っている頑固者の国、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対腐敗する」という格言が当てはまらない希少な国を、カストロの生きているうちに見たかったからである。

 米国の経済封鎖は50年以上にもわたる異常で非常識なもので、国連による「米国のキューバ経済封鎖の解除を求める決議」が1992年以来25年以上、連続で圧倒的多数の賛成で採択され、日本政府も1997年より賛成に回っている。アメリカに従順な日本政府がアメリカの意に反することをするほどだから、それだけでいかに不正義なものかわかるだろう。そして、やっとオバマ大統領がその間違いを認め国交を回復したが、トランプ大統領の気まぐれ政治により又、元の木阿弥に戻りつつある。

 キューバと言えば、車好きにはクラシックカーの天国と言われているらしい。(私は車に関心がないので旅行して初めて知った)1950年代のアメ車が、まだ現役で走っているのだ。何故50年以上も前の車が現役かと言えば、これは米国の経済封鎖のためである。中南米はアメリカの裏庭と言われ、反米政権ができるとすぐに潰してきたが、唯一潰せなかったのがキューバで、目の上のたんこぶのような国なのだ。1959年の革命後、米国資本の国有化(当時の農地の70%以上が米国資本の所有)等により米国と断交し社会主義陣営に入った。ソ連からは石油、キューバからは砂糖というバーター取引で、貧しいなりにも国を運営してきたが、1991年のソ連崩壊によるソ連からの援助停止で、経済的にも非常に苦しい状態。昔も今も車の輸入が非常に困難で、その為いまだにクラシックカ-が現役なのだ。

 色々なハプニングもあり、面白い旅であったが、思い出しながら書きます。

クラシックカー ハバナでの印象では半分ほどがクラシックカー(アメ車)で残りは、エアコンの無い普通車(たぶん多くが旧ソ連製か?)とエアコンの装備された「新車」の印象だった。風を室内に入れる為の三角窓が付いた車も多く懐かしい感じがした。地方に行くと70~80%がクラシックカ-で、一部馬車も利用していた。新車では韓国の車がよく目についた。(中国車も普及しているようだが、私にはわからなかった)日本車はトヨタが2台で、1台は古いもう動かないのではないかと思われるような状態で、もう1台は比較的新しい車、それと日野自動車のトラック1台を「発見」した。帰国後ネットで車好きの人の旅行記を読むとクラシックカーは30%、旧ソ連車(ラ-ダ)20%、普通車50%とのことであった。ココタクシーという原付に後部座席をくっつけたココナツのように丸い車がタクシーとして観光客に人気で、乗ってみたがかなりのスピードで走りスリル満点であった。クラシックカーにも乗車したが、オープンカーで気分は良いが座席は固かった。島内の移動はバスだったが、道路は特に凸凹で傷みがひどいということはなかった。時折、路上で故障車を見かけることがあったが、一日に1~2件程度で車検制度がなく(たぶん)ポンコツに近い車が多い割には少ない気がした。中古車でも車はぜいたく品なので大事に使っているせいかもしれない。アメ車が50年以上もつのはボディーが分厚く長持ちするからとか。観光用の整備されたクラシックカーだけの話かもしれないが、添乗員の話ではエンジンはソ連製他に入れ替わっているらしい。

対日感情 キューバの著明な文学者の表現では「現代の日本に対して我々が抱いているイメージは、おおかた教訓的なものである。すなわち、日本は米帝国主義の犠牲者であり、原子爆弾を2回も投下されたうえに、第二次大戦後に米国に占領され、それにもかかわらず国を再建することができたというイメージだ」とのことで、日本に対し強い親近感を抱いている。革命後ゲバラが日本を訪問した際、広島に行き原爆の惨状にショックを受け、それ以降キューバでは広島、長崎の原爆被害が学校で教えられるようになった。日本のテレビ局が2010年頃キュ-バを訪問し、一番有名な日本人はだれかと聞いたところ、圧倒的に「勝 新太郎」と答えたそうである。これは、キュ-バでは60~70年代「座頭市」が大人気で16作上映され、ハリウッド映画(国交断絶後はアメリカ映画は入ってこない)の穴を埋めたそうである。

カストロとゲバラ キューバと言えばこの二人を抜いて語ることはできない。ゲバラは人民ペソの紙幣に描かれ、記念の博物館、立像もあり、土産物屋でも帽子、バッグ他、ゲバラグッズがたくさん売られている。一方、カストロは奉られるのを嫌うようで、土産物屋の栞、マグネット、ハガキなどの庶民的というか、安いもの以外は一切ない。長期に権力の座にありながら、個人崇拝を排するところがなかなか素敵である。

観光客 外国人観光客は年間300万人(2014年)で人口が1100万人。人口当たりにすると日本(2017年で約2800万人)よりやや多く、観光は大きな外貨獲得手段になっている。国別ではカナダが118万人、次がイギリスの14万人で圧倒的にカナダが多い。カナダへの親近感は強いようで、住居の扉にカナダ国旗が書かれている庶民の家が数件あった。日本からキュ-バに行くルートは、メキシコとカナダ経由が主流である。米国人もかなり来ているようで、メキシコ経由で入国し、入管ではパスポートに判を押す代わりに出入国のカードをもらい処理しているとか。通貨はペソだが外国人用には兌換ペソが、国民には人民ペソが使われ2重価格になっている。

農業 キューバと言えば砂糖だが、サトウキビ畑は思ったほど多くない印象だった。放牧されている土地が多く、また、未耕作地もかなりあった。一部潅水チューブを配置した、よく整備された圃場もあったが少数である。日本も金のかからない(キューバは非常に外貨不足)、農業、水産の技術指導などの援助が出来ればいいと思う。(過去に水産指導は行い感謝されている)

最後にお奨めの土産物 まずラム酒。カクテルに使うのは3年物だが、7年物はストレートで飲むとコクがありうまい。次がコーヒー。ブルーマウンテン産地のジャマイカとおなじカリブ海の島で味も似ているとか。上品な香りでアクは強くない。値段はやや高めである。

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『みちしるべ』**お正月初歩き 県道川西インター線(斑猫独語 74)**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月10日 | 斑猫独語

お正月初歩き 県道川西インター線(斑猫独語 74)

澤山輝彦

 川西市北部に第二名神(後、新名神と名を変える)が通る、それもインターチェンジ付きで、ということが私達に知れ渡ると、私が所属していた川西自然教室にとってこれは自然環境破壊以外の何物でもないと建設反対側にまわることになった。丁度、阪神間道路問題ネットワーク設立の呼びかけもあり、それにも参加することになった。そして道路問題を抱えている各地と意見交換し、共闘することを今日まで続けている。

 私達の反対運動も初期には熱いものもあったが、徐々に冷めて行き、現在の一部開通を迎えてしまったのだ。川西自然教室構成員にはそれぞれの立場、思惑にそって反対運動にとりくんできた、という自負はあっただろう。だがなんと言っても該当する道路用地の地権者の反対、それも強力なものがないかぎり、所詮我々はよそ者であり、その運動には限界がある、ということを私は実感した。

 よそ者の運動については、どこで、誰が何に対して誰と、ということを深く見定める必要があることは言うまでもない。まあ、そんなこんなの間に、川西インターチェンジは部分開通するは、インターチェンジへの侵入路である県道川西インター線も開通してしまう。新名神受入派にはめでたし目出度たしとなったのである。

 お正月は目出度いのである。朝から酒がのめるのである。肴の種類も多く、最後は雑煮でしめるのである。今年(2018)のお正月も私は目出度く過ごしたので、昼前には酒と餅の腹ごなしをすべく、昨年10月に開通した上記新道、県道川西インター線を歩いてみようという気をおこし、実行したのである。

 国道173号線東畦野交差点から西に向かってこの道は開かれた。173号線からインターチェンジ方面には地面は下りになるが、そこを新道は高架で入って行く。この部分、新道が出来る前の様子はまだ一部分残っているから、どんな所であったか見ることが出来るが、173号線から見下ろせば竹薮と湿地のような土地で踏み込めるような所ではなかった。道路は高架状でそこを西へ進むが、やはり池があった。気をつけて見るとそこは源田池橋と言う橋になっている。この橋から少し進んだところも、これまで踏み込むことの出来なかった小さな丘陵地帯を切り開いて道を通している所だから、代わり映えのしない風景ではあるが、新鮮なのであった。

 やがて左側に新名神が防音壁に覆われて現れ、右側には旧来の畑地や家並みが見えると、この道は地平に下り、元からの農道と交差する。ここには信号までついている。新道はここからまだ先へつづくのだが、酔いも醒め寒くなってきた私はここで新道から降りて、少し先になる一庫大路次川にかかる文殊橋へ行こうと、元からあるよく利用した道をとった。

 文殊橋のそばの河川敷で我々は月見の宴を開いたことがあるし、何度か自然観察もした。いま月見の宴が出来る河川敷はなくなったようだ。流れも一部分変えられている。頭上には高架道路、川の中に立つ高架道を支える橋脚。このあたりの景観は変わってしまった。

 これまでこのあたりへ東畦野交差点方面から来るのに使った道は、小型自動車のすれ違いがやや面倒である位の幅しかない道で、それでも車の量は結構多く、気をつけて歩かねばならなかった道だった。今日の腹ごなし新道散歩の帰路にはこの道を歩いたが、新道のおかげであろうか車が少ないのだ。車を心配する必要なくあたりをきょろきょろしながら歩くことが出来た。新道結構結構である。まてよ、お正月であることを忘れているようだ、週日の様子も見て判断しなくては。

 新道の高架部分からの眺めは視点が数メートル高くなるだけで、これまで見てきた家並みと背景の山々など、また一味ちがって見えるのも、これも私には面白かった。結構であった。こんな風に結構結構なんて言うのは私個人の興味からであり、決して自然環境を破壊してきた新道や高速道路の評価を高めるものではない。新名神全線開通後あたりには、また別の問題も発生するかもしれない、これからも道路問題には決して油断してはならないのである。

終わりに、萩原朔太郎『純情小曲集』より

小出新道  ここに道路の新開せるは
        直として市街に通ずるならん
        
われこの新道の交路に立てど

        さびしき四方の地平をきはめず
        暗鬱なる日かな
        天日家竝の軒に低くして
        林の雜木まばらに伐られたり
        いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
        われの叛きて行かざる道に
        新しき樹木みな伐られたり

*******************************************************

前回の訂正

 斑猫独語73に、阪神高速道路が大阪梅田で毎日新聞社の社屋をぬけて通ると書きましたが、あれは毎日新聞社とは別の会社のビルで、後日現場を見てわかりました。思い込みだけで書いていたのです。

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『みちしるべ』**街を行く(其の二十)**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月10日 | 街を往く

街を行く(其の二十)

藤井新造

古本屋で本を読む楽しみ

 昔は、大阪・神戸に出て古本屋巡りをするとか、又、街で古本屋を見つけるとその店を少しでも覗いてみたものである。特に買う本を探している訳ではなく、店の中に入り眺める癖がある。すると買いたくなる本が何冊かある場合が多い。

 そして、私の本棚の半分は古本屋で買ったもので埋まってしまった。何時か、と言っても職場を辞めた時に読む予定であったが、予想した以上に買ってしまった本がなかなか読めない。仕方なくその本の中味をパラパラとめくり楽しむことにしている。

 神戸の古本屋で買って気になる本が1冊ある。詩集「室内」(竹内勝太郎著)である。学生時代に作家の野間宏、富士正晴が詩の師匠として仰ぎ、大きな影響を与えた人のものである。しかも、竹内勝太郎直筆による署名と写真つきのものである。私は詩については無知に近いので、私が持っているより富士正晴の文学記念館に寄贈した方がいいだろうと思ったままで、怠け者の私はそれもせず今日まできている。

 話をもとに戻すと、私の住む街・芦屋市に1軒古本屋があり、私はよく顔を出しては本を買っていた。大江健三郎の本など10冊以上ここで揃えたことがある。古本屋も売れる本とそうでない本はよく知って店に並べているのであろう。もしかしたら売主は1人の同じ人でなかろうかと思えたものである。

 この古本屋が廃業してもう10余年になるだろうか。それから暫くして淳久堂が開業し、永年営業していた博盛堂の支店もそのあおりをくって店を閉じた。私にとっては永年愛読(立ち読み)していたので淋しかったことを想い出す。

 しかしながら、開業した本屋が大規模なので、本も買うが立ち読みの機会が増えた。本を買うお金も多分節約できているのではなかろうか。そうすると2、3年前に淳久堂に対抗する如く、駅構向に喫茶店つきの本屋「未来屋」が開業した。喫茶室を店のコーナーに設置した構造の店は時に見かけるが、ここは店の中央にソファーを置き、ゆったりとした椅子も沢山ある。珍しい店の中の配置に感心し、時々ここへも行くことにした。但し、コーヒーを飲まないでソファーに長らく腰かけているのは気がひける時もあるので、そのあたりの呼吸は微妙である。

 私の古本屋での本の収集も多くなり、それらの本も前述したように今や読みきれなくなった。特に細字の文庫本は読みづらく、何時か評論家の吉本隆明が拡大鏡をかけて本を読んでいるのを雑誌の写真で見て、「彼もとうとうそんな年齢になったのか」とひとごとの如く嘆いたものだが、 何を隠そう私もその年齢に近づいているのだ。

 古本の蔵書のなかで、今回、丸岡秀子の「田村俊子とわたし」を偶然読むことになった。と言うのは、2回目であるが瀬戸内晴美の「美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄――」、「諧調は偽りなり」、「田村俊子」を読んで、丸岡秀子の本に興味を持ったからである。

 瀬戸内はご存じのように、大逆事件の中心人物の1人管野須賀子をモデルにし「遠い声」なるノンフィクション作品を出版し、それは事件の概要と管野の熱情的な生き方を巧みに描写した秀作として知られ版も重ねている。大逆事件とは時の明治政府による、天皇暗殺のデッチあげで、今でいう共謀罪により幸徳秋水、管野須賀子等26名が無実の罪をきせられ12名が処刑された事件のことである。

 瀬戸内は、大逆事件、甘粕事件などで時代の先駆的な女性を対象にし、上記の作品を世の中に出した。別に前記のように「田村俊子」なるノフィクションを書いた。

 この作品は第1回田村俊子賞を受賞する栄誉に浴した。そうすると、今後は田村俊子に関する本として私の本棚にある古い本、丸岡の「田村俊子とわたし」の題名の本を読むはめになった。というのは瀬戸内の「田村俊子」がそれほどおもしろい本で田村に興味を持ったからである。

 丸岡の「田村俊子とわたし」は、田村と丸岡の短い期間の(昭和11年から13年まで)交際であるが、その友人としての交際は濃密であり、しかも被女から大きい影響を受けたと書いている。田村俊子は余程魅力的な女性であったのであろうと想像される。

戦前の保育行政を少し知ることになる。

 その丸岡の本の中に、戦前の託児所(現在は保育所という)について貴重な資料、統計があるのを発見した。少し長くなるが以下に引用をする。

 「現在、農村にどのくらいの農繁期託児所があるのか、こんなことをあなた(田村俊子;筆者注)のお仕事に何の役にも立たないことを承知しながらお知らせだけしておきましょうか。昭和5年には964ヶ所だったのが、昭和9年には7500ヶ所になっています。全国で1番多いのは兵庫県なのです。ここは735ヶ所です。次は山口、三重、岐阜、佐賀という順序なんです。東北、北陸はやはり少ないですね。」

 又農村に於ける託児所についても色々と問題点を示し書いている。

 「……せんだって福島のある村へ行ったのです。そこは常設託児所がありましたが、これは東京に出ている在京有志団によって運営されているということでした。おやつ代を集めているところもあります。毎日1銭か2銭といっても、これでは結局賛乏人の子どもはおやつ代がないために“行けない”ということになってしまいます。農繁期にはかえって託児が減るということがあるのです。それは白い前かけをさせなければならないと……」との実態も報告されている。

 「……岡山県のある村へ行きましたらl人の母親が言っていました。『4、5歳からの託児所なんていわれても、4、5歳の子どもたちは下の子どものお守りをさせなければならないのです。わたしたちの望む託児所は乳呑児からあずかる所がほしいのです。』……和歌山県社会課が出している“季節託児所の開き方”という案内書のことです。開設目的のなかに“母親の労働能力を高めることができる、消費の合理化ができる有閑者の奉仕によって階級への反感が調和され、1村または1家の精神差異が生じる”とあることです。」

 このように戦前から保育所(託児所)は乳幼児を含めた施設が必要であったことがわかる。戦後、“0才児からの保育所施設を”と、特に60年代より“ポストの数ほど保育所を”のスローガンのもと、全国的に保育所運動は燎原の火の如く広がっていった。考えてみると戦前は、戦争維持のために 、農村での婦人労働力の活用が必要であった。

 戦後は、働く者、特に婦人労働者が増加し保育所が必要になった。又、女性が出産しても働ける環境づくりにとっては必要不可欠になってきた。

 昔は“持機児童”という言葉はなかったが、当時でも次から次へと託児所(保育所)が出来たのは、多分戦時体制遂行のため農村婦人の労働力を確保するため、必然的に作られていったのであろう。

2018年1月5日

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『みちしるべ』**第二(新)名神供用・開通にあたっての声明書**<2018.1.&3. Vol.99>

2018年04月10日 | 単独記事

 

2018年3月18日

神戸市長                       久元喜造 様
兵庫県知事                     井戸敏三 様
西日本高速道路株式会社代表取締役社長 石塚由成 様
国土交通省大臣                  石井啓一 様

第二(新)名神供用・開通にあたっての声明書

中の住環境を守る会  
代表 西田 正道

 私たちは、かつて第二名神自動車道計画に対して、地域住民、自治会、人権団体、市民とともに提言を含めた反対の詳細な住民意見書を提出するとともに、兵庫県の都市計画審議会及び神戸市の公聴会において意見を述べた。

 当中地区は、狭い谷間(約南北1.2km、東西800m)に位置し、都市計画法に定めた第1種低層住居専用地域で、静穏、静寂と最も良好な住環境であった。こうしたところに、全国の広域高速道路網に直結する全国にも稀な中国、山陽、第二名神自動車道の三つの広域高速道路とジャンクションは、都市計画の目的から決定的な誤りであるとともに、都市計画は一方で強制執行の手段にすぎないというものである。

 又、山陽自動車道の市の環境アセスメントはおこなわれず、又、住民の道路代替案をも聞き入れなかったことは、住民の守り手としての自治体の責務の放棄である。

 こうしたなかで、高速道は、地域を三つに高圧線を入れれば四つに分断して、ほっとする景観、昔からのコミュニティを根底から破壊し、まち(村)の風格も著しく低下させた。

 こうしたもとで、私たち住民は、何としても安全、安心に住みつづけられるまちづくりを、と全住民議論のもとに、区画整理そして地区計画をすすめ、神戸市のまちづくり条例にもとづき、まちづくり協議会が中心となり住民主体のまちづくりとコミュニティを必死で前進させてきた。

 にも拘らず、この間住民に事前説明もなく、第二名神建設にともなう高圧線鉄塔の移設で、航空法にもとづき赤白の鉄塔に置き換えた。これによって、まちづくりにおいて景観からのまちづくりをすすめる上で、重要な百人一首にもうたわれた美しい裏六甲山のパノラマ、里山の景観を稜線まで真っ二つに切ってしまうという決定的な景観破壊をおこした。

 住民は、朝の美しい景色をみて「今日一日頑張ろう」と思い、夕方にはこれをみて、精神、体の疲れを癒してきたが、今こうしたことが心身に大きな苦痛をあたえている。

 これは、少し位置を変えるだけで赤白鉄塔を避けることができたもので、関係当局等の瑕疵である。

 又、日常生活においても洗濯物に車による粉塵がつく、いやな臭いがする、空気振動のようなもので気分がわるい、などなど住民の声を聞いてきた。

 こうしたことと共に住民の最大の関心、懸念の一つは大気、騒音をはじめとした健康被害である。

 数多くの環境問題の項目があるが、そのうちN02・PM2.5・騒音等をあげる。

 N02について環境基準が設けられているが、現基準は、一応安全とされた旧の基準を2~3倍緩められたものである。

 従って旧基準値を含む現基準値以下でも、小児喘息はじめ健康被害がでている。

 又、PM2.5問題であるが、第二名神環境アセス後、とくに問題になってきている。髪の毛の30分の1以下、眼にも見えない発ガン物質で第2のアスベストといわれている。全身に影響を与えるが、とくに肺の奥、出口のない肺胞にどんどん蓄積され、傷つけ、とくに老化にともない肺の機能を損なっていく。肺ガン、肺疾患で亡くなる人が男性でトップ、女性もトップクラスとなっている。こうした原因として多くの人がPM2.5との関係を指摘している。

 日本のPM2.5の発生源は自動車の排気ガスが主要なもので、中地区のように逆転層のできる谷間のところではN02とともに高濃度となり、広範囲に飛散するものである。

 日本では、都市部や高速道路の集中するところでは、PM2.5の環境基準はすでにオーバーしている。この環境基準も安全、確かなものといえないとされている。

 クボタショックから13年目をむかえましたが、今全国で中皮腫、肺ガンなどのアスベスト被害者の訴訟、裁判がおこなわれている。アスベストを吸い込んで発症するまで20年~50年の潜伏期間があり、被害の本格的発症はこれからである。

 この問題は、国際労働機関(ILO)、世界保健機関(WHO)が、アスベストの発ガン性を指摘したにもかかわらず、国や関係大企業は、大量に使用し続けた。これは、まさに公権力、社会権力による人権侵害である。

 見えない公害として、PM2.5問題はアスベスト被害と全く共通しており、それは計り知れなく深刻で恐ろしいものになっている。

 そして騒音についても、窓を開けて昼寝ができない、散歩をしていてもした気分にならない、又、夜間、音の屈折で360度からの騒音がするなど静穏、静寂な第1種低層住居専用地域に暮らしてきた住民にとって苦痛となっている。又、騒音による低体重出産の報告も全国からあり、不安で深刻である。

 第二名神の環境アセスの当時、多くの専門家や神戸市環境専門委員会の意見は、複雑な道路構造や地形により予測がつきにくく、きびしい面もあり、特段の配慮、対策が必要と指摘している。

 今回の道路も渋滞解消、物流の促進等といわれているが、その車輌は全て中地区を通過するだけのことで何のメリットもないのである。

 関係当局はことあるごとに「公共のため」というが、住民犠牲の公共性は成り立たず、「公共」の名のもとに住民を縛ることはできない。

 前述のように私たちは当初、提言も含めた道路建設の反対意見書を提出した。又、今まで述べてきたように、今日の事態をみてもそれらの正しさが明白、鮮明になっている。
今日建設された第二名神の道路構造も、これらを抜本的に解決するものになっていない。

 このままであると、差止め請求も視野に入れざるをえないというものである。

 健康破壊、まち・景観こわしは、憲法13条人格権の侵害であり、総じて公権力、社会権力による人権侵害である。

 私たちは何としても、人間の精神・身体・命そのものを守るために意見を主張し、健康で安心して住みつづけられるまちづくり運動を今後も強め発展させるが、その法的根拠は日本国憲法である。

 ここに関係当局には、あらためて人権の視点にたち、万全、特段、抜本的な対策を講じるよう強く要求するものである。

 

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