徳島市より高松市へ向かい坂出市へも足をのばす(2)
(街を往く 其の十二)
藤井新造
中国人旅行者の多い栗林公園
さて、前回からの続きであるが、徳島まで行くのであれば、社会運動の先輩であるKさんを訪ねるため、瀬戸大橋が見渡せる私の故郷にある『かんぽの宿坂出』で宿泊する計画を立てておいた。
神戸より徳島までは高速バスを利用したので、高松市へはJRを利用することにした。JRに指定席の残席を事前に問い合わすと、少ないですよと言われたので購入していたが、乗ってみると空席が多い。しかも指定席は一輌の半分しかない。全体として乗客が少ないことがわかった。
このJRの急行列車は、四国独特のひなびた農村風景のなかをゆっくりと走ってとても「急行」とは思えなかったが、それでも一時間後には高松駅に到着した。
そこで、当日の午後と翌日の午前中、ドライバーをしてくれる従弟のT君との待ち合わせ場所であった。
この日は、屋島と栗林公園へ行くことにした。先ず、屋島へと向かうが、ここでの眺望は素晴らしい筈であったが、あいにく霧がかかり遠方は見えない。残念という他なし。ずい分昔、屋島へ来たが、ここで瓦煎餅投げをした記憶がよみがえったが、その店を探したが見当たらなかった。
次に香川県で数少ない名所の一つ、栗林公園へと足を運ぶ。入園すると、私達3人組に対しボランティアガイドがサポートしてくれ、園内を案内してくれる。そして、1時間余散策した。これまで数回入園しているが、このようにゆったりした気分で園内を廻ったのは初めてである。
公園の衆によると「全国で8番目の特別名勝の指定を受けた回遊式大名庭園で最大面積を有する日本を代表する名園」とある。それであれば、金沢の兼六園、岡山の後楽園に匹敵する様式と広さがあるかもしれない。公園内を散策する途中、小旗を掲げた観光ガイドに従い移動するツアー客が多く眼につく。従弟のT君に聞くと、中国から来日した観光客が殆どだと言う。その理由として、中国から高松空港を利用して来日し、ここを中継して京都、奈良、東京への観光コースを辿るのが定番になっているらしい。高松空港への飛行運賃が格安なので、この地を利用して、旅行業者がツアー客を呼びこんでいる訳である。
但し、今は日中の国交関係が悪くなっているので、中国からの観光客は大幅に減っていることだろう。
翌朝、遅い朝食をとり、部屋で休んでいる間、眼下に坂出市の準工業地帯(四国電力・川崎重工・三菱化成・コスモ石油など)が一望できる。その一つより間歇温泉のように煙突より吐き出す白煙を眺めていたKさんは、「相当の量の煤煙が出ているなぁー」と心配そうな言葉で呟いた。この工業地帯の北側に、塩飽諸島がある。
星野芳郎は名著『瀬戸内海汚染』(岩波新書)のなかで「塩飽諸島の過去と現在」について次の如く書き記している。
埋められた塩田と海岸線
「太平洋の水は、東は紀伊水道、西は豊後水道から、満潮とともに瀬戸内海中央部より東の塩飽諸島のあたりで東西の潮が合する。そして、干潮とともにふたたび二つの水道から太平洋へと、二つの潮は引いて行く。」
続いて、そこは「四国の坂出から西、三崎半島に到る海岸と、中国の児島半島から西、水島灘とのあいだにはさまれた島々で、与島・本島・広島・高見島・佐柳島・手島などを配置し、古くから瀬戸内海屈指の漁場であった」と述べている。
この島々の中で「屈指の漁場」の一つ、瀬居島・沙弥島と坂出市を強引に結び準コンビナートが作られた。1960年中頃より日本の高度経済成長の一つとして、ここでも海岸線を埋めて工場群が急増されたのだ。
当初、この埋立てに両島の漁民による反対運動が起り全島民あげての抵抗運動にまで発展した。そして漁民による坂出市議会を占拠する実力行使にまで到った。しかしこれに対し市は、機動隊の出動を要請し、市議会を占拠した住民を強制退去、もしくは逮捕し、徹底した弾圧手段をとったと、当時、阪神間地区の新聞にまで報道された。
その後、更に県と市は強引にアジア共同石油誘致を一方的に決めた。今度は前記の二つ以外の櫃石島・与島・宇多津町の漁民、市民による抗議運動を県当局に行ったが、これも又、機動隊により追っぱらわれた。
結果として、魚が生息し育つ「番の州・瀬居の州・沙弥の州・ナンコの州」の藻場の埋め立てがなされた。
このことは、この海につらなる私たちの海岸線・塩飽諸島の東南に位置する村(今は坂出市に吸収合併されている)にまで、影響してきた。「番の州」の近くであったからである。
ここはかつて「屈指の漁場」であり、この近辺に住む私達にとっても、特に幼い子供達にとっては、貝を獲り、小魚を追って遊び、泳ぎを覚えた浅瀬があり、魚介類を育てる藻場があった。遠浅の海で、子供達は泳ぐ時に藻に足がからめとられないように気をつけていた。まさしく豊饒の海そのものであった。又、小さい河口には塩田より積みこまれた塩荷の運搬船と、二、三の小船が係留されていて、夏には子供達の泳ぎ場になっていた。
日本のどこにでも見られた小さい港のありふれた風景があった。今も沖の方では絶えず塩飽諸島の間を縫うように大小の船が往きかっていた。
私は塩田も海辺も埋められて、昔日の面影はどこにも見られず、眼前の工業地帯を見ながら、幼少の頃の故郷は既に跡形もなくなっているのを改めて知ることになった。
今回、鳴門市賀川豊彦記念館10周年の講演会に参加したが、実は誘ってくれたKさんは、今から8年前、2004年に同記念館で、「賀川とニュージーランド」なる題名で後援している程、賀川について研究しているのを後日知った。灯台もと暗しとは、このようなことを言うのであろう。鳴門祈念館が開館して、まもない時期である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/ce/872bddd83a3aa97cc7b89be128ea11ed.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/69/c4d7fb2d23b5758933be98b580a5819e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/48/f821d1ef079960f9fa04ba8973de0ba8.jpg)