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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**熊本地震ボランティアに参加して**<2016.5.&9. Vol.94>

2016年08月30日 | 神崎敏則

熊本地震ボランティアに参加して

尼崎市在住 神崎敏則

 尼崎市社会福祉協議会が主催した熊本地震ボランティアに参加しました。

 出発の2日ほど前に携帯に社会福祉協議会から電話が入り、「水にぬれる作業になりそうなので、必ず長靴と着替えを余分に準備してほしい」と伝えられ、その夜に、あわててホームセンターで長靴、安全靴、アンダーシャツ、軍手、靴下等々を買いました。

 5月20日(金)20時にバスでJR尼崎駅南を出発し、23日早朝に尼崎に戻るというハードスケジュールでした。参加者は社協の事務局を含めて約30名。正確ではありませんが、年代別には20代1人、30代3人、40代4人、50代6人、60代以上が残り約半数、男女比は3対7くらいでした。

 土曜日午前6時すぎに熊本市に入りました。窓からは、屋根を覆っているブルーシートが点々と見えました。市街地に入ると右手に自衛隊の宿営地、左手は無人の団地――多分耐震構造でないので建て替え準備中――が並んでいました。

 7時に屋外ボランティアセンターの真如苑に到着。地元の社協事務局の方から依頼され、テント立て、机、椅子の設置などを手伝いました。ボランティアの目印となるシールを受けとり、自分の肩にそれを貼りました。これから水前寺公園に路面電車で移動するので、そのシールを見せてボランティアと確認されると乗車料が無料になる約束事になっているそうです。最寄りの駅に全員で移動して、路面電車に乗り、6つ目の駅で降りて水前寺公園に入りました。

 水前寺公園の池は地震により水が抜けて水位が戻らないということはニュースで知っていましたが、その日は前日から少し水位が回復しつつあるとのことでした。

 水前寺公園の正式名称は水前寺成趣(じょうじゅ)園。細川氏初代藩主が約400年前に築いた大名庭園だそうです。残された文書によれば、かつて池に砂利を大量に投入したことがあり、その頃は湧水の量も豊富で枯れることはありませんでした。今回池の中の砂利を取り出す目的は、湧水が戻る可能性があることと、藻が発生し、水質が悪化しているので清掃することでした。

 私たちが到着して現地で作業の段取りなどの説明を受けている間に、地元の小学生の集団が、池の浅い部分に入り作業を始めていました。ボランティアと遠足と兼ねたような、和やかな取り組みのように見えました。1時間程度で子どもたちの活動は終了しました。
その内に各地らからとボランティアが次々に入ってきました。

 尼崎からの30人が2グループに分かれて池の中に入り、砂利をスコップですくってバケツに受け、それをリレーで回して岸で受けとり、一輪車に載せて、所定の場所へ運びました。作業している全員が半分水遊びのようで楽しくて、でも妙にペースが上がってバケツの数が足りない訳でもないのに素早く回したり、一輪車を押すのに駆け足になったりとか、全員がどんどんハイペースになっていました。疲れ切る前に休憩をとって、また作業を始めてどんどんペースが上がってを繰り返しました。結構体力を使いました。

 17時には屋外ボランティアセンターに戻ることになっていましたので、15時過ぎに作業を終えて、水道水で軽く手足を洗って路面電車で戻りました。

 17時にバスで熊本市を出発し、佐賀市に向かい、長崎自動車道・佐賀大和インターを降りて、近くのスーパーで夕食を購入して宿泊先のホテルに入りました。5人部屋で22時ごろには全員寝入っていました。

 22日6時前からバイキング形式の朝食をとり、6時過ぎにはホテルを出発し再び熊本へ。7時すぎに前日と同じ屋外ボランティアセンターに入りました。3人から5人のグループに分かれてそれぞれグループの責任者を決めるように言われ、私たち4人のグループの責任者は60歳のAさんがなっていただきました。

 ボランティアセンターの事務局の方がグループごとに必要な道具などを出そうとするので、「指示してもらったら自分たちで出しますから」と言って、こちらで台車、土嚢袋、バール、ハンマーを出して、指示されたワゴン車に積み込みました。そのワゴン車には2グループが乗り込み、2ヶ所の被災者宅へ相乗りで向かいました。車を運転されたのは地元のタクシー乗務員の方でした。私たちは15分程度で大きなL字型のマンションに到着しました。

 車から見ていると被災しているようには思えませんでしたが、車を降りてエントランス近くにくると、壁のクラックが目に入りました。後で知ったことですが、エントランスの自動ドアも地震で動かなくなっていたそうです。

 エレベータで上がり、被災者のお部屋に向かう途中の廊下のL字型の角にあたる接続箇所では、1cm程度の段差がありました。

 廊下の壁にも数か所クラックが入っていました。お宅の玄関に入り、そのまま土足で上がってほしいと言われましたが、玄関と廊下が思っていた以上にきれいに片づけられていたので、土足に躊躇しました。2、3度すすめられてやっと土足で上がることができました。
廊下から扉を開けると正面と右手がリビング、左手の座敷に80歳代と50歳代の女性二人がおられました。顔がそっくりなので母娘だと勝手に思ってしまいましたが、叔母と姪の間柄でした。依頼内容はリビングを片付けてほしいということでした。姪御さんは「私は今日の午後の飛行機で帰るのでよろしくお願いします」と言われ、言葉の端に、緊張感のようなものが感じられました。

 リビングの壁を背にして本棚と食器棚が並んでいるはずでしたが、食器棚の上段半分は前のソファーに転倒していました。食器棚のガラス戸がソファーの背もたれ側に、背板が天井側に向いていました。

 食器棚を片付けるために、まず本棚の移動から始めました。幅60cmほど高さ180cmほどのスリムな本棚には本がぎっしりと詰まっていました。4人がリレー式で本を座敷に移動させるのに10分ほどかかり、空になった本棚を1mほど移動させました。

 次に一番肝心の転倒している食器棚をどうすべきか、良い方法がなかなか思いつきません。転倒している食器棚の中には割れていない食器が3割ほどありそうでしたので、できるだけすくい出すことを目標にしました。上部が斜めに下を向いているのを通常の向きに戻そうとすると135度回転させて、その間ガラス戸はどちらかと言えば下側に位置しますので、食器が余計に割れそうです。この方法はあきらめて、上部を完全に下側に向かせてガラス戸を開けて食器を取り出すことにしました。

 食器棚の傾きを少しだけ大きくしてガラス戸をちょっと開けて、少しずつ中の食器を取り出し、次にまた傾きを大きくして、ガラス戸をもう少し開けて、中の食器を取り出す、という流れを繰り返しました。割れている食器は土嚢袋にどんどん詰めていきました。

 どうにかすべての食器を取り出しましたが、組皿は一枚でも割れていると廃棄にとのことでしたので、全体の2割も残りませんでした。やっと空にした食器棚を通常の位置に戻そうとすると、姪御さんから、食器棚は使わないので処分してほしいと依頼されました。土嚢袋10袋近くと食器棚とを4人で1階外の廃棄置き場へ持って行きました。そこで食器棚の分解をするのに、責任者のAさんが「自分が残ってやります」と言われ、お願いしました。残り3人はお宅に戻って、本棚を元の位置に戻して、本をできるだけ同じように並べようとしましたが、正確に覚えていなくて、並べ方で少々悩みましたが、「あとは私がやりますから」とご本人に言われて、結局は納めるだけにしました。

 「他に何かすることはありませんか?」とお聞きして、予定にはなかったようですが、冷蔵庫を3cmほど移動させて、11時前にはそのお宅での作業が完了しました。

 4人で最後に挨拶をして帰る際に、「少しだけだったけど本当に困っている人の手助けができて良かった」と実感しました。でも後から考えると複雑です。その日からまた80歳代の方の一人暮らしが続いているのですから、たいしたことは何もできなかったのかもしれません。

 11時前にボランティアセンターにAさんが電話して車で迎えをお願いしましたが、「運転手が出払っていて、すぐには迎えに行けない」との返事でした。30分近く待ってやっと車が迎えに来ました。

 11時45分ごろにボランティアセンターに戻ると、ボランティアの方の順番待ちの状態が続いていました。尼崎のグループのほとんどはすでに戻っていて、最後尾で順番待ちをしていたのですが、そのまえの100人ほどの人たちはまだ1度もボランティアに出ていないそうです。結局私たちは、1日目の水前寺公園の池の砂利すくいに行くことにしました。

 ボランティアを受け入れる地元事務局の作業量は膨大なのに、スタッフが少なすぎるように感じました。

 午後からの水前寺公園の作業を終えて、バスで18時ごろには博多の銭湯に入り、その近くの食堂などで三々五々夕食を摂り、翌朝7時前にJR尼崎駅に戻りました。事前の予定ではそのまま出勤するつもりでしたが、到着時間が少し早まったので、自宅に戻り、洗濯機をセットしてから出勤しました。ハードスケジュールでしたが、充実していました。何ができたのか、複雑な気持ちは残りました。

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『みちしるべ』ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んで**<2014.9. Vol.86>

2014年09月30日 | 神崎敏則

ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んで

神崎敏則

 この本は、時間とは何か、人生とは何か、幸せとは何か、を私たちに問いかけている。自分の時間の使い方をガツンと反省させられてしまった。

 いつもせかせかと仕事をしている。

 退勤時間は17時30分なので、できる限りその時間ピッタリに職場を出られるように25分ごろには作業着から着替え始めている。この習慣は以前の会社――以前の会社は6年前に、今勤務している会社に現場を丸ごと売り渡してしまった。やっている仕事は同じだが、現場への管理方法が全く変わってしまった――の良い伝統の一つだ。

 でも出勤時間8時30分前の1時間近く前には職場に入り作業着に着替えて、7時40分ごろにはパソコンでメールのチェックや昨日の勤務状況を入力している。当月の管理状況をフォーマットに従って作成しはじめている。トラブルや前日の工事内容をチェックしている。過去の資料と照合することも欠かせない。

 そんなこんなで、8時25分からラジオ体操が始まる。勤務時間前にラジオ体操を強制する雰囲気が嫌いなので、以前から勝手にストレッチをしている。ラジオ体操よりこっちの方がよほど有効だとひそかにアピールしている。

 ラジオ体操の後の8時30分から朝礼が始まる。しかし、チェックしたメールに返信しながら朝礼に臨んでいることが少なくない。パソコンで入力するのはそれほど苦にならない。自分でも入力作業が得意だと思っていたりする(実際には若い人と比べるとそうでもないのだが)。失礼になると分かりつつ、指先でキーを叩きながら、朝礼に参加して発言したりする。自慢したいのではないと自分では思いたいのだが、周囲にはどう思われているのかはなはだ不安だ。ただ単に、仕事に追われている、その強迫観念に突き動かされているだけなのだけれど……。いや本当はこちらの方が言い訳なのかもしれない。あくせく仕事をしていることを言外でアピールしたい、というのが本音ではないだろうか。

 この本を読んで、自分の時間の使い方って本当に嫌だなーって、つくづく思っていしまった。なんて薄っぺらな人生なのだ。

 でもこの生き方は変えられそうにない。自分にはとても無理だ。ただ一つ、変えることができるかもしれないのは、相手の話を一生懸命に聴くこと。そのためには、忙しい――と勝手に思い込んでいるだけなのだろうけど本人は相当に深刻なのだ――ことを言い訳にせずに、相手の思いにしっかりと正面から向き合うこと。ここだけは、しっかりと取り組んでいきたいと思っている。

 こんな感想の後で申しわけありませんが、本書はとても素晴らしい童話です。有名な本なのですでにお読みの方も多いかもしれませんが、興味のある方は是非お読みください。

 平出さんが良く言っていたスローライフという言葉が今頃身に染みています。

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 平出正人の「迷惑通信」より 【志賀原発ストップ・能登ピースサイクル】 

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『みちしるべ』集団的自衛権に私たちは反対します**<2014.7. Vol.85>

2014年07月23日 | 神崎敏則

集団的自衛権に私たちは反対します

神崎敏則

 今、安倍政権は、与党内での合意を取り付けて、集団的自衛権の行使を容認しようとしています。与党の公明党はこれに対して、朝鮮半島有事など極めて狭い範囲に限定することを求めていると言われています。しかし、そもそも集団的自衛権を限定的に行使するということ自体が論理矛盾に陥っているのではないでしょうか。

 集団的自衛権をいったん行使すれば、それはすなわち戦争に参加することになります。日本が限定的に行使したつもりでも、相手国から見れば、敵国以外の何物でもなくなります。日本国内が直接攻撃の対象にさらされる危険性が高まります。

 そして、公明党が要求するように、「国民の権利を根底から覆す事態」という限定を厳格にすれば、それは個別的自衛権の範囲に収まります。公明党は集団的自衛権を実質的に認めないとしたいのでしょう。その思いの一定は評価したいのですが、安倍首相は「集団的自衛権の容認」に執着し、看板だけを書き換える、いわば既成事実づくりに協力させようとしています。よく言われる例えですが、小さく生んで大きく育てる。その意味で、安倍政権は限定的行使を突破口にして、今後大きく育てることを目論んでいます。

 私たちは、今こそ公明党に、平和を党是とする結党の精神を貫いていただきたいと切に要望します。

2.そして、集団的自衛権の行使を、憲法解釈の変更という手法でおこなうこと自体が大問題です。

 これは、立憲主義の否定にほかなりません。憲法とは、そもそも権力を縛るためのものです。立憲主義を否定することは、国民主権を否定することです。そして政府は今、憲法解釈の変更を先に閣議決定しておいて、その上で、関連法案を国会で審議させようとしていますが、これは重大な国会軽視です。これもまた、主権者である国民軽視にほかなりません。

 これまで歴代の内閣法制局は集団的自衛権を違憲としてきました。その国会答弁は充分な議論の下に、国会内でも国民の認識においてもしっかりと定着していました。このような経過を無視して、安倍首相は「国政の責任者である私が判断する」と暴走を続けています。

 百歩譲って、集団的自衛権の行使が必要な時代背景が今あるのだとすれば、それは、解釈改憲ではなく、憲法そのものを変える手続きを踏むべきです。国会内でも、国民間でも十分な議論を経て、おこなうべき事柄です。

 もう一点、憲法解釈に関して指摘しなくてはなりません。集団的自衛権が違憲なのか、解釈改憲の範囲で収まることなのかを決めるのは、「国政の責任者である」首相ではありません。政治ではなく、司法の場で決めることです。小学校の社会で教わるような当たり前のことを、無視しないでください。安倍首相がたとえ無視してこのまま暴走をつづけても、多くの国民や市民団体が司法に訴えることは間違いありません。

3.集団的自衛権の行使の容認は、平和国家日本の基本政策を大きく変質させることになります。1994年大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞した際の演説を要約します。

 1990年イラクがクエートに軍事侵攻し、「湾岸戦争」がはじまりました。国連安保理決議に基づいて日本にも自衛隊を出せとアメリカは強く要求してきました。当時の自民党単独政権は、自衛隊をイラク制裁のPKFに派遣すると言う法律、いわゆる「国連平和協力法」を国会へ提出しましたが、内閣法制局長が憲法9条違反である国会答弁をしたこともあり、廃案になり、自衛隊は出ていきませんでした。

 この出来事に世界中の人々が驚いたのです。そして各国のマス・メディアが、日本には憲法9条があって、その規定によれば軍隊はもってはいけないことになっており、自衛隊は、だれが見ても軍隊だが、実は軍隊ではなかったのだ、ということを一斉に報道しました。日本は軍事大国だと思っていたけれども、海外派兵を憲法が禁じている、すごい憲法をもっている、アメリカの逆だと、世界中の人が注目しました。

 とりわけ、アジアの人々が驚き、日本が軍事大国でないことを認識しました。また、中東の人たちも衝撃を受け、日本を高く評価しました。

 逆にアメリカは烈火のごとく怒りました。自衛隊をアジアにおける傭兵として使おうとしていたのに、軍隊でないことが、世界中の人々に明らかになったのです。

 平和国家日本とは、長年人道支援を続けているNGOのグループにとってよりどころとなっています。そればかりか外交上の大きな資産ともいえるのです。

 このように、安保条約を結んでいるアメリカとすら一線を画し、日本の平和憲法は燦然(さんぜん)と輝いてきたのです。それを放棄し、あるいは、路線を全く切替えるのであれば、当然、国民的議論が熟したうえで、改憲の手続きを取るべきです。

4.集団的自衛権の本質は、戦争に参加するということにほかなりません。たとえ「限定的」であれ、集団的自衛権を容認すれば、アメリカがおこなう戦闘で自衛官が死傷し、相手国の兵士や住民を殺傷するリスクが飛躍的に高まります。そうした任務に自衛官を送り出すというのであれば、政府や国会はもとより、国民全体でその覚悟が問われることになります。

 1950年、朝鮮戦争において、朝鮮半島沖に仕掛けられた機雷を除去する極秘任務に海上保安庁の21歳の仲谷坂太郎さんが派遣され、機雷に接触して「戦死」しました。その兄の中谷藤市さんは「国民不在のまま、理屈だけで話が進んでいる。戦死者が出るだけではなく、自衛隊が海外で人を殺すことになるかも知れないという覚悟が全ての日本人にあるのでしょうか」と語っています。

 今朝の朝日新聞には、1990年代に専守防衛を転換したドイツでは、後方支援のドイツ軍がアフガニスタンで55名もの死者を出したことが報じられています。集団的自衛権の行使が、自衛隊員の犠牲を出すこと、そのリアリティーを議論すべきです。

 イラク戦争でイギリス軍は数百人規模の死者を出しています。しかも2005年のロンドン同時爆破事件で50名以上が、スペインでは2004年のマドリード列車爆破で190名以上が犠牲となりました。戦争に加担するということは、テロの反撃を受けるリスクを引き寄せることを意味します。

 このようなリスクについて議論されないことは、無責任であり、許されないことです。

  • 私たちは、集団的自衛権の行使容認に断固として反対します。
  • 本日この集会にご参加いただいたみなさんの後ろには、多くの尼崎市民がいます。
  • 残業代を支払わなくてもよいような労働法制に危機感をもつ、多くの労働者がいます。
  • 堅実であるべきはずの年金運用を株式市場に投入できる枠を倍にして、株高を目論んで、国民生活など一顧だにしない政府に怒っている市民がいます。
  • 原発の再稼働や海外への原発輸出を強引に進めようとする政府に敢然と反対する住民がいます。
  • 消費税を引き上げたとたん、法人税を20%台に引き下げることを公言する政府に抗議する市民がいます。
  • 消費税が引き上げられたにもかかわらず、介護保険も医療保険も切り捨てられようとする動きに警鐘を鳴らす人々がいます。
  • TPP交渉でアメリカの要求を受け入れて、農業も医療も保険も全てアメリカに売り渡す政府に怒り震える仲間がいます。
  • 派遣という雇用形態や、ブラック企業で働かざるを得ない若者や家族がいます。
  • 差別と闘う仲間がいます。
  • 障がい者と共生するスペースを営々と運営するグループがいます。
  • 私たちは多くの仲間とつながっています。
  • 私たちの後ろには沢山の尼崎市民がいます。
  • 私たちは日本中の仲間と連帯しています。
  • それらを糧に、集団的自衛権の行使容認を阻止しましょう。
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『みちしるべ』分断が進む一方で、行政不信も強い被災者**<2014.1. Vol.82>

2014年01月17日 | 神崎敏則

分断が進む一方で、行政不信も強い被災者

尼崎・神崎敏則

≪第81号(2012年11月)掲載「富岡町の復興ははるか遠い道のり」の続編≫

仮設住宅の被災者――行政への不信はぬぐえない

 翌日は、いわき市内の仮設住宅に行き、そこの自治会長さんのお話を伺いました。中央台高久第1仮設住宅(地図によれば第10まである)のN自治会長、途中から生活支援相談員のKさんも合流してお話していただいた。

 第1仮設住宅は2011年5月から入居。最初にできた仮設なので、至急入居を要する人が入った。189世帯のみなさんは、いわき市の全域と双葉郡のあちこちの町村の方だ。他の仮設は市町村ごとに、例えば広野町からの避難者の仮設住宅、あるいは、楢葉町からの避難者の仮設住宅とかためられている。

緊急時に一番肝心なのは情報、なのに届かない

 N会長は震災までいわき市久之浜町に住んでいた。いわき市は、面積1,231㎢(尼崎市の25倍近く)で太平洋に面する海岸線は60㎞もあり、沿岸部は津波の被害にあっているが、いわき市全体ではそれはほんの一部になる。久之浜町も津波被害を受け、町の人口6,000人のうち10名不明、60数名が死亡した。

 福島では、地震と津波の後で火災も発生し久之浜町では60軒以上が燃えた。そして原発事故が顕在化した。

 久之浜町では、防災無線が鳴らなかった。防災無線がきちんと鳴っていれば、被害がいくらか少なかったかもしれない。その代り、消防車がマイクで津波警報を流していた。その消防車も津波にもっていかれた。

 N会長の自宅は海から500mも離れていたが、2m以上の波が来て、畳や床板を天井近くまで持ち上げ、家の中にはガレキがつまった。

 震災の日は寒くてみぞれまじりで、避難先では、非常用の毛布の数が足りず、取り合いになった。ストーブはあっても灯油がなかった。寒くてしょうがなかった。非常用備品は全く足りなかった。

 自宅で寝たきりの人が中学校の保健室に運ばれていた。保健室のベッドも足りなかった。

 地元の先輩が避難所で泣いていた。孫と自分の嫁が流されたと言っていた。かける言葉がなかった。

 津波にのまれるとき、奥さんを握っていた手が離れて、奥さんだけが流された友人もいた。

 3月12日の朝、1回目の原発の爆発の時、屋内退避を指示されていただけで情報がこなかった。たまたま外出していると、消防から駅舎内に入るように言われたので入ると、扉が閉められた。1時間はそこに入れられていた。その日の昼に地元の中学校に行こうとしたら検問がはじまっていて「中学校に行っても誰もいないよ」と言われ、「それでも用があるので」というと、「自己責任で」との返事だった。市民には知らせずに、行政の側は緊急対応をしていたのだろう。

分断されている被災者

 第1仮設の189世帯のうち原発の補償を受けているのは約20世帯。やはり補償を受けている人と受けていない人との間で軋轢があるそうだ。

 双葉郡からの被災者といわき市民の被災者との間にも溝があると言う。「ゴミ出しでは、分別がきちんとできていない」、「双葉郡の人の自動車の運転は、怖くて、車間距離を大きくとらないとこちらが巻き込まれる。何故って、ウィンカー出さずに平気で右折するから。とろとろ走る車がいたら、双葉郡の人だとすぐ分かる」など、簡単に乗り越えられる溝ではなさそうだ。

政府からも県からも見放されているのか

 「海辺の町の復興では、『高い堤防を造ってくれ』という人が多い。でも高い堤防を造ると海の様子が分からなくて、余計に危険だ。それよりも、家が無くなった人の家を建ててほしい」とN会長は熱弁をふるった。

 「双葉郡の子ども達が、線量の低いいわき市の仮設にいるのに、わざわざバスを出して線量の高い小中学校に通学させている」そうだ。子ども達の安全が優先されない。当たり前のことが通らない。理不尽なことを福島県民はずいぶん味わわされた。

 Kさんは言う。「東京でオリンピックをやるのをよろこんでいる福島の人はいません。とんでもないことがはじまったとみんな思っています」と福島県民の思いを代弁する。いまだに苦渋のただ中に福島県民をおいておきがら、それを忘れたかのような政府や日本国民。
 県立医大による健康管理調査がおこなわれている。

 調査の主旨を県のホームページから引用しよう。「福島県では、東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故による放射性物質の拡散や避難等を踏まえ、県民の被ばく線量の評価を行うとともに、県民の健康状態を把握し、疾病の予防、早期発見、早期治療につなげ、もって、将来にわたる県民の健康の維持、増進を図ることを目的とし、『県民健康管理調査』を実施しています」と謳う。しかし県の本音は、県民が数年後に仮にガンなどの疾病にかかった際に、「原発が原因ではなかった」、「東電への賠償は発生しない」、と言いくるめるための調査である事を感じているのだろう。(※注)

 県民は政府からも県からも見放されているのかもしれない。

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(※注) 毎日新聞記者・日野洸行介著『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』(岩波新書)によれば、「2011年9月の県議会で、子どもの内部被曝を調べるため乳歯の保存を県民に呼びかけるよう提案する自民党県議からの質問に対して、(中略)当時の福島県の保健福祉部長は『さまざまな意見があるようだ。今後研究したい』と述べるにとどまり、その後、福島県が何か具体的な行動を起こすこともなかった」そうだ。乳歯を保存しておけば、ホールボディカウンターですら放射性物質のストロンチウム90の内部被曝を測定できないが、事故後に抜けた乳歯を分析することで内部被曝を後から証明できる可能性がある。

 著者は、同年12月19日の朝刊に事実関係をつかんで批判記事を書き、広く県民の知るところとなった。

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『みちしるべ』憲法をひもとく**<2014.1. Vol.82>

2014年01月17日 | 神崎敏則

古関彰一著「新憲法の誕生」(中公文庫)を読んで

憲法をひもとく

神崎 敏則

不磨の大典ではない「日本国憲法」

 「押し付け憲法」との非難を幾度となく浴びせられてきた日本国憲法。押し付けなのか押し付けでないのかと問われれば、押し付けであったと個人的には思っている。ただこの点については、議論が分かれるようなので断定は避けたい。

 憲法9条の戦争放棄は、1945年10月に首相となった幣原喜重郎がマッカーサーに進言したとの説も根強い。一方で古関彰一氏(獨協大学法学部教授)著『新憲法の誕生』によれば、マッカーサーからの提案となっている。

 戦争放棄を定めた9条、基本的人権を謳う25条、人格権の13条、国民主権の第1条、どれも大切な条文だ。日本国憲法を改めて読み返すと、国民(「国民」という言葉の意味は重い、後段でこの点に触れる)の一人として自分が憲法にとても愛されていることを実感する。しかし日本国憲法は不磨の大典ではない。いたずらにこの点のみを強調すべきでないが、本書に従って歴史的に検証したい。

 国民主権の第1条は象徴天皇をも規定している。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。確かに大日本帝国憲法の4条「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」で定めた天皇主権と比較すれば、ずっとこちらの象徴天皇の方がましだが、天皇制の延命に寄与していることは否定できない。

 日本敗戦後、連合国内では、天皇訴追を求める勢力は少なくなかった。特にオーストラリアは天皇の戦争責任を追及しようとしていた。この問題に関してマッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀総長にあてて書簡を送っている。仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきと表明した。

 謂わばマッカーサーは、アメリカの負担増を避けるために象徴天皇を編み出したわけだ。だが、連合国内では、それに反発する勢力が少なくなかった。アメリカ国内でも天皇を訴追しないことへの批判は激しく、窮地に追い込まれたマッカーサーは、平和と民主主義と人権尊重を謳う新憲法をつくらせることを急ぎ、天皇訴追派の批判をかわしたのだ。マッカーサーの優先順位は、まず第一にアメリカの負担増を避けることだった。そのために象徴天皇という形で天皇制を延命させることにした。そして天皇制を延命させることの批判をかわす担保として戦争放棄と民主主義と人権尊重の条文を入れた。

 この事は、1946年3月6日に出された勅語をめぐる侍従長の『側近日誌』にも詳しい。「天皇には御退位の意」がありそれは「戦争責任を引き受けられる」意向であったので、マッカーサーは「一刻も早く日本をして民定の民主化憲法を宣言せしめ、天皇制反対の世界の空気を防止せん」と新憲法の制定を急いだようだ。

大日本帝国憲法の枠を出ることのなかった日本政府や自由党の憲法案

 話しは少しさかのぼるが、45年10月4日近衛文麿はマッカーサーと会談し「軍閥や国家主義勢力を扶け、その理論的な裏づけをしたものは、マルキストであり、日本を今日の破局に導いたものは、軍閥勢力と左翼勢力との結合によるもの」と主張したことに対しマッカーサーは近衛文麿に「第一に、日本の憲法は改正しなければならん。憲法を改正して、自由主義的要素を充分取り入れる必要がある」と強い口調で話し、近衛は、自分こそが憲法改正に着手すべき適任者であると自任し、10月13日佐々木惣一京大教授に憲法改正作業を取り掛からせた。

 一方10月9日に幣原内閣が成立し、10月25日松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置したが、明治憲法第1条の皇統の連続性、第4条の天皇主権は「不変であると考える」と憲法改正に否定的であった。

 GHQは11月1日近衛には憲法改正を付託していない旨の声明を発表し、幣原首相に対し憲法改正に関する総司令部の命令を伝えた。しかしその後も近衛は、憲法改正案の作成にこだわり、「要項」を作成。その内容は、「人間必需ノ生活ヲ享受スルノ権利」といった明治憲法には全く見られない生存権規定もありはするが、全体として明治憲法の基本的枠組みを出るものではなかった。

 12月8日、第89帝国議会で憲法問題調査委員会の松本委員長は憲法改正の方向性を初めて公にし、

  1. 天皇が統治権を総攬という大原則は何ら変更を加えない
  2. 議会の決議を要する事項を拡大し、従来の大権事項を一定制限
  3. 国務大臣の責任は国務の全面に渡るものであり、国務大臣以外が国務に介在する余地がないこと、国務大臣は議会に対して責任をもつ
  4. 人民の自由・権利の保護を強化すること
    の4原則を示した。

 また1月21日、自由党(鳩山一郎総裁)は「憲法改正要綱」を総会で決定。

  1. 統治権ノ主体ハ日本国家ナリ
  2. 天皇ハ統治権ノ総攬者ナリ
  3. 天皇ハ万世一系ナリ
  4. 天皇ハ法律上及政治上ノ責任ナシ

という具合に、明治憲法の枠を超えるものではなかった。

 1月30日から2月1日にかけて、憲法問題調査委員会がまとめた甲案乙案を閣議で逐条審議。毎日新聞は「憲法問題調査委員会試案」全文を1面トップに掲載し、明治憲法を基本とし、多少の修正を加えたものにすぎない内容で、「あまりに保守的、現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少ないと思ふ」と評した。

 政府や保守党が大日本帝国憲法の亡霊に取りつかれているのに対し、野党や民間の憲法は民主的な憲法を模索していた。

輝きをはなった野党や民間人の憲法案

 11月10日社会党の加藤勘十は「天皇は飽くまでもその生成の沿革に鑑みて民族和親の象徴として祭典、儀礼的存在であるべき筈である」と雑誌に小論を寄稿。GHQが「象徴」を考える前に「象徴」案が存在していた。翌11日共産党は「新憲法の骨子」を発表。

  1. 主権は人民に在り
  2. 民主議会は主権を管理す、民主議会は十八歳以上の選挙権被選挙権の基礎に立つ、民主議会は政府を構成する人々を選挙する
  3. 政府は民主議会に責任を負ふ、議会の決定を遂行しないか又はその遂行が不十分であるか或は曲げた場合その他不正の行為あるものに対しては即時止めさせる
  4. 人民は政治的、経済的、社会的に自由であり且つ議会及び政府を監視し批判する自由を確保する
  5. 人民の生活権、労働権、教育される権利を具体的設備を以て保証する
  6. 階級的並びに民族的差別の根本的廃止

 人民のための新憲法を鮮明に打ち出した骨子であったが、その後共産党は「民主革命」を成し遂げることが先決と判断し、46年6月まで憲法草案を発表しなかった。

 12月10日高野岩三郎は「日本共和国憲法私案要綱」いわゆる「大統領制憲法」をまとめた。「天皇制ヲ廃シ、之ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制採用」「参考 北米合衆国憲法 ソヴィエット聯邦憲法 瑞西聯邦憲法 独逸ワイマール憲法」と記され、当時の世界の憲法の基本類型が見事に参考にされている。高野は明治4年生まれ。「私の青少年時代には我国には仏蘭西流の自由民権論旺盛を極め、国会開設要望の声は天下を風靡した」。天皇制が確立していない時代に育った高野から見れば、民主主義は当然のことであり、明治末期から敗戦に至る天皇制こそ異常なものだった。今日の日本人の天皇制への認識は、明治末期からの短期間の刷り込みによるものかもしれない。

 12月26日憲法研究会は鈴木安蔵が中心となり「憲法草案要綱」をまとめた。

  • 一、日本国の統治権は日本国民より発す
  • 一、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る
  • 一、国民は法律の前に平等にして出生又は身分に基く一切の差別は之を廃止す
  • 一、国民の言論学術芸術宗教の自由に妨げる如何なる法令をも発布するを得ず
  • 一、国民は拷問を加えらるることなし
  • 一、国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を有す
  • 一、男女は公的並私的に完全に平等の権利を享有す

 また「会計及財政」は単年度方式と会計検査院の設置が盛り込まれた。予算単年度方式は長い間、多年度にまたがる戦費で苦しんできた経験を反映している。

 この「憲法草案要綱」を首相と総司令部に届け、28日に全文が各紙に報道された。GHQは強い関心を持ち、年末の31日には翻訳を終え、民政局行政部も詳細に分析して1月11日付けでマッカーサーに報告書を提出している。これがGHQの憲法案を経由して現在の日本国憲法に大きく影響を与えたことは、多くの論者が指摘している。

 1月16日憲法研究会では、日本アナキスト連盟会長・岩佐作太郎が憲法前文として「日本国民の人権宣言」を提案。「憲法政治を断然放棄すべきだ」と主張しながら憲法前文を提案することは明かな論理矛盾だが、戦後の出発点とは「人権宣言」を出したくなるほどの解放感が感じられた時代であり、憲法研究会案がいわば「権利の章典」として、その解放感を具現していたと思われていたからではないかと古関氏は分析している。

 2月23日社会党は「新憲法要綱」を発表。統一性を欠く左右の妥協の産物だった。「主権は国家(天皇を含む国民共同体)に在り」「統治権は之を分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)せしめ、天皇を存置す」。一方で国民の生存権を打ち出し、「国民は生存権を有す、其の老後の生活は国の保護を受く」「国民は労働の義務を有す、労働力は国の特別の保護を受く」など、ワイマール憲法の影響がうかがわれる。

 3月4日稲田正次と海野晋吉が中心になり憲法懇談会が「日本国憲法草案」を政府あてに提出。作成段階で海野は、「第五条 日本国ハ軍備ヲ持タサル文化国家トス」との提案をしたが、両氏の協議で「本条を削って、その代わりに前文で平和主義を強調」することとなった。マッカーサーの「押し付け」と言われて久しい現憲法の「戦争の放棄」も案としては日本の民間草案の中に不十分ではあれ、存在していた。

 6月28日共産党は「新憲法」(草案)を発表。前文と100ヵ条から成る。天皇制の章はなく、「第一章 日本人民共和国憲法」とあり、国家の基本構造を定めている。「戦争の放棄」はないが「いかなる侵略戦争をも支持せず、又これに参加しない」とある。スターリン憲法の影響が強いが、住宅の保障なかでも「大邸宅の開放、借家人の保護」などはワイマール憲法の影響。死刑廃止、陪審制導入なども取り入れられている。

 これら野党や民間の憲法案をGHQは注目していた。

GHQの憲法草案は、今日の日本国憲法よりもはるかに民主的だった

 日本政府や与党のていたらくにしびれを切らしたGHQの民生局行政部が2月4日憲法起草に着手した。主な条文を列記すると、


第8条 国民の一主権としての戦争は之を廃止す 他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す
陸軍、海軍、空軍又は其の他の戦力は決して許諾せらるることなかるべし また交戦状態の権利は決して国家に授与せらるることなかるべし

第13条 全ての自然人は、法の前に平等である。人種、信条、性別、社会的身分、カーストまたは出身国により、政治的関係、経済的関係または社会的関係において差別がなされることを、授権しまたは容認してはならない。

第16条 外国人は、法の平等な保護を受ける。

第23条 家族は人類社会の基底にしてその伝統は善かれ悪しかれ国民に浸透す。婚姻は男女両性の法律上及社会上の争ふべからざる平等の上に存し両親の強要の代りに相互同意の上に基礎づけられ且男性支配の代りに協力に依り維持せらるべし 此等の原則に反する諸法律は廃止せられ配偶の選択、財産権、相続、住所の選定、離婚並に婚姻及家族に関する其の他の事項を個人の威厳及両性の本質的平等に立脚する他の法律を以て之に代ふべし。

第28条 土地国有

第86条 で都道府県市町の首長と都道府県市町村の議員の公選制を定めている。87条で都市町に基本法制定権を与えている。

 この第13条や16条がそのまま日本国憲法に取り入れられていれば、在日朝鮮人などへの遺族年金問題などを含む差別問題や、外国人の地方参政権問題などは、解決されていたかもしれない。

日本政府はGHQ案を受け入れて“翻訳して”日本案を作成

 2月22日閣議でGHQ案の受け入れを決定し、3月2日GHQ案を日本語に“翻訳し”たとして日本案を作成した。

  1. (象徴天皇の)「地位は、主権を有する国民の総意に基づくもの」を「日本国民至高の総意に基き」と意図的に国民主権を回避。
  2. GHQ案の「国会の制定する皇室典範」の「国会の制定する」を削除して、法律ではなく勅令または政令とした。
  3. 「天皇は内閣の助言と同意においてのみ」を「天皇は内閣の輔弼により」と明治憲法との整合をとっていた。
  4. 戦争放棄と戦力の不保持はそのまま採用。
  5. 「すべての自然人は法の前に平等」が「凡ての国民は法律の下に平等」と変更。ただし、この時点ではまだ外国人の人権は謳われていた。
  6. 表現の自由は、GHQ案は制限がなかったが、日本案には「安寧秩序を妨げざる限りにおいて」と制限された。明治憲法と変わらない。
  7. 土地国有化条項、女性の社会権条項、公衆衛生の改善義務、社会保障制度の義務化条項が完全に削除された。
  8. 「地方自治」を「地方公共団体」という用語に変え、地方自治の何たるかは憲法事項とせず、法律にゆだねた。

 3月4日、松本烝治、佐藤(内閣法制局第2部長)がGHQに日本案を説明。あまりの変更の多さに、GHQ側は逐条審議をはじめだし、松本とことごとく激論となり、松本はその場を放棄して戻ることはなかった。一人残された官僚の佐藤は、徹夜で折衝に応じた。佐藤は、「凡ての国民は」を削り「凡ての自然人は」を復活させ、GHQ案にあった「出身国」による差別の禁止を「国籍」による差別の禁止として復活させる一方で、外国人の一般的保護規定をバッサリ削除させることに成功している。そして翌日、さらには議会開会後と三段階のステップをふんで、最終的に外国人保護規定を憲法条文から完全に削り去ってしまった。おそるべきかな日本の官僚のずる賢さ。ちなみに、この徹夜の審議を経て、表現の自由はGHQ案に戻った。

 3月6日憲法草案が発表され、翌7日新聞などに掲載された。

 2大保守党の自由党と進歩党は「原則的に賛成」を表明した。ほんの2ヶ月前に「明治憲法」と大差のない憲法草案を提示しておきながら、天皇制の護持、基本的人権の尊重、戦争の放棄について「全く一致する」と厚かましいコメントには呆れてしまう。

 社会党は、「ポツダム宣言の忠実な履行と民主主義的政治に対する熱意の表明」として「賛意を表する」一方、「天皇の大権に属する事項が多きに失する」と注文を付けている。

 共産党は実質的に反対の態度を表明し、逆に天皇制の廃止、勤労人民の権利の具体的明記など5項目を提案した。

 最も肝心な憲法研究会の鈴木安蔵はかなり批判的であった。

 第1に、天皇の即位について「その都度議会の、国民の承認ないし委任をうくべきものであることを規定」していない。

 第2に、人権に関し、「民族人種による差別」禁止条項がない、経済的不平等の是正に関する規定がない、勤労者の生存権規定が具体的でない、「女性の開放・向上のためには、憲法上に、さらに徹底的な具体的な規定が望ましい」と指摘している。著者古関彰一は、草案掲載の翌日には、当時「婦人」ではなくあえて「女性」と記し、いずれも「日本化」の中で削りとられた人権をピタリと指摘していることに敬意を表している。

ポツダム宣言を具現化した日本国憲法

 4月10日戦後最初の総選挙が行われ、自由党141議席、幣原首相の進歩党94議席、社会党93議席、共産党5議席となった。また国会の外では、食糧問題が深刻をきわめ、皇居前に25万人が集まり、「食糧メーデー」が開かれた。5月22日ようやく吉田内閣が成立し、新首相の吉田や前首相の幣原はこの頃から憲法草案の基本原理を積極的に受け入れ始めた。二人とも、国際情勢を考慮に入れればこの憲法が形だけでも天皇制を護持するのに最もふさわしいと考えたと、著者古関彰一は推測している。

 46年6月に開かれた第90帝国議会で新憲法案が審議され、可決。11月3日新憲法が公布、翌47年5月3日施行された。その間の議会内での議論や、議会内で可決成立後に展開された新憲法を広く普及させる運動についても興味深いエピソードが紹介されている。ぜひ本書をお読みいただきたい。

 冒頭で述べたように、日本国憲法がGHQからの押し付けであったのかそうでなかったのかに関しては、個人的には殆ど関心がない。それよりも、ポツダム宣言との関係で日本国憲法をとらえるべきだと考えている。特に6項以降をお読みいただきたい。

 GHQからの押し付けを改憲の根拠とする人たちには、敗戦=ポツダム宣言の受け入れが認識されていないらしい。敗戦を終戦と言葉を濁して本質を誤魔化そうとする人たちに未来を語る資格はない。彼らにできることは、過去の過ちに未来をひきずり込むことだけだ。それを許してはならないことを多くの市民が自覚しはじめている。

ポツダム宣言条文 全訳

  1. われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。
  2. 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。
  3. 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。
  4. 日本帝国を破滅の淵に引きずりこむ非知性的な計略を持ちかつ身勝手な軍国主義的助言者に支配される状態を続けるか、あるいは日本が道理の道に従って歩むのか、その決断の時はもう来ている。
  5. これより以下はわれわれの条件である。条件からの逸脱はないものする。代替条件はないものする。遅延は一切認めないものとする。
  6. 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。
  7. そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。
  8. カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。
  9. 日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものする。
  10. われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。
  11. 日本はその産業の維持を許されるものとする。そして経済を持続するものとし、もって戦争賠償の取り立てにあるべきものとする。この目的のため、その支配とは区別する原材料の入手はこれを許される。世界貿易取引関係への日本の事実上の参加はこれを許すものとする。
  12. 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。
  13. われわれは日本政府に対し日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。
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『みちしるべ』富岡町の復興はるか遠い道のり**<2013.11. Vol.81>

2013年12月04日 | 神崎敏則

富岡町の復興はるか遠い道のり

神崎敏則

時計の針はピクリとも動いていない

 今では日課となってしまった、いくつかのMLをチェックしていると、福島へのツアーを募集しているメールに出くわした。早速参加希望を主催者である小林さんにメールした。目的地は福島県双葉郡富岡町。今でも線量は高いらしい。

 11月29日朝、新大阪駅6時23分発の新幹線のぞみの最後尾の車両の最後尾の座席で、西明石駅から乗っている小林さんに初めてお会いした(小林さんの募集に応じたのは僕だけだった)。東京駅で山手線に乗り換え、40分ほど時間待ちして10時発特急スーパーひたちに乗車し、12時2分にいわき市駅に到着。日差しはとても温かいが、日陰に入ると冷蔵庫の中を移動しているような冷たさだった。

 案内役の藤田さんと待ち合わせたのは、JRいわき駅前。藤田さんのワゴン車の後部座席に乗ろうとすると線量計が置いてあった。車が富岡町へ向けてスタートすると、いわき市内はほぼ0.2μ㏜前後。北隣の広野町に入ると、線量は変わらないが、道路わきの斜面などは幅1~2メートルほど草木を刈りこんでいる。いたるところに除染の跡がうかがえた。

 汚染土を包んだ黒い袋がJRのレールに沿って並べられていた。その西側には、広大な面積に黒い袋を並べた上に緑色のシートがかぶせてあった。「あのシートの下に除染袋は3段に積み上げられているんですよ」と藤田さんが説明する。

  広野町もその北隣の楢葉町も風景にさしたる差異は感じられない。除染が進んでいる中で、人々の生活が静かに確実にあった。畑は耕され、家々にも人の気配がうかがえた。 ところが楢葉町からさらに北隣の富岡町に入った途端に景色が一変した。

 海岸近くに行くと、うずたかく積み上げられたがれきの横に、建物の基礎がある。基礎以外の全てを津波にもっていかれたそうだ。その30メートルほど西には、建物の2階部分が地面に座っていた。海側の壁が抜かれたままの住宅。傾いたまま放置されている屋根。風雨にむしばまれていること、荒れた田畑に伸びる雑草の2点を除けば、富岡町の景色は、2011年3月11日の時を刻んだまま、針はピクリとも動いていない。

 小道の十字路に来た時「ここで警察が避難誘導をしていたんです」と藤田さんは説明し始めた。十字路から北へ2㍍ほとの道路わきに車の残骸があった。「これ、パトカーなんです。ここにパトカーの名残があるでしょう」と指さすその部分に、白色のボディーに黒色のペイントの帯が確かに確認できた。ボディーの鉄板が残っているのはその部分だけだった。ラジエータもエンジンもむき出しになっていた。運転席のラジオのチャンネルの上にあるはずのフロントガラスも天井も、天井に取り付けられていたはずのパトライトももちろんない。「ここで警察官2名が殉職しました。1体は沖合500㍍付近で発見されました。もう1体はまだ不明です。花が手向けられていますね」と語る。

 かつて特急が停車していた富岡駅は、改札の欄干だけがホームの手前でさびしそうにたたずんでいた。案内役の藤田大さんは「改札の横のここには駅舎があって、穴空きのガラス越しに切符を手渡す窓口があって、高校時代に毎日通ってたからすごく思い入れがある場所です。あの頃はホームに立っても海がこんなに近いとは思いませんでした」と聞き、けげんな顔をすると「駅の向こう側は家が建ち並んでいたので海が見えなかったんです。」と説明される。改札の欄干以外に駅舎で残っているのは、上り線ホームと下り線ホームをつなぐ陸橋のほか、目を凝らしてみなければすぐには分からない看板や、使用不能なトイレしかなかった。そしてかつてはあったはずの民家は基礎のコンクリートしか残されていなかった。

ゼネコンのための復興なのか

 「下水処理センターの外観はそれほど傷んでないように見えるでしょ。でもポンプや設備などはもうダメだし、中はぐちゃぐちゃなんです。震災前は富岡町の人口は1万6千人ほどで、センターの中の処理槽は3つあったんです。復興を進めるためにはとりあえずは1槽だけ稼働できるような処理センターを造ればいいはずなんですけど、国から助成を受けるとなると、震災前と同じ3槽とも稼働できるものを造るように決められている。そうすると町の予算が立たなくて、処理センターの建て直しに手がつけられない。おかしな話でしょう。」と説明される。誰のための復興なのか、町民のためであることは間違いないが、軸足が、受注するゼネコンに移動してはいないだろうか?

 富岡町は、年間線量でいえば20m㏜以下の避難指示解除準備区域、20~50m㏜の住居制限区域、50m㏜以上の帰還困難区域のどれかに指定されている。除染が始められつつあるのは、20m㏜以下の区域だ。50m㏜居住困難区域にある住宅には出入りができないように、H鋼を横たえた上にガードレールを固定し、玄関前には鉄製の引き戸がつけられ、ご丁寧に南京錠がかけられている。藤田さんは物々しさにあきれ果てて「やっぱりゼネコンのためなんだろう」とつぶやいた。

賠償金とアリ地獄

 やっと除染がはじまりだした。でも順番が気になる。小学校の広い校庭は一面7、8㌢も表土を取り除いている。藤田さんは「少し早すぎますよ」と語る。

 校門のすぐ手前にバイク屋があり屋外に5、6台のバイクが並んでいた。ブルーシートの残骸がハンドルやシートにまとわりつき、ぼろぼろに引き裂かれた青い繊維が風にたなびいていた。「ここは僕の同級生の渡部君の家で、お父さんは新潟の方に避難していたんですけど、バイクの整備やパンクの修理をしていて生計を立てていた人が、他のことでなかなか働けないでしょう。お父さん自殺したんです。」と聞かされ、返事ができなかった。

 いわき市に戻る車中で、「僕もいわきで生活していますけど、3人の子どもたちがいるのでもう富岡町に戻ることはありません。子どものいる家庭はどこもそうだと思います」と複雑な思いを語る。

 「地震や津波で家を失ったりしたら、あきらめもついてそこからスタートすっぺと割り切れるんですけど、東電という加害者がいると難しいんです」と藤田さんは言う。「事故前に夫が月収30万で、妻のパートの収入が10万で、原発事故のために仕事を失ったらその分が東電から40万賠償されます。それに子どもが2人いたら、精神的な苦痛を与えているということで一人10万、4人で40万の慰謝料が毎月もらえます。月80万ももらっていて誰が働きます?」という藤田さんの顔は悲しそうだった。東電から補償金を得ているのか得ていないのかで、理屈では越えられない深い分断が生じている。そこには信頼関係など産まれないかのような深い溝があるのかもしれない。

 藤田さんは、事故直後に原発作業員がカップラーメンなどのインスタント食品などしか食べられない状況を知り、「しっかり栄養の摂れる弁当を作って出すから、俺にやらせてくれ」と東電の本店と交渉して許可を取り付け、弁当工場を建てて専務として事業を進めている。困難な状況に立たされても、しっかりと向き合ってそれらを乗り越えてきた。

 「原発が爆発したとき、子どもたちを守らねばと思い、今から出て行くぞと家族に言うと、長男が『いやだ』と言って逃げだしたので、追いかけてひっつかまえて車に押し込みました。息子は、『仲のいい友だちを置いて自分だけ逃げだすのはイヤだ』と言ってました。最初はいわき市内のマンションの4階で暮らしてたんですけど、子どもたちは以前と同じように家の中で走り回ったりとび跳ねたりして、下の階の人に迷惑をかけてました。苦情が来たのでそれからは子どもたちが騒ぎそうになると両手で体を抱きしめて『ここでは騒いじゃなんねえ』と言っても、子どもだから言うことをきいてくれません。自分が会社に出ている昼間に下の階の人から妻がどなられて、オロオロして会社に電話してきました。すぐに自分が話ししに行きました。『家の中では騒がないようにきっちり言ってますけど、子どもだからやっぱりおとなしくばっかりはできねえ。これ以上静かにしろと言われたら、子どもたちの足をちょん切るしかないです。何かあったら直接自分に電話してください』と言いました。もう妻には言わないだろうと思っていたんですが、それから2回も言われ、妻はノイローゼになっていました。それで仕方なく一戸建てを探していたら、僕は運が本当にいいんです。すぐに良いところが見つかりました」

 一つひとつ困難を乗り越える福島県民と、賠償金に溺れる福島県民。そのどちらもが現実だ。復興という表看板の下には、県民の抜き差しならない分断が横たわっている。原発震災がつくりあげた悲劇であり、人の心の弱さを映し出した地獄絵かもしれない。誰だって、賠償金に溺れたくはないはずだ。ただ心が弱いだけだ。アリ地獄から抜け出せないでいる状況は、どうすれば改善されるのだろうか?

*****************************************************

 翌日は、いわき市内の仮設住宅に行き、そこの自治会長さんのお話を伺いました。その内容は次号にて報告いたします。

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『みちしるべ』「≪居住の権利≫とくらし」**<2013.5. Vol.78>

2013年05月02日 | 神崎敏則

「『居住の権利』とくらし」
(家正治編集代表・藤原書店出版)を読んで

神崎敏則

 本書は3部で構成されている。第Ⅰ部は、居住問題・住居の権利を震災との関連でとらえている。また世界の居住運動も紹介され、読み進むにつれて興味の対象がどんどん広がっていく。

 第Ⅱ部は、被差別と居住権と題して、住宅明け渡し裁判をめぐる問題を掘り下げている。

 第Ⅲ部は、それぞれに現場の運動にかかわってこられた方たちが書かれたコラム集となっている。

第Ⅰ部 震災と居住問題

 日本の国会でつくられた法律には、「居住の権利」という言葉は存在しない。しかし、日本政府が1979年に批准した「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際人権条約」(略して社会権条約)11条は、すべての人に「居住の権利」を保障している。

 ご存知のように、批准された条約は国内法としての効力をもつ。しかも、条約は法律に優先するから、条約に違反する法律は無効となる。日本政府は「居住の権利」を保障しなければならない。

 編者のひとり熊野勝之弁護士は「居住の権利」は、福島第一原発事故で避難した住民に①「元の場所に戻る権利」、②「原状回復を求める権利」を保障し、③日本政府には「避難させる義務」を課している。そして、そもそも原発を住居から22km(この数値の根拠は読み取れなかった)の範囲内に建設させることは許されなかったと主張する。

 伊方原発訴訟では、「炉心から敷地境界までが700m」しかないとの原告の主張に対して、被告側は、原発はそもそも事故を起こさないし、「万々一」の事故でも半径700mの外に有害な放射能が出ることはないと豪語した。熊野弁護士によれば、「居住の権利」が確立できるかどうかが、原発政策の分岐点のようである。これ程重要な権利でありながら、その存在は意図的に隠されてきた。

六法全書の透き間から「居住の権利」が発見された

 「居住の権利」は、1995年1月17日の阪神淡路大震災によって「発見」された権利である。

 阪神淡路大震災で、一挙に多数の人が住居を失い、公式の避難所へ入れなかった人々は公園や学校に住まざるを得なかった。神戸市は山奥の仮設住宅に追い込もうとしたが、その仮設住宅の建設戸数は、厚生省事務次官から都道府県知事あて通知により「全焼全壊住宅の最大限3割以内」に制限されていた。学校や公園に住み続けた被災者は、ある朝突然「不法占拠になるから出ていけ」と言われても、行き場がない。その時、六法全書の透き間から社会権条約11条1項「居住の権利」が発見された。

 この発見は、被災者を救済したのだろうか。

 阪神淡路大震災では、国連NGOの調査団を招き、また政府報告書審査に合わせてカウンターレポートを国連へ提出するなど運動と相まって、公園など不法占拠と決めつけられていた場所に「住み続ける権利」が、一定程度確保された。

 また、京都府下ウトロの在日朝鮮人の集落は、判決で負けながらも、運動と相まって「住み続ける権利」が確保されつつある。

 被災者が仮設住宅で孤独死を招いたことの反省から、山古志村などのその後の震災では、被災者がコミュニティーを維持する上で一定の役割を果たした。

 第Ⅰ部の3番目の執筆者である早川和男さんの文章が鋭く、厳しい。

 1974年神戸市が委託した、大阪市立大学理学部と京都大学防災研究所による報告書には、「神戸周辺では都市直下型の地震発生の可能性があり、(中略)壊滅的な被害を受けることは間違いない」と明記され、『神戸新聞』も1面全頁を使って報じたが、宮崎神戸市長は無視した。

 1979年には三東哲夫・神戸大学教授は兵庫県への報告書に「六甲山系西南西~東北東方面に並走している多くの活断層の再活動はそう遠くなく、規模も大きいことが予想される」と記した。

 更に85年には京大防災研究所の佃為成さんが「兵庫県下など近畿地方にはM7クラスを超える大地震が発生してもおかしくない条件がそろっている」と警告した。これらの警告を行政側はことごとく無視した。

 「『阪神』での地震による直接の犠牲者5502人の88%は家屋の倒壊による圧死・窒息死、10%は零細密集住宅地での焼死、2%の大部分は落下物によるものであった。阪神淡路大震災は明らかに『住宅災害』で、市場原理・自助努力による住宅政策の結末」だと断じている。そしてその犠牲者は、高齢者、障害者、低所得者、在日外国人、被差別住人など、日常から住居差別を受けている人たちに多かったことをデータで示している。
震災の犠牲者が社会的弱者と言われる人たちに偏在しただけではない。復興でも偏在した。仮設住宅は、居住地から離れたところに建てられ、生活再建が厳しい人から入居したことにより、それまでのコミュニティーが寸断され、独居老人の孤独死が大きな問題となった。「地代は要らないから仮設住宅を自分の私有地に建て、自分と他の人たちと一緒に住みたい、という申し出を行政は拒否した。私有地に建てると後で権利関係が錯綜するというのが主な理由であった」。

 一方、山古志村の取り組みを経て「東日本」では、民間賃貸住宅を仮設住宅とする「見なし仮設」の制度ができた。大きな前進面のようだ。2008年現在、全国で800万戸近くの空き家があり、「見なし仮設」のように、家賃補助、住宅の耐震化、障害者対応その他によって社会的活用が本格的に図られるべきだと、早川さんは主張する。

第Ⅱ部 被差別と居住権

 1996年公営住宅法の改正により、応能応益方式に変更され、一定の収入がある世帯は公営住宅への申し込みをできなくする一方、すでに公営住宅に入居している世帯に対しては、収入に応じて家賃を高額化することで、公営住宅から追い出そうとした。例えば奈良市F地区では、1万円余りだった家賃が最高で10万円を超え、寝屋川市K地区では17倍もの値上げとなった。

 これに対し、住宅家賃値上げ反対全国連絡協議会(以下、同住連)は、98年5月、応能応益家賃制度を撤廃させることを目的に、全国で18の地域、約1000名の住民によって結成され、福岡県、山口県、広島県、兵庫県、大阪府、奈良県下の15地区で家賃を供託し、市を相手に11年にわたる裁判を闘ってきた。

 判決は、家賃支払い請求についてはすべて住民が敗訴したが、市が住宅の明け渡しを求めた裁判では、西宮市などの一部を除いて、ほぼ住民の勝訴が確定した。

 住宅家賃値上げ反対運動のキーワードはアファーマティブアクションである。

 そもそも地区の平均収入が他と比べて明らかに低額なので、その是正措置として住宅家賃が低額に設定されていた。1997年、政府は「格差が是正された」ことを理由に、同和対策事業を打ち切り、住宅家賃値上げをおこなったが、その認識が間違っている。下表が格差の存在を明確に示している。

地区と全国平均世帯収入の比較

失業率

 

全国平均

地区

収入比較

全国平均

地区

1990

527万円

303万円

58%

3.1%

3.2%

2000

617万円

320万円

52%

4.8%

9.5%

 吉田徳夫・関西大学教授は、問題の歴史をさかのぼり、特に、明治政府のナショナリズムと排外主義と差別裁判の関係性を論じている。執筆者の論旨を理解できていないのだが、深い問題がそこに広がっていた。現在も直面している課題、それは「個人を尊重すること」である。

 とても刺激的な書籍でした。

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『みちしるべ』≪死の淵を見た男≫**<2013.5. Vol.78>

2013年05月01日 | 神崎敏則

『死の淵を見た男』
(門田隆将著・PHP出版)を読んで

神崎敏則

69名が死を覚悟して免震重要棟に残った

 事故から4日目の3月14日午後、2号機の格納容器の圧力が再び上昇し始め、22時50分原災法15条に基づく通報がなされたことが東京本店から発表された。この時、吉田所長は格納容器爆発という最悪の事態を想定した。協力企業の人たちに帰ってもらうことを決意し「いまやっている作業に直接、かかわりのない方は、一旦お帰りいただいて結構です。本当に今までありがとうございました」と大きな声で叫んだ。その場にいる周囲の誰もが、最期が近づいていることを肝に銘じた。吉田は「こいつなら死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう。」と、それぞれの顔を思い浮かべていた。

 翌15日朝6時過ぎ、2号機のサブレッションチャンバーの圧力が0になった。何らかの損傷を起こしたことは間違いない。吉田は「各班は、最小人数を残して退避!」と指示した。およそ600人が退避して、免震重要棟に残ったのが69人だった。

 私たちは彼らに感謝しなければならない。福島第一原発の今回の事故は、彼ら69人によって最悪の事態を回避することができたのだ。

北海道と西日本しか住めなくなるぎりぎりの状態だった

 吉田昌郎は東京電力の執行役員で福島第一原発の所長を担っていた。東京電力の役員会議でもずけずけ本音で物を言うと評判だった。

 吉田は事故から8か月後、突然食道がんの宣告を受けた。2012年2月に食道がんの手術を受けた。退院して治療に専念していたが、7月に脳内出血を起こし2度の開頭手術と1度のカテーテル手術を受けた。

 著者は脳内出血を起こす前の吉田にインタビューしている。吉田は、「最悪の事態」を「格納容器が爆発すると、(中略)人間がもうアプローチできなくなる。福島第一原発に近づけなくなりますから、(中略)単純に考えても“チェルノブイリ×10”という数字が出てくる」想定していたとしみじみと語った。

 著者は吉田のこの話を斑目春樹・原子力安全委員会委員長(当時)に伝えると、「福島第一が制御できなくなれば、福島第二だけではなく、茨木の東海第二発電所もアウトになったでしょう。(中略)汚染によって住めなくなった地域と、それ以外の北海道や西日本の三つに(中略)分かれるぎりぎりの状態だったかもしれないと、私は思っています」と語った。

 繰り返すが、15日の朝免震重要棟に残った69人に本当に感謝している。彼らが死を賭して事故にあたらなければ、少なくとも東海地方から青森に至るまで、壊滅していた。しかし、事業者である東京電力は、あるいはほかの電力会社はこの事実をどう受け止めているのか?

 二度と同じことを繰り返さない、労働者を死の淵に追いやらないと、まずは宣言すべきではないか。その決意の表明もないままに、原発を再稼働させることは許されない。再稼働そのものにあくまで反対だが、無理やり再稼働させるからには最低限の条件として、二度と一人の労働者も死の淵に追いやらないと決意表明する義務がある。事業者としての最低限の義務だ。労働者の死を前提にした事業などあってはならない。

 安全対策を徹底的におこなう。仮にその経費が莫大なので安全対策ができないと判断するのであれば、その時点で原子力発電から撤退する。電力会社が選択できるのは、この二つのどちらかしかない。安全と経費が天秤にかけられてはならない。安全が優先出来ないのであれば、原子力事業からの撤退しか選択肢は残されていないのだ。安全が優先できないけれども事業を展開するということは、いざという時は現場の労働者が犠牲的精神を発揮して死を覚悟して事故にあたるだろうと、想定していることと同じだ。福島第一原発の今回の事故は、制御できなくなった原発はそれほどに暴走することを世界中に知らしめたのだ。

 さて、安全対策についてもこの本の中にヒントが一つあった。

海水をかぶっても運転できるポンプをバックアップとして備えるべき

 非番の当直長・平野は、地震発生直後に車で駆けつけた。その平野ら3人は電源を必要としない消火ポンプを運転して冷却しようと試みている。実際に消火ポンプ室に行き、エンジンを起動させた。エンジンはセルモーターで起動させる構造だ。そのセルモーターはポンプの横にある小型バッテリーで起動し、ポンプを運転できたのだ。

 冷却水ポンプのバックアップ用に、電源を必要としないエンジンで運転するポンプを常設すべきだ。小型バッテリーはもちろん装備はするが、併せて、手引きでも始動できるように起動用のワイヤーも装備する。エンジンが起動すれば、最初はポンプを回すのではなく、配管の途中に取り付けられているバルブをエンジン動力で開操作できるように、ギアを取り付けておけば、短時間でエンジンポンプによる注水が可能となるだろう。

不屈の精神を持ち合わせていた現場労働者に依存するのは止めよう

 吉田昌郎所長は素晴らしい快男児だ。高校時代、般若心境をそらで覚えていた。座右の書は道元の『正法眼蔵』で免震重要棟にももち込んでいた。若い頃から仏教を精神的なよりどころとしていた。どんな困難からも逃げ出さない、その不屈の精神は宗教を通じて培ったのだろう。彼なくして、事故を現在の規模に抑え込むことはできなかったのかもしれない。

 くど過ぎるかもしれないが、吉田所長や免震重要棟に残った69名の労働者たちの誠実さや勇敢さや義務感に依存するのは止めよう。私たちは彼らを尊敬するし、深く感謝するが、それを前提にした原子力事業などまっぴらだ。

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『みちしるべ』三菱兵器住吉トンネル工場 歴史から学ぼう**<2013.1.Vol.76>

2013年01月02日 | 神崎敏則

三菱兵器住吉トンネル工場 歴史から学ぼう

神崎敏則

トンネルの入り口。現在のトンネルは被曝遺構として整備され、一般に公開されている。

トンネルの中に展示されている魚雷。

  西宮市に戦時中に掘削された地下壕がはりめぐらされていることは有名だ。K.M.さんが地下壕内での説明会(?)に参加されたご報告を読ませていただいたのもこの『みちしるべ』だったと思う。戦時中の地下壕とは西宮市の特有のものだと、僕は勝手に思い込んでしまっていた。今年の正月に長崎の実家に帰省した際に、長崎にも同じような地下トンネルがあることを初めて知った。

 戦争末期、戦争を継続させることを目的に、軍需工場の疎開、分散、地下移設などで軍需生産の長期確保と強化を図ることが当時の内閣で決定された。その決定を受け、1944年にこの三菱兵器住吉トンネル工場の掘削が始まった。

 長崎の比較的中心部に近い三菱長崎兵器大橋工場の機械を疎開させるために、三菱兵器住吉トンネル工場が造られた。高さ3m、幅4.5m、長さ300mのトンネルが約12.5mの間隔を隔てて並行して6本掘削され、その中ほどで各トンネルをクロスした横穴でつながれていたそうだ。

 8月9日の原爆投下時には、1,2号トンネルはすでに完成し、780台余りの機械が移され、魚雷の部品が製作されていた。3,4号トンネルは貫通していたが未使用、5,6号トンネルは掘削工事中だった。トンネルの掘削は、朝鮮半島から強制連行された人たち約800人に従事させていた。

 2010年1月1日の長崎新聞の記事を引用しよう。「長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)会長の谷口稜曄(80)は、当時をこう振り返る。岩盤を掘削する過酷な労働には主に朝鮮半島出身者が動員され、粗末な小屋で寝起きした。戦後、関係者に聞き取りし、証言集『原爆と朝鮮人』をまとめた《在日朝鮮人の人権を守る会》は、少なくとも800人の朝鮮人が掘削に従事し、大半は日本に強制連行された人々だったとみる。守る会代表の高實康稔(70)は「彼らの労働環境は衣食住の劣悪さという一言に尽きる」と指摘する。

 第二次世界大戦の末期、日本の敗戦は確定していた。1945年3月10日東京大空襲では10万人以上の犠牲者を出した。3月12日に名古屋大空襲、13日には大阪大空襲も始まった。3月26日には沖縄の座間味島などへの米軍上陸作戦により、沖縄戦という玉砕戦が幕を開けた。敗戦が必至なのは、軍部も政府も充分すぎるくらい認識していた。しかし、敗戦を受け入れることができなかった。

 8月6日に広島に原爆が投下され、9日に長崎に原爆が投下され、同日未明にはソ連が参戦していた。ここでやっと日本政府は敗戦を受け入れた。すでに、あまりにも大きな犠牲を払いすぎた後で。

 3月11日の福島第一原発事故後でありながら、政権に復帰した安部首相は、原発推進に切り戻している。第二次大戦の末期を再現してはならない。再び大きな犠牲が出る前にこの流れを止めようではないか。

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『みちしるべ』**白秋と民衆、総力戦への「道」**<2012.11. Vol.75>

2012年11月01日 | 神崎敏則

白秋と民衆、総力戦への「道」

「詩歌と戦争」(中野敏男;著)より

神崎敏則

 頭の中が釈然としないまま、6月26日に尼崎市議会で「日の丸条例」の修正案が可決されてしまいました。保守系会派「新政会」から議会に提案されたのが2月20日。それから急しのぎで「STOP日の丸条例・尼崎市民緊急行動」が立ち上げられ、僕もできる限りの参加をさせてもらいました。

 橋下大阪市長の影響に感化されて勢いづく保守議員。抗議集会や座り込みを妨害しに来た、排外主義を公然と主張するネット右翼グループ。従来の尼崎の運動の局面とは異なる状況が多々ありました。しかし一番驚いたことは、駅頭で宣伝活動をおこなうと「日の丸条例」を批判する訴えに対して反発する市民が少なからずいたことです。ナショナリズムと排外主義は意外に浸透していました。この「STOP日の丸条例」の運動の中で、なるほどと感心させられることも多々ありましたし、こんなすごい人もいるんだと思える人と出会うこともできました。かえすがえすも、修正案が可決されてしまったことはとても残念でなりません。でもその一方で、これから多くの市民と一緒にどんな運動を展開していくのか、この問題意識を自分の中にしっかりと根付かせたいと思っています。

 そんな時に中野敏男著『詩歌と戦争』(NHKブックス)という本に出会いました。

一 しずかな しずかな 里の秋
  お背戸(せど)に 木の実の 落ちる夜は
  ああ かあさんと ただ二人
  栗の実 煮てます いろりばた

二 あかるい あかるい 星の空
  鳴き鳴き 夜鴨(よがも)の 渡る夜は
  ああ とうさんの あの笑顔
  栗の実 食べては おもいだす

三 さよなら さよなら 椰子の島
  お舟に ゆられて 帰られる
  ああ とうさんよ 御無事でと
  今夜も かあさんと いのります

 これは日本人なら誰もが知る『里の秋』の歌詞です。1945年12月24日に「外地引揚同胞激励の午後」というラジオ番組で初めて放送されました。国民学校の教師をしていた斎藤信夫が作詞したそうです。当日から反響が絶大で、『里の秋』は童謡としては珍しい「大ヒット曲」となっていきました。しかしこの『里の秋』には『星月夜』という原作品があることをこの本を読んで初めて知りました。

 1941年12月に同じ斎藤信夫によって作詞された『星月夜』は1番と2番は『里の秋』と同じなのですが、3番と4番が次のようになっていたそうです。

三 きれいな きれいな 椰子の島
  しっかり 護(まも)って くださいと
  ああ 父さんの ご武運を
  今夜も ひとりで 祈ります

四 大きく 大きく なったなら
  兵隊さんだよ うれしいな
  ねえ 母さんよ 僕だって
  必ず お国を 護ります

 日米開戦という状況下で、戦争遂行に貢献したいと願う軍国少年の心情を表した翼賛詩歌として作られていました。しかしそれは斎藤信夫個人の特異性ではありません。

 戦前戦中の翼賛体制の中で、軍部や特高によって切り刻まれるように言論を弾圧されてきた歴史があるのも事実ですが、文学者や作曲家や演奏者、新聞・ラジオなどのマスメディアを含めて、自ら進んで戦争協力に邁進していった大きな流れもあるのだそうです。

 1931年の満州事変により、国民総動員の総力戦の「十五年戦争」に突入した流れは、著者によれば1923年の関東大震災を起点にしているのだそうです。当時は大正デモクラシーの真っただ中で、

  • 1920年「十五夜お月さん」
  •   21年「赤とんぼ」「どんぐりころころ」「青い目の人形」「雀(すずめ)の学校」「夕日」
  •   22年「砂山」「赤い靴」「シャボン玉」「黄金虫」
  •   23年「春よ来い」「月の砂漠」「おもちゃのマーチ」「肩たたき」
  •   24年「からたちの花」「あの町この町」「兎(うさぎ)のダンス」「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」
  •   25年「ペチカ」「雨降りお月さん」「アメフリ」
  •   26年「この道」

など、私たちが子どものころに覚えた、懐かしい童謡が発表されていました。

 1925年8月7日、北原白秋は鉄道省主催の樺太観光団の一員として樺太・北海道の旅に出ます。その2日前の8月5日、後の昭和天皇裕仁(当時は摂政裕仁)が初めての樺太訪問に向けて最新鋭戦艦長門に乗艦し横須賀港を出発していました。時の摂政裕仁は、当時病状が進行していた大正天皇の代行として日本各地に「巡啓」「行啓」を重ね、行く先々で国民は数千、数万の単位で集まり、日の丸の旗を振り、最敬礼をして君が代を斉唱し万歳を叫ぶ、「臣民」としての経験を体感することが繰り替えし実践されていました。

 植民地の拡大を目指して進んでいた大日本帝国の歩み=摂政裕仁の樺太巡啓と白秋の旅が実際の旅程において重なり合いました。白秋は樺太からの帰途に立ち寄った北海道での感慨を基礎に「この道」を創作しました。

この道

 この道はいつか来た道、
   ああ、そうだよ、
 あかしやの花が咲いている。

 あの丘はいつか見た丘、
   ああ、そうだよ。
 ほら、白い時計台だよ。

 この道はいつか来た道、
   ああ、そうだよ、
 母さんと馬車で行ったよ。

 あの雲はいつか見た雲、
   ああ、そうだよ。
 山査子(さんざし)の枝も垂れてる。

 この道とは、異郷の地である樺太とは違う北海道の道であり、「いつか来た」と感じてしまうほどの郷愁を抱かせる風景でした。そして樺太という植民地の道は、その後の白秋の中では、天皇が「知ろしめす道」へと発展(??)していくのです。

 25年10月28日の白秋は『都新聞』に「明治天皇頌歌」を発表します。

一 大空の窮(きわ)みなき道、わが日(ひ)の本(もと)の、
  天皇(すめらみこと)の神(かん)ながら知(し)ろしめす道。
  故(ゆえ)こそ畏(かしこ)き大御心(おほみごころ)
    仰(あふ)げや、国民(くにたみ)。
    崇(あが)めや、諸人(もろびと)、
    われらが明治の大(おほ)き帝(みかど)を。

四 まつろはぬ、陵威(いづ)のまにまにうち平(ことむ)けて、
  四方(よも)を和(やわ)すと高領(たかし)るや恩沢(めぐみ)うるほう。
  故こそ正しき大御軍(おほみいくさ)。
    仰げや、国民。
    崇めや、諸人、
    われらが明治の大き帝を。

 ここで表現されている道とは、大空にきわみがないのと同じように、日本の天皇が支配する道もまたきわみなくどこまでも続く道だと高らかに宣言しているのでしょう。嫌悪感で寒気がします。

 そして26年2月、詩人北原白秋は「建国歌」と題する作品を発表しました。

一 そのかみ天(あめ)つち闢(ひら)けし初め、
   げに萌えあがる、葦禾(あしかび)なして、
   立たしし神こそ、
   国の常立(とこたち)。
      いざ、
      いざ仰(あふ)げ、起(た)ち復(かえ)り、
      かの若々し神の業(わざ)を。

四 爾(ここ)にぞ、明治の大(おほ)き帝(みかど)、
  げに晴れわたる、青高空(あをたかぞら)と、
  更(さら)にし照らさす、
  四方(よも)の八隅(やすみ)に。
     いざ、
     いざ仰(あふ)げ、起(た)ち復(かえ)り、
     わが弥栄(いやさか)の日の出(づ)る国を。

 思わず眉をひそめてしまうくらいの、あまりにも露骨な天皇賛美の作品です。

 震災後という状況を脱して平時に復帰するのではなく、本格的な総力戦とそれへの総動員の時代が始まろうとしていました。詩人白秋とそれを読む日本の民衆の心情の変化をうかがい知ることができる本です。

 現在の私たちが直面する課題にそのまま当時の状況を当てはめることはできません。しかし、ナショナリズムや排外主義の影響を受ける国民が多数となってしまうのか、それとも少数に封じ込めることができるのか、私たちはその局面に今立たされているような気がしてなりません。本誌「みちしるべ」が指し示す道とはどんな道なのでしょうか。

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