スペイン舞曲を聴きながら(斑猫独語64)
澤山輝彦
常磐道が全線開通《富岡⇔浪江間 3月1日》。東日本大震災と福島第一原発事故の影響で建設が一時中断した常磐自動車道が当初より三年遅れで開通した。復興事業の加速が期待される。開通区間には「問題の無い数値」の被爆をうける区間があるという。以上、毎日新聞3月2日朝刊による。道路問題に取り組んできた者として、こんな記事はちゃんと目に入る。反対運動もあったのだろうな、なんて考えるのだ。復興事業の加速という言葉が出るとこれに逆らうのはむつかしいところであるが、この記事と同じ面に、今週の予定という欄にJR山田線宮古⇔釜石間の復旧工事の着工式とあるのを見ると、現地の人々の日常にそった復興というものは、まだまだなのだと私は思う。さらにこの3月2日号2面コラム「風知草」は「去っていく男」と題して京大原子炉実験所の小出裕章助教の退官と小出の反原発の取り組みを書き、エネルギー消費拡大を懸念する小出と共に、エネルギー消費の維持拡大を前提に原発を守れという官民による日本の原子力複合体を批判している。このコラムのような記事を、来る日も来る日も堂々と毎日、第一面にキャンペーンする新聞がほしい。広告掲載で持つという新聞経営ではしかたがないのであろうが、新聞は公器であると言ったりするんだからあきれるし歯がゆいのである。
もう一つ2月28日、毎日新聞記事から。岩国市であったことだ。第三セクターの鉄道に委託して運行していた「住民交通バス」。最終便の乗客がいなくなると、途中で運行を打ち切り車庫へひきあげていた。それは18年間つづいていたという。それが苦情で発覚したのだ。18年は長い。その間苦情は出なかったのだろうか。供給者、利用者ともなんらかの見直しをするという知恵は働かなかったのだろうか。地域のバス問題、これは岩国の「住民交通バス」だけの問題ではない。わが大和団地にあってもバス問題は発生している。利用者が少ない、赤字である、そして改善のための路線変更もままならない、そんなことを抱えているのだ。いずれも弱者へしわ寄せが行く。過疎地、限界集落など、遠くへ行かなくても高齢者社会が進むと今住む地域が過疎地、限界集落と似たり寄ったりの集落に陥ってしまうおそれがあるのだ。地方にも国にも弱者を大事にする政治が必要なのだ。
これを書きながらBGMとしてスペインの作曲家グラナードスのスペイン舞曲を流している。もう一昔前になるが、一時FM放送をよく聞いた。そして気に入った音楽を録音した。今は三本カセットテープが残っているだけ。一つは前記グラナードスのスペイン舞曲、他の二つは広瀬量平と柴田南雄の現代音楽である。このスペイン舞曲は12曲からなるピアノ曲で、今はなきアリシア・デ・ラロ―チャ、グラナードスの孫弟子にあたるというおばちゃんの演奏である。12曲のうち5番のアンダルーサが有名だが、私は10番が好きだ。「なかなかいいもんです」。音楽に限らず芸術一般に言えることですが、好きだとか嫌いだとかは一人ひとりの勝手ですから、なかなかいいもんです。なんて書かれれば、勝手に言うとれ、と以前は思ったのですが、今、自分が書きました。どうぞ勝手に言うとれ、と思っていただいて結構です。作曲者グラナードスは第一次世界大戦中、アメリカから帰国中の英仏海峡で、ドイツの潜水艦によって沈められた船に乗っており亡くなっています。そういえばジャズオーケストラのグレンミラーも第二次世界大戦中、飛行機事故でなくなっています。
グラナードスやグレンミラーなどのいわゆる有名人ではなく、もっと身近な人を戦争で奪われた人々をたくさん知っています。人を大事にしない戦争、人を消耗品扱いする戦争、戦争は絶対してはならない、戦争を放棄した日本国はすばらしい国なのです。だのに、戦争を放棄した憲法を改正し戦争のできる国にしょうとしているのが、現政権です。軍靴の響きなどいらないのです、聞きたくないのです。
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