『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(51)**<2008.5. Vol.52>

2008年05月07日 | 横断車道

3月末、芦屋川トンネル工区を除き、市道『山手幹線』が全線開通。今回の開通は、JR芦屋駅北から阪急夙川駅南にかけての、芦屋・西宮市境部分だ。芦屋市では交差する稲荷山線に信号がなく、大事故が懸念され、稲荷山線側を閉鎖・遮断しての供用となった。おかげで交差点を横断しようとする歩行者は、数百メートルも東西に移動しなければならない▼慌てて供用する自治体には、市債を発行して建設し、市債の償還時に国からの補助金を貰うという、財政事情がある。財政逼迫させてまで、造る道路なのか。道路行政に詳しい者なら知っているが、『阪神間縦6軸・横6軸高規格幹線道構想』により、昭和21年の都市計画決定を掘り起こしたもの。芦屋よりの神戸に、阪神高速湾岸線の六甲アイランドから、阪神高速北神戸線の有馬ジャンクションまで、全線トンネルの自動車専用道路(東神戸トンネル)を造る予定があった。また、武庫川沿いに阪神間南北道も予定された。そのアクセス道路として、『山手幹線』が浮上した▼東神戸トンネルは当初、阪神高速道路公団が造るとされた。しかし、公団赤字が莫大に拡大し、神戸市道路公社に白羽の矢が当たった。が、神戸市も神戸空港の市債(借金)の償還の目途もなく、受けることができず、東神戸トンネルは白紙に。阪神間南北道も圧倒的な住民の反対運動にあい、関係市は動くこともできず、事実上の白紙状態である▼アクセス道路の『山手幹線』だけが、チマチマと造られてしまった。国民的・市民的常識では、本体が白紙なので、『山手幹線』も中止である。それが、動き出した公共工事は止まらないという、日本政界の非常識。日本には掃いて棄てる程のお金が、実際に有り余っている。ただ、庶民のためには使われないだけ。それどころか、もっと無駄遣いをするために、『姥捨て山医療制度』などをやる始末▼ところで、この『山手幹線』の芦屋・西宮市境で気になることがあった。市道なので両市で規格が違っている。あの芦屋ブランドが聞いて泣くのだが、街灯一つとっても、西宮市側のほうが立派である。震災で赤字を続けていた西宮市は、年間数十億の黒字になってきている。どうやら120億円ほど埋蔵金を溜め込んでいるらしい。方や芦屋市は、高額所得者の流出で、市財政が逼迫している。それで、何のための『山手幹線』か▼地に落ちた実際と、ブランド力に頼る芦屋市。西宮市を飛び越えて、尼崎市は『公害の街』のイメージが定着している。しかし、現在の尼崎市は、大工場の殆どが流出し、町工場もめっきり少なくなっている。むしろ、市北部の田園地帯は、西宮市よりも情緒のある田舎町を保っている。イメージと実際は乖離しても、人々の思いは旧態依然として引きずられているようだ▼思いはともかく、金余りの日本だが、庶民生活を苦しめる税と使い道は、そろそろ変えなくてはなるまい。(コラムX)

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『みちしるべ』**御礼、これから**<2008.5. Vol.52>

2008年05月06日 | 澤山輝彦

御礼、これから

 皆さんのご支援によって「みちしるべ」も52号の発行を迎えることが出来ました。「山手幹線の環境を守る西宮市民の会」の“I”さんから寄付を頂きました。ありがとうございました。会費で賄う「みちしるべ」ですが、これまでにも多くのご寄付を頂いています。あらためて御礼申し上げる次第です。30号発行時には祝賀行事をしましたが、一区切りの50号ではその機を逸しました。60号発行のおりには盛大に・・・・・。

 ともかく、多くの皆様にお読み頂いているのを励みに、今後ともより充実した紙面で皆さんのご支援に答えたいと思っています。

2008年5月 編集担当者
世話人一同

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『みちしるべ』斑猫独語(34)**<2008.5. Vol.52>

2008年05月05日 | 斑猫独語

澤山輝彦

<つかいまわし>

 特定の集団や社会にのみ通用する言葉を隠語と言う。同業者間で使われる業界用語と言われるものも隠語の一種であろう。それらの言葉は仲間同士では分かっても仲間以外には分からないから秘密が守れる、また仲間であることを確認する役目も果たすのだ。

 デカやサツ、これは悪者側が使った隠語。対する警察側はホシなどと言った。今日、これらは知れ渡りもう隠語とは言えなくなったようだ。

 最近私は「あごあしつき」という言葉を聞いた。あごは物を噛む顎で食事のこと、あしは足代で交通費のこと、それで出演料は無いが、食事と交通費のみでショーなどにその他大勢で出る人のことだ、と説明を受けた。「あごあしつき」で華麗なショーのバックを支える人々がいる、そんな人々のけなげさが感じられる。

 「吉兆」から飛び出した「つかいまわし」という言葉、特に隠語めいているわけではないからよけい不気味に響く。これが飲食業界の業界用語だったら、外での食事には疑心暗鬼がつきまとう。

 昔、父は宴会の残り物を折につめて持って帰ってきた。今、このことはなくなった。もし、手つかずで奇麗な食べ残しを「もったいない」から「つかいまわし」をしたと言うのなら、折に詰める、という手があるではないか。業界に対する疑心もなくなり暗鬼も消える。小さな家庭平和に寄与するかもしれない。「そんな甘いもんやおまへん!」食中毒など食品衛生上の問題があるなどと反論は知っている。でもなあー。

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『みちしるべ』旧約聖書にひかれシナイ山に登ることになった**<2008.5. Vol.52>

2008年05月04日 | 藤井新造

旧約聖書にひかれシナイ山に登ることになった

芦屋市 藤井新造

 今回のシナイ山登頂で、これほど肉体的にしんどさを体験したのは久しぶりである。20才代の時、北アルプスの雲の平のふもとにある太郎小屋で泊まり、早朝薬師岳に登り槍ヶ岳を目指して西鎌尾根づたいに歩いている時、はるかかなたに槍ヶ岳の小さい穂先を見て、今日中に着けるかなあーと不安を抱き心配しながら歩いた時があった。案の定、夕方槍ヶ岳の手前までたどり着いたが、その時身体のバランスがとれなくなり、歩くという姿勢ではなく這うようにして山小屋に転がりこんだ。その時、やっと着いたという安堵感しかなく、山登りの快感など味う余裕などなく、早く身体を横にして休みたい気持でいっぱいであった。それでも、その日に槍の穂先に登っているので、そのことができたのは若さによる所以であったろう。

 そのことの苦い経験を、今回のシナイ山に登りながら思い出し、歩き出しながら途中で何回ともなく引き返すことを考えた。ツアーの添乗員から「しんどかったら8合目まで登って、そこで日の出を見ても美しいから」と言ってくれていた。

 2,200mのシナイ山は、1,500mまでバスが行きそこから徒歩で登る。勿論、ラクダを利用して8合目まで行く人も多い。8合目からは殆どの人が徒歩である。多くの人が、次から次ぎへと後から歩いてくる。後ろから登る人に道を譲りながらこちらはゆっくりマイペースで歩く。それでも息はあがり、足は重くなり前へ進めるのが大変である。私はツアーの一行が登るのであれば、普通の人々位は歩けると軽く考えていたのだが、それが甘かった。この登山は、砂と小石、全て石段(薄い岩板)なので歩きにくい。それと登山道は、途中少し下る短い箇所が一つあるのみで、往路全てが登り道で水平に歩く所はない。悪いことに私はカジュアルに近い靴底のものを履いていた。他の人は靴底の厚い登山靴に近いもので歩いている。登山しかけてすぐこの靴で「失敗したなあー」と思いを強く持ったが、時既に遅しである。

 登山を始めたのが多分午前2時30分位であった。大勢の人が懐中電灯で足元を照らしながら登っている。まるで「蟻の行列」の如く懐中電灯のあかりが蛇行している。上述したように登り坂一方的なので、体力的にきつく仕方なく休みの時間を多くとった。30分に5分の休憩の間隔をとる予定でいたが、休憩時間をとる回数が多くなり、次から次へと登ってくる人に追い越されて行く。登頂寸前の終わりの方では5分歩いて2分休憩をする惨憺たる有り様である。情けないという他なしとはこのことである。それでもやっと登頂できたのは5時30分頃。3時間を要したということか。

 12月の初めの冬の季節、山の頂きは、気温0度前後といっていたので、多分そのあたりであろう。私は防寒用の上着と、下に厚着していたので寒さはさほど感じなかった。しかし日の出が6時20分頃と聞いていたので、それまで相当の時間がある。その間「毛布はどうか」と現地語(?)で貸してくれる誘いがあるが、体感温度は下がるようでもなく断った。登頂している人がいろんな言葉で会話を交わしている。私には英語とフランス語らしきもの、そして中国語らしき会話を交わす言語の区別ぐらいわかっても、内容は全然理解できない。会話の相手はつれあいだけなので、沈黙したまま日の出を待っていた。

 周辺が少し薄っすらと白みはじめると、山々の稜線がくっきりと浮かびあがってくる。ガイドブックによると、今私が立っているシナイ山は、モーゼが神より十戒を授かった山かどうか正確には判明していないらしい。だが、私はそのことはどうでもよく、自分勝手にここでモーゼが神の啓示を受けた所と想像した。明かりがますにつれ、周辺の山々は皆岩山であることがわかる。木も草もなく、岩ばかりの荒涼とした風景である。これらの岩山は、世のあらゆるわずらわしを削ぎおとしそそり立っている。それも日本の岩山は幾分なりと雨の影響で軟らかな感触があるが、ここは何ヵ月も降雨がなく乾いた土地にふさわしく日乾煉瓦と同じく茶褐色をしている。それも険しい山々ばかりである。この岩山は何千何万年もの大古の昔から今ある姿で屹立しているのであろうか。

 私は旧約聖書にでてくるモーゼが神に呼ばれ、シナイ山に一人で登り「十戒」の啓示を受けた場所に確かにいるはずである。しかし今頂上ではご来光を待ち、カメラのシャツターを切る用意をしている人々で溢れている。あたりまえであるが、騒々しさこそなけれども、この溢れる人の多さにびっくりして、神は立ち去って行く気がした。

 ユダヤ教の人々を除くと、ここは観光場所の一つとして見学にきている人々が大半であろう。かく言う私も異教徒の一人である。

 私はひょんなことで、約4年前から旧約聖書の輸読会に参加し「出エジプト記19章第1節~22章第3節」を読み、いつか一度はシナイ山に登ろうと思っていた。そういうことがなければ、私も多分シナイ山に登ることはなかったであろう。

 話をもとに戻すと、シナイ山に登るため観光客を乗せたバスは、前日カイロより紅海の下のトンネルを通り、世界最古の修道院、セント・カテリーナの近くに宿泊するまで、およそ一日近く走る強行軍であった。その途中、紅海の紺碧と言える海の色を見、この青さとカイロでの車の排気ガスと砂塵でどす黒くなった市街の空、そしてシナイ山に連なる荘厳な岩山の峰がどうしても私のなかで一直線上の点につながらず、同じ工ジプトに存在するのが信じられなかった

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『みちしるべ』熊野より(27)**<2008.5. Vol.52>

2008年05月03日 | 熊野より

三橋雅子

<あさもよし紀の国の――新宮の文人達>

 東京から夜行バスで帰ると、尾鷲を過ぎる辺りから、木の間隠れに海が見え始める。明けかかる熊野灘。外洋につながる大きさを秘めた海の、幽かな明るさの中で少しづつ激しく光が踊り出す。

 拡がった海は青い。空も何という青さ。陽光の中の山の緑もまた何とみずみずしくあおいことか。何もかも青々と、ただ青い、ひたすら青いとしか言いようのないことに、私は自分の語彙の貧弱を思った。

 この明けてゆく熊野灘を、他の乗客を気遣いながら、そっとカーテンをめくって満喫する魅力が捨てがたく、池袋〜新宮の「しんどい」夜行バスが止められない。往復ざっと2万円(大阪〜東京のスタンダード型片道5千円――あるいはもっと安いのもあるのかも――などと言う代物ではない、ちゃんとリクライニング付デラックス型である。)という安さだけが魅力なのではない。この、明け方の絶景に加えて、夜乗り込めば翌朝6時に東京池袋に着いて即、その日まるまる行動できるのだから、なにやら得した気分になる。新幹線を使うには大阪まで出るか、新宮廻りで名古屋から、と簡単には乗れないのだから。飛行機には白浜まで出れば乗れるが、東京に着いてからがうんざりだ。どうしてもバスに落ち着く。しかし若い時はまあまあだったけど、もう、あかんわ、と40台の人に言われて苦笑する。気がついて周囲を見回すと、確かに年寄は見当たらない。現に連れ合いはアカンくち。ほとんど眠れないらしく翌日は使い物にならない。どこでも、いつでもばたんと熟睡に入れる者には、なんとも有難い。

 熊野三山のひとつ新宮速玉神社の一隅に、佐藤春夫記念館が密やかに建つ。赤煉瓦のアーチ型の門の脇にマロニエの木、といういささか場違いな洋風の趣だが、これはドイツに留学して夭折(ようせつ)した弟を忍んでのこととか。

 誰もいない館内に春夫が生前吹き込んだテープが流れる。

 「あさもよし、紀の国の‥‥‥空青し山青し海青し‥‥」望郷詩人の「望郷五月歌」。私は嬉しかった。彼にとってかけがえのない熊野灘の海、空、山を、春夫もただ「青し」としか言わなかった。かの、語彙豊かな詩人でも。

 酒落(しゃれ)たマントルピース、「小さき程よし」とした二階のちんまりした書斎。さして大きくない造りに、反対側にも狭い階段。その贅沢を怪訝(けげん)に思いながら、身幅ギリギリの「あそび」の階段を降りてみた。上ったときとは違う場所に下りる面白さ。

 この瀟酒(しょうしゃ)な家は、春夫が晩年まで過ごした東京文京区の家をそっくっ移したものという。やはりこの地で生まれ育った西村伊作の設計による。彼がその著作の通り、自身の「楽しい住家」を建てて家族と暮らしたモダンな家も記念館になっている。

 戦後のダイニング、リヴィングルームブームの先駆けとなった、家族中心の家のモデルである。絵画と陶芸、木工などの作品が溢れる「パーラー」。続く食堂はゆったりした空間に広いテーブル、ここで石井柏亭、与謝野鉄幹・晶子夫妻らとサロンを展開し「新しい時代の近代人を養う自由主義教育」を論じ、構想を練ったのであろう。この伊作邸完成の7年後、神田・駿河台に文化学院が創設された。鉄幹が文学部長(後に春夫も)、晶子が女性部長、柏亭は絵筆の手ほどき、と伊作邸の常連が教授陣を固めている。

 伊作が設計した座り心地の良い椅子にもたれれば、正面に彼が描いた濠と山の青々とした風景が迫る。彼もまた東京での忙しい日々に、青き故郷への思いを募らせたのだろうか? 多彩な才能を展示する片隅に、少し意外な食器棚風の家具が目に留まった。大石誠之助、大逆事件で処刑された、伊作の叔父の作品である。彼は確か「温厚な医者」だった筈。こんな、細工の難しそうなプロっぼい家具作りのゆとりがあるとは‥‥大正デモクラシーの基盤になった、多様な文化的素養の側面を垣間見る思いがする。

 家族達ののびのびとした空間が確保される二階。ここにも二つの階段を発見して、またしても、と伊作の遊び心を想像した。

 「与謝野晶子と周辺の人々」(香内信子著)には、いずれの記念館でもみられなかった「新宮鉄道新宮駅」の前にゆかりの人々がごちゃごちゃと並ぶ写真がある。晶子をはじめ、誠之助の妻や幼い遺児達、伊作の妻子達、総勢二十六人の中に伊作が見えないのは、彼が撮ったものだろうか。伊作の家が建った翌年のこと、新築祝いにでも集まった人々でもあろうか。一際高いところにソフト帽の、春夫二十三歳のダンディな姿が見える。

 テレビのない時代から、この「陸の孤島」新宮には、なぜか東京の流行は名古屋、大阪を跳び越して直輸入された、といわれるが、なるほど、明治、大正から、新しい思想もファッションも東京と直結していたのか、と改めて思う。清清しい青い風景の中の想いである。

あくまでも青きさつきの熊野かな

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『みちしるべ』**道路特定財源について意見陳述大要**<2008.5. Vol.52>

2008年05月02日 | 単独記事

意見陳述大要(15分)

08.2.27   国土交通委員会(第18委員室)

参考人 小井修一

 私は建設省に42年間勤務し、京奈和自動車道の建設にも従事してきました。1998年に定年退職してもう10年です。その間、地方自治問題にたずさわり地方自治についての理解を深めました。現在、奈良自治体問題研究所の事務局長をしております。

 今日のテーマですが、私は都会ではなく地方における高速道路の役割と、問題点について述べ、いわゆる暫定税率を止めて高速道路建設をストップすることが地方における生活道路の改善につながることの理解を願うものです。

 地方にとって高速道路は相対的なものです。高速道路はたまに利用するだけで、日常的に必要なものではありません。しかし、生活道路と言われる一般道路は生活上、なくてはならない絶対的に必要なものです。この生活道路、既設の一般道路が高速道路建設によって、道路としての生命がおびやかされています。以下奈良県の現状について述べます。

 一つは、

 現在、全国で高規格幹線道路の計画14,000kmのうち約9,300kmが完成しています。高規格幹線道路の建設は有料制を先行したため、交通量の多い採算性の良い路線から施工され、今日、残っている約4,700kmの路線はほとんどは、交通量の少ない地方の路線です。資料の1ページを見て下さい、未施工はいわゆる地方です。必要と思われる交通量の多いところはもう完成しています。

 地方の高規格幹線道路は、交通量が少なくて道路公団施工では採算がとれず、直轄直営での施工が中心であるため、法律による地方分担金とアクセス道路等の施工を入れると、約3割の地元負担となります。奈良県では、京奈和自動車道の奈良県内約47kmで事業費約8,000億円です。その約3割負担として2,000億円以上の地元負担になります。奈良県民約140万人、県民1人当りの負担額は、約14万円、一家4人とすれば50万円を超える負担です。現在、約16kmが供用されています。

 この2,000億円負担のしわ寄せで、県道の維持管理費用など、生活道路に費用がまわりません。奈良県の県民一人当たりの道路の維持補修費は、全国平均2,543円ですが、奈良県は約半分の1,417円です。この状況ですから中山間部の土砂崩壊の危険箇所2116ヶ所が工事されず、2007年1月30日の国道169号の上北山村で土砂崩れで3人が死亡。しかも80日間も復旧できず、この間、上北山村が孤立しました。2,000億円負担のしわ寄せはこれからが本番です。これからもずつと続きます。

 二つ目です。

 高規格幹線道路のこれからの建設は交通量の少ない地方の建設と先にふれましたが、資料の2ページを見て下さい。

 これは、京都~和歌山を結ぶ京奈和自動車道120kmのうち、奈良・和歌山両県の平成17年度の道路交通センサスです。国道24号がいたるところで交通渋滞しているので、京奈和自動車道を計画したと国交省や奈良県が言っています。奈良市内と大和郡山市内は4車線道路ですがそれ以外は2車線道路です、信号が有ればいわゆる渋滞します。しかし、信号による渋滞解消の為にわずか2万台の交通量なのに高速道路が必要でしょうか、バイパスの検討や交差点の立体化を含む改良などを行えば、全く必要ありません。高速道路を必要とする交通量がこの表から見ることは出来ません。

 奈良市内での最高交通量は約65,000台ですが、奈良市及び大和郡山市内は4車線道路です。この「奈良市内が慢性的な渋滞だからこれを緩和するために自動車専用道路の大和北道路が必要」との国交省の宣伝に対し、いつも利用しているものですから、そんなに渋滞は無いはずと、私がチーフになって主要な交差点3ヶ所の渋滞調査を2005年に、朝・夕の通勤時2時間の実態調査を行いましたが、99%の車が信号を1回でクリアーしていました。渋滞は通勤時の朝・夕でもなかったのです。いまでもそうです。

 平成17年度道路交通センサスの中で、左の表の中ほどにあります田原本町の1日の交通量は29,000台です、ここは既に京奈和自動車道の高架部で4車線が供用開始されており、さらに平地部で4車線の道路が工事中です。現道2車線を入れると実に10車線になります。8車線も増えるのです。29,000台の交通量でこんなに道路が必要でしょうか。和歌山県に入っても同様の数字です。これが地方の実態です。

 三つ目です

 京奈和自動車道のうち、奈良市内を通過する大和北道路は12.4kmで4車線(地下トンネル4.5kmを含む)事業費は3,100億円と公表されています。 1m当り約2,500万円ですが、あまりの巨額に国交省は工事の完了は約20年先と公表しています。

 ご存知のように、国立社会保障・人口問題研究所が2006年12月に発表した「新しい将来人口推計(06年推計)」は50年後の合計特殊出生率が1.26にとどまり、総人口は8千万人台に落ち込み、65歳以上の人工比率は40.5%となる」と推計しています。

 奈良県の合計特殊出生率は、東京、京都とトップを競ういきおいで、まさに少子化県です。従って、奈良県内の20年先は少子化と高齢化によって自動車交通は1/3以上が減ると私は予想しています。問題はこれから未だ、現道の国道24号が部分的に渋滞している交差点の改善やその他の改良が20年間も放置されるということです。

 そして、京奈和自動車道が20年後の開通時は自動車の減少で、ガラガラの専用自動車道路になると予想されています。3100億円の巨額の投資が無駄になることが都市計画決定前から予想されているのです。

 四つ目です。

 「京奈和自動車道・大和北道路の建設は国道24号の渋滞解消と周辺道路の交通事故の減少」と国土交通省(国)はユネスコ・世界遺産委員会にも報告しています。

 24号の渋滞解消については、「奈良市内を通過する自動車が約3割あり、これが新設の大和北道路にまわる。したがって現道24号の渋滞解消になる」。これが大和北道路建設の根拠でした。ところが、一方で、新設道路の誘発、誘引作用で3割の交通量が増加すると見込んでいます。3割減って3割増えれば差し引き、国道24号の一部渋滞の現道は、現状のままということになります。

 また、高速道路の建設によって自動車による観光客が増えると期待されますが、残念ながら奈良市内に駐車場を増設する計画はありません。現在でも土・日曜日の駐車場は超満員になり、大渋滞しています。車による観光は、1週間のうち、土・日のみが多く、採算が取れず、増やすことができないのです。資料の3ページを見てください。

 京奈和自動車道は広域ネットワークを形成する関西大環状道路の一部であると奈良県が位置づけています。なんと奈良県にとっては通過道路でしかなかったのです。いったい誰がこの環状道路を利用するのでしょうか、恐らくほとんどいないでしょう。奈良県民も、和歌山県民も関西大環状道路を利用する目的がないからです。何しに車に乗って淡路島に行くのですか。

 五つ目です。

 次に資料の4ページを見てください。

 奈良は世界遺産都市・奈良です。日本人のふるさと、日本人のアイデンティティの地だとも言う人もいます。私もそう思います。

 その真ん中に高速道路がどうしても必要でしょうか。ルートの選択肢のいくつかの中に西側ルートがありました。西側ルートは、現在のルート計画、3100億円の半額の建設費で可能であると大和北道路有識者委員会が明らかにしています。現在、世界遺産平城宮のわずか600m東側に地下トンネル2つが計画されています。地下トンネル建設中に地下水位がもし低下すれば、地下50mの深さではどんな対策も不可能です。地下トンネルは景観を守るために、1,500億円もの巨額のお金を追加して計画されましたが、これが地下水位を低下させ、地下水で守られている平城京跡の木簡などの地下埋蔵文化財を消失させ、世界遺産「古都奈良の文化財」が危機になる恐れがあるのです。まさに日本
の品格が問われることになります。

 最後になりますが、

 これは完成している橋脚のです。資料の写真です。高架橋の橋脚が10基ほど完成し、雨ざらしになっています。この手前に更に10基以上完成しています。

 この橋脚の手前、南側ですが高架部が完成し、京奈和自動車道・大和御所道路の大和区間として供用開始されています。資料の3ページの下段の地図です。図の左右の西名阪道路と交差し、ジャンクションの計画がされています。国道24号のほぼ真上を高架部の建設計画なので、現道24号から完成した京奈和自動車道に入るために、この写真の橋脚を先に完成させておく、いわゆる先行投資させることは工事の切り回し上、一般的に行われることです。しかし、西名阪道路から北側の大和北道路12.4kmは、今日まだ都市計画決定されていません。都市計画決定され、施工命令が出来る区間の先行投資は違法ではないでしょうが、繋(つな)ぐべき先の道路が具体的に設計もされていないのに、どうして橋脚の設計が出来たのでしょうか。この先行投資の負担金が奈良県にかかっています。このような、先に都市計画決定ありきの予想で高規格幹線道路が設計されたり建設されていいのでしょうか。ダメです。

 以上、6点にわたり述べましたが、その原因、根源はいずれも道路だけに使うと言う道路特定財源の仕組みにあると考えます。住民は、高速道路を望んでいません。渋滞のない幹線道路を望んでいるが、高規格の新設道路を要求しているわけではないのです。渋滞解消と安全を要求しているのです。

 結論です。道路特定財源を一般財源にすることで、交通量の少ない地方に必要な生活道路中心の改良や新設など、地方自治体が判断できるシステムにすることができます。また、高規格幹線道路の建設費で2車線の一般道路が4本も5本も建設できます。そして地方に必要の無い高規格の道路を国が押し付けることを排除することもできるのです。以上です。

(4人の参考人各15分の意見、この後、自民、民主、公明、共産4党の各30分の質問あり)

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『みちしるべ』元気のない住民運動と元気な住民**<2008.5. Vol.52>

2008年05月01日 | 神崎敏則

尼宝線拡幅整備問題
元気のない住民運動と元気な住民

みちと環境の会 神崎敏則

説明会に多くの住民が参加

 昨年11月に説明会の開催を求めて署名を取り組み、417名の署名簿を12月18日に2名の住民と一緒に3名で西宮土木事務所に行き、提出しました。

 担当課長は417名の署名の重みを受け止め、やっと3月30日に説明会がおこなわれました。当日は、あいにくの雨天にもかかわらず、多くの住民のみなさんが参加されました(県が作成した議事録によれば「47名」の出席となっていますが、それより多いからた印象があります)。

 まず、拡幅整備事業を主管する西宮土木事務所。道路整備第2課から説明があり、その後に住民からの意見、質問、それに対する県の回答がありました。10名の方が次々に発言され、住民のみなさんの注目の大きさがうかがえました。

住民の要求が一部実現ヘ

 今回の説明会の特徴は、これまで住民が要求してきたことの一部を県が受け入れると表明したことです。評価できる点は以下の5点です。

事故防止効果があるといわれる街灯を、交差点部には(照明灯を)設置すること
武庫工区以南の歩道は危険箇所が放置されているので、段差解消や溝ふたの取り付けをおこなう歩道リニューアルエ事を実施すること
武庫総合高校西横の歩道幅が現状より狭まらないよう、高校と用地交渉を進めていること
信号(白色押しボタン箱を含む)の設置の要望があることを警察に伝えていること
より騒音低減効果の大きい「2層式排水性舗装」の採用を検討していること

 これらの前進した回答を得ることができた一方で、不十分な点も残されています。

歩行者の横断防止のための柵は設置するが、自動車事故から歩行者や沿道の住民を守るためのガードレールは設置されないこと
最も効果の大きい騒音対策である遮音壁が設置されないこと
健康被害をもたらす排ガスヘの対策が皆無に等しいこと

 評価できる点、不十分な点についてここでは、それぞれ項目を挙げるにとどめました。詳しくは、『みちと環境の会』のニュース『青空だより改-56号』をご参照いただければ幸いです。今回の拡幅整備工事の担当課の姿勢が重要なテーマであることは言うまでもありませんが、この文章は、住民運動と私たちとの関係に絞り込んで、個人的な考えをまとめたものです。

住民は疲れているのか

 それまでの説明会は05年12月と06年12月の2回おこなわれ、どちらもウィークデイの夜間二日連続というパターンでした。「お年寄りや女性が参加しやすいように、時間設定に配慮してほしい。日曜日の昼間と平日の夜間の2回にしてほしい」とあらかじめ当局に申し入れていました。結局は日曜日の昼間1回しか設定されませんでしたので、「県は、そんなにまで住民の意見を聴きたくないのか」と勘ぐりました。

 今回の説明会の前段では、これまで一緒にかかわってきた住民のみなさんに当日に発言しようと、毎月おこなっている「沿道住民の集い」の中で話し合ったり、個別に相談してきました。

 西宮土木事務所まで一緒に申し入れに行ったことのある4名、「集い」に何度も参加した方5名、参加はしていないが署名などで呼びかけ人として自分の名前を連ねることを快諾した3人、ニュースを配る時に尼宝線の問題点をよく話し合った5名など計21名を対象者に選びました。

 ぜひ発言してほしいと期待を寄せていた方のうち、自営業の3名の方は、案の定というか、非常に残念なことに参加できませんでした。それでも自営業者の1名の方は参加され、会場ではMさんの横に座りました。

 期待していた1名の方はお彼岸の墓参りで参加できないと聞かされました。1名の方は3回訪ねても会えずに、結局は同居の母親に伝言したのみとなりました。1名の方は「当日は市外に出ているので参加できないけど、育友会でも市民プール
閉鎖反対の署名や対市交渉をして結局はダメだったけど、こういう問題は大事なことですよネ」とこちらが励まされるような感じになりました。2名の方は「(予定が)あいていたら参加します」との返事でした。3名の方には会えずじまいでした。もっとも期待を寄せていたOさんには、2度目の携帯でやっとつながりましたが、参加は難しそうでした。

 Oさんは、06年12月の説明会で「納得のいく回答が全然されていませんよ。説明会を改めて開いてください」と執拗に迫って、渋る県から説明会の再開の約束を引き出した中心メンバーでした。

 その後、開催の動きが見られないので、07年10月5日に西宮土木事務所にOさんと2人で出向いて住民への説明会の開催を求めました。1時間以上話し合いましたが、課長は「説明会を今の段階で開いても進展すると思えないので、開かない」とかたくなでした。「住民にとっては騒音や排ガスや歩道の安全の問題は、日々の生活の問題なので、これであきらめるわけにはいかない。住民のみなさんに県の対応がこんなにひどかったことをお知らせして、みんなで議論して今後対応する」と言い放って、署名活動に推移したのです。

 ところがそのOさんは、今年に入ると「沿道住民の集い」に参加されなくなりました。「よほど忙しくて大変なんだろう」と安易に想像していました。そのOさんが説明会に参加されないのは、僕にとっては大変ショックでした。

 そんなこんなで、こちらが意図していたこととは正反対の状況しかうかがえませんでした。……当日は県が説明することを黙って聴いている住民がほとんどで、意見もろくに出ないかもしれないなぁ~。けど、それはそれで、住民が出した一つの答えではあるし、現状を受け止め、またそこから出発するしかないなぁ~、とぼやきと前向きな気持ちが複雑に入り込んだ心境でした。

 当日は、あいにくの雨でした。風も出はじめて、ただでさえ少ないのによけいに参加者が減るだろうと、へこみました。県もある程度参加予定者を把握しているようで、3階大ホールの中に、椅子を50客程度こじんまりと並べていました。ところが開始時刻になると、参加者がトントンと増えて、担当者があわてて追加の椅子を並べ始めました。県にとっても僕にとっても意外な状況でした。

次々に発言する住民

 説明会では、まず県が1時間使って資料に基づいて説明をおこない、やっと住民の発言の場面となりました。マイクを持って発言するのは慣れていないだろうと、いつも自分が口火を切る役をすることにしていたのですが、この日は最初から3名が手を挙げていました。『みちと環境の会』のメンバーである僕とMさんの発言を除いて、住民が発言した趣旨を項目にしました。

4車線になると、今は信号がない交差点にも設置が必要だ
アスファルトのわだちがひどくて、騒音が大きい。工事まで放置しては困る
騒音対策として、信号を増やせば車の速度が遅くなるので、そうしてほしい..
2層式排水性舗装の騒音低減効果はどの程度か
武庫工区以南の歩道のリニューアルエ事の担当課を教えてほしい
拡幅後の騒音の予想値が“+2dB”とは納得がいかない
振動の予測結果が大幅に悪いが、対策はないのか..
大型車の騒音と振動がひどい。4車線化後も走行速度の制限を上げないでほしい
大型車は中央車線側を走行するような看板を設置してほしい
SPMのつづりを教えてほしい
自転車専用レーンを設置してほしい..
阪急神戸線をまたぐ高架部分は歩道の照明が暗いので設置を
横断防止柵は武庫工区以外でも設置するのか
高校生の自転車走行が危険なので、安全な道路を作ってほしい
NOx、SPM、騒音、振動については、工事完成後も計測して、住民に公開してほしい

 というもので、そのほとんどがこれまで住民と話し合ってニュースやパンフレットで訴えてきたことと重なるものでした。

 発言者のほとんどは、これまで私たちがかかわったことのない住民ばかりでした。これまで一緒にかかわってきた住民の方は、たまたまかどうかはともかく、ほとんど出席されずに、かかわりのなかった住民の方が同じようなことを一生懸命に訴えているのです。僕にとってはそれまで経験したことのない、不思議な現象でした。

一緒にかかわってきた住民の落ち込み

 これまでの運動を振り返って、Mさんは「毎月ニュースを出してせっせと配り続けたり、パンフレットを作成したり、署名をしっかり集めたりしているから、住民からみると“よほど大きなグループがやっているんだ”と思ってきっと安心している」と言います。ひょっとしたら、そんな面も無くはないかも知れません。ニュースを毎月配っていると、そのニュースが住民によく読まれていることは感じます。そして、ニュースを読むだけでつながっている人から見ると、たしかに安心はするかも知れません。でも問題は、その先にあるのだと思います。

 ニュースを読むだけの受け身の住民ではなくて、一緒にかかわった住民こそが、運動の実態とメンバーの過小さのアンバランスを一番強く感じたのではないでしょうか。

 04年2月~3月におこなったアンケートからのお付き合いのSさんのお宅を訪ねると、時々、「ほかの住民はみんなあきらめとるんや」と言われることがありました。実はSさんのご近所には、署名の呼びかけ人に名前を連ねた方が2名もおられるのですが、それぞれ事情があって「沿道住民の集い」には一度も参加されたことがないのです。「あきらめているわけではないですよ」と言いたいのですが、Sさんの気持ちも分らないでもありません。

 今年から参加されなくなったOさんも「大事な問題だから、一生懸命やらないといけないけど、やっているのはほんのわずかな住民だ」とひょっとしたら思っているのかも知れません。

 今の時点で言えることは、一緒にかかわった住民のみなさんに安心感を与えることができなかったことが一番の反省点ではないでしょうか。集会を主催するうえで、参加者をしっかり確保することにもっと強いこだわりが必要だったと思います。安易に「継続は力なり」という言葉に頼っていただけなのかも知れません。

次の山場にポイントを合わせて

 工事が始まる2011年ごろには、また大きな山場が訪れるでしょう。今後は、その時に合わせて少しずつ準備を進めていく予定です。今までと同じように毎月ニュースを出して「沿道住民の集い」を継続していくのか、それとも、間隔をあけて節目節目の取り組みに集中するのか、答えは出ていません。ぜひみなさんのご意見をお聞かせください。

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