『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』横断車道(55)**<2009.2. Vol.56>

2009年02月17日 | 横断車道

地球上に棲息する人類は67億人。たった1人のことなど、砂浜に落ちた1つの米粒でしかない。カエサルやナポレオンは、人類に広く知られた存在だ。そんな知名度が人の価値なのだろうか。現今は、金持ちが持て囃される、いやな時代だ。地球史上で人類史は、46億年の内の3百万年でしかない。カエサルやナポレオンだって、宇宙から見れば砂塵にも満たない。それでも人は自らの物差しで、価値を計るのだ▼3百万年の人類史上で、何人が棲息したことだろう。その歴史を学ぶ上で、特筆される人物というのは存在する。明治維新における坂本竜馬は有名だ。が、維新の前後にそれなりの役割を演じながら、無名に消えた人生もあったであろう。それが大半なのだ▼子供を褒めることは大切だ。そのことにより、実力の最大限のものを発揮させることが出来るからである。しかし、その効果もないのに、お世辞で大人を褒めたくはない。その人の優越心を煽るだけだ。故人を褒めるのは、いくら褒めても間違いは起こらない。それでも、天にも昇る褒め方は、聞いていても真実味がない。ありのままを言い、良いところを少しだけ褒める、それが私流だ▼阪神道路ネットの初代、代表世話人の砂場徹氏が亡くなった。多くの人が、その人の思いの追悼文を書いた。私は正直を言って、氏のことは何も知らない。『私の「シベリア物語」』を読んで、少しは知り得たと感じている。その続編を書きたいといって、望みかなわず世を去った。是非、読みたかった一編である。戦後、今日に至るまで氏は何を考え、何をしてきたのか。つい最近のことで、共に議論したことしか残してはくれなかった▼それでも確信を持って言えることがある。信念は曲げない。信じる道を、取り敢えずの迂回もしないで、直線的に進んだ。そのために経済的にも、組織的にも、世間から取り残されながらの道であった。それを支え続けたのが、奥さんの恵美子さんであった。氏は最後に一番の成功があったと言っていた。それが何を意味するかは分からない▼結果は、砂浜の一粒の米で終わった。知る人ぞ知る。それでも浜蟹の私は見つけた。何故なら、同じことをする人だから。信念は曲げない、とは言うが情勢が求めた時に、本当に行動できるかである。そのことによるリスクが、本当に乗り越えられるものであるかだ。それには体力も精神力も要求されるのだ。社会が変われば理解もされるし、応分の手当てもある。しかし、社会が変わるのは先の先だ▼とりあえずはマイホーム主義をして、世間並みの生活は確保するのが主流になった。派遣労働者が切られ、彼らは食住に困窮する事態になった。昨今、砂場徹の凄まじい生き方を理解できる人が、余りいなかった。が、それを実体験で知る人がいる社会になった。これが切っ掛けで、氏の目指す社会への発展になればと、共に考える。(コラムX)

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『みちしるべ』**編集後記**<2009.2. Vol.56>

2009年02月16日 | 藤井隆幸

編集後記

世話人 藤井隆幸

  阪神間道路問題ネットワークが始まったのは、1995年5月25日のことです。以前にお住まいだった尼宝線沿いの砂場宅で、立ち上げのための初めての準備会がもたれました。初代 代表世話人の故 砂場徹、現 代表世話人の大橋昭、『みちしるべ』編集長の澤山輝彦、今は熊野の仙人になってしまった三橋康志、それに私の5人が集りました。あれから14年近くが経過してしまいました。

 この『みちしるべ』の創刊も、1999年9月1日付けで始まりました。第5号までは、故 砂場徹 編集によるものでした。当時、まだ製造されていたワープロで、切り貼りしながらの編集でした。見兼ねた澤山輝彦が、第6号から今日まで編集を担当してきました。砂場徹も中古のノートパソコンで挑戦はしたものの、得意の囲碁ばかりにのめり込み、モノにはならなかったようです。

 『みちしるべ』の歴史も、今年の9月号で10年、第60号を発行することになります。第30号発行に際しては、記念パーティーを開催しました。読者からは第50号(08年1月)の際には、記念行事をしないのかとの問い合わせもあり、カンパも頂きました。記念行事を考えなかった訳でもないのですが、通り過ぎてしまったというのが事実でしょう。

 そのことについては、澤山編集長も気にはしていて、10年の節目には記念行事を考えてはとの提案がありました。ところが、原稿の集まりが少なく、締め切りまでの督促の出来ない編集長は、発行が遅れていることに懸念を持っていました。お気付きの向きもあろうかとは思いますが、昨年の11月号が抜けてしまいました。このままでは記念の第60号が、10年目の9月発行にならないことになります。

 「どうせ俺が死んだら、『みちしるべ』の追悼号を出すのだろう。抜けた11月号の分は、俺の追悼号を臨時2月号として出して、3月号で追いつけばよい……。」と、砂場徹があの世から言ったかどうかは定かではありません。しかし、編集長はそのつもりで計画を立てました。『みちしるべ』の発行の遅れを、人生の終焉を迎えてまで気にしている、とは編集長の言です。

 追悼号といえば、『みちしるべ』第17号(02年5月)は、故 黒住格氏の追悼号でした。15人の方からの追悼文が掲載されました。半数は「西宮山幹市民の会(略称)」又は黒住先生(眼科医)の関係者の方々のものでした。28ページに及ぶ、最大のページ数の号になったのも、皆さんの思いのお陰でした。編集長は巻末の「追悼特集の編集を終えて」で、「……特別号にするか、通常号に追悼特集として入れるか、代表世話人の砂場さんなどと相談したりして考えましたが、通常号に特集とすることに……」と記しています。この扱いも今号に引き継ぎました。ただし、通常原稿が間に合わないので、追悼特集記事のみになりました。

 ところで、お気付きの方も多いことでしょう。この号の編集が随分と変化しています。実は、編集長夫人が突如の大雪で、自転車の転倒により怪我をされました。今は退院をされておられますが、何かと家事もしなければならず、私が臨時代行することとなりました。ピンチヒッターのご指名も、故 砂場徹のご意向かと考え過ぎているこの頃です。

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『みちしるべ』砂場さんの「シベリア物語」を読みかえして**<2009.2. Vol.56>

2009年02月15日 | 藤井新造

強い意志の人、信念を貫いた人、砂場さんの「シベリア物語」を読みかえして

芦屋市 藤井新造

 砂場さんの『私の「シベリア物語」』が発刊された際ある冊子に短い書評を書いた。その時不充分な書評になっていたので、ずうっと気にかかっていた。

 砂場さんの本の紹介のため、他のシベリア抑留者の手記、シベリアに関しての本を乱読しすぎ肝心の砂場さんの本については中途半端な書評になった。大変失礼なことをした訳であり、文中そのことを書きそえお詫びしていた。

 その償いというわけでないが、今回この本をじっくりと読みかえし、『私の「シベリア物語」』は今まで他の本でみられない多くのことを書き残していることを知った。

 1945年の冬から4年2ヶ月のシベリア抑留生活をある箇所では物語り風に、ある箇所では叙事詩の如く綴っている。それも「史実」にそって書かれている。

 例えばシベリアの気候風土についても、又砂場さんが接したソ連の家族の人々との交流がそれである。この本によると、抑留者の作業指揮をしていたソ連の人々の多くが「受刑者」で、この地に流刑された人であったと言う。

 両者とも置かれた状況が違えども、同じ「受難者」であった訳である。

 先ず最初に読んで感じたことは史実にそって書かれていることである。それも4年余の歳月をこのように今まで記憶としてあたためていたことに驚くばかりである。

 私は砂場さんと個人的に濃厚に接した時期が少ないが、それでも「阪神間道路問題ネットワーク」「市民発/九条を世界へ尼崎市民の会」の会合でよく顔をあわせていた。

 その時シベリアに抑留されていた生活を聞くことはなかった。今にして思えば、砂場さんにすれば軽々と短時間で語れる内容でなかったのであろう。なるほど、それがこの本を読めばわかる。

 そして抑留生活のなかでも、測量技師(補助)の職働について特殊な仕事をしていたので、ソ連の現地での家族の人々との接触もあり、他の抑留者と違い、ものごとを客観的にみえる立場にいたことも幸いしている。

 次に私の関心ごとは作業(労働)の内容と賃金との関係、続いて俗に伝わった「民主化運動」のことであった。

 その前に驚くことに、これも他の本で読んだが捕虜の収容所生活が旧軍隊の内務班の再現であったことである。実に2年間も続いている。旧軍隊の秩序に慣らされた旧兵士の習慣(服従)とは恐ろしいものである。

 さて賃金の件であるが、ソ連では8時間の労働内容でできる標準作業量を設定し、賃金が支払われていた。

 そして職種別賃金(大工、木材技術者、自動車の運転手、鍛冶屋)であり、その上に各自の身体検査による格付けで重労働、通常労働、軽労働に分類され、それに従って支給された。この後者について、砂場さんが指摘しているように、体の大小、強弱、体調に無関係に査定されたので、現実にそぐわなく不合理であった。

 賃金が仕事別でしかも標準作業量以外の作業をこなすと加給金が支給された。そこから所謂「ノルマ制」が強制されるように、抑留者からの迎合もあり、「ソ連の5ヶ年計画を超達成しよう」とのスローガンのもとで働かされていった。

 次に収容所内での民主化運動の背景についても同じことが言える。

 ソ連側の上からのおしつけ教育であったため拙速な学習会(「ソ党史『ボルシェビキ』、「唯物論」、「弁証法」について)に終始し、社会主義教育は成功せず「収容所生活が生産増強運動一色になっていった」。

 当時のソ連の意図したものと、抑留者の気持ちはかみあわず、結果として失敗に終わったことも適格に指摘している。

 第三に、ソ連人の家族の中に入って行って感じたことである。男性が食事を分担し、料理を作ることをみてびっくりしている。又、夫婦2人が腕を組んで散歩のため外出していたのが珍しく映り、これも日本ではみかけない光景であった。

 その他シベリアの4季の移り変わり、春ともなれば空気が温み、太陽の恵みと共に訪れる灌木の芽吹きなど、長い厳寒を終えての自然の息吹など、見事に文章化している。砂場さんはこの本を書くため80年代から資料を少しづつ渉猟し整理していたという。

 その努力の成果がこの本には確かに凝縮されて表現されている。

 生硬な文章を書く私など参考になることが多い。砂場さんにあらためてお礼を言いたい

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『みちしるべ』**スパコイノイ・ノーチ、砂場さん!**<2009.2. Vol.56>

2009年02月14日 | 単独記事

スパコイノイ・ノーチ
(安らかな夜を=おやすみなさい)、砂場さん!

 

                    熊野より 三橋雅子

  砂場さんの『私の「シベリヤ物語」』が熊野を駆け巡り、同じシベリヤ体験を持つ人達を号泣させたことは以前書いたが、そのことを、もっと細かく、砂場さんに報告し、もっと多くを語りたい、と思いつつ果たせなかったのが残念でならない。自分でその機会を作ることを怠ったことに、チャンスの神様に後ろ髪がないのを唇をかみしめながら実感する。

 砂場さんの不屈の筋金が、シベリヤでの若き日の、あの過酷な自然環境と、労働と、ひもじさに加えて、いわゆる“洗脳”の洗礼を受ける中で、厳しい葛藤や苦悩を経て作り上げられていったことは疑えない。そしてあの柔和な笑顔も。砂場さんにとって、『シベリヤ物語』に頻出するロシヤ語は、彼の青春の苦さや苦悩、時には笑い声の思い出を支える大事な小道具に違いない。それは、まだ幼かった私が、旧満州に進駐する横暴極まりないソ連兵たちの矛先を少しでも和らげるべく、必死に覚えたロシヤ語の、苦さと懐かしさの想いとダブルのである。ソ連兵たちは確かに粗暴で許しがたい行為を重ねたが、時にはすばらしい男声合唱を即興の編成で聞かせてくれる陽気な演奏家集団でもあったし、つかの間の同居の後では恥ずかしげもなく男泣きに泣いて、息が詰まりそうなきつい抱擁からなかなか解放してもらえない程、再会を望めない別れを心から惜しむ、純情な輩達でもあった。そんな苦さと泣き笑いと涙の思い出を、片言の、まだ覚えているロシヤ語を交えて、砂場さんと語りたかった。一度“タワーリッシチ・マヤ(我が同志よ)”と砂場さんにハグしてもらいたかった。

 砂場さんに“ダ・スビダーニヤ(さようなら)”は言わない。今日は満足のいく日だった、と思って寝床に入る時、明日もまたオーチェン・ハラショー(very good)で行こう! と“ スパコイノイノーチ、タワーリッシチ、スナバ!” を言うからね。

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『みちしるべ』**頑として譲らなかった笑顔と細やかな気遣い**<2009.2. Vol.56>

2009年02月13日 | 単独記事

頑として譲らなかった笑顔と細やかな気遣い

熊野より 三橋康志

 あれは震災の直後だったろうか。砂場さん、藤井さんらと、ネットワーク立ち上げの準備会を重ねている時だった。震災直後のドサクサで車を壊し、さりとて車を右から左へと調達も出来ない時で、バイクが頼りの足だった。一度は雨の土砂降りに、尼崎まで山口町からの往復はかなりきつかったのが、砂場さんの柔和な面影とダブって懐かしい。

 「みちしるべ」の命名にはあれやこれやの候補が乱立して結構難航した記憶がある。我が家では、子どもが生まれた時のように候補名をあれこれ思いつくまま羅列して行ったが、砂場さんのこだわり、確か、横文字っぽいカタカナ名はよそうよ、というような見識ある一線は頑として譲らない気骨に触れた覚えがある。にもかかわらず、柔和な表情は絶える事がなかった。

 その後この会から遠ざかって出席も途絶えがちになったのは、全く我が方の内なる心理的事情だったが、砂場さんはネットワークの内側にもしや原因があるのでは?と気遣っておられた、と藤井さんに聞いた。わが「西宮北部の自然と環境を考える会」の目指すものは、目の前に迫るグロテスクな高速道路新設の槌音にことごとく敗れ、虚脱感と嫌悪感にまみれていた。かの大震災で、無残に崩れ落ちた高速道路を目の当たりにして、被災者に対しては誠に不謹慎とは思いつつ、「やったー、これで高速道路神話も崩れ去った!如何に高速道路が無力でぶざまな実体であるかが露呈された!」と軽々にも小躍りしたものである。かのロスアンジェルス地震時の高速道路崩壊には、日本の高速道路はあんなヤハな物ではない!と当局は豪語していたからである。ざまーみろ、日本の高速道路もヤハな実態は同じじゃないか!と。

 しかし現実はこんなことにびくともする相手ではなく、今建設計画のものは遥かに頑健な設計で問題なしとし、「災害時の道路整備の急務」が「高速道路の必要性」の口実にすり替えられて高速道路建設への驀進は揺るぐことがない、それに対する非力にほとほと嫌気と疲れが出てしまったのが真相だった。それをもっと率直に、砂場さんに吐露しなかったのが悔やまれる。余計な心労をかけてしまった。しかし、これから多様な団体が一致団結して新しい力を結集しようとしている折に、胸中を伝える機会を失してしまった。

 「みちしるべ」に遅刊や合併号はあっても、休刊に至ることなく途切れないのは、この名称に拠るところが大きいように思える。みちしるべが路頭に迷っては格好が付かない。これからも砂場さん、笑顔で「みちしるべ」のみちしるべであり続けてください。

合掌

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『みちしるべ』**謹んで哀悼の意を表します**<2009.2. Vol.56>

2009年02月12日 | 単独記事

謹んで哀悼の意を表します

 

中の住環境を守る会 代表 西田正道

 大分以前に、何処であったかは記憶にないのですが、例会で一度お会いしました。そのなかで第二名神問題を特集した、私たちの機関紙「中に住む」について、「筋が通ってて、わかりやすく、よい内容ですね」と、お誉めの言葉をいただきました。例会終了後、「今日は、一杯(酒)はやめてお茶にしよう」と、喫茶店にいき歓談したのを、昨日のように思い出します。気丈でユーモアがあり、やさしいお方でした。

 心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

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『みちしるべ』**私の進むべき道を教えてくださいました**<2009.2. Vol.56>

2009年02月11日 | 芦屋道路問題ネットワーク

砂場徹 様 有難う御座いました
私の進むべき道を教えてくださいました

 

芦屋道路問題ネットワーク 三木 悦子

 

 阪神大震災の直後、芦屋市の都市計画発表を見てびっくり、50余年前の都市計画道路の復活です!

 狭い芦屋市の中に5路線の広い道路を新たに造る計画です、市民は我が家が壊れたり、家族が傷つき、或は命を失い悲嘆にくれている時です。

 当時、私は同志数名と『街づくり連絡会』を組織していました。その仲間の一人が「西宮でも道路問題の会がありますよ」と教えてくれたのです、「じゃあーその会に参加させていただき勉強しましょうか」と山手幹線道路計画に関心ある人々が揃って、西宮の会場に10数名、どやどやと押しかけたのです、当時は一生懸命で大変な意気込みでした。

 会の方々は、突然会合の仲間入りに押し寄せた私たちを快く迎えて下さいました。熱意が伝わったのでしょうか?嬉しかったです。

 その時が阪神間道路問題ネットワークの始まりでした。

 そして砂場さんとの出会いでもあったのです。代表を引き受けてくださり、物静かな中にも芯のすわったお人柄は感じていましたが、著書『私の「シベリア物語」』を読み、想像絶するご苦労のなかから人生観の一層の深みを知る事が出来ました。

 年々 敗戦の惨めな経験を身に滲みて感じた年代層はほんの一部になって来ました。亭主も私もその年代です、しかし戦争の辛かった経験は思い出したくもなく、喋りたくもない気持ちは今迄持ち続けていました、しかし砂場さんは過去を克明にお書きになったエネルギーにはタダタダ驚き、戦争の無惨さを後世に伝える努力は私たちの役目だと目からウロコ、はっと気づきました。

 偉大な存在の砂場さまの人生に、自分の人生を重ね合わせ見たとき、何と無駄な時間を費やして来たかと反省し悔やまれる事ばかりです。

 自分自身、残り少ない人生ですが、見習って有意義な時間を大切に社会に還元いたします。戦争のない平和が永遠に続きます事を願って!

 砂場様天国で見守っていて下さい、ご冥福を切にお祈り申し上げます。

合掌

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『みちしるべ』**砂場さんを偲んで**<2009.2. Vol.56>

2009年02月10日 | 芦屋道路問題ネットワーク

砂場さんを偲んで

芦屋市 池浦康子

  砂場さんから、初めて年賀状を頂きました。“ガンとの駆けっこをしている間に日がたってしまいました”と。これが最期の言葉になってしまいました。1996年から芦屋道路問題ネットワークとして参加し、砂場さん中心に会員の方々から多くのことを学びました。

 住民参加の基本は住民が主体であることを念頭においてやってまいりました。

 砂場さんは、青春時代の多感な時、四年間のシベリア抑留の過酷な体験に耐えられたことは、「私のシベリア物語」を読んで知りました。社会主義のソ連の収容所で民主教育があり、日本の国を見つめ直し、社会のあり方を真剱に考え、帰国後、労働運動に打ち込まれた記事は何度も読み返し、砂場さんの強い信念・生き方が伝わってきます。

 世界中が大変な不況・失業に落ち込んだ今、ブッシュ政権をきびしく批判しているが、2001年の「みちしるべ」の砂場さんの投稿に“ならず者は誰か”として、鋭い意見を述べていらっしゃる。深く真直な洞察、そして厳しくやさしい心の砂場さんを尊敬し、信頼してまいりました。

 お別れは淋しく本当に残念です。

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『みちしるべ』砂場さん、さようなら**<2009.2. Vol.56>

2009年02月09日 | 前川協子

砂場さん、さようなら

前川協子

 砂場さんのお葬式は、質実で清楚な会場に偉大な先人を追慕する人達の深い悲しみが満ちていた。おみあしの悪い夫人が美しく凛として喪主を務められたのも御立派だった。各界代表の三人が切々と述べられた弔辞も心に迫り、砂場さんの御人徳に感謝し、足跡を賛え、惜しむ気持ちで溢れていた。ソ連の抑留生活を含めて御苦労の多かった人生とは思うが、これほど人々に生きる指針を与え、勇気を振るわせ、しかも愛され親しまれて一生を終えられたのは、やはり稀な幸な方だったと思う。

 砂場さんには、阪急甲陽線の地下化運動を巡って行き悩んでいた時、「阪神間道路問題ネットワーク」の代表者として色々の御高配を頂いた。時にはわざわざ甲陽園迄出向いて下さったこともあり、喫茶店でじっくり話し合ったことも懐かしい思い出となってしまった。いつも励ましやお導きを頂きながら、つい地元の運動にかまけて、何のお役にも立てなかったことが今更のように悔やまれる。

 砂場さんで意外だったことは、仲間とのカラオケに心(しん)から愉しそうに興じられていたこと。酒豪で乱れることのなかった人だったけど、ホントに喜々として参加される洒脱さには到底私等足もとにも及ばない人間性だった。

 最も忘れ難いのは、芦屋川へ花見に行った時のこと。それぞれに別れ難くてそぞろ歩きで阪急芦屋川駅に辿り着き、ガード下の路傍に腰かけて、尚、尚、缶ビールを飲んでは語りあったことがある。みんな若かったね。楽しかったね。あんなに人を素にして和ませる人は少ないよね。

 何といっても彼の真骨頂は、山幹決戦の場であった武庫川河畔の総大将振りであろう。彼は身じろぎもせず、瞳を据えて、沈黙のまま、辺りを睥睨していた。戦国の武将もかくやと思われ、やはり稀代の士(さむらい)であった。

 砂場さん、身を以って示された“生き方”のお手本を有難う。御立派な人生を完うされて敬服します。いつかまたお会いするまで、安らかにお眠りください。

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『みちしるべ』人を引っ張り込む力がすごかった**<2009.2. Vol.56>

2009年02月08日 | 神崎敏則

人を引っ張り込む力がすごかった
【故 砂場徹さんの追悼文】

みちと環境の会 神崎敏則

 砂場さんとの出会いは、5月3日に憲法集会を開催するための実行委員会の場でした。1998年の3月頃だと思います。実行委員会では、企画内容と事前に賛同人をできるだけたくさん集めることが主な議題でした。何度目かの実行委員会が終わった時、「ちょっと君に話があるんや」と言われ、近くの店に二人で入り、軽い夕食とビールを摂りました。

 砂場さんが言われたのは、賛同人の集まり具合がまだ不十分なこと、当日の参加状況を心配していることの二点でした。一時間程度の話でしたが「なんとかこの集会を成功させたい」との思いが、ひしひしと伝わってきました。当時僕は勤務先が変わったばかりで、正直なところ「それどころではない」気分でしたが、砂場さんの話を聴いていると「すこし自分も無理しようか」という気持ちに切り替わりました。なぜそんなに短時間に切り替わったのか不思議なのですが、ともかくその日の帰り道に自分の中で決意がわいてくるのを感じました。手元の資料を見ると、最終的には78名が賛同人に名前を連ねました。当日の集会も成功しました。

 僕が『みちと環境の会』にかかわり始めたのは8年ほど前からです。パソコンを打つのが早いという理由で『青空だより』の版下をつくる担当になりました。

 『青空だより』の仕上がりを見た砂場さんから時々注文が突き刺さってきました。「僕のところの『みちしるべ』を見てみい。書き手も多いし、いつも20ページやそこらになってるやろ。内容も豊富や。君のところももっと工夫をせなあかんし、書き手をふやさなあかん」と何度か言われました。注文内容はまさしくその通りでしたので反論できませんでした。でも内心では「えっ?それってどういう意味?」と聞き返したくなりました。「確かに砂場さんは『阪神間道路問題ネットワーク』の代表だけど、現役の『みちと環境の会』の運営委員なんだから、僕は砂場さんと一緒に活動しているはずじゃないの?」と少なからぬ違和感を覚えました。今から考えると、砂場さんの中では、“僕のところ”と“君のところ”と明確な区別を意図的につけていたのかも知れません。

 『みちと環境の会』が尼宝線の拡幅整備問題に本格的にかかわり始めたのは04年2月からです。工事区間の沿道の住民のお宅を訪ねて項目の多いアンケート用紙に書いていただき、それを集めて回りました。そのアンケートを集約すると、多くの住民の方が、排ガスや騒音、振動、安全問題などに不安を感じていることが分かりました。よしこれから住民が話し合っていく場をつくろうと『みちと環境の会』の運営委員会で提起した時のことです。拡幅整備反対を前面に出すか、それとも中途半端な拡幅整備ではなく24m幅員(行政の案は幅員18m、歩道2.5m)にして自転車道と歩道とを分けた立派なものを要求するかで、議論になりました。この時、砂場さんは自らの意見を主張するのを途中からやめました。それは、いつもの砂場さんとは正反対なくらいに穏やかに主張しなくなりました。この文章を書きながら思うのですが、“ここから先は君のところの問題やから、自分の思った通りに一生懸命に頑張れよ”とこの時に託されたのかもしれません。でも、ここからが大変でした。

 毎月『沿道住民の集い』を開いて、できるだけたくさんの住民のみなさんに参加してもらうように事前にニュースを手配りして回りました。でも、なかなか住民の参加者は増えませんでした。それでも、ニュースを配りながら話をすると、住民の関心の高さが実感できました。

 あるお宅のインターホンを押すと若いお母さんが出てきて、「うちの子供が2階で窓を開けて昼寝をしていたら急にせき込みだして、あわてて2階に上がって窓を閉めました」と話されました。その人は、ニュースを手に取るといつも食い入るように読み始めます。毎月のニュースを待っている住民が少なからずいることを、ニュースを配るたびに実感していました。でも『沿道住民の集い』の参加者はいつまでたっても増えませんでした(今もそうです)。そのうち、『みちと環境の会』の運営委員会では、「住民はあきらめている」という意見が出はじめました。至極もっともな意見なのですが、この状況を突破するには、議論で打ち負かすことではなくて、「住民はあきらめてへん」という運動をつくりだすしかない、『沿道住民の集い』の参加者が増えればこの議論は自然と収束するのだから、参加者を増やすことを必死でやろう、と思っていました。でもやってもやっても参加者は増えませんでした。自分でもびっくりするぐらいに増えませんでした。そんな時に「砂場さんだったらこの状況を変えてたんやろなあ、人を引っ張り込む力が砂場さんと僕とで全く違うんやろなあ」と思っていました。今のところ僕の惨敗です。でも、まだまだあきらめるつもりはありません。砂場さんに胸を張って報告できるように、また頑張ります。

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