『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**赤い夕陽⑳ 閑話休題**<2018.5. Vol.100>

2018年06月29日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑳ 閑話休題
敗戦前を少しさまよう あの頃の隣人と級友

三橋雅子

 戦前は隣組というのがあって、隣近所と無縁に暮らすことは出来なかったが、我が家は最低限の回覧板を回すことくらいで、熱心なお付き合いはなかったらしい。特に一番近いお隣さん、岸信介邸に私は一度だけ回覧板を持って行って門越しにお手伝いさんに渡したことがあるが、以後ずっと岸邸への回覧板は使用人の役目だった。道を隔てて反対周りは、依然として私の役だったが。「大の役人嫌い」の父の采配か?岸氏は当時、満州国の重鎮官僚?門の前に横付けされた車への出入りだけで拝顔の機会はなかったが。それは我が家の父とて同じで、それも以前のように、馬車の送り迎えだった時は、私は好物の人参で馬の鼻づらをさするのが楽しみだったが、やがてフェラーリやダットサンになってからはその楽しみもなくなって、味気なくなった。この黒いダットサンが、またまた私は大の苦手、あのガソリンの匂いで、「お出かけ」は益々は憂鬱になった。

 岸家の二人のお姉様(その一人が安倍現首相の母君か)は父親似のひょろ長ーい顔のお嬢様達だった。それを思い出したのは、60年安保闘争の時、「岸タイジーン」を叫ぶ、あちこちのプラカードの似顔絵が、岸家のお姉さまたちによく似ていたからだった。やや懐かしくも、おかしくもあった。現首相は父親似か?あのお姉様達に全然似ていない。

 同年齢の大きい姉達とは、違う女学校だったこともあろうか、下の姉は同じ女学校の後輩だったにも拘らず、岸家のお嬢様達と交わることはなかった。わざわざ道を隔てた向かい側の、岸家と同年齢のお姉さまたちとは始終行き来して、クリスマスやお正月には、いろんなゲームをして過ごした。一番近かった岸家の令嬢たちとはおしゃべりすら、したことがなかったのは、単に相性が悪かったのか?父の差配でも働いていたのか訊き損なった。

 1945年8月9日のソ連の宣戦布告で新京の町が混乱のるつぼになった時、何時の間にお隣、岸邸が空っぽになったかは知る由もない。恐らく、関東軍がもぬけの殻になるより先に、であろう。間もなくソ連の進駐軍が侵攻してきて、界隈では真っ先に我が家が接取されて追い出されたが、既に空っぽだった、お隣の岸邸が将校達の住処になったのは、ずっと後のことだった。何で、隣が空き家なのに……うちが追い出されるの?と私は憤懣やるかたなかった。当時の官邸は、今日のそれのように(?)豪華なものではなく、誠に質素な「官僚にふさわしい」ものだったのか?我が家が少々派手すぎたのか、「とんがった青い屋根のハイカラな家」は目立ったらしく、界隈で真っ先に「追い出し」の標的になって、言葉も通じず事情がわからないまま荷物を放り出し、行く先の当てもなくボウ然としていた。その時、やたら「ブイストラ、ブイストラ」とお尻を拳銃で突つかれ、せかされた忌まわしいセリフが、軽食屋ビストロの由来だということを知ったのは、ずっと後の事。そもそも第二次大戦後のドイツで、ソ連兵たちが「早く何か食わせろ」と「ブイストラ、ブイストラ(はようせい)」とわめきながら入ったのが軽食屋だった、それでそういう店が、ブイストラなまってビストロとなった、とか言われる。

 更に脇道へ行くと、「逃げ足早かった関東軍」で思い出すのは、同級生だった山田乙蔵大将、関東軍総司令官の孫娘、Y嬢である。この敗戦の年の五月か六月頃、私のクラスに彼女が東京から転校してきた。こちらにとっては、当時多かった東京からの疎開組の一人、ただの転校生としか思わないが、なにやら外野が物々しく、担任の先生の緊張振りと張切り方もおかしかった。四年生の、我が三組に入ってきた彼女は中くらいの大きさで真ん中へんの席だったが、ちびで一番前の席だった私がその隣に席替えさせられた。「級長の隣」が必要なら、彼女が私のそばに来ればいいじゃん、というのが私の思いだったが。この不満も含めて夕食の席で報告すると、滅多に夕食を共にすることがない父が珍しくその日は同席していて、私の何気ない報告に、「うーん、山田乙蔵の孫か……」と箸を置き、腕組みして考え込んでしまった。その重い反応に私の方がやや驚いた。空襲の危険からの疎開という、東京からの転校生は当時多かったが、関東軍総司令官の身内となれば、満州の安泰に余程自信がなければ……というのが父の思惑だったに違いない。本当に関東軍は、「満州はわが軍が居る限り、『盤石の砦』」と思っていたのだろうか?カモフラージュで 孫娘を手元に?とも思えぬやり口を前に、父は腕組みして、さまざまな思惑に耽ったたらしい。

 子供の社会でも、否、だからこそか?早くも「取り巻きグループ」的なものが形成されて、彼女は「お姫様ぶり」を発揮し、かなり傍若無人な振る舞いをしていた。隣に座らせられて「お世話係」の筈だったのかどうか、私はご機嫌を取るどころか、彼女の不当なわがままをいさめる側だったので、彼女は恐らく、けむたかったにちがいない。彼女が自邸の関東軍総司令官のヤカタに級友を招待することになったとき、きっと私の扱いに悩んだ筈だが、「級長をご招待する」ことの利を、小さい頭でひねり出したのか、私も「取り巻き達」と一緒にご招待にあずかることになった。私は彼等と共に、広い官邸の門から長ーい道を上って行った。「ワアーHさんち(私の家)より広ーい」などと皆口々に言うのを「当たり前じゃ、『泣く子も黙る天下の関東軍』の総司令官邸じゃないか、我が家の比ではないはず」と私はボヤキながらついて行った。広い官邸を走り回り、探険した後に出てきたお八つの豪華さに、また皆は度肝を抜かれた。これにもまた、私はヤヤ驚く。我が家での友達に出すお八つに、母はかなり神経を遣って、酒保(兵営内・艦内にある兵士相手の日用品・飲食物などの売店。)からの豊富な「甘いもの」など出しひかえて、「内地からのさつまいも」のふかしたの、などを出すようにしていたからだった。これはもちろん、「あそこはツテあって、今時貴重な甘いものに事欠かない」などという非国民呼ばわりを配慮しての事だった。ここでも私は、そんな我が家での気遣いなどはどこ吹く風の、「何をやってもいい、さすが『泣く子も黙る関東軍』」と、その威力を感じたのだ。

 間もなくの、突然のソ連の宣戦布告に、関東軍はどれだけ寝耳に水で慌てたのか、ある程度の予測をしていたのかは知る由もないが、少なくとも、この稿のしょっぱなに書いたとおり、彼らの半端でない「慌てぶり」からは、関東軍のノーテンキな構えが窺われる。少なくとも、北からのソ連の侵攻は予想図になかったのではないか?安泰を装うカモフラージュではなかった筈の、総司令官が呼び寄せた、お孫様の姫君も、予想が外れての慌てぶりで、いち早く内地行きの飛行機で飛び帰ったのではないか?

 こうして、繰り返すが、安泰の筈の満州が、未曽有の不安と混乱のるつぼになった時、頼りにすべき、「泣く子も黙る関東軍」はおろか、何らかの指針を当てにした役人も、皆わが身の「少しでも」の安全確保のために、恥も外聞もなく、身内だけで、そそくさと飛び立って行った。住民には露ほどの「情報」も手だても残さず。今更驚くことも、憤ることもない「当然の」姿、彼らにとってはごく当たり前の、自然ななりふりと世渡りテクニックに他ならないのであろう。本稿のしょっぱなに記した、8月9日のソ連の満州侵攻に慌てふためいて、飛行機や特別列車で家族もろ共この地を逃げ出したのが、「泣く子も黙る関東軍」の正体だった。軍隊とはきっとこのようなものなのだろう。その後に続くのが高級官僚。彼らが己の逃亡に手いっぱいで、住民を積極的な犠牲にはしなかっただけで、その必要があれば、住民はいつでも犠牲にされる。彼らの保身のためには。沖縄戦の実態が良くそのことを物語っている。

 植民地での戦後のどさくさは、当然ながら「関心は我が身のみ」の本心に、きっと、わずかなりの疚(やま)しさも痛みもないのが、今日の、わが身の欲得にのみ恥も外聞もない政権トップたちの、あられもない姿に明らかなのだろう。今更驚くことも、憤ることもない「当然の」姿、彼らにとってはごく当たり前の、自然ななりふり、遺伝子的に受け継がれ、古くから染付いて脈々と受け継がれてきた本性と世渡りテクニックに他ならないのか?

 かつてのお隣のお姉様方、ごきげんいかがですか?相変わらずの、ぬくぬくの現状にご満足でしょうか。かつて、時には零下30度にもなる満州の凍土に打ち捨ててきた同胞など、片時たりとも瞼に蘇ることなどなかったでしょう。お姉様方と、ご一緒にゲームに興じた時間と思い出を共有しなくてよかった。クワバラクワバラ。ごきげんよう。

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『みちしるべ』**赤い夕陽⑲ 逃避行**<2017.7.&9.&11. Vol.98>

2017年11月20日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑲ 逃避行

三橋雅子

≪訂正とお詫び≫
前号の冒頭「中共軍と共産軍」とあるのは「中共軍と国府軍」の間違いです。

 ある日、この塾もどきから帰る途中、私は異変を感じた。途中で、下男に付き添われて午後の授業に出る姉と出会って、そこからバトンタッチの形で、私が下男と家路につく筈が、何時まで経っても二人に出会わない。おかしい、と立ち止ったが、さて、おかしいからと言ってどうすべきか、小さい頭で考えたがどうしようもない。歩を進めることにした。家に近づくにつれ、「おかしさ」は益々の感で強まる。道路はシンとして、むろん人影はなく我が家に近づくと物々しい兵士たちが我が家を取り巻いていた。さて、どうしたものか?また小さい頭で考えたが、結論は、ともかく我が家に入ろう、やや足はすくんだが、あの中に家族がいるか、皆殺しになっているか、いずれにせよほかに行くべきところは聞かされていなかった。

 走馬燈のように、これまで聞かされた「シナ人の子供への残虐行為」が頭をめぐる。めっぽう子供に甘い「ロスケ」(ロシヤ人の蔑称)とはわけが違う。かつて「アヘン運びの為の幼児誘拐」が流行った時、小学生にしては小柄な私は、ほんとに怖かった。子供の腹を裂いて内臓を取り出し、アヘンを詰めて、病気と称して、毛布にぐるぐる巻きで運ぶ。………私の足はすくんで、だんだん遅くなった。

 門に近づくと、この家の子供か?と訊くから、「シー(そうだ)」と言ってズンズン入っていった。玄関を入ると突当りの階段を指すから階段を上る。後ろから拳銃でお尻を突くから「ショマイース(何をする)!」と振り払ったら、にやにや笑って引っ込めた。上り切って廊下の襖を開けると、そこに家族が揃っていてホッとした。家族も私が無事に捕らわれの身になったことで、ホッとしたようだった。

 見渡すと見知らぬ面々も。気の毒に通行人が巻き添えになっているのだった。だが父の姿が見えない。その父を探すために皆が監禁されているらしかった。と言うことは、父はまだ捕まっていない。後で聞くと、この時父は気配を感じて、裏口からスリッパのまま抜け出して危機一髪で脱出していた。そしてそのままこの家に戻ることはなかった。家族も同様で、あの長い監禁が、あの家との最後をゆっくり満喫した結果になった。

 ソ連の侵攻以来、政権が代わる度、父は引っ張られた。恐らく関東軍への石油の一手販売という廉で。はじめのうちは逃げることなどせず父はおとなしく連行されていた。その都度、母は下男を尾行させ、連行先を突き止めて帰ってきた。下着の差し入れと称して、お金の束をそれに仕込んでた。父は下男にすぐ引き返らさせた。すると殆ど下男と同時位に父は、帰ってきたのだったが。

 やがて日も暮れ、捕物は未遂のまま監禁は解けた。不運だった通行人に、母は謝ったり、ねぎらったりしていたが、それもおかしなものだと、子供心に思った。ここはもはや危険ということか、我々の逃避行が始まる。三々五々、目立たぬように夜陰を縫って移動した。いざという時の行き先を、あらかじめ打ち合わせていたらしく、その部屋にこっそり入っていくと、既に父がいてホッとした。

 母が七輪をパタパタしながら油揚げを炊いていた。それは私が初めて見る景だったが、以来、私は油揚げには妙なトラウマが付きまとってしまった。不安と安心をないまぜたような。ともかく安否が不明だった父が居り、朝以来絶食の空腹が満たされると、長時間の監禁の疲れで瞼がくっつきかけていた。が、そうはいかない。これからあるやもしれない捕物の続きに対応すべく、枕元には靴が置かれ、この2階の窓にロープを結わえて、いざ踏み込まれた時の、逃避の手順をたたき込まれた。必ず靴を履く、決して一人になるな、声は出さない………しかし、もう睡魔に勝てなく………。

 翌朝無事に眼が覚め、大人たちはまんじりもしなかったようだが、すぐ次の行動へ。行き先は遥か郊外の高碕竜之介邸だった。高碕のおじさまは、客嫌いの私にはめづらしく、好きな部類のおじ様だった。子供におもねない、長居をしない。父と応接間での話が終わると、大抵はさっとご帰還。たまに居間まで足を伸ばしても、私に膝に乗ることを強要したり、機嫌を取ったりの野暮なことはしないで、スマートに対等に相手をしてくれた。だから、私はそれまで、高碕邸に行ったことはなかったが、行くことに決して嫌な思いはなかった。

 着いてみると、高碕邸の主は空っぽだった(当時、邦人の内地引き揚げに奔走中だったらしい)ので、近くの下男さん一家のところに転がり込むことになった。高碕邸は大きかったし、いつ帰るやも………、と言ってくれたが、父は主のいない屋敷に入ることはしなかった。

 ここで、引き揚げまでの数か月を過ごし、ここから、引き揚げの行軍に参加することになる。我が生地、満州国新京特別市最後の地となった。

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『みちしるべ』**赤い夕陽⑱**<2017.3.&5. Vol.97>

2017年06月07日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑱

三橋雅子

<寺子屋>

 中共軍と共産軍の市街戦が終わり、どっちの政権になったかも、訳が分からないまま。我が家の民間ソ連夫婦が慌ただしく引き揚げて行ったことから、ソ連が完全に撤退した事だけが確からしかった。次は何が起こるのか?

 不要な心配をしても仕方ない、と父は思ったのか、寺子屋の算段をし始めた。近所に空き家になっていた教会があり、黒板、椅子、机が一応揃っているから、と父が元先生をどこからか探してきて、そこで、寺子屋もどきが始まった。低学年と高学年、中学生くらいの大雑把なグループで、2部制の授業が始まった。学校嫌いの私も、こういう破格の学校は面白くて休まなかった。しかし先生が無事にたどり着くことの方が難しかった。途中で「使役」に掴まって、何時間か鋸引きをやらされたり………。というような事情で、息を切らせて、すまんすまん、と駆け込んでくるのだった。それはまだましで、とうとう先生が辿り着かないこともあった。

 教科書もノートもないから、算数などは先生が問題を黒板に書いて、皆で所狭しと計算した。また、先生は「嘘をつくことは悪いことか?」というような問題を出す。みんながウーンと考えていると、例えば今日、先生は使役に掴まって、おなかが痛くて病院に行くところだから、と嘘をつき、ヘタコラヘタコラ満足に鋸を引けない振りをして「この役立たず!」と解放され、やっとここへやってきたんだが………、という風に。また、遅れに遅れた挙句、頭に包帯を巻いて血が少し滲んでいることもあった。「脱走に失敗してね」、と先生はきまり悪そうに言って笑ったが、痛ましかった。

 ある時「人はパンのみにて生きるに非ず、というが、他に何が要るのか?」という問いに「はーい、肉が要ります」と誰かが答え、先生は少し困ってしまった。家に帰って話すと、大人たちは「うまい答えだ」なんて大笑いするだけで、何のことやら分からず仕舞いだった。

 そのことを突然閃いたように思い出したのは、引き揚げて来て、東京目黒の家で泥のように眠りこけた後、目が覚めたら、復員していた兄が買ってきてくれたのか、『ああ、無情!』(ヴィクトル・ユーゴー作『レ・ミゼラブル』の少年版)が枕元にあった。「ああ、本いうものがあったのか!」という思いで、開いて読みだしたら止まらない。中味への興奮なのか、読んでいる事への感動なのか、訳が分からず涙がポタポタ落ちて、当時の本は辛うじて紙の体裁を保っている代物だったから、涙で破れてしまうのでは? とひどく心配になったのを覚えている。その時、何とか食べ物らしいものにありついて、何日ぶりかの畳に足を伸ばして寝て、………その挙句にガツガツとまるで食べ物らしい食べ物に飢えていたのと全く同じように、歯の音を立てるかのように、活字にかぶりついたのである。あの寺子屋でも本は一冊もなかった。そして、幸せを感じた。この嬉しさ!おなかがいっぱいになりさえすれば幸せになるのではない、と納得したのだった。

 義務教育中一番楽しかったこの学校も、間もなく我が家の事情で行けなくなったので、何時まで続いたのかは分からない。

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『みちしるべ』**赤い夕陽⑰**<2016.11. Vol.95>

2016年11月03日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑰

三橋雅子

<市街戦>

 ニーナと牛乳の楽しい暮らしも、まもなくあわただしく打ち切られた。突然、(情報がないから、すべてが前触れなく突然やってくる。)ダダダダッとこじ開けられた玄聞から機関銃が持ち込まれ、そのまま2階に運び上げられた気配。中国兵というだけで、国府軍か共産軍か?は分からない。やがて猛烈な銃弾が窓々から打ち込まれる。畳をはがして立てかける。それまでガチャンというガラスの割れる音と同時に、足元に転げ落ちてきた銃弾(飛び上がれ!という掛け声でジャンプしてよける)が、畳の威力はすごく、プスッと弾を吸収してやがてポロリと弾は力なく転がる。しかしだんだん砲弾の飛来は激しく、「地下室に避難だ」と元一兵卒の命令で、台所の床を蹴る。「開けゴマ」よろしく、ガラガラガラと床が動いて次々と階段を降りる。比処に入るのは8月9日、ソ連宣戦布告の日の「最初で最後の防空壕入り」以来。もはや焚き手の居ないガラーンとしたボイラー室兼中国人使用人たちの寝所だった空間。

 震えていたニーナも物珍しげにきょろきょろしながら、いくらか遠のいた銃声に安心したようだった。我々にしたって、何事初めての経験、しかし子供にとっては怖さよりスリル感ワクワクの連続。もっとも、これは大人達があまり慌てず、少なくとも恐怖で顔を引きつらせることから程遠く、弾が激しくなると、そろそろ地下にでも潜るかなどと、のんびり次の行動を指示していたからもしれない。しかし慌てふためいた大人も多かったらしい。いきなりの立て続けの銃声で「腰を抜かし」たり(こうなると本当になかなか立てないらしい)、何事ぞ?と小窓からのぞいたとたん、首が吹っ飛んだ、とかの被害も聞いた。

 しかし市街戦という戦ののどかさか、昼時になると銃声はポロンポロンと間遠くなって、やがで止んだ。「さすが食い意地の張ったやつらで助かった、それ!今のうち」という兄の掛け声で、階段を駆け上り、ガラガラガラ……と台所の床を開けて、手早く食事の支度、銃声が再開すれば、それを地下室に持って下ろして、ゆっくり宴会もどき。

 こうして夜も暮れ、当然銃声は止んで、食事を済ませた時に事件は起こった。止んだはずの銃声が突然激しく再開、バラバラガチャンという音で、隣の岸信介邸の一部に当たって撥ね返った複数の統弾が、ガラスを破って床に転がり込んできた。私はジャンプして弾を避けながら、壁際に身を寄せた覚えがある。その時ねえやが何を慌てたか、壁際どころか中央で、くるくると「逃げ回って」いる。「あぶない、端へ寄れ!」と誰かが言った時は既に遅く、ギャッと言ってねえやは倒れた。しかし彼女がぎゃあぎゃあ、と泣き叫ぶのを聞いて、子供の私でも大丈夫、と思った。少なくとも、死んじゃいない。そのふくらはぎを母が応急の手当てをして、父が知り合いの外科医のところに負ぶっていくことになったが。痩せたり、といえども30前の元陸軍2等兵に、その任が行かなかったのを後で不思議に思った。誰もが暗黙の裡にムリムリ……という了解だったのだろう。コロコロに太ったねえやを、こともなげに、がっしりした背に負ぶった父の姿が真っ暗けの闇に消えた。

<戦のあと>

 ねえやの「負傷」は、弾がすっぽりふくらはぎに納まっているとかで、「何もいじらず、そのまま」で終わった、と父は彼女を近くの知人宅に預けて手ぶらで掃ってきた。「伊達に大根ではなかったんだ」と皆は彼女のまるまるしたおみ足に感謝し、安堵した。

 さて翌朝は弾こそ行き交わないが、大きなトラックが慌ただしく「作業」をするので騒がしかった。通りまではかなりの距離があるので、トラックにぼんぼん放り込んでいるのが怪我人なのか戦死者なのかは分からなかった。担架も行き交っていた。

 そのうち、我が家の門から玄関までのレンガを敷き詰めた、かなり長い湾曲した道をこちらに向かって連なってうごめいているのが見える。玄関に近づいている兵士たちが「スイスイ……」つぶやいているのが分かった時、私はコップに水を汲んできて差し出そうとした。その時である。いきなり背後からびしやり!と手をはじかれて扉が閉じられた。後ろに肩で息をしている蒼白のニーナがいた。その、大人の姿を見て、私は咄嗟に自分が軽率で危険なことをしようとしていたのだ、と思った。しかし、演技でなければ、あの瀕死の兵士が敵でも味方でもない、我々に何の危害を加えることがあり得たのだろうか?と疑問に思った。多分あそこで息絶えたかもしれない兵士たちの姿がいつまでも目に焼き付いていた。「末期の水」になったかもしれない。あるいはコップー杯の水で、命を取り留めたかも知れない。いずれにせよ、私は一杯の水を差し伸べることが出来なかったことに胸を痛めた。そしてニーナの第三の顔を見た気がした。

<別れ>

 ニーナの夫君スチパンソフが、慌ただしく電話室を出たり入ったりして、ニーナには遠くに行っていろ、と言っているらしかった。当時、他の家は知らないが、我が家の電話はちょうど公衆電話のように、扉付きの個室にあった。私たちはどうせヒソヒソ早口の話など分かるわけもないが、ニーナが漏れ聞いたことをすぐに私たちに話すだろうとの危惧かららしかった。彼はスターリンと大事なことを話しているから、とニーナは肩をすくめて電話室から遠ざかった。

 その電話の後、夫妻の帰国を知らされた。ニーナは泣きはらして、いやいやをしているらしく、スチパンソフ氏も、ほとほと困っている様子。スターリンの命令には逆らえない、と言っているらしかった。私たちはすぐに別れの宴の支度にとりかかった。慌ただしい中、中国人のコックもボーイもいない中、残っているたった一人の日本人ボーイとねえやと母と兄嫁と大きい姉の手で、よくも、と思うほどの宴のご馳走が整えられた。

 しかしニーナは泣きじゃくるばかりで、ご馳走どころではない。スチパンソフ氏が背中をさすりながら、せっかくみんなが用意してくれたのだから、一口でも食べなさい、と言っているらしいが、ニーナには何も通用しない。私は子供心にも、よくもこんなだだっ子で、えらいさんらしい人の奥さんが務まるものだ、と不思議に思った。

 別れのシーンは記憶にない。スチパンソフ氏が難儀を予想して、人知れず早朝に発ったのではないかと思う。短かったが、かの将校たちと同じ、「濃密な経験を共有した同居の日々」だった。

 彼らのいなくなった元々我々の応接間は、無論かつての2組の応接セットもピアノも オルガンもないまま、代わりにレコードをかけて、夫婦が静かにお休み前のステップを踏んでいた余韻を残していた。そして毎晩「スパコイノイノーチ(おやすみなさい)」と言って去ったように、私は静かに応接間のノブを回した。

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『みちしるべ』**赤い夕陽⑯**<2015.7. Vol.90>

2015年08月08日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑯

三橋雅子

ニーナと牛乳ぜめ

 このパーティーのあと、我が家には民間人夫婦が同居することになる。ニコライヴィッチ・なんとかかんとか・ステイパンソフとニーナ。ニーナは日本人くらいの小柄な体格で可愛らしく、刺繍が好きな典型的な「いい奥さん」だった。人なつこくて、子供がいない寂しさからか、始終私たち姉妹を呼んではトランプか、半分くらいしか通じないお喋りで時間を費やした。そこ、かつての応接間は最早ピアノも二組のソファーとテーブルセットも既になく、入れ代わり立ち代わりの接取やら同居で床のリノリュウムも随分荒れてしまっていたが、彼らはそこへ贅沢なペルシャ絨緞を敷き、家具も整え……と軍人たちとは違った暮らしを始めた。

 ニーナはあれこれ整える一環に、牛乳を毎日配達させるという。明日から新鮮なミルクが届くから、と得意になって、私たちも心待ちにした。ところが翌朝ニーナが悲鳴を上げる。馬車に積まれているのは大きいミルクタンクが二つ。なにこれ? 彼女は毎朝「絞りたての牛乳2リットル」を夫に頼んだという。夫が間違えたか牧場の取り違えか、「牛2頭分の牛乳」ということになってしまったそうだ。始めの何口かこそ美味しかったが、家じゅうガブガブを強要されては閉口でしかない。

 牛はどの位の乳を出すものなのか? 「牛1頭1年で9千キロ(リットル)がふつう、単純平均で1日30キロ」とある。70年前のこと、冬場に差し掛かってもいたから半分か3分の1に見積っても2頭分といえば20から30リットルが毎日来たのだから、10人前後でこれをこなすのは難儀だったのも当然。毎朝、馬車がパカッパカッと気持ちのいい音を立ててやってくるとニーナは悲鳴を上げた。

 ニーナがヨーグルトを作ろうと言い出した。当時、我々はヨーグルトを知らない。毎日、袋に入れて軒先につるしておくと、やがて固まって酸っぱいおいしいものが出来た。ヨーグルト菌はなくても恐らくノンパスチャライズ、ノンホモジナイズだから自然に固まったのか。これだとだいぶ楽にはけたが、軒下の白いコロイド状は殖える一方だった。しかも冬場に向かっていたから保存がきくどころかどんどん凍っていった。

 それにしても、始まったらひたすら「長続き」、変更ができない? あれがなるほど「雨が降っても水撒きを止めない……ロシヤ風」なのか、来る日も来る日も大量の牛乳は馬車に揺られてやってきた。もはやお腹を抱えて笑ってもいられない。いっそ牛乳風呂で、クレオパトラの気分になったら? と誰かが言ったが実現しなかった。永い戦時の「節約」精神が許さなかったのか。増え続ける軒下の「ヨーグルトの袋」はどうなったのだろう? まもなく始まる市街戦の射撃で白く飛び散ったのか? 誰も口にすることはなかった。

狩猟民族の末裔?~

 ある日、我が家の裏庭に豚が1頭入り込んできて、ニーナが喚声を挙げた。始め彼女は兄に仕留め方を命じたが、彼は追いつくのがやっと「一撃に眉間を」などには到底及ばない。下手に傷つけて始末悪くなるばかり。呆れたニーナは、まさかりを奪い返し自ら追っかけて2、3撃で手際よく仕留めた。ふだんの、甘えた「可愛い奥さん」からは想像もできない雄姿を私たちはあっけにとられて眺めていた。

 彼女はてきぱきと風呂場でごしごし洗い流し、いろんな部位に切り分け、最後は全員で腸詰造り。これまた詰めても詰めても終わらない、口元まで一杯になったと思うとニーナがぎゅうぎゅう押し込んで、まだまだ……とパンパンになるまで、気の遠くなるほど根気のいる仕事だった。豚の腸って長いんだな、いつまでも続く……と感心しながら、いやになった。それをニーナは黙々てきぱきとこなす。この日、腕力と見事な手さばきを見せる凛としたニーナの第2の顔を私たちは初めてみた。何もしないくせに、くたびれ果てた日本陸軍一兵卆のなれの果ては

「さすが狩猟民族の末裔だ」、と溜息をついて感心するばかり。

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『みちしるべ』**赤い夕陽⑮「極東貿易」レセプション**<2015.3. Vol.88>

2015年04月12日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑮「極東貿易」レセプション

三橋雅子

 敗戦の年が暮れてまもなく、少しの間、ソ連が商社的な活動をすることがあったのだろうか。後の事は分からないが、ある晩突然「極東貿易」とやらの夜会があると言う。レセプションだろうか? 日本人の「令嬢たち」が振袖など着て出席することになった。

 ダンスが始まる。その夜の最高仕切り屋らしい軍人が、つかつかと十歳の私の前に来て膝を折り、ダンスを、と騎士の挨拶めいたことをした。真っ赤なビロードのワンピースを着ていた私を「クラースナヤ(真紅の)マーリンカヤ(小さい)お嬢さん」とか言って抱え上げ、頬擦りをした。髭はきれいに剃ってあったが、それでも少し痛かった。全員が拍手をする中、彼は私を片手に抱いたまま滑らかに踊った。小柄の方だったとはいえ、十歳の私を途中で抱え直すこともなく、乱れることなく良い姿勢で一曲を踊りきった(という)。一組だけの、いわゆるスターティング・デモンストレイション?満場の拍手の中、私を置くと彼は「オーチェン・スパシーボ(thank you very much)」と言ってまた膝を折っておでこにキスをし、立ち去った。私はポーッとしたまま何のことやら分からなかったが、後で思うに、彼は満場の令嬢たちの中の誰と最初に踊るか、という難しい選択を避けるために、子供の私を選んだのだろうと思う。あとはごちゃごちゃの、恐らく令嬢たちの誰ひとりダンスの心得のあるものはないらしい尻込みを、親達は着物で足が見えないから構わずくっ付いていけ、とお尻を押して、草履で踏んだり踏まれたりのステップが始まった。後の私のダンス熱は、もしかしたらこのパーティーにルーツが?

 お開きに、ソ連側は例の大した声量で、寄せ集めの即興とは思えない素晴らしい男声合唱を披露した。お返しに日本の令嬢たちも歌を、となったが、悲しいかな、みんなが知っていてすぐ歌える、といえば軍歌か、戦争賛歌しかない。誰でも知っている筈の童謡など、いずれも遠く、忘却の彼方に封じ込まれていた。仕方なく敗戦時、一番流行っていた「勝利の日まで」に決まった。さて難関は、私を抱いて踊った例の人物は、実は日本語ペラペラなのだという。姉がメモを回した「最後の歌詞『勝利の日まで』を 『平和の日まで』に直して歌うこと」が緊急の、最小限の措置だった。それでも最後のくだんの小節は、何人かの「勝利の日まで」がパラパラ聞こえた。

 あれはつかの間の、一夜限りの、華やかな宴。永い戦時中、袖を通すことなど夢にも思わなかったはずの、いわんや、日本が負けてしまった今、ぼろぼろの敗戦国民が装うはずもあり得なかった振袖が日の目を見るなどとは! たとえ一夜の宴であろうが、誰しも思いもしなかったわくわくの饗宴。今にして思う、ソ連の見かけによらない粋な計らいか、いや、間違いなく、あくまで彼らの、戦争に疲れた果ての、せめてもの慰めのために、あの一夜を設けたのであろうか?

その後、「極東貿易」の消息を聞くことはなかった。

 
振袖をワルツに翻す華の夜に 勝ちも負けしもいくさ癒しし

勝った国 負けた国 共に酔ふ 楽の調べの一夜の宴

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『みちしるべ』 **赤い夕陽⑭**<2014.11.&2015.1. Vol.87>

2015年01月11日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑭

三橋雅子

別れと恐怖

 1945年 敗戦の年の満州・新京市の秋。

 ある日突然、同居人の三人の陽気な将校たちは、慌ただしく立ち去っていった。突然の命令らしく、荷物をまとめるのもそこそこに、ジープに飛び乗って「ダ・スビダーニャ(さようなら)」を連発しながら、あっけなく秋の風と共に去っていった。手を千切れんばかりに振りながら。その別れの形はむしろ幸いだった。彼らにとってもわれわれにとっても。あの、短期間で、しかも部屋に閉じこもったまま、ほとんど交渉のなかった、陰気なナギバイロとニキチンとの別れでさえ、涙と共に家族一人ひとりとの濃密なハグとキスには誰もが閉口を極めたものだったから、この、親しく、楽しい濃密な日々を共有した将校たちとの別れは、双方にとって、しんどいものとなったに違いない。時間があれば、彼らはおそらく、なりふり構わぬ滂沱の涙で、われわれを大いに困らせた筈だ。戦勝国の兵とか敗戦国の民とか、国を挟むがために、一体何なんだろう?とまたしても思うのだった。

 入れ替わり、早くもその夜の戦慄。

 その夜、父は万が一を予想して、大きい姉たちとねえやを安全な知人宅に預に送っていった。正解であった、間髪をいれず、その夜、強盗に踏み込まれたのである。このことは、前に(「赤い夕陽⑥」で)触れたが、私は中学生の姉の悲鳴で目を覚まし、父の首元に短刀が光っているのを見て凍りついた。母は私たちに見るな、と言って布団をかぶせたが、私は必死に布団の隙間からのぞいて、父の首元から目を離さなかった。短刀はピストルに代わった。兵士らしい薄汚い酔っぱらいは、ゆっくりとその引き金を引いてみせる。こっちを放せばお前の首は吹っ飛ぶ、と言っているらしかった。だからダワイ、ジェンギ(早く金を)と。父は既に出すものは出してしまっていたようだ。もうない、それで全部だ、という仕草をしきりにしていた。始末の悪いことに彼はへべれけに酔っぱらっていて、足元がよたついている。意図しなくても引き金は引かれてしまうかもしれない、ということは私も想像できた。情けないことに私は歯がカチカチいうだけで、喉が引きつって声が出ない。ふだんなら、得意の挨拶“ズドラースチェ(こんにちは)”とか“シトーエータ(これなーに)?”と問いかけることで、事態は少しは好転するはずだった。「スパコイノイ ノーチ ダワイ ダワイ(おやすみなさい 早く・・・)の皮肉も言えたかも知らないのに今は何もなすすべもない。我ながら情けなかった、これきしのことで、と。恐怖の悲鳴も泣き声も出なかった。果てしなく長い時間に思えた脅迫は外が白み始めるまで続いた。彼らの粘り強さにはかなわない。

 結果、何事もなく終わったが、知人たちの「思い出したくもない、怖かった思い」や「語るも辛い肉親の無残な死」に出会うたび、この夜を思い出して、わが身の幸運を幾度でも思う。そして「怖さ」とは痛みでも恐怖でもない、表現の出来ない、逃れられない、やりきれなさ・・・ということもぬぐいきれない。

風の如く去りし将校らよ 聴かまほし 恐怖の夜の闇の深きを 

餅とたんこぶ

 接取されていた我が家がようやく空いて戻ったが、ピアノやオルガンだけではなく、みごとに何もかもなくて、がらんどうになっていた。あれもこれも皆モスコウへ?道理で、来る日も来る日も我が家の庭は朝から晩まで荷造りに明け暮れていたはず。おかしいやら、溜息をつく間もなく、またどやどやと、今度は下士官あたりの、大分ガラの悪いのが大勢住むことに。一階は全部彼らに占拠され、われわれは応接間はもちろん、懐かしい居間や子供部屋に住むことも叶わず、二階に押し込められた。

 もう、この年も暮れようとしていて、父が餅つきをしようと言い出した。皆、ええ?このご時世に?という感じだったが、父はこのご時世だから景気づけにやるんだ、という。戦争に負けたくらいで餅つきまで止める手はなかろう、と。苦労して何とか材料の準備が整ったようだが、例年のように、もろもろの支度にかかる使用人たちは、下男とねえやの二人の日本人を残して、もう誰もいない。母や、兄嫁は大変だった。しかし搗き手には事欠かない。今日はあなたたちの手を借りる、というので、初めての、何をするのか?わくわくの、やりたくてしようがない軍曹たちが、手ぐすね引いて順番待ちである。おまけに、彼ら特有の「長続き」の習性で、杵を持ったら最後、疲れを知らぬどころが飽きないで、いつまでも杵を放さない。トロトロに搗き過ぎ、を母が止めさせるのに苦労した。更に後には、早くやらせろ、とうるさくせっつく行列・・・さすがに父も、えらいことになった・・・と頭をかく始末。

 さて食べる段で大事が起こった。皆おいしい、おいしいと、初めての餅に目を輝かしてがっつく。そのうちケッケッケッと異様な音がして「たんこぶ」とわれわれがあだ名している軍曹が、目を白黒させているのだ。あだ名の通り、額に大きなたんこぶがついているのだが、そのたんこぶがまっ赤になっている。慌てた。たいへん!みんなで背中を叩くやら、さするやら、最後は口に手を突っ込んで引っ張り出したのは、それはもう、でかいでかい餅のかたまり。丸ごと一口に食べたのだった。いやふたつ、みつ一度にか?

 ひと騒ぎが収まってホッとすると、父が切出すには、ひときわ真っ赤になった、たんこぶをみて、あれを取る気はないかと聞いてみろ、と言う。知人の腕のいい外科医なら、跡も残らないように、きれいに取るに違いない。ぜひ、あの邪魔者を取って、本国に凱旋させようじゃないか、ととんでもない事を言い出した。さあ、みんな首をひねった。母はそっとしておいた方がいいという。侮辱されたと取るかも知れない。同意したとしても、万一うまくいかなかったら?まさに、さわらぬ神に祟りなし、に違いない。この期に何を好んでお節介することがあろう。しかし父はお節介の性分がもう収まらない。どうしても、きいてみろ、きくだけでも。本人が不承知なら仕方ないが、と後に引かない。私たちは意思の疎通もままならないのに、と気が重かったが、仕方なく頭を寄せ合って作戦会議をした。先ず私が膝に乗って、たんこぶを撫で撫でしながら、あなたはこれを愛していますかと聞きなさい、多少気分を害しても、子供に甘いロシヤ人なら、・・・という作戦だ。私は気が重かったが、一生懸命やった。たんこぶを指して、これ触ってもいい?と言うと彼は喜んで私を抱き上げ、大いにやってくれ、かわいいだろう?みたいな事を言う。「パパがこれを取ったらあなたはもっともっとハンサムになるって言ってる・・・・」と結論に持っていくのは、なかなかの難事だったが彼は、大きななりをして結構シャイで、私たちの作戦に素直に乗ってきた。こぶを撫でながら、取れるものなら取りたい、という風な心情を吐露するまでに漕ぎつけた。父は「ほーら、みろ」といわんばかりに得意になって、早速知人の外科医のもとへ連れ立って出かけた。

 コブ取りの手術は成功し、しばらく経って包帯を取って帰って来た時には、見事にあとかたも薄く、すっきりしていた。オウっと皆がどよめく中、彼は鏡を見て、恥ずかしそうに鏡を伏せるが、またのぞきこんだり・・・と、いつまでもそわそわしていた。その様子は子供心にも純情に映って、大きななりをして・・・とおかしかった。父が「どうだ、さっぱりしただろう」とか「これでいい嫁さん候補がわんさと来るぞ」とか言えと言ってうるさい。それらしいことを何とか伝えると、彼は恥ずかしがって、ますます赤くなったコブの跡を撫でながら下を向いた。同僚からも口々に口笛を吹きながら、からかわれ、彼は、はにかむことしきり。帰国した彼に、いい相棒は出来ただろうか?

 毎晩ゥオッカをがぶ飲みしてはクダをまいていた、ガラ悪すぎの他の軍曹たちも、異国の餅の味を反芻しているだろうか?と時に思う。

たんこぶの跡に触れみて懐かしむか 異国に搗きし餅と共に

~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~

 週刊金曜日11月7日号の「東京の商店街から旅立った満蒙開拓団」(社会福祉救済運動さえも国策に飲み込まれた時代)が目に触れて、またしても私は私の投稿に(気が咎めて)身がすくむ思い。前にも書いたように、私の責任ではないけれど、同じ満州の戦後を経験した者が毎回のうのうと、楽しげな思い出を書いていることへの罪悪感(?)のようなものに気が滅入ります。この著者が「夢にも思わなかった」のは、開拓団は「農村部のみの話」と思っていたのが、まさか地元東京からも?に驚いているのです。

 この記事は地元大田区商店街からの開拓団が、敗戦時の逃避行で約千人中六百人余が集団自決、銃撃などで死亡したことを伝えています(『東京満蒙開拓団』ゆまに書房)。一般の開拓団全体の資料で半数以下しか生きて帰れなかった、と言うのとも、およそ合致する割合。被害の大きさではなくて、この著者が愕然とするのは、「『開拓団』の実態が『貧しい農村部』のみと思っていたのが、都市部の生活困窮者なども呑み込む『棄民』政策だったこと」です。東京からも?には私も初耳で、やや驚きましたが、出身者が全国的にまたがっていたのは分かっていて、父が難民収容所に物資を届けては何人かを連れて帰ってくるのは、少しでも縁のある人・・と思うのか、自分の出身の関東にゆかりのある人達の中の、特に疲弊はなはだしい親子達でした。この人たちは、新京まで何とか辿り着いただけ、まだ幸運中の幸運な人たちだったのでしょう。

~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~+_*~*_+~

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『みちしるべ』赤い夕陽⑬ 敗戦の秋のピクニック**<2014.9. Vol.86>

2014年10月01日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑬ 敗戦の秋のピクニック

三橋雅子

 ある日、同居人のソ連将校たちはピクニックに出かけようという。将校三人と、こちらは三姉妹と兄嫁の四人で。磊落な両親もこれには大分迷ったようで、すぐにはウンとは言わなかった。彼らは持ち前の粘り強さで、根気強く説得していた。我々はお宅のお嬢さんたちには決して失礼なことはしない、むしろ町の危険から守って、ピクニックを楽しませたいのだ、というようなことを代わる代わる熱心に説いていた。事実私たちは安心できる外出に飢えていた。後日『アンネの日記』の外出できない辛さのくだりで、そうだ、これほどではないけど、あの時はほんとに外の陽気をふんだんに浴びたかった、と思い出したくらいだ。両親もそれを察していたから、無下に禁じられなかったのだと思う。ようやく、行って来いとは言ったが、珍しくくどくどと、詳細な注意事項を言い渡した。ふだん和気あいあいで仲良くしているから、と言って決して油断してはいけない、隙を見せるな、決して一人にはならないこと。手洗いにも必ず連れ立っていくこと。自分の身はどんなことになっても最後まで諦めずトコトン守るのだ、と厳しい表情で言った。特に私への任務は厳しかった。姉の一人が将校の誰かと連れ立って離れることを許してはいけない。その時は憚らず大声を出して騒ぎ、くっ付いて行くんだ、とまるで姉たちの安全は、私の肩にかかっているかのように。その任務は重かった。私はつくづく「人を甘く見てはいけないのか?」と複雑な思いだった。叱られた覚えのない私は、尋常でない注意を重く受け止めた。

 厳しい長い冬の到来の前の、小春日和とでもいう上天気のピクニックは、さんさんと降る太陽の下で、涙が出そうに嬉しかった。安心して、護衛付きで、ピクニックが楽しめるなんて、と誰もがルンルンとウキウキした。しかしすぐ、油断してはいけないのだ、と気を引き締めつつ、それでも頬が緩んで、すぐ歌が口をついて出てきた。たちまち混声合唱に。道行く人たちは、どういう集団だろう?と怪訝そうに眺めていたようだ。やがて広げるお弁当。将校たちも子供の遠足のように、おにぎりに目を輝かせて、オーチェンハラショー(すごくうまい!)と嬉しそうに頬張る。皆幸せだった。ともすると、重大な任務を忘れそうだった。時々、いけない、浮かれて気を緩めてはならないんだった、と両親の注意を反芻した。ゲームに飽きると散策したり・・・この時私は、両親の注意はここだな?と非常に緊張して、ばらばらになるかも知れない時を警戒した。その時はナイン、ナイン(だめだめ)!と大声を上げるんだな、と唾を飲み込んで緊張した。

 赤い夕陽が沈みかけるころ、名残を惜しみながら何事もなく無事に帰り、待ちかねた両親のホッとした顔を見て、心配のほどを知った。しかし、若い下男が、終始我々を尾行して見張りをしていた、と知った時は、思わずとハッとした。何も知らなかった。両親はねんごろにねぎらってはいたが、私は申し訳ない想いで、顔を見られなかった。彼はレインコートをかぶって、よく引っ張られた父を尾行して大働きをした時のように、気付かれないように周到に後を付け、一人木陰でじっと私たちを見守り、一人でおにぎりを頬ばっていたのだろうか。私は胸が詰まった。

 秋惜しむ一日(ヒトヒ)の宴少年は木陰に菰を被りて護る

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『みちしるべ』赤い夕陽⑫**<2014.5. Vol.84>

2014年06月02日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑫ ケレオのオルグ?

三橋雅子

 敗戦の年の満州、ソ連将校と同居の日々のある日。ケレオが、私に何やらお説教らしいことを長々と言い出した。どうせ細かいことは分からないが、どうやら

  「日本のミカドがすべて悪い」

といっているらしい。ミカドとは天皇のことらしい、と私も察しはついた。もしかしたらケレオのいう通りなのかもしれない。「神の国」は敗れてしまったのだから。が、私にはいきなりで、簡単に「ダ、ダ(イエス)」といって彼の意向に従う気にはなれない。「天皇」も含めて何がなんだか分からないんだもん。

  「ヤー ニエズナーユ(私は知らない)」
  「ヤー ニエポニュマーユ(分からない)」

としか言わないのが彼には気に入らない。

  「ダ、ダ(イエス)」と言いさえすればいいのだ」

と脅迫まがいのことをするのが納得できなかった。正直なところ十歳の私には「分からない」が本音なのだ。

 天皇と言うのはウンジョウビトというから、ほんとうに雲の上におわす方なのか、ゴシンエイ(御真影)と言うのが何やら物々しいつくりの中に入っていて、式典のとき、するすると紫の幕を開けて校長先生が深々と、いつもより長いながーい最敬礼をして………確かその奥深くにおわしますのか、そこから、教育勅語を出されて厳かに読み上げるのを、じっと頭を垂れて、鼻をすすったり、咳やくしゃみなど言語道断、とにかくじっと「たえがたきをたえて」頭を垂れ「ギョメイギョジ」となるとおしまいだということだけは分かっていた。ともかく、我慢、我慢が「愛国」のもとなのだった。「欲しがりません、勝つまでは」が解除されるには、何が何でも勝ってくれなくてはならなかったのだ。ある筈のなかった「負けてしまった」今、何より大人たちが分けが分からず右往左往している。あちこちで自殺者が、と言う噂も入ってきた。我が家出入りのテーラーも、お風呂でリストカットをして果てたという。何故?背広はイギリスの生地、と頑固な父に、戦時中にも敵国のものを手に入れてきたのか?われわれ子供にもお揃いのオーバ-があてがわれ、それはふかふかと軽くて柔らかな子供心にも心地いいものだった。

 私の小さい頭の中では、「戦争って?」、「喧嘩両成敗ってことはないの?」とか、大人たちの「ソ連は一方的に不可侵の約束を破ってきた………」とかのつぶやきも巡っていた。

 雲の上におわすにしては、時々どこかにお出ましになるのか、写真が新聞の一面に載る事があって、これを見過ごして、お弁当を包んだり、お習字の練習に使ったりしては大変な大目玉を食らうのであった。これは、用心しなければいけないこと、として、小さいときに肝に深く染み込んだのか、長じて仲間と、何か古新聞を使う作業をしている時、私が無意識に一面トップを確認してから使うのを、彼は不思議そうに問いただした。「ああ、そうだった、もう、こんなことしなくていいのにね、つい刷り込まれた習慣で。」と説明すると、彼はおなかを抱えて笑ったものである。たった五つ若いだけの彼にそんな記憶はなかった。「世代の違い」は五年にして歴然なのだ。私にとって、「ミカド」は禁忌の対象ではあれ、良いとか悪いとかの判断の対象にはなりえなかった。本心からの「ニエポニマーユ(分からない)」なのである。

 様子を見にきた母に、何をそんなに強情張ってるのか、と言われて

  「だって、分かんないんだもん」

としか言えなかった。

 私があくまで「ダーダー」を言わないのでケレオはいらだち、布団を高く積み上げて、その上に私を乗せ、揺すぶった。ゆらゆらしたけど、彼の脅しに腹が立って、こんなことでおじけるものか、と逆に闘志が湧いた。私は下の畳までの距離を目で測って、落ちたって、どうということもない、と踏んでいた。落ちそうになったら、彼の首っ玉にしがみついてやる、とも。彼はますますいきり立つ様子で、次々と布団を増やして積み重ね、ゆさゆさ揺らしては「ミカドが悪い」と言え、と脅迫した。私はその理不尽さに腹が立ち「ダー、ダー」というわけにはいかない。私の頭はもう天井に着いていた。時々母が見に来て

  「何も意地を張ることはないよ、降参したって恥ずかし事ではない」

と言ってくれたが、私も

  「大丈夫、落ちる時はちゃんと布団と一緒に落ちるから」

と安心させた。

 少し安定は悪いけど、ふかふかして怖いというより、いい気持ちではあった。グリムだったかの童話を思い出していた。旅先でのお姫様を本物かどうかを試すのに、十二枚の布団を重ね、一番下に小さな豆粒をおく。翌朝「よくお休みになれましたか?」の問いに、お姫様は「豆粒みたいのがさわって眠れなった」と答えるので本物と分かった、どういうクダリで、私は頭を抱えてしまった。お姫様は憧れの的だったから、そういう「繊細な感覚」がだいじなことなのか?当時の私は、鉄棒の大車輪がいつになったら出来るか?が当面の目標で、豆だらけの痛さを我慢しながら鉄棒を握り、土を蹴る毎日だったから、「お姫様」との乖離の深さに悩んでいたのである。あの童話の趣旨は何だったのか?どういう落ちになったかは覚えがないが、布団の自然崩壊で、なし崩しになったのではいかと思う。途中で母がおにぎりを差し入れてくれたから(おいしくて、その時はちょっと涙がでそうになったけど)、大分の時間ではあったのだろう。眠り込んではやばい、と思って、こらえたのも覚えている。

 母が「この子の強情さにも全く」と言い、父が「それでいいんだ」と言った時、必死で涙をこらえた記憶がある。

 他の二人はもちろん、ケレオも二度と「オルグ」まがいをすることはなかった。楽しいことが多かった将校たちとの同居生活で、ほとんど唯一の、苦い思い出であろうか。

オルグとは受け止めがたき幼き日の夕陽は遠く赤々と燃え

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『みちしるべ』赤い夕陽⑪**マレンスキー少佐の快挙**<2014.3. Vol.83>

2014年04月08日 | 赤い夕陽

赤い夕陽⑪ マレンスキー少佐の快挙

三橋雅子

 敗戦の年の秋のある日、当時同居していたソ連軍将校の一人、マレンスキー少佐が奉天に出張するという。奉天(現・瀋陽市)といえば両親は只ならぬ面持ち。私たちの住む、この新京から近く、叔父一家が住んでいるが、無論のこと敗戦以来消息が判らない。私たちが色めき立つのを見て、彼は何だ何だ、と持ち前の好奇心で、腕まくりでもしそうな勢い。例によって手振り足振りを総動員して、事情を説明した。彼は「ヤー、ポニマーユ(判った)」と厳かに言うと、胸をたたいて何とかしよう、という素振り。そういったって・・・・どうやって? とそれからは、みんなでまた、別の知恵絞りに集中した。父は墨をすり、巻紙に得意の達筆で当方の状況をしたため、万が一、この書状が手元に届いたら、の話だが・・・・と、先に日本に無事着いた者が受け入れ準備をしよう、それまでは、ともかく一人も欠けることなく、無事に内地の土を踏むまでは・・・・などと綿々と書き連ねた模様。私たちはまだ無事だったアルバムをかき回し、叔父の写真を見つけて剥がした。彼はその二つを胸のポケットに入れて「まかしとき!」と言わんばかりに胸をたたいて、意気揚々と出かけていった。もとより私たちはその「成果」に期待を寄せることもなく、帰りの日程も意に留めていなかった。

 ある日、彼、マレンスキー少佐は意気揚々と持ち前の赤ら顔をさらに赤くして帰ってきた。出しなの仕草と同じように軍服の胸をポンと叩いて、「戦利品」を得意げに取り出したのである。あっけにとられる私たちの前に出されたのは、間違いなく叔父の手紙であった。ソ連の将校に「踏み込まれた」叔父は、はじめ「引っ張られる」のかと緊張した、という。当時はやたらとゲーペーウー(GPU=ソビエト連邦下の秘密警察)に引っ張られては、身に覚えのないトガで不当な拘束をされることもざらだった。身に覚えのある父(関東軍への一手石油納品という戦犯もの)はどれだけ「引っ張られ」たか。叔父は逮捕状ならぬ(もっとも当時、逮捕状など存在しなかったが)紛れもない父の懐かしい「達筆」を見て、一家の無事を知り、どれだけ安堵と感激に浸ったか、が綿々と綴られていた。先方の無事も分かって、われわれも安堵の幸せに浸った。情報というのは、不思議な因縁だと思う。行こうと思えばすぐ近くなのに叶わず、あれこれ思い悩むもどかしさと不安。消息が分からないといえば、遠く内地で出世したままの兄達は無事除隊になったのか、ひょっとして敗戦間際に南方に行かされたかも知れない不安もあるのに、もうこれは手の届かぬ入手不可能な情報、と諦めがとうについている。兄たちもまた、我々が引き揚げて東京の地を踏んだ時、ああ、生きていたのか、ととうに再会の望みはないものと諦めていたという。すぐ手近にあって得られない情報にはヤキモキする。だから阪神大震災の時、「とりあえず見てくる」組の乗用車がびっしり主要道路を塞いで身動き取れなくしてしまったのも、心情としては良く分かるから、公的な対策が必要なのだろう。(これに関する藤井隆幸氏の提言は果たして有効に災害時対策に組み込まれているのかしら? と関心のあるところ。)

 さてわれわれの感謝やら感動が収まるのを待って、彼はその「戦利品」獲得の経緯を得意気に語り始める。

 先ず、叔父一家は父の書いた住所にはいなかったらしい。我が家とて、追い出されて他家に居候の身である。しかし彼はそこで諦めず、賑やかなバザール(マーケット街)に行って、叔父の写真を高々と掲げて「オタコイ イエース? ニエ ズナーイエチェ(こんな人いませんか? 知りませんか?)」「オタコイ イエース?・・・・」と繰り返しながら行きつ戻りつしたという。何回も何回も、何日も、ほかのバザールでも・・・・。おそらく、持ち前のロシヤ人特有の、繰り返しに強い粘り強さで。彼はそのゼスチャーを部屋をぐるぐる回りながら、何回も繰り返す。私たちはおかしいやら、彼の一生懸命さに涙が出るのか分からないまま何回も涙を拭いた。

 やっと一人のおばさんが名乗り出た。「ダー(はい) ヤー ズナーユ(私知ってます)」と彼女は言って叔父の家まで連れて行ってくれたという。マレンスキーの小躍りせんばかりの喜ぶゼスチャー。叔父は私たちが「ドラム叔父さん」と呼んでいて、その名付け主の兄は他界して由来を聞くすべもないが、おそらくビールを浴びるほど飲んでドラム缶みたいだったのか、ドラム缶くらいのビールを一気に平らげてしまうという「万里の長城」的表現だったのかは分からないが、特徴のある風貌が、この際役立ったのかもしれない。

 ともかく、マレンスキー少佐は、自分から申し出たこととはいえ、安請け合いではなく、軍務とはまったく関係ない「任務」を全うしたのだ。ただ私たちの喜ぶさまが見たかったのか。それにしてもヒマな出張だったことは間違いない。

 日本軍の将校だったらどうするだろうか? と、すぐに気になるところである。敗戦国民への憐憫と協力? 日本軍の内部で散々な目にあってきた兄は、即座に「考えられないこと」と、吐き捨てた。彼は他の兄たちとは違って、甲種合格になり損ねた体格。軍靴のびんたはもちろん、もっともこれは甲種合格組とて免れるものではなく、学徒出陣の兄は、どんなビンタでも大学に戻れないつらさよりはましだった、と語っていた。毎日、『クオレ物語』(アミーチス)の「長い休暇が終わって明日から学校だ」と寄宿舎に帰る喜びのセリフを黙唱しては往復ビンタに耐えていた、と。

 体格不良の乙種兵は、或る時「貴様のようなへなへなのヤセッポチは、こんなことで役に立つのをありがたく思え」と、「重要な実験」と称する「横隔膜を吊り上げる実験台」とかに「抜てき」された。彼が敗戦で除隊になって、内地に向かうはずの列車から、これはおかしい、シベリヤ行きだ、と察知して飛び降りて脱走、何とか無事に我が家にたどり着いた時、あらわになった首の付け根の、異様に赤く膨れ上がった傷跡を見て、思わず私は「弾にあたったの?」と尋ねた。短く「人体実験」の話をしたが、「くだらん実験さ」と吐き捨てるように言うだけで、その話題はとてもいやそうだったので、以来、醜いケロイド状の傷跡に、私たちは触れないように用心した。その傷をもたらした行為が、彼の寿命を短くしたかどうかは知る由もないが、その後、彼は肺結核になり、父の奔走でようやく手に入った、「治らないはずの結核が治るらしい」というパスの壜の口を開けたばかりで、30そこそこで逝ってしまった。

 もとより、日本兵の中にも「敵国」に感謝されたり、共感の喜びを分かち合った行為はあったはずだと信じる。しかしそれは大方、とてつもなく厳しい軍規の中での、危険と隣り合わせ、という勇気と犠牲を必要としたのでは? マレンスキーの、軍務に無関係の、どうでもいい口約束に、あんなに一生懸命だった屈託のない赤ら顔を思い浮かべながら、私たちは幸運にも、きわめて多くの「敵国の友情」に恵まれたことを感謝したい。

感涙に手を取り合いて喜ぶは軍服毅し敵国将校

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