『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』松山市立子規記念博物館を訪ねて**<2005.5. Vol.35>

2006年01月13日 | 藤井新造

松山市立子規記念博物館を訪ねて

芦屋市 藤井新造

瓶にさす藤の花ふさみじかければ
        たたみの上にとどかざりけり   正岡子規

先ず山頭火の一草庵とロシア人墓地を見学

 昨年2月末から3月始めにかけて、まだ春がやってこない雪深い冬に、斎藤茂吉が生まれた山形県の上山市にある斎藤茂吉記念館へ行った。今年も偶然に、2月末に松山市立子規記念博物館へ行った。松山市へは、仕事とか家族、職員旅行で3回行けども道後温泉に泊まるだけで時間がなくて松山城と内子町の内子座を見学するのみで、子規記念館には入館していなかった。

 今回は西条市に在住するA氏からの誘いがあり、友人のY君とこれまた香川県に居る従兄弟のT君が、高松市より車で案内するとの有難い申し入れを受け出かけることになった。松山市は冬でも山形と違い、少しは暖かいだろうと予想していたが、その希望的観測は見事にはずれた。

 高速道路で西条市を過ぎて20分もすると猛烈な吹雪が車のフロントガラスをたたく。石鎚山系の山々の山頂に白い雪が積もっていたが、まさか、このような激しい雪が降るとは意外であった。知己の4人での楽しい旅を想像していたが、初日から吹雪のお迎かと少々がっかりしていたが、松山市に着くと雪はやみ、私の気持が和んできた。

 従兄弟の話によると、この季節には東予市から北条市にかけて雪が多く、車のタイヤがすべらないように、道路に石灰を撒くという。

 道後温泉のホテルに到着した時刻が午後4時前であり、松山市で大学生活を送ったA氏は、今回は時間が少ないので、種田山頭火が住んでいた一草庵とロシア人の外人墓地にしようとの提案があり、それに従いタクシーを拾う。幸い地元の女性タクシー運転手が道をよく知っており、要領よく一草庵近くまで乗せてくれた。

 私は、山頭火についての知識は新聞で読んだ位のもので尾崎方哉と共に定型俳旬ではなく自由俳句の作り手で、一時山頭火ブームが起こり、その頃本屋で豪華装丁本を立ち読みして得た位のものである。

 俳句として「どうしようもないわたしが歩いている」「歩きつづける彼岸花咲きつづける」「この道しかない春の雪ふる」「酔うてこほろぎしっしように寝ていたよ」など有名らしい。(『母を訪ねて山頭火』松原泰道著)

 この一草庵は、彼が全国を放浪した末、この家で死んだのかと想いをはせ、ゆっくり周囲を廻ってみる。家と言っても10坪の土地に平屋の木造建ての小さい家で、2間あり外から窺ってみると、家の内は何もない質素と言うより粗末な居宅の印象を受けた。翌日見学した子規を讃える記念館と比較すれば、天と地程の差異がある。先程の運転手さんによると、この一草庵を訪れる人は先ずいないと言っていたが、それも額けた。

 土地の入口の脇に「鉄鉢の中に霰」「春風の鉢の子一つ」と二つの句碑が建っていたので、一草庵を守りしている人が誰かいるのかとまたも女性運転手さんに聞いてみたが、確かな答はなかった。

 その次にロシア人の墓地に行く。日露戦争により捕虜になったロシア将兵約6000余人が、この地で収容されそのうち98人が亡くなっている。亡くなった一人一人の墓に供花がありきれいに整地されていた。俘虜されたロシア人に対し、日本の政府がどのように処遇していたのか知らないが、この墓地は近くの婦人会の人々がポランティアーで清掃し維持されていると運転手さんから聞くと、土地の人々に何となく人への優しさとあたたかみを感じさせた。ここへは観光客らしき若い男女が何人か来ていたので、有名な所かもしれない。

 このような土地として、北海道のオホーツク海に面した東部に、沈没した船(ロシア船だったとの記憶があるが)の船乗者を救助し、水死した人の慰霊碑を建立したのを見たことがある。そのことも併せて思いだし、日本人にも時代と土地によってこのような立派な行いをする人がいるものだと妙に感心をした。この外人墓地から市街に入りタクシーを降りて路面電車に何十年振りかに乗り、車輪がレールに軋むあのなつかしい音を聞いた。この前も同じく四国の高知市電での乗車だったのだ。夏目漱石は、小説『坊ちゃん』で「乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三錢である」と書いていた電車は、100年前だから勿論型も異なり、運賃も安かったのであろう。

子規記念館で夏目漱石の「坊ちゃん」の原稿を見る

 翌日は同行の二人と一緒に子規記念博物館に行った。玄関は、子規の歌碑「足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺にあらませば」がホトトギスの彫像と共に建っている。1981年に建てられたこの博物館は一言で云えば中途半端な建物でなく「外観の色彩はアイボリーを基調とし、屋根には銅版を使用し『蔵』をイメージ」していると言う。館内の展示も、市立の建物であるが故か「道後松山の歴史」、「子規とその時代」「子規のめざした五界」とそのテーマも雄大で題名にふさわしい充実した内容であった。昨年訪れた茂古記念館が主として、個人の寄付により建てられた経緯と異なり、子規のものは観光の目玉商品の一つとして作られたものかも知れないが、市立子規記念博物館の名称にふさわしい展示品ばかりであった。

 私は数年前に子規の『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』の3冊をよく読んだ。この3冊は服のポケットに入る位の大きさなので、電車に乗っている間に読むため携帯しやすいせいであったからだ。子規の後輩高浜虚子を知るため「高浜虚子』(富士正晴著)『花衣ぬぐやまとわる……』(田辺聖子著)を読んでいるが、子規に関する本は読んでいない。尚、虚子については孫娘でホトトギスの主宰者である稲畑汀子さんが、自分で金を出し芦屋の海辺近くに虚子記念館を設立した。私の家からは徒歩40分かかるが、同じ市内なので見学に行こうと思いながらも実現していない。

 話は子規に戻るが、子規の短歌、それも冒頭のものは教科書で読みそれ以来何となく子規の人物に興味を覚えていた。短歌も俳句も作れない私であるが、子規に親しみを感じるのは、短詩形の作品もさることながら、彼の随筆が結構面白いのである。その面白さは、私流に解釈すれば批判する対象(作品、人物)について気にせず『墨汁一滴』などで言いたいことをずばりずばりと指摘しているからであろうか。それと誰しも触れているように病床にありながらあれだけの作品を残しているせいか、『病牀六尺』のなかで「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と呻吟しながら記述している彼の姿は痛々しい。「膿の出る口は次第にふえる。寝返りは次第にむつかしくなる。……歯茎から膿は右の方へ左の方も少しも衰へぬ。毎日幾度となく綿で拭い取るのであるが体の弱っている日は十分に取らずに捨てて置くこともある」と言い、目が痛んで黒眼鏡をかけ少しの間新聞を読む。字を読むことで少しでも痛さから逃れようとしている。その病状は日々に悪化し「この日始めて腹部の穴を見て驚く 穴といふは小さき穴と思ひしにがらんどなり、心持悪くなりて泣く」(明治35年3月10日午前10時記)となると痛々さを通りこし、拷問に近い状態ではなかろうかと思える程である。この年の9月18日の辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」を残して亡くなっている。有名な三句は、子規堂にも色紙で掲げていた。

 この館で私ははじめて夏目漱石の『坊ちやん』の生原稿を見た。よく知られているように、子規と漱石は松山市で一時同居してもたことがある程親交は深く、そのせいで漱石の原稿が出展されたのであろうか。

 漱石はまろやかで整った字を書いている。まるみではなく、あたたかみのある字体である。これまで、私は金沢歴史資料館、姫路文学館その他で多くの作家の字体を見ている。特に、故矢野笹雄さんの遺稿集に一文を寄せてくれた野間宏の字体は、土地を耕すかのように字が跳ねあがり躍動していて力強い印象を受けたことがある。

 それに比し漱石は一時神経失調に悩まされたと言われるが、字は端正である。子規の字体は幼少より習字をしており読みやすいが、彼は見たり、聞いたりしたものを次から次へと書いているので、ある種の乱暴さがある。そうであるが、子規のその時その時の感情が滲み出て、こちらに伝わってくるようで、これはこれで趣きがあって面白い。

 子規記念館で特別に新しい発見はなかったが、どうしても一度来館したかった長年の夢がかない、同行の二人に感謝したくなった。尚、この時は少し時間があり、四国霊場51番札所で有名な石手寺を拝観した。境内ではイラク戦争での死者を弔う追悼の檄文があり、戦争反対の大きい垂れ幕があったのにはびっくりした。キリストの教会では、このような掲示物を時に見るが、寺院でははじめての経験である。

 9年前に、小説『安曇野』(臼井吉見著)を読み一人で荻原緑山記念館(穂高)に行き帰途福井県の丸山町で降り、中野重治の生家跡を訪れたが、このように一人よりも心をゆるせる友人との旅も楽しみが多い。思い出したが、小樽市へ旅をした時も、つれあいと小林多喜二の石碑が建っている山へ登った。又、宮沢賢治生誕100年祭の年も花巻市に行っている。日本人は祭りが好きだと言うが、私も祭好きで、人から誘われるとすぐ何処かへ行きたくなる。そして「晴れわたる日には とりわけ行きさきを決めないままに出てゆきたくて」(小林久美子)のように出かける気まぐれな性質がある。困った性格の人間である。

編者(S画伯)注歯茎の茎という字には旧字が使われているが、現行の茎を使用した。

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