お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

オススメ!戦国関連本 (戦国・書籍)

2011年03月13日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
最近は「村上義清」さまの話題をお送りしておりましたが…本日は一時お休みして、やっぱり地震の話。

こちらでは特に大きな被害もなく、無事でした。
本日はニュースを眺めておりましたが、伝えられる災害の大きさに驚かされます。
被害に遭われた方には、1日も早い復旧を心からお祈り致します。


揺れを感じた際には、冗談かたがた机の下に入ってました。
そうしたら予想外に大きく、また時間もやたらめったら長く、ただ事でないと悟りました。
揺れはその後も細かく続き、一時はどうなることかと思いました。
隣のビルでは窓ガラスが割れてたりしたものの、オフィスでは時計が落ちたりした程度。

ただ、電車は停止して情報も更新されないまま、たぶんホテルもいっぱい(←だと思う)で、どうしようかと考えた結果、深夜の行軍を決意。
周囲には同様な考えで歩く人も多く、気分的には中国大返しでした。
走ってはいませんでしたが。
普段の生活がたたり、なかなかしんどかったです。
また、なんとか最寄駅まで到着し、自転車に乗れた際の快適さは忘れられません。
自転車って速いですねー。


そんなんで話を終えてしまうのもなんなんで、本日はオススメな戦国本についてざっと紹介しようと思います。
いつかやろうと思っていたんですね。
このブログはこうした本と、ひでるさんの記憶によって構成されています。


■歴史人 2011年04月号 [雑誌]
歴史人 2011年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
ベストセラーズ


⇒ こないだ買いました。ため、まだ全て読めてはおりません。
  今回のネタを書こうと思った切っ掛けの1冊。
  戦国武将の各能力に点数がつき、ランキング形式で発表されていました。
  写真や解説も多すぎない程度にたっぷり。
  当然ながらメジャーな武将ばかりでしたが、値段のわりに楽しめる内容だと思います。
  ランキングもゲームっぽいですよね。
  美麗なイラストも多く、戦国ファンに楽しい構成です。

 
■ビジュアル 戦国1000人 ―応仁の乱から大坂城炎上まで乱世のドラマを読む―
ビジュアル 戦国1000人 ―応仁の乱から大坂城炎上まで乱世のドラマを読む
クリエーター情報なし
世界文化社


⇒ なかなかブ厚い本で、カラーページの多いの綺麗な本。
  アマゾンのレビューにもあったように、時代順とか家臣団順とかでなくざーっと見辛いのが難点です。
  また、良い紙質であったもののオールカラーでなく、情報量のわりに値段は高めかと。
  もう知ってるよー、ってことくらいしか書かれていませんね。
  タイトルそのままビジュアル多めなので、ぼーっと眺めるには楽しい本です。
  完全に初心者向けですね。


■戦国武将事典 乱世を生きた830人
戦国武将事典 乱世を生きた830人 (Truth In History13)
クリエーター情報なし
新紀元社


■戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い
戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い (Truth In History 20)
クリエーター情報なし
新紀元社


⇒ これら2冊は”Truth In History”という同シリーズの本です。
  先の本とは逆にビジュアルは少ないものの、かなり詳細な情報まで書かれています。
  調べものには欠かせません。
  ひでるさんはこうした武将のどうこう書かれたのを見るのが大好きなのですよ。
  合戦史辞典と合わせて見れば、戦国の裏側まで透けて見える…かも。
  中級から上級者向けですね。
  

■戦国精強家臣団 全国版―勇将・猛将・烈将伝
戦国精強家臣団 全国版―勇将・猛将・烈将伝 (歴史群像シリーズ)
クリエーター情報なし
学習研究社


■図説・戦国合戦地図集 決定版
図説・戦国合戦地図集 決定版 (歴史群像シリーズ)
クリエーター情報なし
学習研究社


⇒ オススメな”歴史群像シリーズ”から2冊。
  ネタを限定しているだけビジュアル・情報が多く、見応えも読み応えもあります。
  本によってはかなり詳細な内容まであり、単にペラペラ眺めるのでも、読み込むのでもOK。
  非常にバランスが良いのでオススメです。
  掲載内容のわりに金額が安めというのもいい感じ。
  ちょっと調べるにもいいですね。
  基本的には中級から上級者向けですが、ネタが合えば初心者の方にも。
    

■戦国武将名言録
戦国武将名言録 (PHP文庫)
クリエーター情報なし
PHP研究所


⇒ どっちかと言うとビジネス本ですね。
  元ネタの参考文献はあちこちで、400を越えるページにずらりと言葉が並んでいます。
  当然ながら言葉がメインで、武将は有名な方からマイナーな方まで様々でした。
  他の本には掲載されていないような言葉もあり、新鮮な驚きがあります。
  そうした意味で中級者以上向け。


■国別 守護・戦国大名事典
国別 守護・戦国大名事典
クリエーター情報なし
東京堂出版


⇒ 国別で鎌倉時代から室町時代、そして戦国時代まで。
  支配者がどう変わっていったのか、何があったのか書かれていました。
  守護、そして守護大名の支配していた時代から、いかにして戦国大名が台頭していくのかが分かります。
  まったく色気はなく、予備知識がないと訳分かんないと思います。
  完全なる上級者向けですね。




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ついに激突・上田原合戦 (村上義清3)

2011年03月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

義清は甲斐「武田信虎」と謀って、海野氏を追放。
小県群を支配しております。
その直後、共に戦った信虎は嫡男である「武田晴信」のクーデターによって、駿河へ追放されてしまったのでした。
家督を継いだ晴信は、信濃へ侵攻を開始。
諏訪氏、大井氏、高遠氏などと争って版図を広げ、信濃守護である小笠原氏、そして実力者である村上氏らと対立することとなったのでした。

天文十七年(1548)
諏訪、伊那、佐久郡を攻略していた晴信は、ついに村上氏の小県郡へと侵攻。
ついに武田・村上の両軍が激突することとなりました
こちらが有名な「上田原合戦」です。

葛尾城を出陣した村上勢は国衆を集め、天白山を背に岩鼻へと布陣しております。
一方、村上勢出陣の急報に接した晴信は甲斐を出陣。
諏訪から大門峠を越え、小県郡へと侵入。
倉升山に陣を張りました。
この時、武田勢は約七千、村上勢は約五千ほど。
数では資料によって色々と差がありましたが、だいたい両軍はそのくらいなのでしょう。

上田原にて激突した両軍勢。
晴信の右腕と言われた「板垣信方(※写真)」が猛烈な攻撃を見せたものの敵陣深く突入。
やがて村上勢に囲まれることとなり、やや不可解な討死をしております。
序盤の勝利から油断をしていた、という説もありましたが詳細は不明。
ともかく、周囲を囲まれて混乱・壊滅した先陣の板垣勢が大崩れしたことで、地の利も生かしていた村上勢が優位となったのです。
その波状攻撃によってかく乱され、先陣の崩壊から踏みとどまった「初鹿野伝右衛門」、「才間河内守」など名のある有力武将までが討死し、大いに統制を乱された武田勢。
浦野川にて孤立してしまった晴信のもう片腕「甘利虎泰(あまり・とらやす)」も、村上勢の伏兵がためここで討死してしまいました。
さらに、総大将である晴信自信までもが手傷を負うという、大敗となったのでした。
敗北後、しばらく上田原に駐屯して傷を癒していた晴信。
(※約半月くらい)
村上勢の退陣を確認してから上田城に入り、甲斐へと撤退しております

なお、この敗戦に乗じた信濃守護「小笠原長時」
すかさず諏訪郡へと侵攻し、一時的にはそちらを支配しております。
しかし、それを切っ掛けとして逆に武田勢のターゲットとなり、「塩尻峠合戦」では寝込みを襲われて完敗。
小笠原勢は千ほど討死するという総崩れとなり、逃れ逃れてかつてのライバル村上家へと身を寄せることとなるのでした。
こちらの合戦は村上勢に手痛い敗北をしていた武田勢に勢いを取り戻すと共に、反武田勢力を牽制することとなったのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「誕生、”北信濃最強武将”」(4/6)


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※ライターも戦国です。
 タバコ吸わないですが、こんなん持っていたいですね。


信濃に攻め入った若き大将 (村上義清2)

2011年02月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

”戦国最強軍団”と恐れられていた甲斐の大将「武田晴信(※写真)」
その生涯で敗北を味あわせたのは、鎌倉時代から続く名門・村上家の末裔「村上義清」でした。
国人層の反乱に悩まされていた信濃守護小笠原氏の隙をつき、北信濃にて高梨氏・井上氏らと争って勢力を拡大。
埴科(はにしな)郡を中心に、六郡(佐久・小県・更級、高井、水内)を領有する王者となっていたのでした。

天文十年(1541)
義清は甲斐「武田晴信」の父「武田信虎」とも争っていましたが、後に盟約。
共に謀って、小県(ちいがた)群の海野氏を追放し、そちらを支配することとなりました。
なお、武田氏の下で辣腕をふるうこととなる真田氏は、この際に主家である海野氏と共に追放されています
義清は後にその真田によって信濃から追われてしまうのが運命的ですね。

ちょうどその後に、とある歴史的事件が勃発しています。
海野氏を駆逐し、信濃から凱旋した「武田信虎」
娘婿である「今川義元」に会うため、ふと駿河へ赴いておりました。
これが六月から九月頃のこと。
すると、甲斐に残っていた嫡男「武田晴信」は突如国境を封鎖。
父・信虎を帰国できないようにしてしまうのです。

譜代家臣であった「板垣信方」、「甘利虎泰」なども晴信を支持し、晴信は国主となったのでした。
これには父子で共謀していたなど出来過ぎな説もあるようですが、暴政を行っていた信虎のこと。
個人的には、父子不和、国人層の訴えなどのが原因としてしっくりきますね。

天文十一年(1542)
そうした経緯で家督を継いだ晴信は、肥沃な土地である信濃への侵攻を決意しました。
父・信虎の戦略方針を無視し、当時は同盟関係にあった諏訪氏へ出陣。
こちらの上原城・桑原城などを次々に攻略していったのです。
さらに、大井氏、高遠氏などを次々に下し、信濃守護である小笠原氏、そして実力者である村上氏らと対立することとなったのでした。

天文十四年(1545)
守護「小笠原長時」は武田勢に囲まれていた妹婿「藤沢頼親」の救援に出陣。
しかし、桔梗ヶ原での対決にて、小笠原勢は惨敗してしまうのです。
なお、佐久郡を拠点にしていた海野氏の一族(※「海野棟綱」の娘の子と言われる)である「真田幸隆」が武田氏に臣従したのが、天文十五年(1546)頃。
付近の道案内を切っ掛けとして、武田家へ身を寄せています。
さらに、後に上杉家で活躍をすることとなる義清の嫡男「村上国清(幼名源五)」が坂本館にて誕生したのも、この頃でした。

⇒ つづく。
 ※次回は「ついに激突・上田原合戦」(3/6)


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※真田もアイテム多くていいですね。
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戦国最強軍団を止めた武将 (村上義清1)

2011年02月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)※写真」です。

率いる軍勢は”戦国最強軍団”と呼ばれ、恐れられていた甲斐の大将「武田晴信」
軍神「上杉謙信」と互角の勝負をし、天下統一にひた走る「織田信長」の心胆を寒からしめ彼ですが、生涯で大敗北という屈辱を味わっていたのです。
その相手こそ…今回の主人公「村上義清」なのでした。
ちなみに、上杉・武田が華麗に激突する「川中島合戦」ですが、その切っ掛けを作ったのもこの義清なのでした。
歴史的に凄い人なんですよ、ええ。
(※実は過去に一度やっているんですが、もう少し詳しくなったので新たに書いてお送りしています)

鎌倉時代から続く名門・村上家の末裔。
葛尾城を拠点に勢力を拡大し、一時期は信濃にて最大版図を持っておりました。
甲斐から攻め寄せる「武田晴信」を撃退したものの、策を弄する晴信に戦況は次第に悪化。
越後へと逃れ、軍神「上杉謙信」を頼ってお家再興を目指すこととなるのです。


そんな訳で、「村上義清」は「藤原道長」の四天王にして河内源氏「源頼信」の庶子である、「源義清」から続く一族でした。
信濃村上郷に流罪された「源盛清」
付近に勢力を持ち、その子「源(村上)為国」から村上氏を称することとなるのです。
南北朝から戦国時代の混乱期に、当主「村上信貞」は判断良く「足利尊氏」を支持し、戦功を上げました。
名目上では信濃の支配者であった、信濃守護の小笠原氏と肩を並べるほどの勢力になっていくのです。

なお、信濃国は清和源氏の末裔である、名族・小笠原氏が守護と国司を兼務していました。
しかし、その地域性か国人層は自立傾向。
室町時代頃より小笠原氏はたびたびの反乱に悩まされ、その勢力は衰退していったのです。
逆に、その内紛に乗じた「村上政清」、その子「村上顕国」はじわじわと勢力を拡大。
戦国期になると、中信濃から南信濃の守護家「小笠原長時」、北信濃を統べる「村上義清」という二大勢力となっていたのでした。
他の国人層を併合し、勢力を拡大させていた村上氏。
しかし、彼らを完全な被官にまではできず、戦国初期の武田氏と同様に地盤は不安定だったのです。

そんな「村上顕国」の子「村上義清」が誕生したのは文亀元年(1501)
ちなみに、安芸は「毛利元就」が明応六年(1947)の生まれ。
明応二年(1493)には「明応の政変(めいおうのせいへん)」という将軍家の勢力争いもあり、世が混乱してきたような時代でした。
元服は永正十二年(1515)頃。
父・顕国の実績などがいまいち不明ですが、ともかく家督を相続した義清の時代では、埴科(はにしな)郡を中心に、だいたい六郡(佐久・小県・更級、高井、水内)を領有。
文字通りに北信濃の王者となっていたのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「信濃に攻め入った若き大将」(2/6)


[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [  ]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [ ]
⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [    ]
⇒ イケてる三好軍団 「三好長慶とその一族」 [         10]




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戦国武将Tシャツ「武田信玄・風林火山」(ブラック・Sサイズ)
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※武田家は色々とグッズ豊富でいいですねー。
 Tシャツは押さえておきたいシロモノでしょう。



冷たいのに…「やきいもソフトクリーム」 (神奈川・鎌倉)

2011年02月13日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ、神奈川県は鎌倉にありました期間限定商品「やきいもソフトクリーム」です。

先日、鎌倉へ行ってきました。
特に無計画に思い付きで行ってきたんですけど、その日は”成人の日”で旗日。
ええ、そりゃーもう、人がいっぱいでしたよ。
大変だ。

ひでるさんが出掛けると雨雲がセットになるというお約束があるんですが、近場がためか快晴。
ただ、着込んで歩いていても、風はびゅっーと強く、身震いするようでした。
日なたはいいんですが、日陰の冷え方は夜のよう。
半端でない寒さです。
そんな時に見つけたのが、こちら。

秋、にっぽん、しあわせ。
やきいもソフトクリーム





鎌倉と言えば、以前紹介した「紫いもソフトクリーム」ですよね。
そんな訳で、こちらで冷たいのを食べる機会はないだろうなぁ、って思っていたんですが…。
まぁ、甘いの嫌いでないので。




そんな訳で、「やきいもソフトクリーム」を購入。
がんばって食べることとしました。
”あま、ホク、ソフトクリーム。”、だって。

ぱくり、と一口食べて驚き。
こ、これは間違いなく”焼き芋”じゃーないですか!!
単に芋の味でなく、ちゃんと”焼き芋”の香ばしいような味がします
甘さもほんのりとしたもの。
こ、これは美味いぞー!



どっちかというと大人向け。
たき火と共に食べた、あの懐かしい感覚が蘇ってくることでしょう。
…冷たいんですが(笑)
なお、この前に野外で「アイスコーヒー」を飲んでいたこともあり、すっっかり体は冷え切ってしまいました。
(※ひでるさんは必ず「アイスコーヒー」です)
店員さんによると期間限定だそうなので、皆さんも寒さに耐えながら、がんばって食べましょう。

【おすすめ★メーター】 『 やきいもソフトクリーム 』
■■■■■ 5Point …びっくりするくらい、”焼き芋”な味をしてます。

いかがでしょう?
場所は鎌倉大仏前の「味亭」さん(店前のスペースで販売)でお試し下さい。
TEL:0467-23-5700


※ネットではこちらから⇒ 「鎌倉観光会館「味亭」 HP



[関連記事] 【ひでるグルメレポート特集】
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※現代ではなかなか難しいですが。
 やっぱり焼き芋は落ち葉燃やしてつくりたいですね。

上野大仏 (東京・仏像)

2011年02月06日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、東京は上野の隠れた名所「上野大仏」です。

仏像と言って皆さんがぱっと想像されるのが、やっぱり大仏ですよね。
大きいことはいいことだ、ってやつ。
奈良、鎌倉がメジャーですが、なんと東京は上野公園にも大仏がおわすのです。
…頭だけなんですが。
胴体がなく、”もう落ちることがない”ことから、現在では合格祈願として人気な「上野大仏」さま。
シーズンにはちらほら取り上げられることあるので、結構有名であると思います。



この場所は、もともとは越後は村上城「堀直寄(ほり・なおより)」の屋敷があった高台です。
名人として有名な「堀秀政」の従兄弟が「堀(奥田)直政」
彼は”天下の三陪臣”として「直江兼続」、「小早川隆景」らと名を連ねる名将ですが、直寄はその次男でした。

寛永八年(1631)
ここで、敵味方双方の冥福を祈るため、「釈迦如来像」を造らせたのが切っ掛けです。
「関ヶ原合戦」が慶長五年(1600)頃、大坂合戦が慶長二十年(1615)ですから、江戸時代に入って多少落ち着いたあたりですかね。
晩年は上野で過ごしていた直寄。
屋敷を構えていた大名家にはそれぞれ氏寺があったようですが、付近に徳川家の「寛永寺」が建立されると、直寄は色々と寄進をしています。
こちらの大仏も寄進の一つだったようです。
当時は、高さ五メートルという粘土製でした。

正保四年(1647)の地震によって、なんと頭が落下。
それがため、明暦・万治(1655~1660)という間に寄付を募り、僧「浄雲」が青銅大仏に改めています。
木食僧とのことだったので、修行の托鉢で地道に集めたりしたのかな。
元禄十一年(1698)には仏殿が建立されています。
それまでは野ざらしだったんですねー。

天保十二年(1841)には、その仏殿からの火災によって焼失。
これを直寄から続く、越後村松藩の九代藩主「堀直央(ほり・なおひで)」が再建しています。
しかし不幸は続き、安政二年(1855)の大地震でも首が落下。
大正十二年(1923)の関東大震災でも三度頭が落ちてしまうのです。
その後に佛体は解体され、頭はとりあえず「寛永寺」に保管されていました。



地震などによって、合計四回も首が落下しているのです。
うーん…地震多い土地とはいえ、何が悪いんでしょう。
そう考えると、だいたい鎌倉時代からずっと残っている「鎌倉大仏」がどれだけ凄いか、って事ですかね。

この地に戻ったのは、昭和四十七年になってから。
もともとは約七メートルというサイズの大仏でしたが、現在は残った顔だけが奉納されているのでした。
新しい大仏を造る計画もあったようですけど…合格祈願スポットなってしまった今では難しいかなぁ。




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  中尊寺金色堂
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⇒ 毘盧遮那如来
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)


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日本のパワースポット案内 (SAKURA・MOOK 75)
クリエーター情報なし
笠倉出版社

※あるいはこうした場所を順にいって見るのもアリかと。
 効果はあるんかな。



川越大師 喜多院 (埼玉県川越市)

2011年01月30日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、埼玉県は川越市、川越大師として有名な「喜多院(きたいん)」です。

人がいっぱいでしたよ。
さっすがに人気施設でしたねー。
特に「五百羅漢」はぼーっと眺めるだけでも楽しいと思います。
ほかにも、この周辺には古い街並みや川越城址、お子様向けの菓子屋横丁など、ぶらり観光には楽しいところでした。



時代は天長七年(830)、平安時代。
淳和天皇の勅命により、「慈覚大師」こと「円仁(えんにん)」によって創建されました。
なお、お手の起源にはもう1つ。
伝説では、仙波(せんば)あたりの海水を「仙芳仙人(せんぽう・せんにん)」という方が法力によって取り除き、仏像を安置したのだとか。
なんでわざわざ海水取り除いちゃったのか知りませんが、そんなんもあるみたい。
ともかく「円仁」はここに本尊「阿弥陀如来」ほか「不動明王」、「毘沙門天」などをを祀り、「無量寿寺」を建立したのでした。

その後、元久二年(1205)は鎌倉時代のこと。
こちらが兵火によって焼失してしまうと、永仁四年(1296)に「伏見天皇」の勅命によって「尊海」僧正が再興。
この際に「慈恵大師」を祀り、五十石を持つ関東・天台衆の中心とされました。
さらに正安三年(1301)では、「後伏見天皇」が東国五百八十もの寺を支配下とする本山に指定したのです。
現在の山号である「星野山」は、その数代後の「後奈良天皇」が与えています。
(※後伏見:九十三代~後奈良:百五代)
長く天皇家と繋がっていたんですね。

なお、戦国時代にも兵火によって焼失しております。
天文六年(1537)で「上杉朝定」・「北条氏綱」の争いは、川越城奪取の時みたい。
(※ちなみに「川越城夜戦」は天文十四年(1545年)のこと)

慶長四年(1599)には「徳川家康」の側近として有名な「天海」が住職となり、寺号を「喜多院」としています。
この結びつきによって川越藩主となった「酒井忠利」に再興を命じ、寺領は五百石に増加。
さらに「徳川家綱」の時代には二百石を追加されるなどその庇護を受け、大寺院となったのでした



お寺も凄いですが、「喜多院」でのメインはやっぱり「五百羅漢」
”日本三大羅漢”だそうです。
他には鎌倉「建長寺」、大分「耶馬渓羅漢寺」、栃木「徳蔵寺」…ってあれ?
そっちは”日本三大羅漢寺”なのかな。
まぁいいか。



川越北田島の志誠(しじょう)の発願によって、約五十年ほどで作られたようです。
(※天明二年(1782)から文政八年(1825)の間)
これが表情豊かで、見て回るだけでも面白いので必見。
石仏なので写真も撮り放題ですし。
中央には「釈迦如来」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」もおり、なかなか豪華。
全部で五百三十八体あるそうでした。

なお、深夜に羅漢像の頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあるそうです。
それは…亡くなった親の顔に似ている…というような言い伝えが残っていました。
ちとおっかないですね。



お寺には他に「春日局化粧の間」などの重要文化財も多く、「慈眼堂」や最古(寛永十五年)の建造物「山門」など、広い境内で色々と楽しめると思います。


[住所]
 川越大師「喜多院」 埼玉県川越市小仙波町1-20-1


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※歴史的施設も多く、なかなか面白い土地です。
 都内からも近いのでふらりと遊びに行くにも最適。

不思議な美味さ「アイスコルネット」 (広島・宮島)

2011年01月23日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ、広島県は宮島にありました「コルネット」です。

ついに行ってきました、日本三景のラスト「宮島」
良かったですよー。
人工物な建物と自然が合わさって絵ハガキのようでした。
三景のうちベストではないかなぁ。

さて、本日はその「厳島神社」ではなく…毎度の如くでソフトクリームです。
不思議な美味さの「アイスコルネット」を食べてきました。



静岡が本店で、車両による移動販売がメインというこちら。
東京、大阪など数店舗あるうち、ちょうど広島は宮島にも店舗があったので、そちらへ行ってきました。
TVでも有名だそうなんですが…ぶっちゃけ、これが初見。
やや地元名物っぽくはないですが、まぁいいでしょう。
広島なら、”もみじまんじゅうソフト”とかあれば、もっとも適当だったんですけどね。
ソレどんなんだか想像もつきませんが。

味には色々と種類がありました。
基本はバニラで、ブレンドしているみたい。
そのうち、スタンダードな「バニラコルネット」が人気ナンバーワンということで、やはりそちらにしてみました。
寒いなか、きっちり食べてきましたよ(笑)



ソフトクリーム部分はそのまま。
クドくない甘さで、大人にもちょうど良いくらい。
揚げパン部分は普通に持てる程度の熱さで、ふっくらモチモチ。
それぞれ単体で食べてもぜんぜん良いと思いますが、これらが組み合わさることで適度な冷たさと甘さが揚げパンに加わっていました。
なるほど、これは美味い。
トロトロ溶けるのには注意。
あまり時間かけず、さっと食べるのがいいでしょうね。

【おすすめ★メーター】 『 アイスコルネット 』
■■■■■ 5Point …これは美味い。あったかつめたいのが心地よいです。

いかがでしょう?
揚げパンの油っぽい部分と、適度な甘さのアイスが丁度良いですね。

 コルネット みせん店 広島県廿日市宮島町593
 TEL:0829-40-2370
※詳しくはHPにてどうぞ。


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みんな大好き!揚げパンは人気者―オーブンがいらないパン作り40品
栗原 みな子
文化出版局

※給食世代は、”揚げパン”と聞くだけでわくわくしませんか?
 やったらうまく感じるんですよねー。

壮絶・龍造寺四天王 (沖田畷合戦6)

2011年01月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」の決着・その後についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
沖田畷にて、守備陣形で待ち構える「島津家久」
兵力に勝る「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」は序盤から力押しに押していましたが、家久の仕掛けた島津得意の”釣り野伏”の術中にはまってしまったのです。
左右累壁からの攻撃によって先鋒隊が崩されると、縦に細長く伸びていた全軍に影響。
湿地帯で思ったような動きが取れない龍造寺勢は、まるで将棋倒しのように全軍が崩されてしまうのでした。


総崩れとなった龍造寺勢。
囲まれた主だった将、龍造寺四天王の「成松信勝」、「百武賢兼」、「江里口信常」、「円城寺信胤」らも、ことごとく討死。
うち、「百武賢兼」は隆信を逃がすべく急襲の島津勢に向かい、主従四十名がことごとく討死。
「円城寺信胤」は隆信と同じ出で立ちで影武者を務めていましたが、味方が劣勢となる中で
我こそは龍造寺山城守隆信である!
そう名乗って突撃し、討死。
信胤と共に戦奉行を務め、本陣を守って奮戦していた「成松信勝」も名乗りを上げて敵中へと突撃し、主君の跡を追っています。

また、「江里口信常」は隆信の討死後に家久の陣中へと肉薄したものの、ぎりぎりで発見され、その家来に斬られています。
この際、敵将ながら剛直さに感動した家久は、「無双の剛の者、助けよ、助けよ」と皆を制止したものの間に合わず、
子があれば養子に申し受けたい
そう言ったそうです。

肥満のため、合戦では駕籠に乗っていたという総大将「龍造寺隆信」
本陣・背後にての斬り合いを、当初は味方の喧嘩だと勘違いしたそうです。
そう、彼が気付いた頃には、すっかり敵勢に囲まれていたのでした。
それほどの油断があったのですね。
駕籠は六名の配下に担ぎ手をさせて指揮を取っていましたが、最終的には彼らにも見捨てられ、島津方の「川上左京」に討ち取られるのでした。
享年五十六。

こうして、龍造寺勢は当主を失い、また総勢で二千という戦死者を出す大敗となったのでした

右翼にて軍を支えていた重臣「鍋島直茂」
こちらも、中央部隊の壊滅によって総崩れになっています。
なお、龍造寺四天王にも数えられる「木下昌直」は総崩れとなった後に殿軍を務め、直茂の戦線離脱を見届けた上で敵中へと斬り込み、ここで壮絶な討死をしています。
隆信の子「龍造寺政家」が病弱で戦国武将としての才もなく、国政は直茂が代行していくこととなるのでした。




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※こちらを書店で探しています。
 やっぱりどんなんか見てから買いたいですもんね。

炸裂・島津得意の”釣り野伏” (沖田畷合戦5)

2011年01月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」ほか離反する島原半島の諸豪族を押さえるべく、六万とも五万ともいう大軍をもって進軍する「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」
これに対し、当主「島津義久」に命じられた弟「島津家久」は、わずか三千程度の軍勢で出陣。
龍造寺氏の大軍を打ち破るべく、低湿地の”沖田畷”を決戦場と定めるのでした。


「有馬晴信」の籠もる森岳城に迫る龍造寺勢。
後方には警戒部隊を置き、さらに進軍しています。
この時、「龍造寺隆信」は突如陣変えを行い、”自らの本隊を中央に据えた”と伝わっています。
圧倒的な兵力を有する龍造寺勢は、序盤から力押しに押していました。
対峙した島津・有馬勢でしたが、これに大した抵抗もせず、いかにも崩れたように撤退。
そう、これこそが家久の仕掛けた島津得意の”釣り野伏”だったのです。

計略であると知らない龍造寺勢は、ここぞとばかりに追撃を開始。
先鋒部隊が沖田畷に設けられていた大木戸の付近まで達した頃には、ちょうど軍勢が縦に細長く伸びていたのです。
全体ではともかく、こうなると局地での兵力差は大したものでありません。
ちょうど、桶狭間にて信長が「今川義元」の大軍を破ったのと同じような状態になっていたでしょう。

うっかり誘い出された龍造寺勢。
その側面に、家久の采配によって累壁の左右から鉄砲隊、弓矢隊が攻撃。
細道を進んできて無防備だった龍造寺勢は次々に討ち取られ、また後続部隊も沼地がために思ったように動けず、同様に鉄砲らの餌食となっていくのです。
なお、なかなか軍が進まないことにイラ立った隆信は、
無二無三にかかれ!
そう命令したことで、より軍勢は混乱したといいます。

この機会に、島津勢は反撃を開始。
先陣が突き崩されると、その影響は後続にも伝わり、まるで将棋倒しのように全軍が崩れていきました。
続いて森岳城から出陣した晴信ほか有馬勢も攻勢に加わって、龍造寺勢の左翼を押し返します。
また、眉山方面でも山裾を迂回した島津勢によって、右翼が敗走させられています。

こうして、龍造寺勢は総崩れとなってしまうのでした。

⇒ つづく。
 ※次回は「壮絶・龍造寺四天王」(6/6)



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ZIPPO 戦国武将 島津義弘
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ZIPPO(ジッポー)

※特に使わないですが…。
 これは格好良いですねー。

ガネーシャ (仏像・ヒンドゥー教)

2011年01月01日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
週一回更新となり、どうにか首の皮一枚という感じですが、そんな書き出しもいちおう五年目となりました。
ちらほら来て頂ける皆さま、本当にありがとうございます
現在は「沖田畷合戦」の真っ最中なんですが、やはり年明けということでそれに相応しい(かもしれない)ネタをお届けいたします。

去年は、ちょうど見つけていた「戦国武将バスボール」でした。
今回はモノ(写真参照)もあったので…
どうか景気が良くなりますように!
…そんな願いを込めて、神様としてみました。

そうした訳で、今年一回目はヒンドゥー教の人気者、「ガネーシャ」について書いていきます。
ただ、持ってる資料限定的で、さして詳しい訳でもないので、だいたいの触り程度で。


どうですかー、↓この独特なフォルム。



像の頭に太鼓腹。
牙のうち、片方が折れているのが特徴です。
もしヒーローモノに登場したなら、間違いなく敵役になってしまうだろうこの方。
本来はヒンドゥー教(昔は「婆羅門教」)の「シヴァ」神の息子さん。
「ガネシャ」、「誐那鉢底(がなはてい)」とも呼ばれるほか、本来は別の神(夜叉?)であった「毘那夜伽(びなやきゃ)」と同一視されているみたい。
そっち調べたけど、よく分かんなかったですが。
長い信仰の中で色々と尾ヒレがつき、名前とか伝承とかが様々になってしまった~というのが真相のようです。

ヒンドゥー教三神のうち破壊を司る「シヴァ」、女神「パールヴァティー」の子供。
このうち「パールヴァティー」さんは「ウマー(烏摩)」という別名があり…そうです、「降三世明王」が踏みつけてるお二人なんですね。
その誕生話についてもいくつか説があるようですが…一般的と言われるものをひとつ。

旦那「シヴァ」の留守中に子供が欲しいと思った、妻「パールヴァティー」
自らの垢を集めて人形をつくり、そちらから子「ガネーシャ」が誕生しました。
彼を自分の部屋の見張り番として立たせていたところ、「シヴァ」が帰宅。

見張り番「ガネーシャ」は自らの役目を全うすべく、見知らぬ「シヴァ」を追い返そうとしました。
一方の「シヴァ」も、妻の部屋の前で仁王立ちしている、見知らぬ「ガネーシャ」に驚き…なんと、その首をすっぱーんとはねてしまったのです。
ひでえ。
さすがは破壊神。
勝手に子供を創っちゃったのもどうかと思いますが、ともかく子供の無残な姿を嘆き悲しんだ「パールヴァティー」がため、はねた頭を探して世界を飛びまわった「シヴァ」
しかし結局見つからず、最初に出会った像の頭を代わりとしたのでした。
そんな、適当な…。
もう、神様ってハチャメチャですね(笑)


※大きさはこれくらい。

「シヴァ」神の軍勢を統べる将神「ガネーシャ」
悲惨な誕生秘話を持っていた彼ですが、愛嬌ある外観と、知恵と文学、富と繁栄…など現実的なご利益から、庶民の間で大いに信仰を集めたのでした。
特に商売繁盛の神様として祀られております。

これが仏教にも取り入られ、「歓喜天」あるいは「聖天」として、最強クラスのパワーもつ存在になってます。
そのため、各地にある「聖天堂」はほぼ非公開・秘仏。
住職さんですら、お姿を見たことないということもあるようです。



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※人気者なので、当然ながらアイテムも多くありました。
 たとえばこんな感じ。


出陣・戦巧者「島津家久」 (沖田畷合戦4)

2010年12月26日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」を切っ掛けに、龍造寺氏から離反する島原半島の諸豪族。
これに対し、本国・分国に総動員をかけた佐賀城主の「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」は、六万とも五万ともいう兵を集めると、晴信の居城・日野江城を陥落させるべく進軍を開始したのです。
一方、救援を求められた当主「島津義久」は、
当家を慕う者を見殺しにはできない
そう言って、弟「島津家久」と重臣「伊集院忠棟」らに出陣を命じたのです。


肥後・八代を出た家久率いる島津勢の兵力は、わずか三千程度
当然ながら、龍造寺氏の大軍と普通に激突しては”到底勝ち目がない”と考えていたのです。

天正十二年(1584)
龍造寺勢の進軍に対し、日野江城を出陣した晴信は五千という主力を率いて出陣。
沖田畷付近の森岳城へ入り、その到着を待ち構えていました。
救援する家久は、八代から海路にて島原半島の南部へ上陸。
安徳城へ入城したのち、半島の東海岸を北上しています。
一方の「龍造寺隆信」は、海路から半島北端の神代湊に入り、森岳城から北に位置する三会城へ軍勢を集結させました。

両軍が激突したのは、島原の前山(眉山)の山麓から海岸まで、島原市の二本木あたり。
当時このあたりは低湿地・深いドロ道だったようなのです。
その中央には二、三名がやっと通れる程度のあぜ道があり、付近は”沖田畷”と呼ばれていました。

そもそも「畷(なわて)」とは、田んぼの間の道のことを指します。
総大将「島津家久」は、どうやらこの足場の悪い湿地帯に敵勢を誘い込むことを考えていたようなのです。

森岳に本陣を構えて伏兵を置き、海上の船には三百という鉄砲隊を待機させました。
また、前山(眉山)から森岳城までにかけて、累壁と大城戸を設置しております。
徹底した守りの陣を敷いたのです。
先鋒は「赤星統家」、右翼の海岸側には「島津家久」、左翼・眉山には「新納忠元」と「伊集院忠棟」、伏兵は「猿渡信光」が指揮するという布陣。
なお、ここで先陣をつとめる「赤星統家」は、肥後の国人領主。
龍造寺からの出陣要請を渋ったことで人質の子らを磔にされており、赤装束に身を包むという決死の覚悟であったようです。

半島を南下してきた龍造寺勢。
軍勢を三つに分け、右翼には隆信の本軍、中央には「鍋島直茂」、左翼には「江上家種」、「後藤家信」という布陣でした。

⇒ つづく。
 ※次回は「炸裂・島津得意の”釣り野伏”」(5/6)

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※島津グッズだと、ほぼお兄ちゃんですよねー。
 歳久くんも気の毒ですが。

離反を招く龍造寺氏 (沖田畷合戦3)

2010年12月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という圧倒的に不利な島津勢を率い、見事に全軍を勝利に導いたその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのでした。


天正十一年(1583) 夏
九州統一を目指す島津氏は、龍造寺氏の影響力が強い肥前を虎視眈々と狙っていました。
そんな頃、キリシタン大名としても有名な肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」は龍造寺を見限って、島津に内通してきたのです。

「龍造寺隆信(※写真)」は優れた大将でした。
しかし、天正八年(1580)頃の隠居からは酒色に溺れる日々を過ごし、横暴な振舞いも多くなっていたと伝わっています。
また、放浪時代には庇護してもらった協力者の孫、筑後「蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)」を謀反の疑いで謀殺したほか、その一族・傍流をも”ことごとく抹殺する”という、凄惨な事件を起こしております。
これが天正九年(1581)のこと。
こちらは龍造寺四天王の一人「百武賢兼」からも疑問の声が上がるほどに残酷なもので、周辺領主らの離反を招く要因となったのです。
そもそも、龍造寺氏に従う大半は大友氏の衰退がために帰順した者が多く、支配体制は盤石なものではなかったのです。
実際、その晴信に続いて安徳城の「安徳純俊(あんとく・すみとし)」らも、龍造寺から離反しています。

こうして、動揺の広がっていた島原半島の諸豪族を押さえるべく、はたまた島津勢を殲滅するべく、隆信は自ら兵を率いて出陣。
本国・分国に総動員をかけ、六万とも五万ともいう最大に近いだろう兵を集めると、晴信の居城・日野江城を陥落させるべく進軍を開始したのでした。
(※実際のところは、おそらく二~三万という感じでは)

その攻撃にさらされることとなった晴信は、島津氏へ救援を求めます。
こうして、肥前への進出に、絶好の大義名分を得た島津氏。
当家を慕う者を見殺しにはできない
そう言った当主「島津義久」は、弟「島津家久」と重臣「伊集院忠棟」らに出陣を命じたのです。
ここだけを切り取るのは、違うかもしれませんが…。
恩人を抹殺した龍造寺氏に対して、助けを求めてきた晴信を万全な状態でないながら見捨てなかった島津氏というのは、小さくない差であると思います。

⇒ つづく。
 ※次回は「出陣・戦巧者「島津家久」」(4/6)


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戦国九州三国志―島津・大友・龍造寺の戦い (歴史群像シリーズ)
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 いいよね、この三国。

五州二島の太守・龍造寺氏 (沖田畷合戦2)

2010年12月12日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という圧倒的に不利な島津勢を率い、見事に全軍を勝利に導いたその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのでした。


前回に続いて、島津に対する龍造寺氏。
北九州の大半を押さえていたのは「大友宗麟」でした。
しかし、その宗麟でも服属させることができなかったのが、”肥前の熊”こと佐賀城主の「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」なのです。

もともとは平安時代末期に「藤原季家」が肥前の龍造寺郷(佐賀市)にて地頭職を得たのが龍造寺氏の起こり。
結構古い家柄なんですね。
戦国時代では、守護大名家・少弐氏(しょうにし)の家臣となっていました。
当初は出家していた隆信でしたが後に還俗。
水ヶ江龍造寺、続いて宗家・村中龍造寺を相続しています。
一時期は内紛によって逃亡生活を送っていましたが、蒲池氏の支援を受けて帰国しました。

戦国大名としての地位に返り咲いた隆信は、曾祖父「龍造寺家兼」が見抜いていたその才を発揮。
主君筋である少弐氏を筑後へ追放するのでした。
九州地方ではなかなか珍しい、下剋上を果たしているんですね
以後は肥前の周辺豪族を次々と破り、やがて大友氏とも対立。
これには、安芸の毛利氏と結んで抵抗しています。

元亀元年(1570)
宗麟の弟「大友親貞」の率いる六万という大軍勢に取り囲まれています。
この絶体絶命の危機を「鍋島直茂」の奇襲策によって撃破する(今山合戦)などしぶとい抵抗を見せるのでした。
大友氏とは結局は和議を結ぶこととなったものの、その支配下でしたたかに勢力を拡大。
「有馬晴信」、「大村純忠」という諸将を下して肥前の統一に成功すると、天正六年(1578)の「耳川合戦」後の大友氏の混乱に乗じて積極的に出兵。
肥後、筑前、筑後…と、勢力を拡大していくのでした。
こうして、龍造寺氏は九州を三分する一家にまで勢力を拡大、”五州二島の太守”となっていたのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「離反を招く龍造寺氏」(3/6)


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敵将も畏怖する戦巧者「島津家久」 (沖田畷合戦1)

2010年12月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

島津と聞いて真っ先に思い出すのは…”鬼島津”こと、関ヶ原の敵中突破で有名な「島津義弘(しまず・よしひろ)」でしょう。
戦のプロフェッショナルですよね。
しかし、島津家にはその義弘に勝るとも劣らない、戦巧者がいるのでした。
敵将も畏怖したという、義弘の弟「島津家久(しまづ・いえひさ)」です。
これから紹介する「沖田畷合戦」は、その才が遺憾なく発揮されたものなのです。


天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
中央ではその配下だった「羽柴秀吉」が着々とその地盤を固めていた頃。
九州に目を向けると、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という、圧倒的に不利な島津勢。
それを率いて見事全軍を勝利に導き、大将「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」を討ち取ったその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのです。


さて、まずは薩摩の島津氏の状況から。
鎌倉時代から続く名族、島津氏。
当主の「島津義久」は分裂していた島津家を統一した祖父・父の後を継ぎ、薩摩から支配を大きく拡大させていました。
伊地知氏、肝付氏を攻略して大隅までを手中にすると、日向の伊東氏を圧倒。
九州最大の大名「大友宗麟」率いる大部隊が迫った天正六年(1578)の「耳川合戦」では、得意の”釣り野伏”によって大友勢を耳川に破ったのでした。
こうして、続いて肥後へと進出した島津氏は、相良氏・阿蘇氏を追って南九州を固めつつあったのです。

今回の主人公「島津家久」は「島津貴久」の四男です。
天文十六年(1547)に誕生した彼は、義久とは十四、義弘とは十二歳違いの弟。
祖父「島津忠良(日新斎)」からは、
軍法戦術に妙を得たり
という評価を得た戦巧者で、先の「耳川合戦」でも活躍しています。

⇒ つづく。
 ※次回は「五州二島の太守・龍造寺氏」(2/6)


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