お寺さんぽ Ver.03

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好転する運命 (結城秀康)3

2007年12月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は天下人二人を父にもつという、歴史界のサラブレット。
しかし、出生がため不幸な人生を歩んでしまうこととなる徳川幕府・最大の腫れ物「結城秀康」です。

豊臣・徳川の争いが終結すると、「秀康」さまは臣従の証として、「豊臣秀吉(※写真)」の下へ送られるのでした。
不遇の幼少時代から、こんどは半人質状態となるんですが…これが彼の運命を大きく変えるのです。

さて、ここからはほぼ想像となりますが、おそらくは↓こんな感じだったと思うのです。
秀吉も、その正妻ねねさんも、身分あっても明け透けで親しみやすく、朗らかな人柄でした。
おまけに両者とも子供好きなんですね。
ここで秀康は”徳川家の御曹司”ということで、実家以上に優遇されるただけでなく、養子という扱いをした秀吉夫妻によって、これまでの人生で得れなかった親子関係を味わうこととなるのです。
(※やらしい書き方をすると、秀吉にとって彼を粗略に扱うことは後々の戦略としてもマイナスになるだけですから、逆に必要以上に大切に扱っていたのかもしれません。嘘か本当か微妙ですが、そんなエピソードもあります)
どちらかの歴史小説では一緒に風呂へ入ったりするシーンまで登場しますが、あるいはそんなんも実際にあったかもしれません。

また、天下人となった秀吉の日常生活はなにかと派手でユーモアに富んでいましたから、秀康としては毎日が新鮮でかつ楽しい、まさに夢のような日々を過ごしたであろうと想像されるのです。
後に彼が言ったとされる、「秀頼は俺が守る」発言も真偽は置いて、彼が豊臣時代に厚遇されていた、あるいは周囲もそう見ていた、表れではないか、と思うのです。
なお、「従四位下左近衛権少将」なんて官位までしっかり貰っています。

天正十三年(1585)
九州征伐に従軍した秀康は十三歳でした。
彼はここで初陣をし、続く豊前国・岩石城攻めでは先鋒の栄誉を受けるなど、若いながら大いに活躍をしたようです。
これは秀吉の喜びも大きかったでしょうし、報告を受けただろう父「徳川家康」も意外に感じていたかもしれません。
ちなみに、この時三男「徳川秀忠」は八歳でした。
二人は五歳違いの兄弟なんですね。

九州での合戦では功をたて、その武勇を遺憾なく発揮した秀康。
なお、同じく九州の陣で大活躍をした「蒲生氏郷」の戦ぶりに、”手柄を立てる機会は多くないから羨ましい”とか言ったらしい、気性の激しさも見せる反面、平時では目上の方を立てる、キチンとした礼儀もとわきまえていたようです。
…単に荒っぽいだけではなかったみたい。
ちょっとイメージかわるでしょ?

⇒ つづく。
  次回は「不遇な晩年」


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※秀吉と言ったらこちら。これがかっこいいんですよねー。


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Brian)
2011-10-06 02:52:34
i read his story today; a poor or lucky guy
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