お寺さんぽ Ver.03

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戦雲!北九州!! 「大友宗麟」2

2006年09月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯をご堪能下さい。

前回のあらすじー。
どうやら、親・弟を殺害したっぽい「大友宗麟」さまは無事家督を相続し、大内氏を倒した「毛利元就」と対立するようになっていくのです。
今回はその激突第一回戦に至る経緯をば。


天文二十年(1551)
名門守護大名・大内家の当主「大内義隆」は一度の敗戦から政務より遠ざかるようになり、行く末を案じる家臣団と対立。
家臣団の中心的存在だった「陶晴賢」はついに謀反を起こし、義隆を討ってしまうのです。
その晴賢は大内家の養子であった宗麟の弟「大友晴英」を迎え、これを「大内義長」と改名させて当主としました。
(※無論、実権は自らが握っています。とりあえずお飾りが必要だったのです)
…ここがポイント。

ちなみに、宣教師「フランシスコ・ザビエル」が宗麟のもとを訪れるのがちょうどこの頃。
彼の運命を大きく左右することとなる、キリスト教との出会いです。
宗麟は南蛮・明などと積極的な貿易を行っていました。ザビエルとの出会いは、それがもたらした偶然だったのです。
後にキリスト教に帰依することとなる宗麟は、ザビエルのことを「心の友」と評していたようです。

弘治三年(1557)
謀反から六年後のこと。
「陶晴賢」、「大内義長」の両名を奇策をもって倒したのが、皆さんご存知な中国の雄「毛利元就」なのでした。
(※このあたりは別にブログ記事を書いていますんで、興味のある方はどうぞ)

そんなこんなで大内氏の領地を併合した元就。
領地が九州北部まで及んでいたため、弟を倒された宗麟と元就は北九州の覇権を巡って、激しく対立することとなるのです。
九州の最北端あたりには、豊前・門司城(※もじじょう:福岡県北九州市門司区大字門司)があり、国境たるこちらの城は自然と激戦地になりました。

永禄二年(1559)
当時大友方だった門司城が毛利の手におちます。
それに対抗したい宗麟は必死に運動した結果が実り、同年幕府より「九州探題」に任ぜられています

この「九州探題」ってーのは、鎌倉時代後期あたりより幕府が九州統治のために設置した官職なのです。
戦国時代には実のない名誉職的なもので、”九州の治安維持”という名目を利用することが最大の目的であったと思われます。
(※ちなみに、関東の場合は関東公方(鎌倉)となります。関東管領はその補佐役で、上杉謙信が継いでいます)
宗麟はこの役職を手に入れるため、名ばかりの足利幕府に対してしきりに運動していたのでした。

次回、宗麟は仰天な方策による門司城奪回作戦を展開します。

⇒ つづく。
  今回写真も宗麟ゆかりの京都「瑞峯院」のお庭です。


[関連記事]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)


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