お寺さんぽ Ver.03

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (3)管領家の混乱編

2006年05月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。

この「応仁の乱」のややこしさは、前回説明しました将軍家の世継ぎ争いと共に、有力大名二家の家督争いが絡んでいることによります。
今回はその守護大名、斯波・畠山の管領家による混乱ぶりをご覧下さい。

どうにもややこしくて長いので、ちょこちょこと細かく切り分けております。
まぁ、ゆっくりどうぞ。


■三管領の二家、「斯波・畠山」両家の争いの経緯
まずは斯波家。
当主であった「斯波義敏」は罪によって将軍「義政」に追放されてしまいました。
家督は姻戚関係をもつ「山名宗全」の推挙によって「斯波義廉」が継承します。
ここで追放されていた「斯波義敏」は諦めず、将軍の執事「伊勢貞親」など幕府側近に近づき、その懐柔に成功します。

すっかり懐柔された「伊勢貞親」ほか側近らは将軍「義政」を動かし、自らの支持する「斯波義敏」に再び家督を与えることに成功しました。

でました、将軍「義政」のいい加減・適当・どうでもいーや、モード。
本当に自分の意思というものがありませんね。
この人やる気ゼロですよ。

この一件によって逆に追放されてしまった「斯波義廉」は義父「山名宗全」を再び頼ります。
これには「山名宗全」の娘婿「細川勝元」も同調。画策した執事「伊勢貞親」らが追放になる、政変となりました。

後ろ盾を失った「斯波義敏」は再び追放、再起をかけて潜伏するのでした。


次に畠山家。
「畠山持国」には子が無く、養子として迎えた「畠山政長」に後を継がせました。
しかし、その後に実子「畠山義就」誕生。
…どっかで聞いた話ですね(笑)

この時に「畠山持国」は三十九歳だったので、後継者宣言はやや早まった感があります。

何はともあれ、親としては「血の繋がった実子に後を継がせたい」と思うようになります。
そんな確執に乗じて、家臣団は真っ二つに分裂、お決まりの家督争いへと発展してしまうのです。

当時「畠山政長」は管領に就任していましたが、「畠山義就」を擁立した「山名宗全」らの運動により管領職を罷免されてしまいます。
それを不服として「畠山政長」は中央の有力者「細川勝元」を頼ります。

「細川勝元」や筒井氏らの支持を得た「畠山政長」一派は将軍「義政」を動かし、「畠山義就」の追放に成功しました。


…このように、当時の有力者「山名宗全」と娘婿「細川勝元」は同調した時期もありますが、どちらも様々な守護大名の家督相続など、利権に絡み、たいていの場面で対立することとなります。
その結果、両者の関係は時と共にどんどん悪化していくのでした。


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 山名宗全邸 京都市上京区の堀川の西付近

   ※今回写真は「山名宗全邸」です。
    こちらが西軍の本陣となりました。


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※鎌倉~室町は分かりづらいですが、いかにして武士が台頭していったのか…。
 それを知るためにはこうした本が必須ですねぇ。

甦る日本史〈2〉中世・武家篇 源頼朝から応仁の乱まで

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