お寺さんぽ Ver.03

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奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」  <前編>

2006年05月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は独眼竜として渡辺謙でも有名な「伊達政宗」、その父輝宗さまについて。
真田の時もそうでしたが、ここで政宗にしないあたりがひでるさんらしいでしょ?(←んなのしらんか)


まず、基本知識として伊達家の代々内紛について。
政宗からすればおじいさんの晴宗とその父稙宗(たねむね)、そして父輝宗と晴宗。実際に血のつながった親子なんですが、それぞれ家督争いにて親子で争っています。後で書きますが、政宗に引き継ぐ際にもちょっと揉めてますね。
なかなか珍しいことです。

さて、政宗が生まれたのはちょうど「織田信長」が最後の将軍「足利義昭」を奉じて京都へ上洛した頃でした。
…遅いよねぇ。
家督を継いでいた「伊達輝宗」はどちらかというと温厚誠実な人柄で、領土を次々と拡大していく覇気にはやや乏しい人でした。
どうやら本人も自らそう考えていたようです。
さて、生まれた政宗は幼少期より才気煥発な子供でした。その政宗に自分以上の才を見た輝宗は遠く美濃より虎哉宗乙(※)などをわざわざ呼び寄せ、英才教育を施します。
また、守り役として「片倉小十郎景綱」など、家中から若く優秀な人材を側近としてつけました。

と、それまで順調に育っていた政宗は突然疱瘡(天然痘)にかかります。
どうにか一命は取り留めたものの、片目を失いました。また、どうやら顔はその影響で腫れ物などが多くでき、容貌もだいぶ変化してしまったようです。幼い政宗はこれが原因で引っ込み思案な、弱気な性格となってしまいました。
なにしろ治療もままならない頃の大病ですから、本人の心情は察して余り有ります。
政宗はこれがコンプレックスで、「自分の肖像画などを作る際には必ず両目にしてほしい」と遺言しています。ちなみに仙台の銅像もちゃんと両目ありますよー。(なんだか木像だかなんだかに片目のものがあったような気が…)

弟の小次郎が生まれたことで母にも避けられるようになり、弱気になった嫡男に家臣団も不安を覚え、政宗は家中で孤立するようになってしまいました。色々状況はやや違いますが、こんなところは織田信長とよく似ていると思います。兄弟で争ったり。

実際に「政宗廃嫡」という動きもあったようですが、そんな中でも輝宗は「次期当主は政宗である」という態度を守り続けました。
代々交替期に内紛のあった伊達家で、望まない親子の確執を輝宗も経験しています。これは単なる推測ですが、そんな内紛は何があっても避けたい、という気持ちだったと思います。

輝宗は反対派が大きくなる前に先手を打ちました。
天正五年(1577)に元服。名を梵天丸から「政宗」に改めます。ちなみに、この政宗のほかに伊達家にはもう一人、同姓同名の「政宗」がいます。九代伊達家当主の政宗は、中興の祖として知られる人物なんですね。この件だけでも輝宗がいかに彼に期待をしていたか伺えるでしょう。
その後、続けて正室愛姫(めごひめ)をあわせ、四年後の天正九年(1581)には相馬氏との争いで初陣に勝利するのでした。

若き政宗にとって幸運だったのは、母はともかく、父の愛情がまったく変わらなかったことに加え、守り役の片倉小十郎も政宗を見捨てる事なく、厳しく優しく、叱咤激励して接し続けたことでしょう。
こういう人たちが身近にいるってのは幸せなことですよね。


⇒ 後編につづく

(※)虎哉宗乙(こさいそういつ)
臨済宗の僧。塩山恵林寺の僧「快川紹喜(かいせん じょうき)」の弟子にして政宗の教育者。
ちなみに快川紹喜は信長の焼討ちで「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と言った人ですよ。


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