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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、世間一般にあまり広くは知られておりませんが、「下剋上」という冠が相応しい人物「尼子経久(あまご・つねひさ)」さまについてお送りいたします。
わずか一代にて、中国地方最大の守護大名・大内氏と肩を並べるまで勢力を伸ばした尼子氏。
その当主経久は謀略を得意とした反面、人間としても大変に魅力ある方だったようなのです。
宇多源氏の庶流、鎌倉時代では源氏方として活躍した佐々木氏が祖先という尼子氏。
室町時代では、「足利尊氏」に従って活躍した「佐々木道誉(ささき・どうよ)」の一族なのでした。
尊氏からの信頼は高く、佐々木氏は後に幕府で四職(※ほか赤松・一色・山名)のうちの一家となるのです。
なお、京の東側は京極高辻に居住したところから、「京極」を名乗るようになったのです。
さて、「京極高秀」の次男「尼子高久(※経久にとっては祖父)」の代より、姓を「京極」から「尼子」に改めました。
これは、室町時代の初期頃に近江国犬上郡甲良荘の尼子郷に高久が居住したことに由来しているそうです。
なお、「尼子」の姓は尊氏より与えられた、という説もありました。
こうして尼子姓となった高久の嫡男「尼子持久」の代に、主家である京極氏から出雲守護代に任ぜられ、出雲国に下ったことから出雲・尼子氏が始まりまるのでした。
(※なお当然ですが、京極氏が出雲守護です)
出雲国へ入った持久はさっそく足固めを開始し、京極氏が掌握できなかった三沢氏、神西氏、牛尾氏、三刀屋氏などの国人領主を配下としております。
(※ちなみに、歴史上に尼子氏の名が出るのは永享十一年(1439)からで、それ以前の詳細については不明らしい)
その子「尼子清定(あまご・きよさだ)」も守護代に任ぜられ、引き続き京極氏の出雲支配を助けております。
勃発した「応仁の乱」では、京へ出陣した守護「京極持清」の留守となった出雲をよく守ったのです。
京でも敵対していた隣国、石見・伯耆より「松田備前守」ら山名勢の侵入を不利な状況ながらも撃退。
逆襲に転じた清定は、松田氏の所領を得ることに成功しております。
さらに、国内では三沢氏ら連合軍が起こした国一揆に対し、京極氏の権威を背景にこれを打ち破るなど、勢力維持に努めるのでした。
こうした功により、より多くの領土を得ることとなった尼子氏。
守護代「尼子清定」に従って共に戦った国人衆ですが、守護京極氏の命令には従わないなど、名目だけの権威でなく、”本当に実力のある者が台頭する”という、下剋上の世となっていくのでした。
ここで、特別おまけ「尼子家系図」をご覧ください。
■尼子家系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は家督相続者)
佐々木定綱
↓
<略>
↓
佐々木道誉(高氏)
↓
佐々木(京極)高秀(※道誉の三男)
↓
京極高詮-1尼子高久(※以下より尼子氏)
↓
詮久(出羽守)-2持久(出雲守護代)
↓ ↓
近江尼子氏 3清定
↓
4経久(★)---久幸(下野守)
↓
政久----国久(新宮党)--興久(塩冶氏)
↓ ↓
5晴久(詮久) 誠久-豊久-敬久
↓ ↓
6義久-倫久-秀久 氏久(養子?)-吉久-季久-常久-勝久-通久
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⇒つづく。
次回は「経久さま、職を失って追放される」(2/5)
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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※もちろん、小説もある「経久さま」です。
本日は、世間一般にあまり広くは知られておりませんが、「下剋上」という冠が相応しい人物「尼子経久(あまご・つねひさ)」さまについてお送りいたします。
わずか一代にて、中国地方最大の守護大名・大内氏と肩を並べるまで勢力を伸ばした尼子氏。
その当主経久は謀略を得意とした反面、人間としても大変に魅力ある方だったようなのです。
宇多源氏の庶流、鎌倉時代では源氏方として活躍した佐々木氏が祖先という尼子氏。
室町時代では、「足利尊氏」に従って活躍した「佐々木道誉(ささき・どうよ)」の一族なのでした。
尊氏からの信頼は高く、佐々木氏は後に幕府で四職(※ほか赤松・一色・山名)のうちの一家となるのです。
なお、京の東側は京極高辻に居住したところから、「京極」を名乗るようになったのです。
さて、「京極高秀」の次男「尼子高久(※経久にとっては祖父)」の代より、姓を「京極」から「尼子」に改めました。
これは、室町時代の初期頃に近江国犬上郡甲良荘の尼子郷に高久が居住したことに由来しているそうです。
なお、「尼子」の姓は尊氏より与えられた、という説もありました。
こうして尼子姓となった高久の嫡男「尼子持久」の代に、主家である京極氏から出雲守護代に任ぜられ、出雲国に下ったことから出雲・尼子氏が始まりまるのでした。
(※なお当然ですが、京極氏が出雲守護です)
出雲国へ入った持久はさっそく足固めを開始し、京極氏が掌握できなかった三沢氏、神西氏、牛尾氏、三刀屋氏などの国人領主を配下としております。
(※ちなみに、歴史上に尼子氏の名が出るのは永享十一年(1439)からで、それ以前の詳細については不明らしい)
その子「尼子清定(あまご・きよさだ)」も守護代に任ぜられ、引き続き京極氏の出雲支配を助けております。
勃発した「応仁の乱」では、京へ出陣した守護「京極持清」の留守となった出雲をよく守ったのです。
京でも敵対していた隣国、石見・伯耆より「松田備前守」ら山名勢の侵入を不利な状況ながらも撃退。
逆襲に転じた清定は、松田氏の所領を得ることに成功しております。
さらに、国内では三沢氏ら連合軍が起こした国一揆に対し、京極氏の権威を背景にこれを打ち破るなど、勢力維持に努めるのでした。
こうした功により、より多くの領土を得ることとなった尼子氏。
守護代「尼子清定」に従って共に戦った国人衆ですが、守護京極氏の命令には従わないなど、名目だけの権威でなく、”本当に実力のある者が台頭する”という、下剋上の世となっていくのでした。
ここで、特別おまけ「尼子家系図」をご覧ください。
■尼子家系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は家督相続者)
佐々木定綱
↓
<略>
↓
佐々木道誉(高氏)
↓
佐々木(京極)高秀(※道誉の三男)
↓
京極高詮-1尼子高久(※以下より尼子氏)
↓
詮久(出羽守)-2持久(出雲守護代)
↓ ↓
近江尼子氏 3清定
↓
4経久(★)---久幸(下野守)
↓
政久----国久(新宮党)--興久(塩冶氏)
↓ ↓
5晴久(詮久) 誠久-豊久-敬久
↓ ↓
6義久-倫久-秀久 氏久(養子?)-吉久-季久-常久-勝久-通久
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⇒つづく。
次回は「経久さま、職を失って追放される」(2/5)
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⇒ 続・室町時代 地方政治編
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⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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![]() | 尼子経久―毛利が挑んだ中国の雄 (PHP文庫)中村 整史朗PHP研究所このアイテムの詳細を見る |
※もちろん、小説もある「経久さま」です。
仏語で検索してここにたどり着きました。
昔の投稿からパラパラ~っと流し読みしたのですが、とても面白い内容ばかりです。
素敵なお寺Blogですね。
これからもBlog頑張って下さい。楽しみにしてます~。
大変励みになります。
残念ながら日々更新はできなくなっておりますが、ぼちぼち続けていきたいと思いますので、ぜひまたいらして下さい。