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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大勢力の狭間にありながら、一代にして見事にその勢力拡大を成功させた希代の謀略家、「宇喜多直家(うきた・なおいえ)」です。
備中・美作を支配していた実力者「三村家親」
その侵攻を受けることとなった、備前は大変な危機を迎えていました。
これに対抗するのは浦上家の第一人者となっていた、我らが「宇喜多直家」さまです。
直接の合戦に勝機がないことを悟った直家さまは、ここで、「毛利元就」を手玉に取った「大友宗麟」もびっくり仰天するような”奇策”を実行したのです。
(※直家さまの写真ないので、代わりに息子の秀家くんです。秀吉に育てられたためか、父に似ず熱血猛進タイプに育ってしまうのでした。)
永禄九年(1566)
思案した直家は、家臣で鉄砲の名手「遠藤河内守秀清(えんどう・かわちのかみ・ひできよ)」に策を授け、これを送り込みました。
足軽に扮した「遠藤河内守」は三村勢の陣中へ潜り込むと、顔見知りだった「三村家親」を狙撃。
なんと!
その暗殺に成功するのです!!
スゲェ!!
これは「鉄砲による要人狙撃事件」として最も早いと言われています。
そりゃー、そうでしょう。びっくりですよ。
この暗殺によって、直家はほぼ一戦もすることなく、最大の障害を取り除くのでした。
さらに、直家は舅である美作「中山信正」がその支援をしていたことを知ると、これを招待して毒殺。
偽の遺言を作成し、所領をそっくり手中にしました。
同じく、美作の国人「後藤美作守」は浦上・中山両家と姻戚関係にありました。直家の怪しげな行動を警戒し、その排除を考えていたようです。
それを知った直家は彼の信奉する「願以寺」の僧を懐柔し、争いをやめるよう説かせると娘を嫁がせ、休戦しました。
…と、その娘が「後藤美作守」を毒殺。
また、姉婿の「谷川久隆」は暗殺。
などなど、結局はこうした毒殺・暗殺によって、ほぼ美作をも併呑してしまうのでした。
戦国時代では梟雄「松永久秀」に勝るとも劣らない計略っぷりです。
トンでもない人ですよ。
ちなみに、直家の弟で兄を助けて転戦した「宇喜多忠家(うきた・ただいえ)」は、
「兄の目前へ出る時は必ず鎖帷子(くさりかたびら)を着ていた」
と言っております。
実の肉親でさえ何考えているのか分からないという、大変に不気味で危険な人だったようなのです。
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⇒ つづく。
次回は「一代にして主家を凌いだ謀将」
[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 松永久秀 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [前 中 後]
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※だいたい「梟雄」なんて呼ばれる人はオツムもそれなりなんですよ。
本日は大勢力の狭間にありながら、一代にして見事にその勢力拡大を成功させた希代の謀略家、「宇喜多直家(うきた・なおいえ)」です。
備中・美作を支配していた実力者「三村家親」
その侵攻を受けることとなった、備前は大変な危機を迎えていました。
これに対抗するのは浦上家の第一人者となっていた、我らが「宇喜多直家」さまです。
直接の合戦に勝機がないことを悟った直家さまは、ここで、「毛利元就」を手玉に取った「大友宗麟」もびっくり仰天するような”奇策”を実行したのです。
(※直家さまの写真ないので、代わりに息子の秀家くんです。秀吉に育てられたためか、父に似ず熱血猛進タイプに育ってしまうのでした。)
永禄九年(1566)
思案した直家は、家臣で鉄砲の名手「遠藤河内守秀清(えんどう・かわちのかみ・ひできよ)」に策を授け、これを送り込みました。
足軽に扮した「遠藤河内守」は三村勢の陣中へ潜り込むと、顔見知りだった「三村家親」を狙撃。
なんと!
その暗殺に成功するのです!!
スゲェ!!
これは「鉄砲による要人狙撃事件」として最も早いと言われています。
そりゃー、そうでしょう。びっくりですよ。
この暗殺によって、直家はほぼ一戦もすることなく、最大の障害を取り除くのでした。
さらに、直家は舅である美作「中山信正」がその支援をしていたことを知ると、これを招待して毒殺。
偽の遺言を作成し、所領をそっくり手中にしました。
同じく、美作の国人「後藤美作守」は浦上・中山両家と姻戚関係にありました。直家の怪しげな行動を警戒し、その排除を考えていたようです。
それを知った直家は彼の信奉する「願以寺」の僧を懐柔し、争いをやめるよう説かせると娘を嫁がせ、休戦しました。
…と、その娘が「後藤美作守」を毒殺。
また、姉婿の「谷川久隆」は暗殺。
などなど、結局はこうした毒殺・暗殺によって、ほぼ美作をも併呑してしまうのでした。
戦国時代では梟雄「松永久秀」に勝るとも劣らない計略っぷりです。
トンでもない人ですよ。
ちなみに、直家の弟で兄を助けて転戦した「宇喜多忠家(うきた・ただいえ)」は、
「兄の目前へ出る時は必ず鎖帷子(くさりかたびら)を着ていた」
と言っております。
実の肉親でさえ何考えているのか分からないという、大変に不気味で危険な人だったようなのです。
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⇒ つづく。
次回は「一代にして主家を凌いだ謀将」
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※だいたい「梟雄」なんて呼ばれる人はオツムもそれなりなんですよ。