お寺さんぽ Ver.03

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巨峰のソフトクリーム (山梨・恵林寺)

2010年07月25日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ、山梨県甲府市の恵林寺にありました「巨峰のソフトクリーム」です。

またまた食べ物シリーズです。
つい先日、甲斐善光寺にて発見した「信玄アイス」をやりました。
そちらの日は、黙っていても汗をかくくらいの日差しで良かったんですが…次の日。

 天気   (ウソみたいだけど本当)
 
朝からパラパラきていた雨は、昼過ぎからは本格的な降り方になってしまいました。
京都へ行ってからというもの、水の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」とラブラブなひでるさん。(※たんなる雨男とも言う)
こうもお約束に雨が降るのというのは、なんでですかねー。
天気予報では、ぎりぎり帰るくらいかなーと思っていたんですが、起きた時点でもうアウトでした。
困ったもんです。

ブログのネタは甲斐善光寺でゲットしていたので、いいかなーっと思っていたら…
見つけてしまいました。




 甲州名物 『 巨峰のソフトクリーム 』

名物と書いてあれば、食べない訳にはいきません。
ぶっちゃけ、この日は長袖でも寒さを感じるくらいだったんですが…。



販売しているのは、微妙な看板が可笑しい恵林寺の「一休庵」さん。
あちこちにある「巨峰ソフト」の広告は色あせており、これまたなんとなく微妙。
看板は営業中となっていましたが、当初建物の中には誰もおりませんでした。
わざわざ隣の土産スペースから呼んできたのです。



そんな訳で、いかにも山梨っぽい「巨峰のソフトクリーム」です。
ぶどう系のソフトは、高尾山「権現力ソフトクリーム」に続いて2つめ。
やっぱりフルーツ系とは相性良いですね。
単純に美味いです。
ぶどうの味が非常に濃厚で、ガムのひと噛み目みたいな感覚。
さほど甘過ぎることがないのも良かったです。

…が。
気温的にはアイスとは真逆だったので…じわじわと体が冷たくなっていったのでした(笑)

【おすすめ★メーター】 甲州名物 『 巨峰のソフトクリーム 』
■■■□□ 3Point …意外に濃い味でびっくりしました。

いかがでしょう?
まともに晴れた日であれば、クドい甘さでもなくイイと思います。



[関連記事] 【ひでるグルメレポート特集】
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⇒ 信玄アイス (山梨・甲斐善光寺)



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※こんなんありました。
 ソフトクリームっていいよね。

闘うお坊さん 「下間頼廉」 後編

2010年07月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も十一世法主「顕如(けんにょ)」率いる「石山本願寺」の執事「下間頼廉(しもつま・らいれん)」です。
「石山合戦」などに参加した多くの僧の中でも、単なる文官にとどまらない優秀な戦術家として活躍するのでした。


法主「顕如」は公家衆に近づく一方で一向宗を組織化し、多大な権力を握っておりました。
戦国大名らも手出しができないほどの勢力を有し、この時の「石山本願寺」は、間違いなく最盛期を迎えていたのです。

永禄十一年(1568)
そうした中、ついに「織田信長」は上洛を果たしました。
畿内掌握を目指して活発な軍事活動を続ける信長との関係は良好には進まず、ついに全面戦争へと突入してしまうのです。

ここ元亀元年(1570)からの争いが、いわゆる「石山合戦」でした。
当時の信長は擁立した将軍「足利義昭」との関係が冷え切っており、義昭は織田勢を排除するべく”信長包囲網”を形成していくのです。
その反対勢力に加わった「顕如」は、上杉氏、武田氏、毛利氏らと同盟を結び、本拠「大坂御坊」に籠城。
徹底抗戦を続けるのです。

この「大坂御坊」は単なる本拠館ではありません。
「蓮如」が隠居先として選んだそちらは、四面を川に囲まれた上に小高い山も多く、地形的にも優れた難攻不落な要塞と言えるものでした。
山科にて攻撃を受けた過去の経験から、しっかり軍備を整えていたんですね。
こうして年々勢力を増していったことで、実際に細川氏の攻撃を寄せ付けなかったほか、織田勢の攻撃にも長年耐え抜いているのです。
その他権力者、大名らも武力を怖れ、手出しできませんでした。
…まぁ、信長が見逃せなかったのも当然ですわね。

今回の主人公「下間頼廉」は、籠城した本願寺では直接の指揮官です。
越前に派遣されていた「下間頼照」が「明智光秀」・「羽柴秀吉」らに翻弄されたのと対照的に、しばしば織田勢の裏をかくなど、僧であったものの優秀な戦術家でもありました。

天正四年(1576)の「天王寺合戦」では、「小早川隆景」の毛利勢と共に木津の砦を守備。
織田勢の将「原田直政」を討ち取るという、大きな手柄を挙げています。
本願寺勢の実質的な大将として織田勢からよく防戦し、毛利氏・雑賀衆との連携によって、七年間という籠城戦を戦い続けるのでした。

雑賀衆の伝説的な武将「鈴木重秀(雑賀孫一)」と共に、
「大坂之左右之大将」
と称されていたそうです。

天正七年(1579)
しかし、「九鬼嘉隆」率いる水軍に「木津川口海戦」で毛利氏が敗れ、補給が断たれたことで法主「顕如」は講和を模索するようになりました。
まだ一年ほど戦う与力はあったとも伝えられていますが、実際のところは微妙であったと思います。

信長包囲網は既に瓦解しており、「顕如」も”援軍なければ当寺は相果てること必定”と、弱気な支援要請をしています。
織田軍の前に、敗色濃厚だったのです。

続く八年の頃になると紀州・加賀も織田勢に制圧されており、ついに「正親町天皇」からの勅命を受けた「顕如」は信長へと屈服。
本願寺を退去することとなりました。
この時は「下間頼龍」や「下間仲孝」らと共に、頼廉も講和条約署名三名の一人となっています。

合戦後は「顕如」に従い、本願寺を退去。
彼と共に各地へ赴き、織田勢に対して抵抗を続ける門徒らの説得に当たっています
その信頼は非常に厚く、署名に加わった先の三名へ当てた書状でも筆頭として名前が書かれており、後の慶長五年「徳川家康」との会見でも随従しているのでした。

天正十七年(1589)
京都へ帰った頼廉は「豊臣秀吉」から七条猪熊に宅地一町を与えられ、「下間仲孝」と共に本願寺町の奉行を命ぜられました。
死去は寛永三年(1626)と、当時としてはなかなかの長命だったようです。


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信長が宿敵 本願寺顕如
鈴木 輝一郎
毎日新聞社

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※なるほど、信長のライバルは本願寺ですかねー。
 政秀寺とかあるんですが。

闘うお坊さん 「下間頼廉」 前編

2010年07月11日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は久々の歴史ネタです。
最近やってなかったのは…なかなか、南部氏の記事がまとまらなかったためです。
東北地方で”南”部、なーんて気軽な気持ちだったんですが、ちらほら不確かな事が多く、諦めました。
難しかったです。
途中まで書いてたんですけどねー。
そんな訳で、本日はメジャーなネタにしました。

天下統一を目指す「織田信長」
その覇道に立ちはだかったのは…門徒らを総動員し、決死の抵抗をみせた十一世法主「顕如(けんにょ)」率いる「石山本願寺」だったのです!!

今回の主人公「下間頼廉(しもつま・らいれん)」はその執事です。
単なるお坊さんでも文官でもなく、兵を率いて合戦に参加。
多くの僧の中でも、特に際立って優秀な戦術家でもあったのでした。


名前は”しもずま”とも読むようです。
この下間家は、代々本願寺の補佐役・家宰として仕えていました。
一向宗の指導者として活躍した僧にはこの名字多いですが、それぞれは一族であるようです。

天文六年(1537)
頼廉は「下間頼康」の子として誕生しました。
通称は「右衛門尉」

詳細については不明であるものの「顕如」に仕え、永禄二年(1559)に本願寺が門跡になると、重職である坊官となりました。
ちなみに余談ですが、彼の父頼康は「石山合戦」の際に千貫櫓で討死したと伝えられています。


八世法主「蓮如(れんにょ)」から続く一向宗は、拡大を続けた結果日本最大の教団にまで発展していました。
加賀国では守護大名である富樫氏を追い出し、
百姓の持ちたる国
という門徒での国家を成立させるなど、その勢力は戦国大名らの脅威となっていくのです。
もともと「蓮如」は、政治との結びつきには否定的でした。
しかし、大名らの領国支配強化、組織化される門徒に伴って、加賀国のある北陸では上杉・朝倉氏を、東海では徳川氏などの大名らに激しく抵抗。
その立場も変化していったようなのです。

天文二十三年(1554)
亡くなった父「証如」の後継者として、十一世法主の「顕如(けんにょ)」が誕生します。
これが戦国のメイン時代に活躍した本願寺の住職で、いわゆる”信長の野望”的には、「本願寺光佐」なのです。

当時はまだ十二歳の青年でした。
仏敵「織田信長」とは当初から揉めていた訳でなく、キリシタンを保護したこと、畿内掌握のため圧迫を受けた事(矢銭の要求から、石山本願寺の立ち退きなど)から、ついに全面戦争へ突入するのでした。
越前、加賀、伊勢、紀伊といった全国門徒へ、

「法敵、織田信長を討て!」 

そう檄文を飛ばすのでした。
なにしろ、”蜂起しない者は破門する”という、めちゃくちゃなモノだったのです。

⇒ つづく


[関連記事] 【織田政権セット】
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
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⇒ 坂本城址 (滋賀)
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※信長が最も手こずった相手ですね。
 神を信じない彼と激突するのは、歴史の面白いところだと思います。


全国で相次ぐ母親たちの暴発 →ゲームの影響なの!? (日刊ゲンダイ)

2010年07月04日 | ネタ
だいぶ久々に一刀両断です。
ぶっちゃけ、どう書いていたかも忘れてしまいましたが…どうにも納得できない記事があったのですよ。

さてはて、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)
本日は『 全国で相次ぐ母親たちの暴発 →ゲームの影響なの!? (日刊ゲンダイ) 』です。


毎日ニュース記事を見ていて、ムカっとするのはほぼ民主党関連の記事ばかり。
政治関係の話題は他に詳しい解説をしてるブログ多く、またキリもないのでなるたけ取り上げないようしています。
しかし、こちらはぱっと見からして違和感がありました。
↓下記の記事をご覧ください。

わが子を殺す母親たち
C.L. マイヤー,M. オバーマン
勁草書房

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■なぜエスカレートする 全国で相次ぐ母親たちの暴発
 [日刊ゲンダイ] 2010年6月28日

●昔に比べて忍耐力がない
 先週、石川県で起きた乳児の殺人未遂事件には呆れた。25歳の母親が生後10日の長男の首を絞め、胸などを包丁で切りつけたのだ。この母親は育児ノイローゼだったそうだが、最近、こうした虐待事件をよく耳にする。
 今月だけでも、愛媛県で48歳の女が長男(11)の首を絞め、福岡では41歳の女が8歳の息子を包丁で刺して逮捕。兵庫県では34歳の母親が長女(9)を平手打ちし、44歳の母親が12歳の娘をおたまで殴って逮捕されている。
 まさに母親たちの暴発。何が原因なのか。

「医療法人社団 すずき病院」理事長で精神科医の坂本博子氏が言う。
「いまの女性は昔に比べて忍耐力がないのです。とくに1960年以降に生まれた女性は顕著で、平和で裕福に育ったため子育ての苦労に耐え切れない。
 そんな人が夫婦仲が悪くひとりで悩んでいると、ストレスから暴力に走ってしまいます」

 テレビゲームの影響も大きい。
「ゲームにはまった人は現実もゲーム感覚で簡単にクリアできると考える傾向がある。だけど実際は、子供は夜泣きをし、オッパイも飲んでくれない。
 そうした“予期せぬ事態”に対処できないのです」(心理カウンセラー)


 その結果、母親はわが子に対して衝動的な行動に出る。
 
「子供を虐待する患者さんは相手の安全を考慮せず、手に持った物で殴ったり投げつけたりします。なかには顔を殴るとアザができて周囲にばれるので、背中やお尻を殴る悪質な人もいる。
 “おまえなんか生まれなきゃよかった”と子供の存在を否定する罵声(ばせい)を浴びせるのも特徴です」(坂本博子氏)
 息子の嫁さんにはなってほしくない。
---------------------------------- 。。。


太字にしたので、何が気に入らないかをわざわざ説明する必要ないでしょう。
そう、”テレビゲームの影響も大きい”の部分ですね。

こちらの記事には、”母親から乳児への虐待”についての考えが書かれています。
その中で、すずき病院の「坂本博子」さんはしっかり名前を出されているんですが…「心理カウンセラー」って何者だ。
どーでもいいですが、ずいぶん不確かな、古い考えを堂々と書かれているのに驚きました。

ぷよぷよ7

セガ

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テレビゲームの影響も大きい。

…そうか?

まず、この記事って女性中心な話題ですよね。
最近はまた違うのかもしれませんが、そうそう女性でゲームにはまっているという感覚はありません。
周囲の女性で”ゲームにはまっている”という人は、ほとんど見聞きしてません。
今回の事柄には適切でないように思います。

だいたい、女性の好みは「ぷよぷよ」などパズルゲームなジャンルです。
(※ニフティ、スクウェア・エニックスの利用実態調査、ネットエイジアの携帯電話のゲームに関する実態調査などの結果による)
簡単にクリアできる、と書かれていますが、簡単なパズルゲームなんてありません。
つまんないでしょ、そんなの。

”現実もゲーム感覚~”というのも、ステレオみたいによく言われますよね。
それこそ勝手な無茶苦茶な言い分です。
最近はめっきりゲームの時間がなくなってしまいましたが、好きなひでるさんに言わせれば…普通そうは考えないって。
まったく逆で、現実の厳しさを知ってるから、ゲームにはまるのではないでしょうか
引き籠もってまで熱中する人だっているんでしょ。
(※商談での会話が、適切な文句を選んでいくゲームみたいだなぁって思ったことありますけどね)

ゲームと犯罪と子どもたち ――ハーバード大学医学部の大規模調査より
ハーバード大学医学部 ローレンス・カトナー博士,ハーバード大学医学部 シェリル・K・オルソン博士
インプレスジャパン

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ネットで検索すると、色々とヒットします。
”ゲーム=犯罪”という因果関係はありません
こうした事柄にて、すぐゲームだの、漫画だのを出すのはお門違いだと思います。
はっきり、親の育て方、また育つ上の環境でしょう。

どちらかの両親とかご近所さんなど、面度を見てくれる人、適切なアドバイスをくれる子育て経験者、愚痴を言える相手…などなど、周囲に誰かしらいた昔の家庭環境が大きく変化。
核家族化によってそうした環境が崩壊し、旦那をメインに周囲の協力が得られない場合、孤独に子育てをしているうちに疲労、ストレスをためてしまうのだと思います。

ゲームは事件に関係ありません。
変に貶めるのはもういい加減にやめてほしいです。


※上写真はシャープのケータイサイト「SH-MODE」のパズルゲーム「アクティボン」です。



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テレビゲームと子どもの心―子どもたちは凶暴化していくのか?
坂元 章
メタモル出版

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