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大聖寺合戦、最後の出撃・宗滴さま (朝倉宗滴)6

2006年10月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。

救国の英雄宗滴さまに休息の暇はありませんでした。
…というか、あちこち出張りすぎですよ。その忙しさは「みのもんた」みたいでした。
さて、宗滴さまが長い戦陣にまみれていた中、お隣の加賀では再び「本願寺」勢力が確実にその勢力を増していたのです。


■天文十七年(1548) [当主「宗淳孝景」死去]
寺院参詣の帰途に「宗淳孝景」は急死。
享年五十五。
文道を左に、武道を右にした風流太守」と言われ、朝倉氏の全盛期を築いた「宗淳孝景」ですが、彼の最大の失策は子にありました。
後を継いだ嫡男、十一代「朝倉義景(※写真)」はこの時わずか十四歳。
なんと「宗淳孝景」四十一歳にしての初子で、しかも唯一の実子だったようなのです。(諸説アリ)
想像でしかありませんが、おそらく甘やかされて育ったのだと思います。

父親同様に「朝倉宗滴」が政務・軍事を補佐し、その存命中は問題ありませんでした。
がしかし、その死後になると、失政・失策が目立つようになり、結果として滅亡へと導いてしまう最後の当主となるのです。
…でも、それは後々のお話。


■弘治元年(1555) [最後の出陣、大聖寺表合戦]

一揆勢の拡大に危機感を募らせていた宗滴。
当主「朝倉義景」に進言し、「本願寺」一向一揆勢壊滅のため、出陣するのです。
当時の「朝倉義景」は二十二歳、補佐する「朝倉宗滴」は七十九歳でした。
推測ですが、宗滴はこれが最後の出撃と感じていたでしょう。
彼は朝倉家の未来のため、最大の邪魔者である「本願寺」を壊滅させる覚悟だったと思います。
(※本願寺と雪がなければ、朝倉氏は天下を取るだけの実力があったと言われています)

「朝倉宗滴」は共に「本願寺」一向一揆勢を敵とする「上杉謙信」の川中島出兵に呼応し、居城「金ヶ崎城」を出陣。
一乗谷にて軍容を整えると、加賀へ侵攻しました。
宗滴は橘山へ陣を張ると、すぐさま「本願寺」一向一揆勢の拠る「大聖寺」ほか周辺の諸城へ攻撃開始。
さぁ、ここからが腕の見せ所です!!

□主戦場となった「大聖寺(※加賀市大聖寺地方町)」はこの頃は「津葉城」と呼ばれており、一族の「朝倉景連」勢が攻略。

□「南郷城(※加賀市南郷町)」に篭る「黒瀬掃部允(くろせ・かもんのじょう)」ら一揆勢は宗滴率いる主力によって一日で落城。

□「千束城(※加賀市作見町)」には「潟山津大助(かたやまづ・だいすけ)」「振橋帯刀(ふるはしたてわき)」らは一揆勢が篭っていましたが、こちらも一日で落とされています。

順調に諸城を落とす朝倉勢。
さらに軍を進めた「朝倉宗滴」は本陣を敷地山へと移しました。
この敷地山は敷地城(※加賀市大聖寺岡町)とも呼ばれ、一般には金吾城(きんごがじょう)とも言われていました。

ここで計略を練った宗滴は、家臣「萩原宗俊(八郎右衛門尉)」にわずかな手勢を与え、鷹尾山を登らせます。
それを攻めようと「超勝寺」派二万五千の門徒が出陣すると、宗滴ら主力勢はこれに攻めかかるのです。

おびき出された格好になった「超勝寺」ら一揆勢はここで壊滅的な打撃を受けるのでした。
朝倉勢の大勝です。
しかし、七十九歳だった「朝倉宗滴」はさすがに長陣の無理がたたって病を発し、一乗谷へ帰陣して没しました。

この最後の合戦でも、大聖寺城、南郷、津葉、千足など諸城を陥落させ、攻撃してきた一揆勢を散々に討ち取るなど、各地で勝利・多大な功をあげたのでした。


朝倉氏の主力として長きに渡って各地で転戦した宗滴さま。
数々の武勲だけでなく、文人としても有名で、まさに文武両道の武将でした。

また、こんな興味深い話があります。
宗滴は死の間際「織田上総介(信長のこと)の行く末を見てみたい」と言ったそうです。
当時はまだ「桶狭間合戦」の前で、尾張統一戦の頃でした。
美濃の蝮こと「斎藤道三」と同じく、新時代に相応しい武将と見抜いていたのかもしれません。

武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候
(※武士は犬と言われようが、畜生と言われようが、勝つことこそが重要だよ、ってな意味)

朝倉家三代を見守った宗滴はこうしてこの世を去るのです。


【 戦国メーター★朝倉宗滴 】 …当主じゃないけどね。
 家柄: ■■■□□ 本来なら4ですが、当主でないのでマイナス。
 実力: ■■■■■ 実力は折り紙つき。特に軍事才能は飛びぬけていたようです。
 地理: ■■■□□ 京には近いですが、雪が降ること、寺社勢力が強いことがマイナス。


[関連記事]
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信長 大うつけの章

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※と、言うわけで老人受けがよかった信長くんです。なんと横山光輝ですよ!!
 しかし「大うつけの章」ってのはそのまんまなネーミングですね(笑)


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東奔西走の英雄、宗滴さま (朝倉宗滴)5

2006年10月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。

九頭龍川合戦にて圧倒的な兵力をもって侵攻する「本願寺」一向一揆勢を叩いた宗滴さま。
救国の英雄として名声の高まった宗滴さまに休息の暇はなくなってしまうのでした。


■永正九年(1512) [当主「朝倉貞景」死去]
九代「朝倉貞景」は鷹狩りの途中に急死。
享年四十。
これにより、朝倉家は十代「朝倉孝景」こと「宗淳孝景(そうじゅんたかかげ)」が突然として当主となるのです。
名前から察するに、おそらく七代の「英林孝景(えいりんたかかげ)」にあやかってつけられたのだと思われます。たぶん。
継いだ「宗淳孝景」は当時ようやく十九歳。
しかし、宗滴の補佐もあって、さほどの混乱なく引き継ぎを完了したようです。
彼の代では京都や諸各国などとの紛争に追われることとなるのでした。

■永正十四年(1517) [宗滴、西・丹後へ出陣]
若狭の守護・武田氏を助け、丹後守護代の延永氏の「庫橋城」を攻略しました。

■大永五年(1525) [宗滴、西南・近江小谷へ出陣]
六角・京極連合軍との戦いに参加してこれらを追い、近江の国人「浅井亮政」を助けています。
お互いの滅亡まで続く浅井氏との同盟は、これより続いていくこととなるのです。

なお、当時守護大名となっていた朝倉氏とほぼ対等な関係で盟約を結んだ「浅井亮政」の手腕は、なかなかであると思われます。
無能という噂がありますが、少なくとも外交の才はあったのでしょう。
浅井氏と言えば、亮政の子である「浅井長政」が有名ですね。「織田信長」の妹、お市さまの旦那さんです。

■大永七年(1527) [宗滴、遠く京へ出陣]
将軍・細川家の家督・勢力争いにより、「細川高国」の要請で上洛。
桂川にて三好勢らを撃破、また泉乗寺口にて「細川晴元」勢を破るなど活躍しました。
これによって、朝倉氏は京での発言力を大いに高めるのです。
翌年(大永八年)には「宗淳孝景」を将軍「足利義晴」の御供衆に、天文七年には幕府相伴衆にまで加えられています。

ちなみに、「細川高国」は朝倉家と因縁深い「細川政元」の養子。
対立する「細川晴元」は同じく「細川政元」の養子だった「細川澄元(ほそかわすみもと)」の子です。

■享禄四年(1531) [宗滴、東・加賀へ出陣「亨禄の錯乱」]
一枚岩だった「本願寺」一向一揆勢ですが、この頃は分裂を起こしていました。
対立する派閥は「大一揆」、「小一揆」という二派。
先の「九頭龍川合戦」で越前から追い出した「超勝寺」「本覚寺」ら勢力は「大一揆」勢に属していました。
そのため、朝倉氏は旧守護大名家であります「富樫稙泰(とがしたねやす)」も参加する「小一揆」と結ぶのです。
朝倉宗滴は湊川を越え、石川郡で「本願寺」一向一揆勢と合戦するなど支援しますが、結局「小一揆」勢は争いに敗れてしまうのです。

■天文十年(1541) [そして和議]
ここで内乱を治めた「本願寺」一向一揆勢は朝倉家と一時的に和議を結んでいます。
しかし、お互いにくすぶったものを抱えたままなのです。
実際に和議が整った後も「超勝寺」「本覚寺」ら門徒勢は度々越前へ攻め入って、しつこく小競り合いを続けていました。
朝倉氏にとって、この「本願寺」一向一揆勢は再び脅威となりつつあったのです。

⇒つづく 次回は「大聖寺合戦、最後の出撃・宗滴さま」

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古城の風景3 一向一揆の城

新潮社

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※ちょっと面白そうなタイトルなのでこちら選んでみました。
 …ところで↑本編読みましたか?
 ね、前回「根絶やし」って言った理由が分かるでしょう?
 ゾンビみたいなもんで、女子供と遠慮すると、数年後には戦力が復活するんですよ。
 より強力に刷り込みされた、死をも超越したタチの悪い軍隊です。


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九頭龍川合戦の宗滴さま (朝倉宗滴)4

2006年10月29日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。

守護大名、富樫氏を滅ぼして加賀を支配した「本願寺」一向一揆勢。
指揮する蓮如の子「本泉寺蓮悟(ほんせんじ・れんご)」はなんと越前侵攻の気配を見せるのでした。
檄文によって集合した門徒衆は二十から三十万。
越前は、日本は百姓・本願寺門徒の国となってしまうのか?!
出撃する宗滴さまの両肩には日本の未来がかかっていたのでした。
…ちょっと大げさですが。


■永世三年(1506) [九頭龍川合戦]

圧倒的な大軍勢によって侵攻する「本願寺」一向一揆勢。
この当時は越前全域を支配下としていた朝倉家ですが、さすがに独力で抵抗はできません。
九代「朝倉貞景」はやたら勢力を拡大して目障りな「本願寺」と対立していた寺社勢力に目をつけ、こちらと結びます。
それら反対勢力を加えても、兵力としては「本願寺」一向一揆勢の十分の一程度であったようです。
とりあえず篭城か?一か八か出撃するか?

ここで総大将に指名されたのは我らが「朝倉宗滴」さま。
宗滴は「斉藤民部丞」「朝倉景職」ら主力を率いて、九頭龍川(くずりゅうがわ)に布陣。
出撃する積極策をとったのです。
これは富樫氏の時と違い、援軍が期待できなかったこともあるでしょう。

九頭龍川にて激突した初戦では、圧倒的な兵力差で押されていたものの、宗滴指揮のもと朝倉勢は互角の戦いを見せていました
おそらく宗滴はこの初戦で攻略の糸口を掴んだのでしょう。
後の判断、そして指揮は見事なものでした。

続く戦いで宗滴は「本願寺」一向一揆勢の機先を制し、九頭龍川を強制渡河します。
川の流れが急であったため、朝倉勢の来襲は予想外のものでした
不意をつかれた「本願寺」一向一揆勢はこれで大混乱に陥ります。

元々烏合の衆であり、また圧倒的な兵力で勝っていたことで油断もあったのでしょう。
防戦することもままならず、総崩れとなるのでした。
ここで敗れたのは全体の一部に過ぎませんでしたが、そちらの壊滅によって他の部隊も途端に浮き足立ち、収拾することもできぬまま加賀へと敗走するのでした。
宗滴率いる朝倉勢はこうして最大の危機回避に成功するのです。


九頭龍川合戦に大勝した朝倉勢は多くの門徒衆が集う一揆勢の拠点、「吉崎御坊」(※越前国吉崎)を続いて攻略。
さらに、国内の関連末寺をことごとく破棄し、越前から「本願寺」一向一揆勢の掃討に成功するのです。

滅亡の危機を救った「朝倉宗滴」の名声は大いに高まり、以後も数々の合戦にて指揮・活躍をすることとなるのです。

⇒つづく 次回は「東奔西走の英雄、宗滴さま」


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⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [  

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一向一揆と戦国社会

吉川弘文館

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※一向一揆でチョイスしてみました。
 朝倉家がどれだけ実力があっても、天下を取れない理由のひとつがコレ。
 対抗するならば、それこそ信長のように” 根絶やし ”にしないと無理でしょう。
 事実、後に「前田利家」は徹底的な殲滅作戦をとっているのです。


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混乱の加賀と宗滴さま (朝倉宗滴)3

2006年10月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。
ちょっと計算違いで間ができてしまいました。すみません。
(※下にリンクを用意しましたんで、忘れた方はそちらもご確認下さい)
さっそく行きます。
どうぞ↓


怪しげな謀反計画を持ちかけられた宗滴さま。
しかし、真面目な宗滴さまはこれをしっかり当主の「朝倉貞景」に告げ、お家の一大事を未然に防ぐのでした。
この後は自らも責任を感じて竜興寺へ出家しますが、すぐさま召し出されて敦賀の地を引き継ぐのです。
さて、これから「朝倉宗滴」さまの長い戦の人生が始まるのでした。
…と、その前に。


越前の隣国、加賀(石川県)では、戦国時代ならではというべき、トンでもない事が起こっていました。
まず、加賀の守護・富樫氏は「応仁の乱」の際に内輪揉めをしています。
東軍であった守護「富樫政親」が西軍に属した弟の「富樫幸千代(とがし・こうちよ)」と争っていたのです。
この時、「富樫政親」は一時期「富樫幸千代」勢に敗れて後退していますが、後に「本願寺」勢力の協力を受けて反撃。

こうして「富樫政親」は加賀守護職を取り戻すのですが、自然それに協力した「本願寺」の発言力が強まってしまうのです。
…これに危機を覚えた「富樫政親」は九代将軍「足利義尚」に追討の許可をもらいました。
そして、戦略拠点として高尾城(※石川県金沢市高尾町)を築きます。

”高尾城建築は自らの攻撃のため”と察した「本願寺」勢はこれに対抗して方々へ檄文を飛ばし、総勢二十万という兵力を集めるのです。
(※おそらく非戦闘員が混じっていたと思いますが、当時は実際にそのくらいの力があったようです)

一方、驚いた「富樫政親」の動員できた兵は約一万。
これでは戦いどころではなく、篭城するしかありません。建築したての高尾城に篭りました。
「富樫政親」としては追討の許可を得ていましたから、幕府よりの援軍を期待したのです。

しかし、待望の援軍は「本願寺」勢力によって阻止されてたのです。
加賀から越前、近江という土地は「本願寺」勢力が強い土地なんですね。

こうして、高尾城は孤立無援なまま落城。
「富樫政親」は自刃し、加賀の守護大名はなんと「本願寺」一向一揆勢によって滅んでしまうのでした。
こうして、加賀は”百姓の持ちたる国”となっていたのです。

さて「本願寺」一向一揆勢はこの加賀だけでなく、西へ侵攻して越中(富山県)の一部をも支配下としていました。
さらに、方向転換をして、越前にも侵攻の気配を見せるのです。

これは、当時の将軍・後継問題で「足利義稙」を支持していた朝倉氏牽制のため、対立していた管領「細川政元」は親密な関係であった「本願寺」勢力を動かしたようなのです。

蓮如(※戦国シミュレーション風に書くと「本願寺兼寿」 【写真の人】)の子、加賀門徒衆を指揮する「本泉寺蓮悟(ほんせんじ・れんご)」は方々へ檄文を飛ばし、越中・加賀・越前から二十から三十万という大兵力を集合させるのです
隣国、加賀・富樫氏に続いて朝倉家も滅亡の大ピンチとなってしまいました。
こりゃー洒落になりませんよ。

⇒つづく 次回は「九頭龍川合戦の宗滴さま」


[関連記事]
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ジャンヌ・ダルクと蓮如

岩波書店

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※蓮如さんの関係本はややこしくて眠気を誘われそうなものが多いんですが…。
 ジャンヌ・ダルクがセットなら読める、かな。変わんないか。
 よく知りませんが、なんかやたらイメージはいいですよね、「ジャンヌ・ダルク」って。
 いかにも戦闘とは無縁な女の子だったのではないでしょうか?

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特別展 仏像 レポート (東京・上野)

2006年10月27日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
ちょっと色々計算違いがありまして、「朝倉宗滴」ブログの途中ですが、昨日に引き続きこちらをお送りします。
宗滴ファンの方、ごめんなさいね。
土日で行けるよう、金曜日に掲載としたかったのです。
ちょっと長いですが、↓ゆっくりどうぞ。


行ってきました仏像展。
上野国立博物館で、場所は前回「天台宗 特別展」と同じ平成館。
そのため、構成・順路はほぼ同じでした。
やっぱり、人が多かったですね。ほとんどが年齢高い方でしたよ。ええ。
と、そんな中にメモを片手にした怪しげな人影が一人。
…そう、その人こそが、仏像探して西東。”お寺さんぽニスト”の「ひでるさん」です。
その日はちょっと(ちょっとか?)変な人がうろうろしてたと思います。

さて、こちらには毎度のように音声ガイドの貸し出しがあり、一般向けと、家族向け(見方ガイド)の二種類あります。
一般向けの声はなんと「市原悦子」さんでした!
あるいは影から覗かれているかもしれませんね。(←んなこたぁねぇ)
こちらは貸し出しで五百円。高い?安い?

↓以下より展示の仏像を紹介していきます。
※数字は展示の番号。また、ひでるオススメ仏を太字、注目を太赤字にしました。


★第一章 壇像の世界
 ~ひでる命名「十一面ゾーン」

05十一面観音菩薩(山形・宝積院)
 頭上に如来が生えてるのがポイントだそうです。
 お腹がでっぷりで、まるで妊婦のよう。
 平安時代の国産品です。

07十一面観音菩薩(奈良・霊山寺)
 背中に光背があったらしい穴がありました。
 頭上に並んだ各面が大きく、頭でっかちでずっしり重そう。
 大きめなんですが、短足。
 
08聖観音(京都・醍醐寺)
 衣の表現が細かく美しい仏像です。
 凛々しいお顔のかっちょいー仏像。

★第二章 一木彫の世紀
 ~ひでる命名「巨大仏ゾーン」
 
09・10・11薬師如来・衆宝王菩薩・獅子吼菩薩(奈良・唐招提寺)
 手がないのがちょっと残念です。
 かの有名な「鑑真さん」の弟子が作成したらしい仏像です。
 (※お知らせ:鑑真さんネタは近日公開予定)
 彫りがうっすらで、ややのっぺり。

12持国・増長(奈良・唐招提寺)
 こちらもでっぷり。
 邪気の目がウルウルしていると思ったら、目だけ石を使っている様子でした。
 かわいそうねぇ。
 また、武器は落としてしまったのか、持っていませんでした。
 王子、武器は「そうび」しないといけませんぞ。 (※ドラクエ)

13楊柳観音菩薩(奈良・大安寺)
 口を開いてやや釣り目でしたから、憤怒相にも見えます。
 まるで「馬頭観音」のようで、珍しいです。

16十一面観音菩薩(奈良・薬師寺)
 髪が長いロン毛仏像です。こんなん見たことありません。
 顔が崩れているのがちょっと残念。
 女性っぽいお顔だったのか、見たかったですね。

17弥勒如来(奈良・東大寺)
 でたー、触地印(降魔印)!!
 写真では見てましたが、実物は結構小さめで驚きました。
 床の間に飾りたくなるような、かわいい感じですよ。
 そのお姿はまるで漫才師のようです。
 「まぁまぁ、寄ってきなはれ」
 みたいな。耳は大きめ。

19菩薩坐像(大阪・慶端寺)
 座っているのは珍しい…よね?ね?
 左手は何か持っていたらしいですが不明。
 ちょっと厳しめなお顔は、まるでウルトラマンAのよう。 

20如意輪観音(京都・願徳寺)
 メインとされているだけあって、中央で別格扱いでした。
 京都で見ましたが、今回は間近で見られて感激です。
 相変わらずの凛々しいお顔でステキ。
 そのまま動き出しそうですよ。

22薬師如来(奈良・元興寺)
 頭が小さく、身体がデカイです。
 肩幅もやったら広く、まるでラグビー選手。
 そうですね、こちらはウルトラマンAの二十一話「天女の幻を見た!」の「アプラサール」みたい。
 …知ってる?

~ひでる命名「地蔵ゾーン」

27地蔵菩薩(奈良・融念寺)
 右手で衣をつまむ、珍しいポーズな仏像。こんなん滅多にないでしょう。
 細身でひょろりとしているので、羅漢像のようです。
 顔もリアルでした。

34四天王像(広島・古保利薬師堂)
 手が無いのでどなたか不明。
 片方の像は歯が出ていて、ちょっとユニークなお顔。
 南米とかの神様みたい。

★第三章 鉈彫(なたぼり)
~ひでる命名「鉈彫ゾーン」

36男神坐像(富山・二上射水神社)
 誰かモデルいそうな雰囲気。
 大雑把さは作りかけみたいな風情です。
 あるいは別に飾りとかつけるものなんでしょうか?

39十一面観音菩薩(神奈川・弘明寺)
 ノミの目がはっきりとして、ミイラ男のよう。(←それが鉈彫です)
 やはり、どうひいき目に見ても異様な雰囲気。
 電人ザボーガーみたいよ。
 
41毘沙門天(岩手・藤里智福愛宕神社)
 征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)」をモデル(あるいはそのもの)にしたと言われる。
 下に踏みつけられた人がやや気の毒な像です。
 お腹でっぷり。

42宝誌和尚像(京都・西往寺)
 でーたー脱皮仏です!
 これ見れば後は何もいりません!!
 えっとね、自分の皮を剥いだら、中から「十一面観音」が出たという…。(←まじスか?!)
 子供見たら泣き出しそうです。子供のひでるさんなら大泣きでしょう。
 正面から見ていると、なんだか目が疲れたように錯覚します。 
 オススメ!!

★第四章 円空と木喰 
~ひでる命名「円空・木喰ゾーン」

43・44・45十一面観音・善女龍王・善財童子(岐阜・高賀神社)※円空作
 この三体を重ねると、そのまま一本の丸太となるらしい、トランスフォーマー仏像。 
 そのため、トーテムポールのようでもの凄く特殊。
 スゲェ。

※円空さん作の仏像は素材の形を活かしているようで、土産物で売ってそうな風情です。

59・60・61・62十王・葬頭河婆・白鬼・木喰(兵庫・東光寺)※木喰作
 ここは裁判になっているんですね。
 まさに民芸品という感じで、笑顔がステキ。
 ずらりと並んだ光景は間違い探しのよう。
 デフォルメされており、SDガンダムみたいでした。

※木喰さん作の仏像はチェスの駒みたいなつくり。ゲームができそうです。


…と、ずらりと書きましたが、だいたいこんな感じでした。
お線香でもあればいいんですが、展示物が木製の古いものであるため、そんなような香りが充満しています。
苦手な方は注意して下さい。
今回も記念本が売られてました。
大きな写真と解説があるものの、ちょっとデカすぎ。…邪魔そうね。
一冊二千五百円だって。買いますか?



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日本仏像事典

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※うかれてたんで思わず買ってしまいましたー。
(…って言うか、出口で目に入っちゃったのよ)
 良いですよ、コレ。
 うふふ…。


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腹びれなど盗まれる 墨俣一夜城 (お寺さんぽニュース)

2006年10月26日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
えー、ブログの途中ですがニュースです。
やっぱり「ニュースは熱いうちに叩け!」ということで、ちょっとこちらをお送り致します。
「朝倉宗滴」ファンの方、ごめんなさいね。

こんにちは「お寺さんぽニュース」の時間です。
さっそくですが、こちら↓の記事をどうぞ。


●しゃちほこ:雄の腹びれなど盗まれる 岐阜・墨俣一夜城 2006年10月25日[毎日新聞]

 23日午後10時20分ごろ、岐阜県大垣市墨俣町の市営「墨俣一夜城歴史資料館」で異常通報があり、警備員が110番した。
県警大垣署員が駆けつけたところ、館内の展示ケースが壊され、純金(24金)の「金のしゃちほこ」のミニチュアの雌雄一対(高さ24.5センチ、800万円相当)のうち、雄の腹びれなどが盗まれていた。ミニチュアは、02年3月に一対が丸ごと盗まれており、現在展示されているのは翌年3月に設置された二代目。同署は窃盗事件として捜査している。

 調べでは、資料館1階の正面玄関の南京錠付きの鉄製かんぬきが壊され、玄関奥の展示ケース(縦約80センチ、横約1・2メートル)は、ガラス扉の右下がバールのようなものでこじ開けられていた。犯人はここから手を差し込んだとみられ、雄の腹びれ1枚のほか、背びれや胸びれ、胴体の一部の純金板(厚さ0.2ミリ)がはぎ取られていた。被害総額は約30万円。

 前回の事件(未解決)では、ケースのガラス扉が割られ、ミニチュアがそのまま盗まれた。事件後、扉は強化ガラスになっており、今回は割れなかったらしい。他の展示物は無事だった。23日は休館日で、事件当時は無人だった。杉原重明館長は「二度と被害に遭わないよう気をつけていただけに残念。今後、展示方法も考えなくては」と話した。【子林光和】
---------------------------------- 。。。


えっと、まず基礎知識を。
「墨俣一夜城」についてです。
あれだけ有名な「織田信長」の主要な合戦・攻略戦で、唯一不確かなのが美濃・斎藤攻め。
とりあえず、だいたいのあらましを。

美濃に橋頭堡(きょうとうほ:足がかり)が欲しかった信長は、墨俣の地に付城を築くよう命じます。
重臣らが次々と失敗する中、末席のそのまた外にいた「木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)」がすすすと進み出て、この作戦を引き受けます。
藤吉郎は地元の豪族「蜂須賀小六」や「前野長康」らの協力を得て、奇想天外な奇策によって成功させるのでした。
これで士気がそがれた斎藤勢は「美濃三人衆」ら有力者の裏切りもあって、総攻撃の織田勢に対抗することもできず、居城「稲葉山城」を明け渡すのでした……。
おしまい。

こんなんですかね。
ここで登場しているのが、今回ピックアップの墨俣一夜城です。
↓こんな感じだったようなのです。

①美濃より木材を調達してある程度加工、川へ流す → ②それを下流で受け取り、急いで組み立てる → ③プレハブのように組み立て、紙を張り付けて壁にする → ④すると、遠くからは城が一夜にして完成したように見えるのです! 
(※内部ではまだ造ってるのね)

これに対し、おまけで「小田原攻め」で秀吉が築いた一夜城。
北条方は仰天し、士気が大いに下がったようなのです。

①山の木々の後方に城を建築 → ②完成したら前の木を切り倒す → ③すると、遠くからは城が一夜にして完成したように見えるのです!

と、まぁ小田原の「石垣山一夜城」は城址が残っていて確かなんですが、墨俣の一夜城はもしかしたら創作の話で、”史実ではないかもしれない”のでした。
墨俣の地に何かしらあったのは確かなようですが、
①秀吉が建てた。
②画期的な方法で建てた。
…などは本当かどうか不明。ついでに斎藤氏がどう敗れたのかも不明。
わかんないことだらけ、ですね。
そんなん実はなかったりして(笑)
うふふ…。

えっと、話を戻しまして。
一夜城はあったかどうか不確かなものだ、と。
おまけに、現在建っているそれは三層天守閣のそりゃー立派なものだそうなんです。
しかし、↑先に書いたように、あったとしても砦程度の簡素なものだったの。
ついでに、しゃちほこは二つで「一億円」とかなんとか。

前にテレビでやってました。
岐阜は裏金で揉めているというのに、無駄遣いもすごいよーって。
あちこち問題がありありですね。

まぁ、資料館はいいんですよ。ひでるさんも見たいですし、一応天下人の秀吉関係ですし。
百歩譲って、見当違いの城建てるのもいいですよ。

…でも、しゃちほこに一億もかけたり、不要なまで豪華絢爛なものにする必要はないでしょう。
それに、まぁた盗まれたんでしょ?
前回の反省がまったく活かされて無いじゃない。
せいぜい、二度あることは三度ある、にならぬよう。
なむなむ。


[お寺さんぽニュース・過去記事]
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 ああ、岐阜へ行きたいなー。


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謀反計画を退けた宗滴さま (朝倉宗滴)2

2006年10月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。

前回は朝倉家の説明で終わってしまいました。
ちなみに、系図を書いたりしましたが、見る本によっては違ってましたね。
…鵜呑みで信用しないように(笑)
さて、今回からが本編です。


■文明九年(1477) [宗滴誕生]

「朝倉宗滴」こと教景は七代「英林孝景」の末子として誕生しました。
名前から察するに、関東へ出陣して「足利持氏」を、結城合戦では「結城氏朝」を討って活躍した、五代「教景」にあやかったものではないか、と思います。
わかんないけど。
兄の八代「氏景」とは、なんと二十八歳という年齢差でした。
もはや親子ですね。
ちなみに、宗滴は父「英林孝景」四十九歳の時の子で、死去の際はまだ四歳だったのです。

切れ者で下克上に成功した父「英林孝景」の後を継いだ八代「朝倉氏景」
美濃・守護代「斎藤妙純」の調停を受け入れ、守護職を名目だけ主家にあたる「斯波義廉」の子に継がせます。
また「平泉寺」「豊原寺」など国内の仏教勢力と結んでその勢力を増強。
こうして、いまだ根強く抵抗する旧勢力らを抑え、越前国の実質的な支配を強めることに成功しています。
しかし、そんな氏景も文明十八年(1486)に三十六歳で死去。
嫡男「朝倉貞景」が後を継ぐのです。
この頃、宗滴はようやく九歳。


■文亀三年(1503) [朝倉家の内紛]

長々説明してきましたが、宗滴の名が歴史の表舞台に登場するのはこの時です。
二十六歳となっていた宗滴。
おそらく、甥・貞景に従って、各地の合戦にて経験を積んでいたと思われます。

そんな宗滴の兄(※英林孝景の三男)には「朝倉景総(かげふさ)」という困った人がおりました。
景総は側室の子であったため、後から生まれた正妻の子教景(四男)の下座に置かれてしまうのです。
これを不服として、四男・教景を殺害してしまいます。この事件はどうにか許されるものの、結局は居づらくなったのか出奔し、京の管領家「細川政元」に仕えています。
一族の問題児ですね。
この景総は八代「朝倉氏景」の危機でも旧勢力側につくなど、度々敵意を露にしておりました。

さらにもう一人。
「英林孝景」の弟には、小天狗と言われた勇士「朝倉景冬」いました。
その父の後を継いだ子の「朝倉景豊」は、敦賀郡を領する主力部隊の一人です。この人の正妻が、なんと「朝倉景総」の娘だったんですね。
嫌な予感がするでしょう?
さらに、景豊の姉妹は宗滴ほか、あちこちの朝倉一族に嫁いでいたのです。

…これを見逃す景総ではありません。
「朝倉景総」は敦賀郡に勢力を持つ「朝倉景豊」、宗滴を含めた一族を誘い、主家に対して謀反を持ちかけるのです。
景豊の妹を妻としていた宗滴もこちらの計画に呼び出されていました。

武田家にて兄「飯富虎昌」の謀反計画を弟「山県昌景」が「武田晴信」へ密告。織田家では弟「織田信行」の謀反を「柴田勝家」が「織田信長」へ密告するなどの例があるように、主家を重んじる宗滴はこれを直ちに当主「朝倉貞景」へ告げるのです

驚いた貞景はすぐさま数千の軍勢を率いて、景豊の敦賀城を包囲。
救出に向かった景総の到着を待たずに落城、自刃するのです。
この功によって、宗滴は敦賀を領する朝倉勢の主戦力となるのでした。
なお翌年、侵攻してきた「朝倉景総」は迎え撃った宗滴によって敗退しています。

この一件によって、宗滴の名は大いに高まることとなるのでした。

⇒つづく 次回は「混乱の加賀と宗滴さま」

[関連記事]
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)


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もったいない―常識への謀反

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※謀反つながりで。
 もったいない、と思って色々くだらんもの(瓶とか紙袋とか)をためる、ひでるさんです。
 …無駄だよね。

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越前の旧家朝倉氏と宗滴さま (朝倉宗滴)1

2006年10月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。

えー、この方知ってますか?どうですか?
地元の人(福井県)の人か、戦国好きな人ならたぶん知っていると思うんですが。
まぁ、順に説明していきますんで、お付き合い下さい。


さて、いきなりですが、朝倉家ってややこしいんです。
相模・北条家は「氏~」という名前が多いウジウジ一族でしたが、こちら朝倉家は「景~」の名前が多い、カゲカゲ一族なのですね。
さらに同名の人が非常に多く、これから紹介する宗滴こと「教景」さんは五代・教景、七代・英林孝景の四男、教景が同じ。
「孝景」という名では、七代・英林孝景、十代・宗淳孝景の二人。
これに、一時的な名乗りも入れると、さらに二、三人増えるのです。
……もう、ぱっと見程度であると、誰が誰やら(笑)
実にややこしいですね。


さて、歴史があるだけ一族やら同名やらが多い朝倉家。
もともとは日下部(くさかべ)氏と言い、平安時代の末頃に「朝倉」を名乗ったようです。
かなり古く、ちゃんとした家柄なんですね。
源平合戦ではうっかり平家方について、没落。
しかし、室町時代には判断誤らず「足利尊氏」に味方し、管領家の斯波氏に仕えて北陸「新田義貞」勢を破るなど活躍します。
その功によって、越前の一部を領地として与えられました。
この頃が五代「朝倉教景」の時代。

その孫、七代「朝倉孝景」こと「英林孝景(えいりん・たかかげ)」はなかなかの切れ者で、主家・斯波氏の内乱に乗じて、その地位を徐々に高めていました。
勃発した「応仁の乱」では、当初は西軍「山名宗全」側にて参戦。
しかし、東軍「細川勝元(※写真)」に”越前国・守護の地位”を土産に誘われると、それに応じて東軍へ寝返っています
このように、多少卑怯ではありますが、実力によって下克上に成功した人なんですね。

後に、臣下筋にあたる「織田信長」(※斯波氏守護代、その家老出身)の下に立つことを嫌がって、十一代「義景」は滅亡の道を突き進むこととなるのですが、それはまた別の話。
今回の主役「朝倉宗滴」は「応仁の乱」にて重要な役割を果たしたこの「英林孝景」の八男なのでした。


 ★ ややこしい朝倉家 ・ 系図 [略] ★ (-:兄弟 ↓:子)
 
 6 朝倉家景
     ↓
 7 朝倉孝景(英林孝景) - 経景(大野)  - 景冬(敦賀) → 景豊
     ↓                ↓
     ↓              景職 → 尹景(景隆) → 景健
     ↓
 8 朝倉氏景 - 景総 - 教景 - 教景(宗滴) 
     ↓                     ↓
 9 朝倉貞景                景紀(養子)
     ↓
10 朝倉孝景(宗淳孝景) - 景高 - 景紀(※宗滴・養子) 
     ↓              ↓
11 朝倉義景           景鏡


※この後いっぱい名前でてきますんで、分かんなくなった際にはコチラご確認下さい。
 だいたいこんな感じでいいはずです。(左の数字は代々の当主)


⇒つづく 次回は「謀反計画を退けた宗滴さま」

[関連記事]
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)


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戦国合戦事典―応仁の乱から大坂夏の陣まで

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 細かい合戦まで掲載しているので、非常に役立ちます。
 戦国ブログを書きたい人に参考書類としてオススメ。


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「インド洋大津波」の世界援助額 (ちょっとイイ話3)

2006年10月23日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…寺でも仏像でもないんですが…あ、一応歴史にはひっかかるかな。
また「お寺さんぽニュース」でもないのでイイ話くくりで。
とりあえず見て驚いた記事をご紹介。

ちょっとネットで↓こんな記事を見つけたんですよ。
以下は要約です。どうぞ。
※記事下から読んでも内容理解できますんで、面倒な方はそちらからどうぞ


●インド洋大津波に対するDAC諸国の政府援助額 2006年10月18日収録[社会実情データ図録]

23万人の死者・行方不明者を出した2004年12月26日のインド洋大津波の被害に対しては、世界中からの援助、支援が寄せられた。
インド洋大津波に対する先例のない人道主義的な反響に促されて、各国政府、国際機関、個人、慈善団体、企業は、被災諸国に対して136億ドルの援助を表明した。
そのうち、53億ドルはOECD諸国の政府によるものであり、それ以上がOECD諸国の民間の市民から寄せられた。

援助国政府と欧州委員会は緊急援助に17億ドル、2009年までの長期的な復興に19億ドルを約束(約定)した。
緊急援助の90%以上の約16億ドルは災害後9ヶ月間に実際に支出された。
復興には、4.73億ドルが支出されたが、残り14億ドルが約定されており、今後何年かで支出されていく途上にある。
これまで約定された資金の60%以上はインドネシアとスリランカ向けである。

各国の援助額を、支援表明額、交換公文ベース(約定額)、支出実額に分けてみてみると(被災後9ヶ月間)、支援表明額と約定額は、米国が断然トップであるが、支出実額は、米国2.8億ドルの約2倍の5.4億ドルとなっており、世界最大である。
同じアジアで起こった大災害ということから早めの支出に努力したといえる。

日本の援助の特徴は、マスコミ等に大きく報道される支援表明額について、欧米の多くの国では、実際の約定額が下回っているのに対して、両者が逆になっている点にあり、さらに被災国にとっては有り難い被災後直後の支出実額が大きい点にある。
実質的で誠実な対応を日本政府はとったといえるが、逆に、援助が日本にとっては最大の外交手段として重要だとすれば、欧米に比して、宣伝下手と言わざるを得ない面もあると思われる。

⇒記事(見やすいグラフがありますよ) : [社会実情データ図録]
---------------------------------- 。。。


と、まぁこんな感じのようなんですよ。
文だと訳分からんと思うので、↓以下に主要国の数字を書いておきます。(※単位百万ドル)
ちなみに、上のリンク先にはグラフもありますんで、より見やすいと思います。
興味もたれた方はどうぞ。

■アメリカ
支援表明額 902
   約定額 792
  支出実額 277 (34.9%)

日本
支援表明額 499
   約定額 601
  支出実額 539 (89.6%)

■ドイツ
支援表明額 634
   約定額 313
  支出実額  82 (26.1%)

■EU
支援表明額 600
   約定額 311
  支出実額 135 (43.4%)

■フランス
支援表明額 444
   約定額 243
  支出実額 109 (44.8%)

日本人ってやっぱりいいですよね。物事に真面目で誠実で。
こうした比較数字を見ると、それを感じます。
どうですか、ちゃんと払っているの日本だけですよ。
アメリカはなんなんですか!?口ばっかですか!?

もう一つ記事に書かれていた、「宣伝下手」ってのは確かに残念です。でも、やたら口達者でしたたかな日本より、そんな”らしい気質”のが好ましく感じるのは私も日本人だからでしょうか?
せめて被害に遭われた人に、少しでもその気持ちが届けばいいと思います。

テレビ「奇跡体験!アンビリバボー」で取り上げられていたので、ご存知の方も多いとは思いますが、トルコとの話がありますよね。
⇒ 95年目の友情 彼等が日本を愛する理由(2003年08月21日放送)

昔から、困った人に対して親身に助ける、助けようと思う素晴らしい心を日本人は持っています。
この「インド洋大津波」でも、なんとなくそれが感じられました。
こういった事は続けていきたいですよね。



[関連記事] 【ちょっとイイ話特集】
⇒ 日本人、まだまだ捨てたもんじゃない!
⇒ ランダエタ選手のメッセージ
⇒ ペリリュー島の戦い (大東亜戦争)
⇒ 終戦三日後の攻防 「占守島の戦い」
⇒ 八杉康夫さんの言葉 (戦艦大和 元乗組員)
⇒ 日本青年諸君に告げる (東條英機・遺言)


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帰らざる日本人―台湾人として世界史から見ても日本の台湾統治は政策として上々だったと思います

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※日本の文化、日本人に疑問を持っている若い人に読んでほしい一冊です。
「日本はつまらない」「あきた」
 …そんな事を言っている方々。
 どれだけ日本のことを知っているのか、考えてみて下さい。
 はっきり言って外国人の方がよほど日本を理解し、興味を持っていると思います。


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国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (京都・広隆寺)

2006年10月22日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は広隆寺(こうりゅうじ)の人寄せパンダ…失礼、メインの「国宝・弥勒菩薩半跏思惟像」です。


とりあえず旅行へ行った際に「弥勒菩薩半跏思惟像みろくぼさつ・はんか・しゆい・ぞう)」だけ覚えておけば、それを口に出すだけでなんだか凄く知っている風に見えるでしょう。たぶん。
さて、その言葉を分解・解析してみましょう。


■弥勒菩薩(みろくぼさつ)
 弥勒如来は前にこのブログでやりました。
 菩薩、がお尻にくっつくと、弥勒さんが後に如来となるため、修行しているお姿になるのです。

■半跏(はんか)
 仏像講座「座り方編」でやりました。
 半分座ったような形を「半跏坐」と言いますが、そのうちで片足を踏み下げた形が「半跏踏下(はんかふみさげ)」と言います。
 広隆寺の弥勒菩薩さんはこの踏下スタイルです。

■思惟(しゆい)
 思いはからうこと。考えること。分別すること。思考。しい。[goo国語辞典]
 まぁ、ポーズから言葉のそのまんまですね。

■像(ぞう)
 陸の哺乳類では最大の大きさを誇る鼻の長い……って、それはゾウ違い。
 こんなんわざわざ説明するまでもないですよね。


通称は「宝冠弥勒」です。
国内では最も古く美しいとされ、またトップクラスに有名な仏像でしょう。
永遠の微笑ってー文句は「モナリザ」のそれと似てますね。

唇はやや微笑んでいるように見え、細い目と通った鼻筋。
さらになでやかな身体の線が非常に美しく、右手は指先まで細かく繊細に作られています。

ちなみに、この右手薬指(※親指とくっついて円になっている指)ですが、現在は復元されたものなのです。
過去に京都大学の学生が像に触れて右手薬指を折るという、トンデモな事件があったのでした。

美しかったのでつい触ってしまった

…ってのは、現ヤンキース松井選手の連続敬遠事件と同じで、結果的にはその名声を高める要素となったような気もします。
だからと言って、
絶対に触らないように
ひでるさんも容赦しませんよ。

この弥勒様、現在はすっかり木造そのままな外見ですが、元々は金箔だったようなのです。
金でキラキラしてるとあの深い味わいは薄れてしまうでしょうけどね(笑)

ちなみに、広隆寺にはもう一つ国宝・弥勒菩薩半跏像(泣き弥勒)がありますが、こちらのがやや小さめです。


[住所] 広隆寺 霊宝殿 京都市右京区太秦峰岡町

[関連記事]
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 座り方編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 五智如来石像
⇒ お釈迦様・釈迦如来 (
⇒ 大日如来
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来
⇒ 薬師如来 蛸薬師
⇒ 弥勒如来


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魅惑の仏像 弥勒菩薩―京都・広隆寺

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※本日はこちら。
 欲しいけど、お金は出したくない系統の本です(笑)
 ひでるさんも横で同じポーズで座ってみたいですね。W弥勒。


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広隆寺 (京都)

2006年10月21日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は右京区は太秦(うずまさ)の広隆寺(こうりゅうじ)です。


えー、たまに有名どころなお寺を紹介しないと、誰にも見てもらえなくなってしまうので、こちらをば。

「広隆寺」はひでるさん京都に住んでいた時、真っ先に行ったお寺なんですよ。
楽しかった京都での日々が思い出されます。
…よかったなぁ、京都。
あつ・さむかったですけれど。


そんなこんなで「広隆寺」
建立は推古天皇の治めていた十一年(603)頃です。
(※日本の年号は「大化元年(645)」から始まるので、その前はないのでした。当然ながら、大化の改新の時)
山城(京都)では最古の寺院として知られ、法隆寺・四天王寺らと共に「聖徳太子」建立の「日本七大寺」の一つとなっています。
歴史が違いますね。

他にも、「峰岡寺」「秦寺」「秦公寺」「葛野寺」「太秦寺」なんて呼ばれていたんだって。
古いだけあって名前もいっぱいです。
なにしろ、縁起について書かれている書物が「日本書紀」ですからね。格が違います。

渡来人の豪族「秦河勝(はたのかわかつ)」が過去の一万円札「聖徳太子」より仏像を賜り、それを本尊として建立したのが「広隆寺」なのです。
でね、譲り受けたご本尊というのが、かの有名な「国宝・弥勒菩薩半跏思惟像」なのでした。
秦氏と言えば、前に当ブログ紹介した神奈川県秦野市の「宝蓮寺」でも登場しましたね。
カイコ機織りの技術から農耕など、産業発達に貢献していた一族です。

実際は場所が現在の所でなかったとか、「峰岡寺」と「広隆寺」がくっついたとか、「推古天皇」・「聖徳太子」の供養のために建立されたとか、諸説あるようです。
…どれもイマイチ信憑性に欠けるそうですが、ミステリアスですね。

その後、弘仁九年(818)の火災で焼失。当時の建物はこの時に失われております。残念。
秦氏の一族である道昌はこちらの再興に尽力し、堂宇や仏像の復興に努めました。
それが承和三年(836)のこと。中興の祖と言われております。
更に、久安六年(1150)にも炎上・再興と、度々の災害に耐えつつ、現在まで残ったようです。
(※記述なかったですが、毎度お馴染み「応仁の乱」では無事だったんですかね)

今の講堂は永万元年(1165)の再興時のもので、久安六年の災害から復興された時のもの。
で、当然ながら重文。
俗に赤堂と呼ばれ、中央に「国宝・阿弥陀如来坐像」を安置しております。
ほか、注目の「霊宝殿」には飛鳥から藤原、鎌倉などの国宝・重文がずらりと並ぶ、大変迫力あるものです。

ひでるさんは京都から去る時もこちらを訪ねました。
何度見ても飽きない、いいお寺です。
映画村も近いですし、ぜひ旅行などで行ってみて下さいな。


[住所] 広隆寺 京都市右京区太秦峰岡町

[関連記事]
⇒ 宝蓮寺 (神奈川県・秦野市)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     



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国宝広隆寺の仏像 (下巻9)

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※こんな本(←失礼だよ)が9巻もあるんですよ!!
「リップス/船堀斉晃」だって全4巻なのに……(←なぜに比較対象がリップス?)



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続・室町時代 地方政治編 (歴史さんぽ)

2006年10月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”これが分かれば戦国時代が百倍面白くなる!”ということで「続・室町時代」をば。
中央政治編に続いて地方政治編です。


えっとね、完璧に理解していないまま、メモ書きのようなんで大変申し訳ないですが、だいたいこんなんなはずです。
これで戦国時代ってー特殊な時代が少しでも見えてくると思います。
たぶん。
ではどうぞ↓


■奥州管領(おうしゅうかんれい)
 守護に代わって設置された、地方官です。陸奥(青森、岩手、宮城、福島)あたりがその対象となっていた様子。
 当初は斯波氏が任ぜられましたが、後に大崎氏が世襲。
 後に大崎氏が弱体化すると、伊達氏傘下とされその世襲となっています。
 なお、出羽(秋田、山形)に赴いて統治した斯波氏は「羽州探題」と呼ばれ、後の最上氏の祖となるのでした。

 
■関東公方(かんとうくぼう)
 または鎌倉公方と言います。関東の出先機関でした。
 こちらは以前やりましたので省略。↓リンクはっておきましたんで、そっちみて下さいね。

・関東管領(かんとうかんれい)
 関東公方の補佐役。上杉氏が世襲。後に「上杉謙信」「滝川一益」が任命。
 こちらも以前やりましたので省略。


■九州探題(きゅうしゅうたんだい)
 響きだけだと、キャンパスライフな雰囲気ですね。
 または鎮西探題(ちんざいたんだい)と言います。
 九州統治のために設置された役職です。貿易も役目の一つ。
 後に大友宗麟が任命されますが、戦国期にはほぼ名誉職でした。

 
■守護大名(しゅごだいみょう)
 将軍が任命権を持つ、国の支配者です。
 鎌倉期の「守護」は軍事・警察権程度でした。
 それが室町時代になると、さらに司法権、土地所有、年貢・特別税などの徴収権までも持つようになるのでした。
 鎌倉のそれと区別するため「守護大名」と言うのです。
 国内政治を安定させる軍事費調達などの目的で、時代と共に権利が付加されていきました。
 …これがそれぞれの領国支配を強め、戦国大名へと発展することとなるのです。
 甲斐・武田氏、駿河・今川氏、美濃・土岐氏、近江・六角氏、長門・大内氏、豊後・大友氏、薩摩・島津氏など。

・守護代(しゅごだい)
 三管領・四職など、複数国を有する有力守護大名。
 京にいたり、他の土地にいたりと不在なことが多かったため、その代理として任命されました。
 室町時代の後期には実力を蓄え、名目だけの「守護大名」に代わって独立する者が出現するのです。(これが下克上ですね)
 越後・長尾氏、美濃・斎藤氏(道三の前)、尾張・織田氏(信長の織田家は守護代織田家の家老です)、摂津・三好氏、出雲・尼子氏、長門・陶氏、越前・朝倉氏(応仁の乱後は守護大名へ発展)など。

・国人(こくじん)
 地頭、名主、豪族などとも呼ばれる、地方国の有力者です。国の開発を直接行っていた武士たちですね。
 「守護大名」は彼らを支配することで領国支配を強めていきました。(被官化と言います)
 …が、室町時代の後期になると、直接支配で本当の実力を持っていた国人層が名目だけの「守護大名」に代わって独立するのです。(これも下克上ですね)
 陸奥・津軽氏、信濃・村上氏、近江・浅井氏、大和・筒井氏、土佐・長宗我部氏、安芸・毛利氏、肥前・龍造寺氏など。


※おまけ
 京でなんらかの職に就いていたらしい「北条早雲」
 商人の出身と言われる「斎藤道三」
 三好氏の右筆だった「松永久秀」
 単なる農民の出身「豊臣秀吉」
 危険な坊さん集団「本願寺一派」
 …など、彼らは「守護代」でも「国人」でもない、下克上の典型的人物ですね。



[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


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中世動乱期に生きる―一揆・商人・侍・大名

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 ちょっと難しそうですけど…読めるかな?
 


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紫いもソフトクリーム (神奈川・鎌倉)

2006年10月19日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ(そんなのない)神奈川県は過去の日本の中心地、鎌倉「紫イモソフト」です。

なんだか京都へ行ってから、雨の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」とラブラブなひでるさん。
(※たんなる雨男とも言う)
過去の食べ歩きシリーズでは、何故か決まって雨の話題とセットでした。
でも、今回は遠出でもないですし、大丈夫だろう…と思っていたら。

「天気  (大笑)」

…冗談みたいですが、前日まで、さらに鎌倉到着までは雨ではなかったんです。
がしかし、駅を出たら雨。出たらより雨足が強くなってやんの。
ここまで好かれるのも困ったもんです。
時代が邪馬台国な頃であれば、卑弥呼みたいに活躍できるかもしれません(笑)

そんな雨の女神「みずはちゃん」とランデブーなひでるさんの目に飛び込んできたのが↑それ(※写真参照)

紫いもソフト!?

こりゃー食べないわけにはいかんでしょー…ということで、食べ歩きの達人(ウソ)ひでるさんは傘を片手に注文してみることとしました。

なにしろ鎌倉名物ですからね。
食べない訳にはいきません。

とりあえず、紫の色は鮮やかで見た目に楽しいです。
味は薄味で、くどい甘さはなく、いい感じ。
そうですね、濃厚でないバニラ味っぽい。舌触りが心なしかおイモちっくでした。
よくわかんないけれど。

…と、そんなこんな考えるうちに食べ終わってました。
結局さして味がわかっておりませんね。
るるる。

【おすすめ★メーター】
■■■■□ 4Point …くどい甘さはなく、大人向けな感じ。


どうでしょうか?
とりあえず紫色した食べ物なんてこの世にコレくらいしかありません!
オススメです!!
…あ、茄子とかブドウとか結構あったか。紫芋も紫だね。
まぁいいや。
目指せ!グルメレポーター!!


[関連記事] ひでるグルメレポート特集
⇒ そうめん 仁和寺(京都)
⇒ ひやしあめ (神護寺・売店)
⇒ 続・ひやしあめ (柴又・題経寺周辺)
⇒ 八つ橋ソフト(京都・おたべ)
⇒ ゆばソフトクリーム (日光)
⇒ ずんだ抹茶ソフトクリーム (仙台・松島)


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紫の履歴書

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※今日のキーワードは「紫」
 と、いう訳で検索したら↑こんな本が。
 話題の「美輪明宏」さんですよ。


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天下の名姑「吉野太夫」 (京都・常照寺)

2006年10月18日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都北区、寂光山常照寺(じゃっこうざん・じょうしょうじ)ゆかりの寛永三名妓、天下随一の太夫と謳われた二代目「吉野太夫」について。


さて、いきなりですが、よく耳にする「太夫(たゆう)」ってなんなんでしょう?
 → 官許の遊女のうち、最高位(松の位)にある者への呼びかけ。またはその名の一部に用いる。
有名な「江戸吉原」など、江戸幕府が許可していた遊郭・遊女に授けられる、最高位の称号なんだって。
なんと、従五位ほどの教養だそうです。
こりゃー半端モンではありませんね。

さて、太夫の事前知識がついたところで、この「吉野太夫」さんのお話。
慶長十一年(1606)
江戸時代初期頃ですね。ちなみに、「関ヶ原合戦」が慶長五年(1600)のことです。
西国の武士・松田氏の娘として誕生します。
本名は「徳子」でした。
幼い頃に父を亡くした徳子は、京都嶋原(六条付近)の花街へ預けられます。
この「嶋原」は非常に文化度の高い花街で、嶋原の太夫は体を売らなかったようなのです。

さて、預けられた徳子は雑女の頃より凄まじいほどの美貌で目立ち、なんと十四歳の若さで太夫になっています。
嘘か本当か、この頃明国(中国)からラブレターが届いたとかなんとか。
…まるで芸能人ですよ。
スゴイいですね。
また、凄いのは美貌だけでなく、和歌、連歌、俳句は無論のこと、書、茶湯、囲碁、双六、琴、琵琶…などなど諸芸に優れ、全てが達人と言われるほどだったのです。
ドラクエ風に書くと「あそびにん レベル99」という感じでしょう。
まさに「才色兼備な女性」だったのですよ。
うっわー、会ってみたいですねー。

徳子こと「吉野太夫」は二十六歳頃、年下の夫で豪商の灰屋紹益(はいや・じょうえき)に身請されました。
紹益くんは京町衆では代表的な文化人で、やはり和歌や茶湯などに精通していたようです。
そのあたりで気が合ったのかもしれませんね。

当初は親の許しを得られず、紹益くんは吉野太夫の手を取って駆け落ちしました。
しかし、ひょんな偶然でその世話になった父は吉野太夫の立ち振る舞いに感服し、結局二人を許したそうです。
(※当然ながら、世話になった時は息子の相手とは知らない)
そりゃー、従五位に匹敵する最高位の称号持ってますから。
伊達ではありません。
まぁ、許すことになるでしょうよ。ええ。

そんなこんなで妻として幸せな日々を過ごした吉野太夫ですが、「佳人薄命」の言葉通り三十八歳の若さで没しています。

悲しみのあまり、紹益くんは吉野太夫の灰を飲み干し、
都をば花なき里となしにけり 吉野の死出の山にうつして
と詠んだそうです。

……あのぉ、灰なんて飲んだら体に悪いと思いますよ、紹益くん。
と言うか、飲んだらゲホゲホなって歌詠む余裕はないのではないかと…。
龍角散みたいなもんでしょ?たぶん。

さて、常照寺との関係ですが、吉野太夫はこちらの開祖である「日乾上人」に帰依していたんですね。
境内には、太夫が寄進した朱塗りの山門「吉野門」があります。
さらに、墓地には「吉野太夫」と夫「灰屋紹益」の墓もあります。
こちらには、今でも歌舞伎俳優や芸能人などが訪れているそうです。
毎年四月の第三日曜には「吉野太夫花供養」が行われているんだって。

…ちなみに、ひでるさんコチラへ行った時は十月でしたが、なんだかイベントやってましたよー。
撮影できる雰囲気でなかったので写真ありませんが、「吉野太夫」に扮した方がなんか飲んでたりなんだりしました。(←なんだりってなんだ)
大注目の「吉野太夫」役の方については…………………………発言控えさせて頂きます(笑)



[住所] 常照寺 京都市北区鷹峰北鷹峰町四五 

[関連記事]
⇒ 常照寺 (京都)


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吉野太夫・雲霧閻魔帳―吉川英治時代小説傑作選

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※小説がありましたので、興味ある方はどうぞ。
 ひでるさんは知識ありませんでしたが…かなり有名な人ですか?!


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続・室町時代 中央政治編 (歴史さんぽ)

2006年10月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”これが分かれば戦国時代が百倍面白くなる!”ということで「続・室町時代」をば。
とりあえず中央政治編です。

実はね、越前は朝倉氏のブログ書いている途中でひでるさん自身がよく分かってなかったので、再度調べ直したって訳。
テメェが最も理解していなかった、という(笑)
だって室町ってややこしいんだもん。
そんなこんなでどうぞ↓


■将軍(しょうぐん)
実は「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」の略でした。
武家が日本の政治をするにあたっての最高職です。
基本的には、各地に置く守護の任命権、そして政治機構を統括する役目。
御料所(直轄領のことですね)や商人、港、関所よりの収入があったようです。
室町時代は足利氏でした。
後に「徳川家康」が任命されることとなるのです。

・管領(かんりょう)
 将軍補佐です。
 昔は単なる秘書官だったのが、次第に政務を取り仕切るものになりました。
 いわゆる三管領(細川、斯波、畠山)の交代で任命だったんですが、「応仁の乱」後より細川家の独占となりました。
 足利将軍の権威失墜と共に消滅。
 
・侍所(さむらいどころ)
 軍事・警察。旧検非違使。平安京エイリアンです。
 所司(しょし)が統括するんですが、その所司はいわゆる四職家という有力守護大名が交代で任命されていました。
 その四家ってのが赤松、一色、山名、京極。
 戦国期になって全てが没落するという始末でした。
 こちらも消滅。

・政所(まんどころ)
 財政・領地に関する訴訟を管轄。

・問注所(もんちゅうじょ)
 訴訟処理。形式程度だった様子。

・評定衆(ひょうじょうしゅう)
 鎌倉時代、政治が合議制だった頃の名残りのようです。
 単なる栄誉職として存在した様子。
 この下が「引付衆」と言います。
 
・奉公衆(ほうこうしゅう)
 将軍直属の軍事部隊です。
 室町中期頃まではあちこちの戦で活躍した様子ですが後に解体。
 御供衆も同じ意味?
 
・相伴衆(しょうばんしゅう)
 本来は宴席などの際にお供をする人。
 管領家一族や有力守護大名に与えられ、栄誉職として存在しました。
 管領に次ぐ席次を与えられており、「朝倉孝景(宗淳)」などが与えられています。
 
おしまい。
中央政治とサブタイトルをつけたってことは…。



[関連記事] 室町時代セット
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


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図説・戦国合戦図屏風―決定版

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※コレどーですかー??
 ちょっと面白めな本を発見しました。
 店頭にあれば立ち読みしてみたいですねー。


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