のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は武田・北条の両将と激戦を交えながら、一歩も引かなかった名将「長野業正(ながの・なりまさ)」です。
ちょっと詳しい方なら誰もが知っているそのお名前。
ただ、一般的な知名度は低いのが実に残念なのですよ。
そんな訳で、あの「武田晴信」に手出しさせなかった名将「長野業正」についてお送りいたします。
六歌仙・三十六歌仙のひとり「在原業平」を祖先とする、といわれている長野氏。
関東管領・山内上杉氏「上杉憲政」の重臣として上野国「箕輪城」を居城としておりました。
上野国「箕輪城(群馬県箕郷町箕輪)」は関東三古城址のひとつとされる名城です。
(※ちなみに、残りの二つは武蔵・鉢形城と常陸・太田城)
こちらは自然の地形を巧く活かした、攻めるに難く、守るに易いという天嶮の要害。
さらに空堀や土塁を巧みな配置でめぐらせた堅城なのでした。
だいたい室町時代頃から長野氏の居城となったようで、付近に勢力を持っていた「長野業尚」が法峯寺付近にあった館を発展させ、それが「箕輪城」となったようです。
これには関東管領上杉氏の支援もあったらしく、自然その傘下へ入ったようなのでした。
時代は流れて戦国時代。
天文二十一年(1552)
山内上杉氏「上杉憲政」が関東制覇を目指す北条氏に追われて、本拠上野平井城を捨てて越後へ逃れると、業尚の孫、「長野憲業」の子である「長野業正」は西上野の勢力を併合。
関東管領再興のため、ここで武田・北条の勢力を食い止めるべく立ち上がったのでした。
もともと長野氏は周囲の豪族・国人のリーダー的存在だったようですが、ここで業正は周囲と積極的に婚姻関係を結び「箕輪衆」を強固なものとしております。
武勇に優れ、また落日の上杉家再興に尽くす義理堅い人物だった業正は武田勢の猛攻にも動じず、果敢に戦っていくのでした。
上野へ侵攻してきた武田勢をわずかな兵にて撃退する長野勢。
時には業正自身槍を振るって奮戦し、再三にわたってあの「武田晴信」率いる武田勢(※写真は武田二十四将です)を寄せ付けなかったのです。
また、永禄三年(1560)に「上杉謙信(※長尾景虎)」が主君「上杉憲政」を擁して関東に侵攻するとそれに呼応し、老体に鞭打って参陣。
この際には北条勢と矛を交え、やはり撃退・勝利しているのです。
「業正ある限り、上州には手が出せぬ」
あの「武田晴信」をして、そう言わしめたのでした。
晴信は業正の武勇を大いに警戒し、その存命中は手出しを控えていたようなのです…が、しかし。
⇒ つづく。次回は後編。
[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [前 中 後]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [1 2 3 4]
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⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [1 2 3 4]
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⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [前 中 後]
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※結局無駄な同族争いで衰退していった上杉家。
倒すべき相手だった「長尾景虎」が引き継ぐのも運命の皮肉。
本日は武田・北条の両将と激戦を交えながら、一歩も引かなかった名将「長野業正(ながの・なりまさ)」です。
ちょっと詳しい方なら誰もが知っているそのお名前。
ただ、一般的な知名度は低いのが実に残念なのですよ。
そんな訳で、あの「武田晴信」に手出しさせなかった名将「長野業正」についてお送りいたします。
六歌仙・三十六歌仙のひとり「在原業平」を祖先とする、といわれている長野氏。
関東管領・山内上杉氏「上杉憲政」の重臣として上野国「箕輪城」を居城としておりました。
上野国「箕輪城(群馬県箕郷町箕輪)」は関東三古城址のひとつとされる名城です。
(※ちなみに、残りの二つは武蔵・鉢形城と常陸・太田城)
こちらは自然の地形を巧く活かした、攻めるに難く、守るに易いという天嶮の要害。
さらに空堀や土塁を巧みな配置でめぐらせた堅城なのでした。
だいたい室町時代頃から長野氏の居城となったようで、付近に勢力を持っていた「長野業尚」が法峯寺付近にあった館を発展させ、それが「箕輪城」となったようです。
これには関東管領上杉氏の支援もあったらしく、自然その傘下へ入ったようなのでした。
時代は流れて戦国時代。
天文二十一年(1552)
山内上杉氏「上杉憲政」が関東制覇を目指す北条氏に追われて、本拠上野平井城を捨てて越後へ逃れると、業尚の孫、「長野憲業」の子である「長野業正」は西上野の勢力を併合。
関東管領再興のため、ここで武田・北条の勢力を食い止めるべく立ち上がったのでした。
もともと長野氏は周囲の豪族・国人のリーダー的存在だったようですが、ここで業正は周囲と積極的に婚姻関係を結び「箕輪衆」を強固なものとしております。
武勇に優れ、また落日の上杉家再興に尽くす義理堅い人物だった業正は武田勢の猛攻にも動じず、果敢に戦っていくのでした。
上野へ侵攻してきた武田勢をわずかな兵にて撃退する長野勢。
時には業正自身槍を振るって奮戦し、再三にわたってあの「武田晴信」率いる武田勢(※写真は武田二十四将です)を寄せ付けなかったのです。
また、永禄三年(1560)に「上杉謙信(※長尾景虎)」が主君「上杉憲政」を擁して関東に侵攻するとそれに呼応し、老体に鞭打って参陣。
この際には北条勢と矛を交え、やはり撃退・勝利しているのです。
「業正ある限り、上州には手が出せぬ」
あの「武田晴信」をして、そう言わしめたのでした。
晴信は業正の武勇を大いに警戒し、その存命中は手出しを控えていたようなのです…が、しかし。
⇒ つづく。次回は後編。
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