お寺さんぽ Ver.03

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勝手知ったる同僚対決 (末森城合戦・後編)

2007年11月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は北陸地方の「小牧合戦」と言われる、「前田利家(まえだ・としいえ)」と「佐々成政(さっさ・なりまさ)」の同僚対決「末森城合戦」です。

信長死後に急速に力をつけた「羽柴秀吉」
それに不満をもった次男「織田信雄」は「徳川家康」を誘って挙兵するのです。
ここで家康は各地の反対勢力を巻き込んで包囲作戦をとりますが、北陸でそれに呼応したのは「佐々成政」でした。
従来の仲の良さもあり、秀吉方へついた「前田利家(※写真)」
ここではその真価が問われようとしていたのです。


天正十二年(1584)
越中の「佐々成政」は小牧で兵をあげた家康に呼応し、「前田利家」の領国であった能登・加賀へと侵攻を開始します。
まず、五千の兵で国境を越えた佐々勢は、前田方の前線拠点「朝日山砦」を攻撃。
砦守備隊の「村井長頼(むらい・ながより)」は千五百程度の兵数でしたが、本体の到着まで良く防戦し、これを退けました。

続いて「佐々成政」は軍勢を整え、自ら一万五千という大軍を率いて、再び来襲するのです。
能登に攻め込んだ佐々勢は加賀と能登を繋ぐ交通の要所、末森城(すえもりじょう:石川県羽咋群押水町)を包囲します。
それに対する城兵は、本丸「奥村助右衛門永福(おくむら・すけうえもん・ながとみ)」、二の丸「千秋主殿助(せんしゅうとのものすけ)」、三の丸「土肥伊代守(どひ・いよのかみ)」といった精鋭部隊でした。
しかし、兵力としては小勢であり、大軍に囲まれて厳しい籠城戦を強いられるのです。

ちなみに、「前田利家」の正室、まつさんこと「芳春院」は日頃より貯蓄に精を出す夫を常々心配していました。
実際に佐々の大軍に攻撃されたこの時、
だから普段から兵を雇うよう言っていたのです。小判に槍を持たせて戦わせればいいではないですか?
…というような皮肉を言ったようです。
いいですね、まつさん

そうなんです。
若い頃は信長に従って”槍の又左”なんて異名をとった利家ですが、苦労したこと(※一時期織田家を追放されている)も影響したのでしょう、いつしか武勇一辺倒ではなく、算盤勘定もできる武将に成長していたのです。
ただ、まつさんに指摘されているように、ちょっと極端であったようなんですが(笑)

さて、「佐々成政」は坪井山に本陣を置き、攻撃を開始。
兵力に勝る佐々勢の攻撃は凄まじく、三の丸は守備隊「土肥伊代守」の討死と共に落ちました。
さらに、二の丸も攻略され、ついに本丸だけとなってしまったようなのです。
城内には悲壮感が漂っていました。
しかし、永福の妻は城内を巡回して死傷者を介抱するなど、必死に城兵を活気づけていたそうです。

「末森城苦戦」の報に接した利家は息子利長とともに三千ほどの兵で出陣。
浜づたいに進軍して、佐々勢の背後への迂回に成功。
その不意をつき、一気に攻めかかりました。
一方、末森城もそれに合わせて反撃を開始。
これに「佐々成政」は軍を二つに分けて抵抗するものの、挟撃された格好となった佐々勢は支えきれず、二千もの兵を失って敗走するのでした。
結果として「前田利家」は大勝利し、その名を大いに轟かせるのです。

なお、南の小牧合戦でも秀吉勢が勝利し、両者は和睦。
すると、「佐々成政」は冬の北アルプスを超えるという離れ業をやって、家康に再度挙兵するよう、説得に赴いています。これは皆様承知のように、無駄足に終わるのでした。

天正十三年(1585)
四国攻めが済んだ秀吉は、いまだに佐々勢の攻撃が続く北陸に十ヶ国の大軍を自ら率いて出陣。大規模な改修を加えていた富山城を見下ろす、呉服山へ布陣します。
その圧倒的な兵力に戦意を喪失した「佐々成政」は、遂に「織田信雄」を仲介して降伏するのでした。
こうして、北陸地方も秀吉の軍門に降ることとなるのでした。


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 …大河ドラマの混雑は終わっていると思うので、そろそろ行ってみたいですね。



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