お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

出陣する織田勢、がしかし… (手取川合戦)4

2008年02月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国時代を代表する対照的な二人、弱きを助け強きを挫く正義の軍神「上杉謙信」、時代の寵児、魔王「織田信長」が激突するという、歴史ファンが望んだ合戦こそが「手取川合戦」なのでした。

天正五年(1577)
前年に続いて再び出陣した「上杉謙信」は計略によって見事「七尾城」を開城。
難敵・畠山氏を打ち倒し、能登を支配下とするのでした…。

合戦には滅法強く、戦国最強軍団・武田勢相手に一歩も退かなかった軍神「上杉謙信」以下上杉家にはその独特な思想など一種のカリスマ性がありました。
真っ直ぐに義戦を仕掛けてくる謙信は、非常に厄介な敵であるのです。
そんな強敵、上杉勢進軍の報は信長にとって驚異であり、両国の国境間に位置していた畠山氏はまさに防波堤というべきものでした。
簡単に滅んでしまっては困るのです…が。

さて、落城前の七尾城を脱出した「長連龍」の援軍要請を受けた信長は、約二ヵ月ほどで家老「柴田勝家」ほか織田軍団の精鋭を集結させ、能登へと出陣するのです。

総勢五万という大軍勢には家老「柴田勝家」を筆頭に、「丹羽長秀」、「滝川一益」、「羽柴秀吉」というそうそうたる顔触れが揃っておりました。
また、先陣に遅れて、信長自らも出陣していたのです。
この陣立てでもわかるように、はっきり”強敵”という認識を持っていたのでした

織田の援軍が救援へと向かうその頃、前述したように「七尾城」は内乱によって落城しておったのです。
もう間に合わなかったんですねー。

ただし、その悲報は進軍する織田勢にまで届いておりませんでした。
さらに悪いことに、総大将に任命されていた「柴田勝家」、そして後の太閤「羽柴秀吉」は作戦の相違から揉めていたのです。

筆頭家老である勝家は作戦の全指揮を任されておりましたから、本来であればこれに従うのは当然でしょう。
しかし、この時の秀吉はよほど自信があったのか、勝家の意見にどうにも賛同できなかったか、激しく意見をぶつけた結果、勝手に撤退してしまうのでした。

出陣メンバーは豪華でありながらも信長という絶対者が不在であったため、統制からして怪しい寄せ集め部隊という風情だったのです。

ともかく、信長を欠いた先発部隊は内部に問題を抱えたまま進軍。
結果として、落城の知らせを受けたのは手取川の渡河後だったのでした。
当初の織田方の思惑としては、城を囲む上杉勢を内外から挟撃するというものだったでしょう。…たぶん。
それが既に落城しているのだから、矛先はまっすぐこちら向きになっているのです。

実際、七尾城を落城せしめた上杉勢は織田援軍の接近を確認すると、手取川近くの松任城へ入っておりました。
さすがは軍神、万全な迎撃体制を整えていたのです。

⇒ つづく。
  次回は「はねる謙信逃げる信長」(5/5)

[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [   
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [  ]
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>
⇒ 最強軍団を撃退した北信の雄 「村上義清」 <前編> <中編> <後編>


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


鎧飾り平飾五月人形よろい 1/4 上杉謙信公鎧(月光と日輪) ys-1431



このアイテムの詳細を見る

※こんなん見つけましたよ!
 真面目に欲しくないですか??…飾る場所はないのだけれど。

軍神vs堅城・七尾城 (手取川合戦)3

2008年02月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国時代を代表する対照的な二人、弱きを助け強きを挫く正義の軍神「上杉謙信」、時代の寵児、魔王「織田信長」が激突するという、歴史ファンが望んだ合戦こそが「手取川合戦」なのでした。

天正四年(1576)
将軍「足利義昭」の要請に応じた「上杉謙信」は打倒織田を目指してついに出陣。
越後から約二万といわれる大軍を動かした謙信は、越中の諸勢力を駆逐、能登ほか付近一帯を支配する名門・畠山氏と激突しておりました。
しかし、堅城と名高い「七尾城」に籠もった畠山勢はよく防戦し、上杉勢は一時撤退を余儀なくされてしまうのです…。


翌・天正五年(1577)
再び出陣した「上杉謙信」以下上杉勢は奪回されていた「熊木城」、「富木城」など諸城を再攻略し、再び「七尾城」を取り囲みます。

これを必死に防戦する重臣筆頭の「長続連」ですが、発生した疫病にて城兵が次々と倒れるという事態が発生。さらには、当主「春王丸」までもが疫病にかかり、なんと病死してしまうのでした。
(※多くの兵が入城したことによって疫病が発生したのだとか…あちゃー)
こうした危機に、続連はニ男「長連龍(ちょう・つらたつ)」を変装させ、城外への脱出を成功させました。
そう、これまで地道に誼を通じてきた織田家への援軍を求めることとしたのです。

一方「上杉謙信」は冷静でした。
犠牲の大きい力攻めを避け、重臣「遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)」らと密かに連絡を取り、内応を確約させたのです。
かねてより不満を募らせていた続光、「温水景隆」らの重臣はこの危機的状況を逆手にしてついに反発を開始。

実権を握る「長続連」を本丸付近にある自邸へと招き、これを謀殺。
さらに報せを聞いて駆けつけた嫡男「長綱連」を殺害したほか、長一族をことごとく皆殺しにするのでした。


こうして、難攻不落をもって知られた名城「七尾城」は内部分裂により、あっけない落城を迎えるのです。
難敵畠山氏を打ち倒した「上杉謙信」はついに能登をも支配下としたのです。

さて、この頃の「織田信長」は天下統一に向け、着実に歩んでいたような時期でした。
中央では挙兵した将軍「足利義昭」を追放(元亀四年(1573))、近畿の反対派勢力をほぼ一掃して支配力を高め、東では戦国最強と言われた武田家を天正三年(1575)の「長篠合戦」にて破り、西では小寺氏など播磨の諸勢力を調略して、毛利氏との争いに備えておりました。
さらに、近江には優美な安土城の築城を開始(※写真:天正四年(1576)、三年後に完成)していたのです。

強敵武田家を破った今、信長が恐れていたのは中国の毛利氏、四国の長宗我部氏という両者ではなく、越後の龍こと「上杉謙信」なのでした。

実際、”土佐の出来人”と称えられた土佐「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」については、「あれは鳥なき島のコウモリ」と厳しく批評。
また、毛利氏については本願寺への支援などの恨みがあったことで、徹底的に攻め滅ぼす考えだったようなのです。

⇒ つづく。
  次回は「出陣する織田勢、がしかし…」(4/5)

[関連記事] 【織田政権セット】
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 魔王の弟 「織田信行」 [    
⇒ 有能な秘書官・森蘭丸 [父と蘭丸 兄と蘭丸 主君と蘭丸
⇒ 米のような必需人「丹羽長秀」 前編 後編
⇒ 天才軍師「竹中半兵衛重治」 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
⇒ 海賊大名 「九鬼嘉隆」 [   
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [      
⇒ 信長に背いた男 「荒木村重」 [  
⇒ 坂本城址 (滋賀)
⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

能登七尾城・加賀金沢城―中世の城・まち・むら

新人物往来社

このアイテムの詳細を見る

※そんなこんなで七尾城です。
 加賀・能登にもぜひ行きたいのですよー。休みほしいなぁ。

軍神「上杉謙信」西へ (手取川合戦)2

2008年02月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国時代を代表する対照的な二人、弱きを助け強きを挫く正義の軍神「上杉謙信」、時代の寵児、魔王「織田信長」が激突するという、歴史ファンが望んだ合戦こそが「手取川合戦」なのでした。

天正四年(1576)
将軍「足利義昭」の要請に応じた「上杉謙信」は打倒織田を目指してついに出陣。
本国・越後から約二万といわれる兵を動かした謙信は、越中に割拠する諸勢力、能登ほか付近一帯を支配する名門家・畠山氏と激突することとなるのでした…。

さて、越中へ進出した上杉勢は、増山城の「神保長城(じんぼう・ながしろ)」、蓮沼城の「椎名康胤(しいな・やすたね)」など、諸勢力を次々に併呑。
続いてその隣国・能登へ侵攻すると、斯波・細川と並ぶ三管領家の一つ、室町時代からの名族・畠山氏と対立することとなりました。

こちらの畠山氏は、いまだ旧守護大名体制を引きずって「畠山七人衆」と言われる重臣たちの発言力が強く、いわゆる戦国大名化できておりませんでした。
また、それぞれ重臣間には権力目当ての武力抗争が絶えず、再建を狙った当主「畠山義綱」は逆に追放されるという始末。
権威なんてまるでありません。

その後、十二歳という若さで擁立された子「畠山義慶(はたけやま・よしのり)」ですが、天正ニ年(1574)に変死。
さらに、その後を継いだ弟「畠山義隆」も急死しておりました。
…いやぁ、物騒ですね。
(※どちらも暗殺であるという説のほか、同一人物などとも言われております)

そんな不安定な情勢の中、義隆の子「春王丸(はるおうまる)」がわずか二歳という年齢で当主となっておりました。
当然ながら、それを補佐するという名目で、重臣の一人「長続連(ちょう・つぐつら)」が事実上実権を掌握していたのです。

この「長続連」、嫡男「長綱連」親子は勢力を拡大していた織田家に近づくなどして、合議体制をとる重臣らの中で一歩優位に立っておりました。
そんな長親子に対し、密かに不満を募らせていたのが、同じく重臣である「遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)」、「温水景隆(ぬくい・かげたか)」らの重臣たちなのです。

天正四年(1576) [七尾城攻略戦]
越中の諸城を三ヵ月ほどのスピードで攻略した上杉勢は、怒涛のごとく能登へと進出。
その来襲に驚いた「長続連」らは、天嶮の要塞「七尾城」に籠城(※石川県七尾市古城町)しました。

津幡・高松・一ノ宮を経て天神河原へ陣を置き、周囲の支城を次々と攻略した上杉勢はついに「七尾城」を囲むのですが……堅城と名高い「七尾城」に籠もった畠山勢はここでよく防戦し、三ヶ月の籠城戦を耐え抜くのです。

軍神率いるさすがの上杉勢もこれに攻めあぐね、一時撤退することとなったでした。

⇒ つづく。
  次回は「軍神vs堅城・七尾城」(3/5)

[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

戦国軍神伝 一  織田信長暗殺 歴史群像新書 128-1
神宮寺 元
学研

このアイテムの詳細を見る

※軍神、でサーチしたらこんな小説が…。
 あらすじをみたところ、はちゃめちゃっぷりが見事です。
 どんなんか、なにげに読んでみたい気も…。

「また米兵か」憤る沖縄 少女、携帯でSOS (朝日新聞)

2008年02月17日 | ネタ
どうも。
えー、本来ならば上杉・織田の「手取川合戦」をお送りするところでしたが、久し振りに好き勝手なたわ言をお送りいたします。

さて、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)
本日は『 「また米兵か」憤る沖縄 少女、携帯でSOS (朝日新聞) 』です。

また発生した先の沖縄の事件について、どうしても一言書きたくなりました。
こうしたネタを不快に感じる可能性がある方は、ここでご遠慮下さいませ。
くれぐれも大人な対応をお願いしますね。
…いきますよ。

敗戦国ニッポンの記録 昭和20年~27年 米国国立公文書館所蔵写真集 [下巻]
編著 半藤 一利 /写真提供 米国国立公文書館(United States National Archives and Records Administration)
アーカイブス出版

このアイテムの詳細を見る



■「また米兵か」憤る沖縄 少女、携帯でSOS
 [朝日新聞] 2008年02月12日

沖縄でまた、少女が被害に遭う事件が起きた。
強姦(ごうかん)容疑で沖縄県警に逮捕された米海兵隊員は送ってあげると14歳の少女を安心させ、車内で乱暴したという。
少女が声をかけられたのは、県内で那覇市に次いで人口が多い沖縄市の中心部。
過去に多くの事件が起きた基地の街でもある。
95年の海兵隊員らによる少女暴行事件から13年。沖縄で再び、怒りが広がった。

「家まで送ってもらうから」
少女がそう言い残して、タイロン・ルーサー・ハドナット容疑者(38)のバイクに乗った
のは、嘉手納(かでな)基地のゲートから約500メートル東の沖縄市の胡屋(ごや)十字路付近だった。
 英語の看板を掲げた飲食店や衣料品店が立ち並び、週末の夜には多くの米兵でにぎわう街だ。
 近くの商店主は「米兵が日本人の女性に声をかけていても、気にも留めない」と言う。
 沖縄署によると、その50分後、少女は友人に携帯で泣き声で助けを求めてきた。
 「どうした」と尋ねると、「外国人に連れて行かれた」「どこにいるのか分からない」「やばい。外国人が戻ってきた」という言葉を最後に、応答がなくなった。

 その後もつなぎっぱなしにした電話からは、大音量の音楽とともに「シャラップ(黙れ)」という男の声、少女の泣き声が聞こえてきた。
 その時間帯、少女が連れ込まれた容疑者宅は、北中城村(きたなかぐすくそん)の高台にある一軒家。周囲の住宅街には街灯もほとんどない。少女は歩いて逃げ出したが、すぐに容疑者に追いつかれ、ワゴン車に乗せられた。
 移動中も車から降りようとしたが、逃げられなかった。北谷町(ちゃたんちょう)にさしかかった時、少女は逃げるために「ここで友達と待ち合わせしている」とうそをついた。
 
 沖縄本島を南北に貫く国道58号を挟んで、米軍基地の反対側。近くには米兵が集まる店もあるが、容疑者は薄暗く、人通りも少ない住宅街の裏通りに車を止めたという。
 事件が起きた一帯は、沖縄でも米軍基地が最も集中する地域だ。
 沖縄市内の女子中学生(13)は「こんな近くで事件が起きたのを知り、急に怖くなった」
 市内の女性(19)も「いつまでたっても事件がなくならない。米軍は出て行ってほしい」と憤った。

 被害者の少女が最初に声をかけられた沖縄市の東門美津子市長、暴行現場となった北谷町の野国昌春町長は12日午前、在沖縄米海兵隊基地司令部があるキャンプ瑞慶覧(ずけらん)を訪れ、事件に抗議した。
 東門市長は11日午前、沖縄署で事件について説明を受けた。その後、報道陣に対し、「95年の事件を思わせ、かなりショックだ。『これから』という子どもがこういう目に遭うことは許されないし、憤りしか感じない。とにかく、どうにかしてほしい」と強い口調で述べた。
 野国町長も同日、取材に対して「現場は閑静な住宅街の路上で、県内どこでも起きうる事件ということだ。抗議や要請だけでなく、どういう対策をしたのか報告を求めないと、この種の事件は繰り返される」と語った。

 沖縄の市民団体も怒りの声を上げた。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の高里鈴代・共同代表は「少女は市民が普通に生活している場所から誘い出されて被害に遭った。男は少女を信用させるような言動をしたのだろう。これでは、住民が安心して生活できない」と憤る。
 高里氏によると、在沖縄米海兵隊は04年6月以降、犯罪防止のために21歳未満の若年兵の夜間外出を制限しているが、今回の容疑者は38歳で、基地外に住んでいた。高里氏は「外出規制は全員を対象とすべきだし、基地外の居住にも何らかの規制をかけるべきだ。何よりも兵隊の絶対数を減らすのが第一だ」と話す。
 沖縄平和運動センターは12日午後6時から、在沖縄米海兵隊司令部があるキャンプ瑞慶覧前で、抗議集会を開く予定だ。
---------------------------------- 。。。


割れ窓理論による犯罪防止―コミュニティの安全をどう確保するか
G.L.ケリング,C.M.コールズ,小宮 信夫
文化書房博文社

このアイテムの詳細を見る


…以上ですね。
ざっと見ていて、マスコミは全てアメリカ・基地を容認する日本政府へ批難一色となっています。
”犯罪を犯す者が悪い”、当然です。
そこに異論ありません。

最初聞いた時は、女の子が気の毒だ、かわいそうだ、と思いました。
ひでるさん的には、きっと無理矢理に拉致られて酷い目にあったのだろう、と想像していたので。
しかし、↑その記事ですよ。

いいですか、そうした犯罪が問題となっている地域です。
しかも近づいてきたのは日本人でなく、当の米兵です。それに「送ってあげる」と声をかけられ、ノコノコついていく神経が信じられません。

(※バイクなら、ほぼ完全に当人の意志がなければ乗れないでしょう)
まぁ、ひでるさんはせいぜい上のニュース知識だけなので、もっと詳しい事情があるのかもしれませんが…。
少なくとも相手は外人ですし、言葉巧みに~ってことはないでしょう。

とにかく、それが危険だと何度か話題になっている地域なのです。
あまりな危機意識の欠如に唖然とします。

ひでるさんも賛成している「環境犯罪学(※)」で考えると、自ら危険な環境へ飛び込んでしまったようなもの。
そんなとこに行く方も悪いと思うのですよ。

あまり取り沙汰されてませんが、そういった点も問題ではないでしょうか?
今回はたまたま相手が米兵だったので基地問題がクローズアップされてますが、違ったらまた別の意見で語られるかな、と考えました。

PLAYBOY (プレイボーイ) 日本版 2007年 12月号 [雑誌]

集英社

このアイテムの詳細を見る


もし、逆に…ひでるさんが見知らぬ金髪の女性(↑そんなん)に声をかけられたなら…絶対についてはいきませんよ。
おっかないから。
行きたい気持ちは山々なんですけどね(笑)



 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


※環境犯罪学(かんきょうはんざいがく)
 犯罪を減らすには、人ではなく、起きやすい環境を改善することである、みたいな考え方。
 …だいたい合ってるよね?

環境犯罪―七つの事件簿(ファイル)から
杉本 裕明
風媒社

このアイテムの詳細を見る

 
お笑い米軍基地―基地に笑いでツッコむうちなー(沖縄)的日常
小波津 正光
グラフ社

このアイテムの詳細を見る


 

激突!軍神vs魔王 (手取川合戦)1

2008年02月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…その希有な性格・信条から、恐れられると同時に頼られていた、軍神「上杉謙信」
その行動には常に”正義”があり、弱者必滅という戦国の世にありながら、弱きを助け強きを挫くという独特な信念がありました。

一方、自らを「第六天魔王」と称し、破壊と創造を繰り返す時代の寵児、魔王「織田信長」
神の存在を認めない、地球が丸いことを即座に理解したとされる、この時代では希な徹底した合理主義者として知られておりました。

そんな、戦国時代を代表する、対照的な二人が戦ったなら、どうなるのか?
歴史ファンが望んだ合戦がこちら「手取川合戦」なのでした。
資料が乏しく、どこまでが現実にあったのか定かでありませんが、なんらかの形で織田・上杉という両軍勢が激突したのは事実だと思います。
これでがっぷり組み合えば面白かったんですが、両雄の激突は実に意外な流れになるのでした…。

天正五年(1577)
西上を目指して進軍した、信長が恐れた戦国最強軍団の当主「武田晴信」はすでに亡く。
(※元亀四年(1573)享年五十二)
絶対的なカリスマ大将が突然に世を去ってしまった武田家では、後を継いだ「武田勝頼」が天正三年(1575)の「長篠合戦」にて、織田勢に致命的な敗北を喫し、その勢力を大いに後退させておりました。

反織田勢の盟主であった「武田晴信」の死により、将軍「足利義昭」が当初作り上げていた信長包囲網はほぼ瓦解。
それぞれの勢力は各個撃破されていたのです。

しかし、信長打倒に執念を燃やす義昭は、まだ健在であった摂津石山の本願寺一向衆、中国の覇者・安芸の毛利氏、そして越後の龍・上杉氏らを巻き込み、最後の抵抗を試みるのでした。

天正四年(1576)
「足利義昭」の仲介によって、「上杉謙信」は父の代から対立を続けていた本願寺一向衆と和解しました。
さらに、苦境に立たされていた宿敵・武田家の若き当主「武田勝頼」とも和睦して足場を固めると、五年ほど続いていた織田家との盟約をついに破棄するのです。

義に厚く、旧権威に従順な「上杉謙信」は将軍直々の要請を喜び、打倒織田の兵を整えたのです。 

謙信は本気で室町幕府の復活、将軍の元での秩序回復を願っていたと思います。
そんな彼ですから、義昭直々の要請は関東管領となった時以上に喜ばしいことだったのではないでしょうか?

さっそく越後から西へ、約二万といわれる兵を動かした謙信は、越中の諸勢力、能登ほか付近一帯を支配する畠山氏と激突することとなるのでした。

⇒ つづく。
  次回は「軍神「上杉謙信」西へ」(2/5)

[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [   
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [  ]
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>
⇒ 最強軍団を撃退した北信の雄 「村上義清」 <前編> <中編> <後編>


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

1000ピース 軍神 上杉謙信 31-348

ビバリー

このアイテムの詳細を見る
※なかなか格好いいんですが…実際こんなんじゃないですよねー。

戦国ランス 上杉謙信 湯のみ

コスパ

このアイテムの詳細を見る
※ましてや、こんなんでもない…はず(笑)
 ほぼないと思いますが、「上杉謙信」は女性、っていう説も楽しいので。


阿修羅 (八部衆・仏像)

2008年02月10日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…違ったことなどで、そのお名前だけはほとんどの方が知っている(かもしれない)、八部衆の超有名人「阿修羅(あしゅら)」です。

たとえ八部衆は知らなくても、なんとなく名前と姿かたちには覚えがある…よね?ね?
ただし、野太い声で「くわーかっかっか!」と高笑いをする超人ではなく、炎を使う女の子でもありません。
ましては、それぞれ半身が男女に分かれている方でもなく…ってもういいですか?
(※一応有名な方をチョイスしてみましたが。それぞれ元ネタ分かります?)


そんな訳で、「阿修羅」なのです。
「修羅」と略されることもありますね。
梵語では、ちょっとだけ変化して「アスラ」、意味は「天部にあらざるもの」という、悪鬼の総称なのでした。

…そう、凛々しい興福寺像がイメージにある方々はびっくりすると思いますが、この方本来はバラモン教の邪神なのです。

須弥山(しゅみせん)下の海底に住むとされており、当初は仏教を妨害。
忉利天(とうりてん)に住む、寅さんでもお馴染み「帝釈天」と絶えず戦争をくり返しておったのでした。

物騒な神さまですね(笑)
しかし、武勇の神「帝釈天」にはかなわず毎回敗れ、阿修羅道(修羅道)へと落とされてしまうのでした。

その後に、釈迦に帰依。
その眷属として、正法を守護する善鬼神となったのでした。
いままでの敵が味方になるという、少年漫画みたいな展開なのですよ!

仏教では、名前の意味そのまま「天」の部類には入らず、八部衆の一人となりました。
「釈迦如来」の眷属です。
六道にも数えられており、天・人の下に位置する、”終始戦い続ける修羅道の主”でもあります。
(※六道:1天2人3修羅4畜生5餓鬼6地獄)
…以上、そうした流れにもあるように、本来は勇猛で戦闘的な神さまなんですね。
ちょっと意外じゃーないですか?

さて、日本では広く知られている八部衆の一人。
CMなどでも使われている、三面六臂の興福寺像が最も有名です。
こちらの発端としては、「光明皇后(こうみょう・こうごう)」が母「橘三千代(たちばな・みちよ)」追福のため興福寺・西金堂を建立。
そちらの「釈迦如来」の眷属として、十大弟子と共に製作されたものであるみたいなの。
なんと、天平時代(734)という、ふるーいものなのです。
平氏の焼き討ちによって建物自体は焼失したものの、各像は奇跡的に火災から免れました。
あぶなかった。

こちらは「乾漆像(かんしつぞう)」で、現在も諸尊がほぼ完全な姿のまま残っております。
特に「阿修羅像」については、空間に浮かび漂うような六本の手、そして若く凛々しい顔が息を呑むほどの美しさでよく知られております。
ほぼ「阿修羅」と聞けば、こちらのイメージでしょう。
当然ながら国宝なのですよ。

ほか、法隆寺・五重塔内の涅槃の場にはより古い時代の三面六臂の坐像があります。
しかし、なぜか平安時代以降にはほとんど作られた例がないそうです。
流行らなかったのねー。
なお、「胎蔵界曼荼羅図(たいぞうかいまんだらず)」に描かれている姿は一面二臂。
右手には宝棒を持ち、左の拳を腰に当てて座っているそうです。


関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
⇒ 国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (京都・広隆寺)
⇒ 弥勒菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 勢至菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 般若菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 千体観音堂(京都・三十三間堂)
⇒ 十一面観世音菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 千手観音菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 重文 木像聖観世音菩薩立像 (秦野・宝蓮寺)
⇒ 楊貴妃観音 (京都・泉涌寺)
⇒ 馬頭観音
⇒ 執金剛神・仁王像
⇒ 日光菩薩・月光菩薩
⇒ 二十五菩薩
⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 地蔵菩薩半跏像
⇒ 毘沙門天 (仏像・天部) 前編 後編
⇒ 兜跋毘沙門天
⇒ 大黒天 (仏像・天部) 仏像編 信仰編
⇒ 荼吉尼天
⇒ 摩利支天
⇒ 韋駄天
⇒ 大天狗像
⇒ 千二百羅漢像 びんずるさま


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


※阿修羅のいろいろ …いっぱいありますね。響きがいいんでしょうか?

キン肉マン Vol.10

東映ビデオ

このアイテムの詳細を見る

孔雀王 4 (4)
荻野 真
集英社

このアイテムの詳細を見る

阿修羅城の瞳 映画版(2005) & 舞台版(2003) ツインパック

松竹ホームビデオ

このアイテムの詳細を見る

ひとみごちて―黒木瞳『阿修羅のごとく』
黒木 瞳
角川書店

このアイテムの詳細を見る


金峯山寺 (奈良)

2008年02月07日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、奈良のずっと奥。
山岳信仰の聖地にして、金峯山修験本宗の総本山という、総本山シリーズ(そんなのない)のひとつ「金峯山寺(きんぷせんじ)」です。

12月という、身も凍るさむーい時期に、桜の名所で知られる吉野山へと赴いたひでるさん。
相変わらずの考えなしです。
まっったくのシーズンオフなのですよ。
周囲ガラガラ(※それでも年末だったためか、そこそこ人がおりましたけれど)なのはいいんですが、とかく寒い。

またその日は風も強かったので、体感気温は極上でした。
しかも、のんびりお寺めぐるだけでもしんどい状況なのに、軽く雪なんぞがちらほらと(笑)
…はっきり言って、寒い時期はオススメしません。
よくもまぁ、「後醍醐天皇」はこんなとこに住んでいたなぁ、と思いましたよ。
(※南北朝時代、こちらは南朝の本拠地でした)

春は「吉野山のさくら」が有名でやたら混み合うそうですが、やっぱり一般的な方はそちら。
ゆっくり見回りたい方は、夏とかのがいいかもしれませんね。

そんなこんなで「金峯山寺」です。
まだ白鳳年間(661~683?)という、奈良時代・平安時代よりもさらに前という昔のお話。
(※有名な事件では、「壬申の乱(672)」などがありました)

昔、山地というのは”神聖な場所”として人々に捉えられておりました。
特に、ここ奈良県南部の吉野あたりは、当時流行っていた山岳修行の場所として、多くの修行者が山に入っていたようなのです。
その修行者の中には、のちに「神変大菩薩」の号を賜ることとなる「役小角(えんのおづぬ)」の姿もありました。

さて、「金峯山」にて厳しい修行をした小角は、ついに「蔵王権現」を感得するに至ります。
その姿を桜の木に刻み、お堂を建ててお祀りするのでした。
…と、そのお堂こそが、現在にも残る「蔵王堂」のはじまりであり、山頂付近の「大峯山寺(おおみねさんじ)」、山麓の「金峯山寺」両寺の開創であるようのです!

まぁ、あまりに事柄が古すぎるので、どこまでが本当かは不明です。
小角くんが実在人物で、活動このあたりだったことを考えれば、なんらかの形でかかわっていたというのは間違いでないかもしれません。たぶん。
主に整備がされたのは平安時代頃のようで、修験道霊場として皇族を筆頭に参詣者を集め、発展していきました。
室町時代あたりでは、他の寺院同様に僧兵を擁し、かなりの勢力を持っていたのでした。
先に触れておりますが、「後醍醐天皇」が吉野へ下ったのはそうした事情もあるようです。
切実なんです。
寒いとか言ってる場合ではないのですよ(笑)

そんな訳で、こちらの本尊は小角くんのオリジナル仏像であります、「蔵王権現」が本尊なのでした。
ちなみに「蔵王権現」さまの詳細については、こちらのブログで過去に紹介してますんで、参照下さい。
簡単には、「釈迦如来」、「千手観音菩薩」、「弥勒菩薩」という三尊が過去から未来に至るまでを救済するため、悪魔降伏の憤怒相で出現したというお方です。
明王部がお好きな方はその荒々しく、躍動感あるお姿に見惚れることでしょう。
こちら、天正二十年(1592)豊臣家の寄進によって再興・建立されたという国宝、巨大な本堂「蔵王堂」には三体の「蔵王権現」がおわします。
七メートルを超えるという大きな仏像であるそうなんですが…残念ながら、秘仏でした。
世界遺産登録のあたりでご開帳あったようなんですが、見れた方はラッキー。
日本最大秘仏とかHPに紹介されておりましたが、なるほど確かにそんだけ大きい秘仏というのは他にないかもしれませんね。

また、参道から見える、見上げるほど巨大な仁王門も国宝。
ほか境内には「後醍醐天皇」の仮のお住まいであった、南朝妙法殿があったりします。
歴史好き、お寺好きのどちらも注目なスポットと言えるでしょう。


[住所]
 金峯山寺 奈良県吉野郡吉野町吉野山

[関連記事] 
⇒ 修験道の開祖 「役小角」 () 
⇒ 蔵王権現 (本地垂迹・権現) 仏像編 信仰編
⇒ お寺と神社
⇒ 本地垂迹ってなんだ? (仏教・神道)
⇒ 本地垂迹のややこしい話 (仏教・神道)
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


日本の歴史〈9〉南北朝の動乱 (中公文庫)
佐藤 進一
中央公論新社

このアイテムの詳細を見る

※そんな訳でひでる勉強中・南北朝歴史本なのです。
 ↑あの絵は有名ですが、尊氏くんではないんだってねー。

恐怖の主君「織田信長」と蘭丸くん (有能な秘書官・森蘭丸)3

2008年02月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…「織田信長(※写真)」のとかいうより”小姓”と言われて真っ先に名前があがる(かもしれない)、戦国時代の有能な秘書官「森蘭丸(もり・らんまる)」です。
…だよね。

ついに蘭丸は小姓として「織田信長」の側仕えになりました。
何名かいる小姓の中でかなり優秀だったらしく、わずか1年後である天正九年(1581)には、近江で五万石を与えられるのでした。
こんなお話が残っています。

ある日、爪を切った信長は小姓の一人をを呼び出しました。
気付いた小姓がそれを片付けようとすると、
もうよい」 
と言って、下がらせるのです。
すると、信長は続いて他の小姓を呼び出すのでした。
同じことが繰り返され、いよいよ「森蘭丸」が呼び出されます。
切られた爪を数えた蘭丸は、数が一つ足りないことを発見し、信長の袖から切られた爪を見つけたのです。

…そのように、細やかな気遣いができ、また万事遅滞なく物事を運んでいたのでしょう。
信長の寵愛を集めた受けたというのは、やはり才覚あってのことでしょう。
あるいは、世間のイメージそのまま、顔の良さもあったのかもしれませんが。

とにかく、キレると怖い、余人が畏怖した信長に気に入られたんですから、その事実だけでもかなりな実力をもっていたと想像されます。
…おそらく、信長は見てくれの良さだけで側に置くことはしないでしょうから。
続く天正十年(1582)には、兄「森長可」が信濃にて二十万石を与えられたと同時に、蘭丸は武田征伐の功にて美濃・金山城を与えられ、そちらを引き継ぐこととなるのでした。
しかし、父と同様に戦国の波が順調であった森家を襲うこととなるのです。

天正十年(1582) 六月
中国にて難敵「毛利氏」と対峙していた「羽柴秀吉」は主君「織田信長」に救援を要請。
安土城を出発した信長一行は、京都「本能寺」に宿泊しました。
本能寺は、京都に城を持たない信長にとって何度か宿泊したことのある、慣れたところでした。

午前六時という早朝のこと。
この際、信長は寝ておらず、起きて顔を洗っていたともいわれております。
騒ぎに気づいた(目を覚ました)信長は、当初家来同士の喧嘩であると思っておりました。
しかし、鉄砲の音が聞こえたことで、襲撃であると気付きます。
日向守が勢と思われます!
顔を青ざめた「蘭丸」がそう告げると、
是非に及ばず
と信長は言ったそうです。

その日、宿泊していた手勢は百名程度。
信長自身も長刀でしばらく応戦しましたが、さすがに多勢に無勢で次々に守備隊は倒され、ここで生涯を終えるのでした。
共にあった「森蘭丸」、弟「坊丸」「力丸」らも明智勢に対して奮戦し、揃って討死するのです。

なお、兄「森長可」は前述のように長久手合戦で死亡。
森家は六男「森忠政(もり・ただまさ)」が遺領を継承。
関ヶ原では判断良く東軍に属し、「徳川秀忠」の軍に加わった忠政はその功で美作十八万石を得て、津山藩初代藩主となるのでした。


【 戦国メーター★森蘭丸 】
 家柄: ■■■■□ 清和源氏が真実ならば。
 実力: ■■■■□ どっちかというと事務系なのかなぁ…。合戦での活躍は不明なのです。
 地理: ■■■■□ 美濃で判断。…まぁ、天下どうのって方ではないですが。
 
[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 徳川勢は本当に活躍した?「姉川合戦」[      探訪
⇒ 戦国メロドラマ劇場「岩村城攻防戦」[    
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

織田信長101の謎 知られざる私生活から、「本能寺の変」の真実まで (PHP文庫)
川口 素生
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る

※いわゆる暴露本なのですよ(笑)
 どーですか、こんなんは。