お寺さんぽ Ver.03

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一代にして主家を凌いだ謀将 (宇喜多直家)5

2007年11月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大勢力の狭間にありながら、一代にして見事にその勢力拡大を成功させた希代の謀略家、「宇喜多直家(うきた・なおいえ)」です。

侵攻してきた強敵「三村家親」を狙撃してこの脅威を取り除くと、直家さまは美作の諸勢力を次々に汚い方法(笑)で始末するのでした。
そりゃーもう、暗殺だの毒殺だのってトンでもない人ですよ。
弟さんが怖がっていたというエピソードも納得です。


さて、暗殺した「三村家親」の子「三村元親」が備中松山城にて家督を相続。
復讐に燃える若い「三村元親」はさっそく大軍をもって再び侵攻を開始しますが、小勢ながら縦横無尽に兵を駆使する宇喜多勢によって「明善寺合戦」に敗退。
逆に追われることとなった「三村元親」は毛利氏の援軍を得て必死に防戦します。
コレに手を焼いた直家はその”毛利氏に接近して服属する”という奇策を取り、逆に援軍を得ることに成功するのでした。
やることがいちいち流石ですよ。

天正三年(1575)
毛利勢の知将「小早川隆景」率いる援軍を得た直家は遂に松山城を抜き、孤立した三村氏はここに滅ぶこととなるのです。
さらに、直家は備中の国人「三好高徳」をも攻め滅ぼし、備中一帯をもほぼ支配下におさめるのでした。

天正五年(1577)
「宇喜多直家」の活躍ですっかり影が薄くなっていた、本来の主君「浦上宗景」
先の三村勢侵攻の危機に直家が先頭に立って活躍したこともあり、この頃になると実権は完全に直家が握っていたようです。
どうにかしなければ、という「浦上宗景」よりも先に行動を開始したのはやっぱり直家でした。

「浦上宗景」の兄で政宗の子孫「久松丸」を擁立し、遂に直家は主人の居城「天神山城」を包囲
激しく攻めたて、「浦上宗景」は城を捨てて播磨へと逃走するのでした。
こうして、下克上にも成功し、戦国大名「宇喜多直家」が誕生するのです。
しかし、時代は確実に終焉へと流れていたのです…。

天正五年(1577)
京にて政権を簒奪した「織田信長」は着実にその勢力を拡大しておりました。
中国方面へと侵攻する軍勢は織田家の便利人「羽柴秀吉」が総大将です。
直家は播磨へと進出してきた織田勢に「長船紀伊守綱直」、「岡則助(家利?)」を送ってこれを防ぎ、その一方で「尼子勝久」らの守る上月城へは弟「宇喜多忠家」を送って攻め落としています。

続いて熊見川へ大軍(二万五千)をもって進出した織田勢に決戦を挑んだ直家ら宇喜多勢でしたが、ここで大敗してしまうのです。
なぜか、いつものように策を弄しなかった直家。
あるいは、新技術・新戦法を得意とする「羽柴秀吉」が相手ですから、万策つきていたのかもしれません。
こうして直接対決に懲りた直家は、毛利氏の攻撃軍「吉川元春」には病と称して出兵せず、同時に織田側へも使いを出すと、こちらには臣従を申し込むという危険な二面作戦を展開するのです。

⇒ つづく。
  次回は「晩年と最後の計略」

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