お寺さんぽ Ver.03

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笹団子風味ソフトクリーム (新潟・黒崎パーキングエリア)

2011年08月28日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、「黒崎サービスエリア」での、「笹団子風味ソフトクリーム」です。

やっぱり旅行へ行ったなら、コレでしょう。
特に今年は色々な要素もあってか、あちこちで目につきました。
本当は真冬に食べるのがネタ的に楽しいんですけどね。

いちおう観光地での、”御当地ソフトクリーム”というのがしばりではあるんですが。
せっかく食べて写真も撮ったので…サービスエリアでのソフトクリームについて簡単に。
こちらでもそのうちやりますが、信濃・川中島経由で、越後まで行ってきました。
モロに「上杉謙信」コースですね。



まず山梨は諏訪。(※↑上の写真はサービスエリアからの諏訪湖です)
諏訪湖サービスエリアでの「ブルベリー・ソフトクリーム」ですね。
これは、もうマズい訳ないという組み合わせですね。
既に巨峰ソフトを食べていますが、だいたいそんなん。
期待通りな甘酸っぱさ。
それもしつこくなく、適度な味わいでした。
果実系は、やっぱりソレが好きな人のがいいかと思いますけどね。



で、今回のメインはこちら、新潟。
黒崎パーキングエリアでの、「笹団子風味ソフトクリーム」です。
”新潟御当地の味”ということで、食べてきました。
期間限定だって。
ただ、何故だか…あんまり大々的にピックアップされてなかったですねー。



そんなんこなで「笹団子風味ソフトクリーム」
明るい薄黄緑な色具合がイイ感じです。
食べてみると…ああ、甘さ控えめで爽やか。
後味が、なるほど笹団子な風情でした。
冗談でなく、団子の緑っぽい感覚がやんわり舌に残ります。
要素となっているのがお菓子でそう個性の強さもないためか、良い組み合わせでした。



【おすすめ★メーター】 『 笹団子風味ソフトクリーム 』
■■■■■ 5Point …どっちかというと大人のがしっくり合うのでは。

いかがでしょう?
たまには車で長距離出掛けるというのも、いいですねー。


[住所]
 黒埼PA(上) 新潟県新潟市西区板井字浦田1807

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守れ忍城・リアルなんちゃら無双 「忍城攻防戦」後編

2011年08月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
先週は突然おやすみして、すみませんでした。
本日も、こないだ行ってきた関東七名城の一つ「忍城」の攻防戦について、です。


天正十八年(1590) [小田原征伐]
関白「豊臣秀吉」は、北条・真田の事件を切っ掛けに、北条征伐を決断。
武蔵国忍城へは「石田三成」ら二万三千という軍勢が進軍するのです。
城主「成田氏長」らは小田原城へ入ったため、忍城には残った氏長の正室と城代「成田長親」を中心に、籠城の準備を進めるのでした。


豊臣勢によって忍城が攻囲されたのは、同年の六月頃から。
沼や深田で囲まれた忍城は、”忍の浮き城”と言われる、天然の要害。
(※実際には合戦後に言われたんですけどね)
攻め手となった三成は、ここで水攻めをしております。

彼の失敗として有名で、”戦の才がない”と言われる発端となった、こちらの作戦。
しかし、水攻めを指示したのは秀吉で、実際にそうした文献もしっかり残っています。
周囲に何もない忍城を水没させるのは困難なことで、現地の三成はもともと水攻めに反対でした。
”緒将が(水攻めだと判断し)攻める気がない”と、書き送っています。
落城には、もっと激しい戦術が必要であると考えていたようです。

そうした中、秀吉からは明確に水攻めを指示した書状が届き、また”ともかく水攻めをしろ”という内容の書状もあり、それに従うこととなったのです。
さらに秀吉は”後に視察に行く”ということも書いており、どうやら小田原城包囲と共に、こちらの水攻めをパフォーマンスとして考えていた様子がありました。
上杉隊、前田隊にも、堤の完成を手伝うよう指示を出していますね。

ともかく、こうして丸墓山を本陣とした三成は、城の周囲に堤を築き始めました。
七日から開始し、十三日頃には総延長二十八キロという堤(石田堤)が完成。
さっそく、利根川・荒川の水を引き入れ、城の周囲には順調に水がたまっていたんですが…十八日。
この地方に激しい豪雨があり、あっさり堤は決壊。
溢れた水は逆に豊臣勢を襲い、二百七十名ほどが溺死してしまうこととなるのです。
堤を築く際には周辺の住民を動員しておりますが、成田氏に心を寄せる彼らがひそかに手抜き工事をしていた、とも言われております。

こうして、城周辺はいっそうの沼地と化し、足を取られて城へ近づくことすらできないという有様になってしまったのです。
後に「浅野長政」、「真田昌幸」らが参加した一斉攻撃でも連携の乱れから城兵の反撃を受け、寄せ手は多数の犠牲が出し、撤退するのでした。

この際に、武蔵国忍城主「成田氏長(なりた・うじなが)」の妹、あるいは娘と言われる「甲斐姫」も活躍。
武芸に秀でた彼女は水攻めを逆手に取った戦術を仕掛け、さらに乱戦では自らも敵中に飛び込み、槍を振るって奮戦したと言われております。
反乱者を斬り伏せたという逸話もあり、このお姫様は「巴御前」と違って実際に強かったみたいですよ。



そんなこんなで、元々の城の守備力に、城兵の団結、寄せ手の中途半端さから天候などもあって忍城は落城することなく、七月五日に小田原城が開城した後も抵抗を続けるのでした。
小田原にあった氏長の説得により、ようやく十六日に開城するのです。

戦後、黄金九百枚、武具などを献上し、秀吉に許されることとなった氏長。
なお、この際に「甲斐姫」を側室へ献上したとも、後に武勇を愛でられて側室になったとも言われています。
戦後氏長は弟と共に「蒲生氏郷」に仕え、城代であった長親は忍城へ入った「松平忠吉」に仕えました。

天正十九年(1591)
氏長はこの際に「那須資晴」の旧領である下野国烏山城主となり、三万七千石を得て大名に取り立てられてました。
これは「甲斐姫」が秀吉に懇願して、実現したと伝えられています。
彼女は大坂の陣を生き延び、”駆け込み寺”として知られる東慶寺に入ったのでした。




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守れ忍城・リアルなんちゃら無双 「忍城攻防戦」前編

2011年08月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、こないだ行ってきました、関東七名城の一つ「忍城」の攻防戦について、です。

天正十八年(1590) [小田原征伐]
関白「豊臣秀吉」は、北条・真田の事件を切っ掛けに、北条征伐を決断。
東山道、東海道、そして海路から、数十万という大軍勢を小田原へ向かわせたのでした。
小田原城を囲む一方、北条方の支城を次々と攻略していった豊臣勢。
しかし、武蔵国の忍城は頑固に抵抗を続け、容易に落城しなかったのです…。


もともと、付近には忍一族という豪族がおりました。
関東管領・山内上杉氏に仕えていた成田氏はそれを攻め滅ぼし、城を築いたのが始まりとされています。
戦国期、「成田長泰(なりた・ながやす)」は関東管領・山内「上杉憲政」に属していましたが、主家の衰えと共に生き残りを模索。
上杉氏から離れ、当時勢いのあった北条氏、上杉(長尾)氏の間を、いったりきたりすることとなったのです。
天文十五年(1546)の川越夜戦後には、「北条氏康」に包囲され、北条方へ。
後の永禄三年(1560)に小田原へ「上杉謙信」が出陣した際には、そちらに従っております。
しかし、ここでは謙信と対立。
今度は上杉勢から攻囲されることとなるのでした。

永禄九年(1566)
嫡男「成田氏長」が家督を相続。
父・長泰としては、もともと次男である「成田長忠(なりた・おさただ)」に家督を譲ろうとしていたらしく、親子で揉めています。
(※家臣の反対や長忠が譲ったことで結局断念し、長泰は出家)
また、上杉・北条の同盟もあり、最終的には北条方に属することとなったのでした。
こうして、北条氏のもとで勢力を拡大させていた氏長でしたが、「織田信長」の後継者となった「豊臣秀吉」の軍勢が襲ってきたのです。

天正十八年(1590) 
秀吉の大軍が小田原へと迫ると、氏長は弟の長忠と共に五百あまりの兵を率い、小田原城へ入りました。
城主が留守となった忍城。
残ったのは、城代「成田長親(※氏長の従弟)」、そして名将「太田道灌」の曾孫「太田資正」の娘という、氏長の正室でした。

長親ほか主だった武将らを集めた氏長の妻は、
上方勢が来攻したなら、士卒が心を一つにして城を枕に討死するまで
そう言って、守りを固め、籠城の準備を進めるのでした。
成田氏ら守備側は、約二千という兵力。
さらに、農民や僧侶、工商、婦女子らを含めた非戦闘員の約千名ほどが参加しています。

一方、支城の攻略を進めていた豊臣勢。
上野国館林城を攻略(※)した「石田三成」、「大谷吉継」らは、常陸「佐竹義宣」、下野「宇都宮国綱」らと合流し、二万三千という軍勢で武蔵国忍城へ進軍するのでした。
(※こちらは十三日ほどで開城)




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水の城―いまだ落城せず (祥伝社文庫)
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