のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も魅惑の攻城戦シリーズ(そんなのない)です。
後の太閤「羽柴秀吉」の実力が遺憾なく発揮される「鳥取城合戦」をお送りしております。
天正八年(1580)九月
鳥取城を包囲した秀吉率いる織田勢に降伏した「山名豊国(やまな・とよくに)」
しかし、すぐさま出撃した毛利氏によって再びそちらに臣従するのでした。
なかなか大変です。
単独で講和に応じたと言われる、どうにもいまいち頼りにならない豊国。
主戦派だった「中村春続」、「森下道誉」ら山名家家臣はクーデターを起こし、豊国を追放。
毛利氏に配下の武将を派遣するよう要請するのでした…。
(※豊国が単独で逃亡したとも言われる)
山陰方面を担当する「吉川元春(※写真・左)」はこれに応じ、「牛尾元貞」、「市川雅楽允(いちかわ・うたのじょう)」、「朝枝春元」ら武将を次々に送り、防備に務めました。
天正九年(1581)三月(十八日)
不利な戦況は変わらず、”指導力のある大将を”と願われた元春。
こうして、吉川家庶流であった「経安」の子、一族の石見国福光城主「吉川経家(きっかわ・つねいえ)」を新たな城主として送り込んだのでした。
四百の兵と共に運命の鳥取城へと入城した経家。
これで城兵は約二千。
この時、彼は自らの棺桶を掲げて入城したそうです。
決死の覚悟が伝わってきますね。
そんな経家でしたが、城に入った彼は驚愕していました。
人や武器・弾薬は十分の備えがあったものの、兵糧が圧倒的に不足していたのです!
慌てた経家はすぐさま元春へ原状を訴え、一方では城外からの糧道確保の拠点として、千代川のそばに「丸山城」を築きました。
こうして応急の兵糧を運び込まれても、まったく足りないという有様なのでした。
…と、いうのも……。
鳥取城の攻略を目指す秀吉は、前もって若狭商人(商船)に手を回していました。
命令を受けた商人らは因幡へ入り、なんと”時価の数倍”という価格で事前に米を買っていたのです。
あまりの高値がため、城兵らは「山名豊国」が万が一にと城内に蓄えていた備蓄米をもこっそりと持ちだして売っていたというのです。
要害堅固な城であった鳥取城を攻略するために、兵糧攻めの戦法が得策であると秀吉は考えていたのですね。
こうした作戦は、派手好きで惜しみなく金を使う秀吉が最も得意とする感じです。
ケチではこうはできません。
⇒ つづく
次回は「城攻めの達人、羽柴秀吉」(4/6)
[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 洞ヶ峠・天王山・三日天下 「中国大返し・山崎合戦」 [1 2 3 4 5 6]
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [1 2 3 4 5]
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編
⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
⇒ 石田三成の真実 (歴史さんぽ:誤解をとく会)
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 行こう!「関ヶ原古戦場・石田三成陣跡」
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) <前 後>
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
⇒ 松山城を築いた七本槍の加藤くん「加藤嘉明」 [1 2 3 4 5]
⇒ 宇喜多秀家 <前 後>
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [1 2 3 4 5 6 7]
⇒ 二大英雄の子「結城秀康」 [1 2 3 4]
⇒ 豊臣秀次公菩提寺 瑞泉寺(京都)
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」
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※当時は玄米が主食だったようです。
健康にもいいので、スーパーなどで売ってますよね。
本日も魅惑の攻城戦シリーズ(そんなのない)です。
後の太閤「羽柴秀吉」の実力が遺憾なく発揮される「鳥取城合戦」をお送りしております。
天正八年(1580)九月
鳥取城を包囲した秀吉率いる織田勢に降伏した「山名豊国(やまな・とよくに)」
しかし、すぐさま出撃した毛利氏によって再びそちらに臣従するのでした。
なかなか大変です。
単独で講和に応じたと言われる、どうにもいまいち頼りにならない豊国。
主戦派だった「中村春続」、「森下道誉」ら山名家家臣はクーデターを起こし、豊国を追放。
毛利氏に配下の武将を派遣するよう要請するのでした…。
(※豊国が単独で逃亡したとも言われる)
山陰方面を担当する「吉川元春(※写真・左)」はこれに応じ、「牛尾元貞」、「市川雅楽允(いちかわ・うたのじょう)」、「朝枝春元」ら武将を次々に送り、防備に務めました。
天正九年(1581)三月(十八日)
不利な戦況は変わらず、”指導力のある大将を”と願われた元春。
こうして、吉川家庶流であった「経安」の子、一族の石見国福光城主「吉川経家(きっかわ・つねいえ)」を新たな城主として送り込んだのでした。
四百の兵と共に運命の鳥取城へと入城した経家。
これで城兵は約二千。
この時、彼は自らの棺桶を掲げて入城したそうです。
決死の覚悟が伝わってきますね。
そんな経家でしたが、城に入った彼は驚愕していました。
人や武器・弾薬は十分の備えがあったものの、兵糧が圧倒的に不足していたのです!
慌てた経家はすぐさま元春へ原状を訴え、一方では城外からの糧道確保の拠点として、千代川のそばに「丸山城」を築きました。
こうして応急の兵糧を運び込まれても、まったく足りないという有様なのでした。
…と、いうのも……。
鳥取城の攻略を目指す秀吉は、前もって若狭商人(商船)に手を回していました。
命令を受けた商人らは因幡へ入り、なんと”時価の数倍”という価格で事前に米を買っていたのです。
あまりの高値がため、城兵らは「山名豊国」が万が一にと城内に蓄えていた備蓄米をもこっそりと持ちだして売っていたというのです。
要害堅固な城であった鳥取城を攻略するために、兵糧攻めの戦法が得策であると秀吉は考えていたのですね。
こうした作戦は、派手好きで惜しみなく金を使う秀吉が最も得意とする感じです。
ケチではこうはできません。
⇒ つづく
次回は「城攻めの達人、羽柴秀吉」(4/6)
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⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
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※当時は玄米が主食だったようです。
健康にもいいので、スーパーなどで売ってますよね。