お寺さんぽ Ver.03

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がんばった勝頼くん/強すぎる大将「武田勝頼」4

2006年08月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は甲斐武田氏十二代目の当主「武田勝頼」です。厳密にはこの人当主ではないようですが、まぁいいでしょう。

長男である良将「武田義信」の死によって、偶然当主となった勝頼くん。
武田を滅亡に追い込んだことから彼の評価は厳しいものが多いですが、実際はよく頑張っています。決して名の上にあぐらをかいて遊んでいたわけでも、暗愚な大将でもないのです。
今回は、そうした不幸を背負う「武田勝頼」の最終回です。
ハンカチなくては見れない、胸を打つようなのラストをとくとご覧下さい。


さて、勝頼が継いだ武田家は中心たる晴信を欠いた後でも、以前の勢いを失ってはいませんでした。積極的に活動する若い大将・勝頼に、信長も警戒を解いてはおりません。
しっかり、”手ごわい相手”として彼を認識していたのです。

徳川領へ進攻した勝頼以下、武田勢。(※この模様は後に当ブログで詳細に書きます)
ここで織田・徳川連合軍と対峙した勝頼は徹底した守りの構えと倍の兵力に圧倒され、多くの重臣を失う致命的な敗北を喫するのです。
また、「長篠合戦」後には、前回ちょろっと書いた”上杉家内乱の介入”で結果的に周囲の敵を増やし、勢力を大幅に衰えさせていくのでした。

経験豊富な「山県昌景」や「馬場信房」といった古参の良将を失っていたこと、織田・徳川・北条といった勢力に四方を囲まれたこと、軍事費などがかさみ、急速に経済状況を圧迫させたことは、滅亡に拍車をかけるのです。


さて、娘婿で一門衆の「木曾義昌」は勝頼に命ぜられた「新府城」築城の増税から不満を募らせ、なんと織田方へ寝返ってしまうのです。
この事件を切っ掛けとして、本格的な崩壊が始まります。

もともと勝頼と仲が悪かった(らしい)、というのもあるようですが、人質となっていた母や子供をも犠牲にした一門衆、義昌の反乱は周囲に大きな影響を与えたようです。
そして、晴信の時代にはなかった、城を築こうとした事実。
…これらが、勝頼の求心力が大きく低下していたことを物語っているのです。

反乱者、木曾義昌の討伐に乗り出した勝頼ですが、木曽谷へと続く信濃での戦で土地に精通した木曾軍に敗北。
また、これは義昌の支援に乗り出した織田・徳川軍進攻の切っ掛けとなり、信長の頼れる息子「織田信忠」率いる織田の大群が進入すると、鉄の結束を誇っていた武田は裏切りと逃亡が続出し、あっさりと瓦解してしまうのです。

晴信の弟、「武田信廉」は戦わずに戦意喪失して逃亡、一門衆の「穴山信君」も徳川に降伏。
わずかに抵抗したのは、高遠城を守る弟「仁科盛信」のみであったという、悲惨な状況でした。
こうなると勝頼の指揮力は皆無となり、その命令に従う者はもうどこにもおりません。


一族や譜代の家臣にも背かれた勝頼。
まだ未完成だった新府城を燃やした勝頼は、受け入れを申し出た一門衆の「小山田信茂」と小姓から晴信に仕えていた「真田昌幸」両名から小山田を選ぶんですが、なんとこちらにも裏切られてしまうのです。

この時、もし勝頼が「真田昌幸」を選んでいたなら、末路は多少でも彼にとって安らかなものであったと思います。
昌幸は小姓として晴信の傍に長く仕え、その才を高く評価されていた人物です。
独立後は生き残りのため、やむなく主家をコロコロ変えてはいましたが、それは本意でなかったと思います。二人の息子の行動が、それを証明しているように感じます。
だから、彼が勝頼の首を土産に信長に頭を下げるとは到底想像できないんです。


失意の勝頼は僅かな従者と共に天目山に追い詰められ、こちらで織田方の兵を受け、孤軍奮戦するもかなわず、自害するのでした。
勝頼は三十七歳、息子の信勝はまだ十五歳なのでした。


カリスマの父を持った息子は精一杯がんばったんです。ただ、ちょっとだけがんばりすぎたのかもしれません。
これには父晴信が後継者育成を怠っていたことにも原因があると思います。
自身が病を患っていたとされるなら、なおさらでしょう。

強すぎる大将「武田勝頼」はこうしていくつかの偶然が重なったことで歴史の表舞台に立たされ、淋しく悲しくわずかな従者と共に消えていくのでした。
ああ…勝頼さま……。


[関連記事]
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
勝頼くんがんばれ ()
2008-04-28 17:08:56
勝頼は、ただの凡将ではなかったということが、よくわかりました。読んでいて、すごくおもしろかったです。さようなら
返信する
そう、がんばったんです。 (あおぶひでる)
2008-04-29 01:22:44
原さん、コメントありがとうございます。
凡将どころか、いち武将としてならば一流に近い実力があったと思います。
もし嫡男義信くんが存命だったなら、二人で協力して敵に当たる…なんてのもあったでしょう。
返信する
夜分に長文失礼致します (流華)
2009-02-20 00:43:06
武田関連の記事を、幾つか興味深く拝読致しました。以下に1四郎ファンの素人として、気になった点を並べさせて頂きます。

山梨は今でも、中心と郡内等山側とでは戦国当時の諸々の捉え方や考え方に隔たりがあり、その温度差によって食い違いが出る事も屡々ある土地柄である事。
枯渇しかけていた金山など、信玄時代から受け継いだ負の遺産が齎した結果は小さくない事。
長篠は、曖昧な立場にある彼一人で決断出来たとは考え難く、武田に関わる者の総意であったとする方が自然である様に感じる事。
岩殿を選択したのは女子供もいた為と、季節的・距離的にも実質無理があったのではないかという事。
信玄の家臣ではあれど、勝頼の家臣ではない人が多く、混乱する領内と不安定な人間関係を、一度は諏訪姓を名乗らされた彼が、数ヶ月かそこらで纏め上げるなんて難しかったと思われる事。
父時代とは違う情勢下において、城下町すらあった新府は、必要に迫られて築城した可能性もある事。

これらについて、些か疑問が残りました。今は如何お考えでしょう?
文面から迚も博識な方とお見受けし、みな迄言わずとも素人の言いたい事を御理解下さると判断、敢えて詳細を省いたコメントさせて頂きました。
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