のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)※写真」についてです。
ついに籠城戦が始まります。
一時は九州全土を席捲する勢いであった大友家。
しかし、元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、孤立した紹運らはぎりぎりの戦いを強いられたのでした。
沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢は、九州統一に向けて怒涛の勢いで侵攻を開始したのです。
この危機的状況に、上洛した「大友宗麟」は「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」へ臣従。
プライドを捨て、助けをもとめたのでした。
天正十三年(1585)
島津傘下となった諸勢は、こぞっていまだ服属しない大友家へと刃を向けてきました。
島津としては、上方の軍勢が到着するよりも早く、九州全土を支配下にしようと急いでいたのです。
天正十四年(1586)
この頃、筑後へ出陣していた「高橋紹運」の留守を狙って、「筑紫広門(ちくし・ひろかど)」は宝満城を奪取。
城内にあった夫人、次男の「立花直次(高橋統増)」らは助命され、岩屋城へと送られていました。
帰還した紹運はそちらへ入城し、広門とぎりぎりの交渉を進めるのです。
なんとこれは実を結び、広門の娘を「立花直次(高橋統増)」に迎えるという和睦に成功したのでした。
しかし、わざわざ攻めるべき大友方の縁戚となったこの一件は、島津勢の怒りを買ってしまうのです。
当然ですわね。
どんな交渉したのか知りませんが、紹運が凄いのか、広門が面白い人なのか…。
ともかく、これがため豊後への進軍を延期し、広門を粛清するため北上を開始。
「島津忠長(しまづ・ただなが)」、「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」らの指揮する三万という軍勢は、筑前へ侵攻したのでした。
勝尾城の「筑紫広門」への攻撃は、「島津家久」が担当しております。
ここでは千程度の守備側から激しい抵抗に遭って五日ほど費やしたほか、多くの死傷者を出しています。
あの家久が、ちょっと意外ではありませんか?
…というのも、宇土、赤星、隈部、有働など、この際の遠征軍には”にわか服従の他国衆が多かった”んですね。
そのため、戦意は相当に低かったようなのです。
なお、落城の際に広門は捕えられてしまったのでした。
続いて、その矛先は紹運へ。
島津を迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂」が籠城。
島津勢は、わずか数日のうちに太宰府を占領。
続いて、紹運の岩屋城をぐるりと包囲してしまったのです。
⇒ つづく。
次回は「嫡男「立花宗茂」と戦術」(8/10)
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⇒ はねる謙信逃げる信長 「手取川合戦」[1 2 3 4 5]
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※ちょっと気になる合戦ムックです。
知っているようで…って、ぜんぜん知りませんよ。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)※写真」についてです。
ついに籠城戦が始まります。
一時は九州全土を席捲する勢いであった大友家。
しかし、元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、孤立した紹運らはぎりぎりの戦いを強いられたのでした。
沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢は、九州統一に向けて怒涛の勢いで侵攻を開始したのです。
この危機的状況に、上洛した「大友宗麟」は「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」へ臣従。
プライドを捨て、助けをもとめたのでした。
天正十三年(1585)
島津傘下となった諸勢は、こぞっていまだ服属しない大友家へと刃を向けてきました。
島津としては、上方の軍勢が到着するよりも早く、九州全土を支配下にしようと急いでいたのです。
天正十四年(1586)
この頃、筑後へ出陣していた「高橋紹運」の留守を狙って、「筑紫広門(ちくし・ひろかど)」は宝満城を奪取。
城内にあった夫人、次男の「立花直次(高橋統増)」らは助命され、岩屋城へと送られていました。
帰還した紹運はそちらへ入城し、広門とぎりぎりの交渉を進めるのです。
なんとこれは実を結び、広門の娘を「立花直次(高橋統増)」に迎えるという和睦に成功したのでした。
しかし、わざわざ攻めるべき大友方の縁戚となったこの一件は、島津勢の怒りを買ってしまうのです。
当然ですわね。
どんな交渉したのか知りませんが、紹運が凄いのか、広門が面白い人なのか…。
ともかく、これがため豊後への進軍を延期し、広門を粛清するため北上を開始。
「島津忠長(しまづ・ただなが)」、「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」らの指揮する三万という軍勢は、筑前へ侵攻したのでした。
勝尾城の「筑紫広門」への攻撃は、「島津家久」が担当しております。
ここでは千程度の守備側から激しい抵抗に遭って五日ほど費やしたほか、多くの死傷者を出しています。
あの家久が、ちょっと意外ではありませんか?
…というのも、宇土、赤星、隈部、有働など、この際の遠征軍には”にわか服従の他国衆が多かった”んですね。
そのため、戦意は相当に低かったようなのです。
なお、落城の際に広門は捕えられてしまったのでした。
続いて、その矛先は紹運へ。
島津を迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂」が籠城。
島津勢は、わずか数日のうちに太宰府を占領。
続いて、紹運の岩屋城をぐるりと包囲してしまったのです。
⇒ つづく。
次回は「嫡男「立花宗茂」と戦術」(8/10)
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※ちょっと気になる合戦ムックです。
知っているようで…って、ぜんぜん知りませんよ。