お寺さんぽ Ver.03

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九代当主の義元さま 「海道一の弓取り・今川義元」3

2006年10月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はたった一戦で後世の評価がひっくり返ってしまった気の毒さんの代表格。
駿遠三の太守、海道一の弓取りこと「今川義元」です。

ああっ、義元さま…。
兄・氏輝の突然死によって国内は内乱状態となりますが、「女戦国大名」と言われた母「寿桂尼(じゅけいに)」、そして若い頃より秀才と評判だった軍師「太原崇孚雪斎(たいげんすうふ・せっさい)」の助けによって、めでたく九代目当主となりました。
「今川治部太輔義元」の誕生です。


さて、九代当主となった義元は功績抜群だった「雪斎」を政治・軍事両面の最高顧問として迎えます。
まさに、軍師・腹心という地位となったのです。
雪斎は甲斐の雄「武田信虎」の娘「定恵院(じょうけいいん)」を義元の正妻に迎えることに成功、宿敵武田氏との同盟締結に尽力しました。

しかし、これは当時武田氏と争っていた相模・北条氏にとって快い話ではありません。
北条・今川の仲は急速に悪化し、ついに戦闘状態となってしまうのです。
ちなみに、今川・北条の両家は早雲の代からなにかと縁深く、これまで良好な関係を築いてきたのです。

駿河に侵攻した「北条氏綱(※写真)・氏康」親子との合戦には敗れ、駿河東部を侵食されてしまいます。
しかし、これにめげない義元さま。
隣国相模より遠方、関東管領「山内・上杉憲政」と結んで挟撃・反撃を開始。
東が慌しくなってしまった北条勢は駿河より撤退し、その駆逐に成功するのでした。
結局、黄瀬川(きせがわ)まで押し返した今川勢によって、こちらを国境とすることとなったようです。
(※だいたい沼津あたりですね)

どうです、なかなかの手腕でしょう?
今川義元の面目躍如といったところでしょうか。

また、西方では「織田信秀(信長の父)」が尾張の新興勢力として台頭。
隣国、三河の松平氏は国内統一の直前というところで当主「松平清康」(※徳川家康の祖父)が暗殺されてしまいます。
(天文四年(1535):守山崩れ)
その子「松平広忠」が後を継ぎますが、清康に従っていた家臣・豪族らの相継ぐ離反によって衰退。
「織田信秀」はその機会を逃さず、三河に侵攻。
安祥城(※愛知県の中央あたり。尾張・三河の国境に位置する重要拠点でした)を攻略されてしまうのです。

もはや独立したまま領国を維持することができなっていた「松平広忠」は、ここで東の名門・今川氏の傘下となることを決意します。
こうした隣国の混乱によって、義元はまんまと三河への進出を果たしたのでした。
広忠の息子「竹千代」の人質生活の始まりです。

⇒つづく。 次回は「小豆坂合戦と義元さま」

[関連記事]
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
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