お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

暗愚を装う逃亡生活 (宇喜多直家)3

2007年11月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大勢力の狭間にありながら、一代にして見事にその勢力拡大を成功させた希代の謀略家、「宇喜多直家(うきた・なおいえ)」です。

祖父「和泉守能家(いずみのかみ・よしいえ)」が討たれ、父興家は病死。
さらに、主役「宇喜多直家」は寺での逃亡生活を送っていたのです。

さて、ようやく登場した本編主人公「宇喜多直家」が寺に預けられ、十二、三歳の若者となっていました。
すると、いつからか惚けたような、馬鹿みたいなことをするようになり、周囲の手を焼かせるようになったのです。
あまりの所業に世話役の尼も呆れますが、あるとき表情を戻した直家がこんなようなことを切り出しました。

迷惑をかけました。父の仇、観阿弥の手の者がこちらを嗅ぎ付けていたようなので馬鹿の真似をしていました

それを聞いた尼はその賢さに感心したといいます。
…これ、ちょっと出来過ぎなように思います。
どうですか?
真相は怪しいですが、興味深いエピソードではあります。
ちなみに、阿呆を装っていたのは父の興家だったとする説もありました。
この人は早くに死んでいるようなので、間際に錯乱することなどもあったかもしれません。
あるいは、そういった事実がいくつか混ざった結果として、生まれたエピソードなのかも。

さて、十八となった直家は「島村観阿弥」が主家を去ったのを確認し、「浦上宗景」に仕えました。
「浦上宗景」としても、なんとなしに後味の悪さを感じていたのか、また彼が孫であって安心したこともあるのか、これを採用したらしいのです。
油断ですよね。
ともかく、仕えた直家はその才を大いに発揮し、またよく働いて祖父に負けないほどの活躍をしました。
万事うまく立ち回るため、次第に「浦上宗景」の信任を得ることとなり、褒美として岡山城を任されるようになりました。
…その矛先は、やがて自身へと向けられることになるのですけれど。

永禄二年(1559)
城持ちとなり、手勢を得た直家は美作の仇敵「島村観阿弥」に難癖をつけ、鮮やかな手際をもって討伐しています。
同じ美作の国人、「中山信正」は直家の才を高く評価し、自らの娘を与えました。
(※まったく逆に、その才を恐れたためとも言われます。無茶に島村くん殺害してますし、こっちのが正解っぽいですね)
直家は続いて、備前国内の緒豪族を岡山城を拠点として次々に押さえ、独自の勢力拡大に励んでいました。

さて、当時隣国の備中・美作を支配していたのは実力者「三村家親」でした。
「三村家親」は大内氏を倒したばかりで、まだ不安定だった毛利氏と早くから結び、敵対する尼子氏の勢力を次々に打ち破って、付近一帯の中心勢力になっていました。
毛利氏との同盟で後顧の憂いを断った「三村家親」は、永禄八年(1565)遂に備前へと進攻を開始するのです。
進軍の情報を得た直家ですが、現戦力だけではさすがにどうにもなりませんでした。
…ここで、「毛利元就」を手玉に取った「大友宗麟」もびっくり仰天する”奇策”を実行するのです。

⇒ つづく。
  次回は「国難を救う奇策と勢力拡大の暗殺」

[関連記事] 
⇒ 竹中半兵衛重治 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
⇒ 宇喜多秀家 < >
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】




最新の画像もっと見る