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野戦を決意した秘密 「長篠合戦」4

2006年08月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は現代でも議論が尽きない新旧入れ替え戦「長篠合戦」について。

長篠城へと攻め寄せた武田勢は予想外の抵抗によって難航し、守備側の兵卒「鳥居強衛門」の活躍もあって士気のあがった城兵は、結局織田・徳川連合軍の援軍到着までねばりつづけたのでした。


さて、織田・徳川の連合軍約三万五千は長篠城の西、設楽原に布陣します。
その際、各兵士が担いできた木々で馬防柵を築き、さらに二重・三重の空堀を掘りすすめ、土塁を作るなど、二倍以上の兵力を有しながらも完全な守備隊形を敷いていました。
これは長篠合戦を理解するポイントのひとつです。=Point!=

さて、これと同時に長篠城救出のため、密かに出発した「酒井忠次(さかいただつぐ:徳川四天王の一人)」は鉄砲隊を含む別働隊を引き連れ、武田勢が城攻めのために築いていた付城の「鳶の巣山砦」を夜襲。
これは大成功し、武田方は晴信の弟「信実」をはじめ、名だたる武将が次々に討死するという大敗北となるのでした。

こちらの夜襲戦は設楽原のメイン戦場に隠れてあまり知られておりませんが、長篠城を救出すると共に武田方の補給線を断つという、非常に重要な意味を持っていたのです。
でね、こちらもこの合戦を理解する大きなポイントのひとつなのですよ。=Point!=

この戦いはそれら要因により、武田方は野戦へと引っ張り込まれた形なのです。
これは「川中島合戦」で、軍師「山本勘助」が進言した「啄木鳥戦法」をそっくり逆にやられてしまったような感じなのでした。
川中島では戦の天才「上杉謙信」が事前に策を察知し、武田方の虚をついたのですが、勝頼はまんまと相手の思惑にのってしまったんですね。

さて、よく言われている話がありますね。
軍議の席上にて、勝頼お気に入りの長坂・跡部の両名が対決を主張して譲らず、反対する老将らがやむなくそれに従った…というお話。
これは明らかな誤りです。
なにしろ、その二人は軍議どころか合戦にすら出ていないのですから。主張しようもありません。
もう一つ、老将らがこぞって反対したというのもおそらく違うでしょう。

なんでー?という訳で、ここでまとめとして、対決を決意したであろう事柄を箇条書きにしてみました。
どうぞ↓

い) 砦が落とされ、退路(補給路)を断たれてしまった。
ろ) 相手の兵力は多いが、横に広がった布陣なので、一点突破して陣形を崩せば勝機があると判断した。
は) 信長は過去の動きからしても武田を怖がっている、対決を避けたがっている。
に) 現に、兵力に勝っていながら徹底した守備陣形を敷いている。
ほ) 武田勝頼以下、皆野戦には連戦連勝だったため物凄く自信を持っていた。
へ) 当時の常識で、畿内・尾張は弱兵として有名だった。
 (※逆に甲州兵は強いと評判)
と) それらの証明として「三方ヶ原合戦」では連合軍をコテンパンにやっつけていた。
ち) 時期的に鉄砲は使いづらいと予想した。
 (※7月の梅雨時期で雨が多い)
り) 織田の家老「佐久間信盛」が寝返るという情報があった。
 (※これは本当か不明)

…以上ですね。
ひでるさんは「山県昌景」以下、晴信の代からの老将たちもいける、という見込みで、案外勇躍して合戦に望んだのだと思っています。
ここで不安を覚えていたであろう者は、殿軍を努めて最後まで踏みとどまった「馬場信房」と、さして戦には加わらずに撤退した「穴山信君」くらいだったのでしょう。

⇒つづく

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 「信長の野望」はこのあたりがシンプルかつちょっと複雑で最も面白いと思います。
 …とってもお買い得なんですが、ひでるさんは操作方法の変わったそれらが好きではありません。
 テンキー操作の昔のが絶対やりやすかったと思うんですが、皆マウス操作となってます。
 操作方法切り替えれたらいいのになぁ。

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鳥居強衛門の活躍 「長篠合戦」3

2006年08月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は現代でも議論が尽きない新旧入れ替え戦「長篠合戦」について。


長篠城へ来襲した武田勢は守備する「奥平信昌」らの決死の反撃にあい、圧倒的な兵力差でありながら攻略に難儀しておりました。
そこで兵糧攻めに方針を切り替え、敵方の兵糧庫を奪い去ることに成功すると、城兵はとたんに窮地に陥るのです。
もはや数日の内に落城か、という状況にまで追い込まれた守備隊は援軍の状況を把握するべく、城外へ密偵をだすこととしました。
その大役を任されたのが、長篠合戦の主役とも言える「鳥居強衛門(とりいすねえもん)」なのです。
…という訳であらすじおわり。話を本編へ戻しましょう。


大役を仰せつかった「鳥居強衛門」はびっしりと城を囲んだ武田勢の包囲を豊川の水底を深く進行することでうまく逃れ、脱出に成功しました。
彼は水泳を得意としていたようなのです。
それからは帰りを待つ城兵のため、必死に岡崎城まで走るのでした。
岡崎城へとたどり着いた彼はそこに家康だけでなく、織田の軍勢までもが到着・合流していたことを知るのです。
この時の強衛門は「これで大丈夫」と一安心したことでしょう。
また、信長と家康はこの報告によって長篠城が予想以上の窮地に立っていることを知るのでした。

注進の労をねぎらい、同行を進めた家康に対して、強衛門は
この吉報を一日でも早く城兵に伝えたく思います
…と断り、反転して一足先に長篠城へと急ぎ戻るのでした。

城外への侵入は当然ながら、脱出よりも遥かに困難であります。たぶん。
(※ちなみに、以前このブログで「河越城夜戦」をやりましたが、その時は攻め手がたるんでいたため、城への進入に成功しています)

これに武田の一般兵卒に紛れての侵入を試みた強衛門ですが、運悪くも露見して捕縛され、勝頼の前まで引き出されてしまうのです。
彼の言で織田・徳川の連合軍が迫ってきていることを知った勝頼はここで強衛門に取引をもちかけます。
「もし、城兵へ援軍が来ないと言ったら、家来に取り立てることを約束しよう」
この条件は彼にとって破格な条件です。
例えて言うなら、個人経営の社員が一流企業の営業課長として取り立てられる、って感じでしょうか?
ちょっと微妙に違うかもしれませんが、おおむねそんなものでしょう。
勝頼の申し出に小躍りして喜んだ強衛門はこれを承諾し、長篠城が目と鼻の先に見えるほどの小高い丘まで引き出されました。
当然ながら、守備する城兵たちも動きのみえた武田勢に注目した筈です。
ここで、すうと息を飲んだ強衛門は大声でこんなことを叫んだようなのです。

城兵の方々、我は鳥居強衛門である!あと数日の後には大殿、織田殿の軍勢が到着するであろう!いま少しの辛抱を!!

約束を違えた強衛門は怒った勝頼により磔にされ、ここで絶命します。
しかし、この決死の行動によって城兵は大いに沸き立ち、見事援軍の到着まで長篠城を死守することができたのです。


…ああ、やってくれちゃいました。
こうして強衛門は申し付けられた大役を自らの命を懸けて果たしたのです。
ひでるさんはここの回想(…いた訳でないけれど)しただけでぎゅーっと締め付けられるようになるんですよ。これ書いてるだけで泣けそうです。
るるる。
この「長篠合戦」の前半戦たる長篠城の攻防戦は、こうして強固に城を守った「奥平信昌」以下城兵たちの決死の頑張りによって、攻め手に勝利を与えることなく終わるのでした。

⇒つづく

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罠―戦国長篠秘帖

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※ちょっと気になるタイトル「罠」
 まぁ、戦国の合戦なんて罠だらけですよ。


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奥平信昌の奮戦 「長篠合戦」2

2006年08月29日 | 歴史
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本日は現代でも議論が尽きない新旧入れ替え戦「長篠合戦」について。

このあたりは合戦前半のメインイベントです。
…思わず泣けてしまうエピソードをお送りいたしましょう。

さて、この戦いは「長篠合戦」と名がついているだけあって、三河と信濃の境あたりに位置する「長篠城」の攻防戦を切っ掛けとしていました。
土地の名前ではないんですね。
ちなみに、実際に野戦が行われたのは「設楽原」でした。

その攻防戦の最初の舞台となった長篠城は徳川方の「奥平信昌」が守備していました。
(※当時の名乗りは貞昌。この合戦以後、奮闘を賞した信長より許されて一字を拝領する栄誉を受け、信昌に改名するのです)
彼(父)はもともと今川の家臣でした。
それが、義元の討死以後、武田へ属し、さらに晴信の死後には人質を残したまま、徳川方へと走るのです。

当然ながら人質は磔にされるんですが、「奥平信昌」としてはその恨みをもってこの勝頼の来襲に備えていたのです。
まるで前線基地のような、位置としてやや突出した長篠城の守備に彼を選んだのは、家康がそうした心理を読み取ってのことだった、とも伝えられています。
陰険な家康っぽいですよね。
うんうん、ありえそう。

さて、この寝返った信昌粛正のため、「武田勝頼」は一万五千という大軍勢を引き連れて長篠城を取り囲みました。
対する守備隊は奥平信昌以下五百程度。
兵力的には圧倒的不利な状況ながら、決死の覚悟であった信昌の指揮によって屈強な抵抗を見せた城兵により、連日の猛攻にもかかわらず城は容易に落ちませんでした。
予想外の抵抗に苦戦した武田勢は兵糧攻めに方針を切り替え、城の東北方より地下道を掘り進めて城内へ突入。ついに兵糧櫓を奪い取ることに成功するのです。
これにより、さすがの信昌以下長篠城はたちまち窮地に陥ってしまうのでした。

もはや数日の内に落城か、という状況にまで追い込まれた守備隊は援軍要請のため、城外へ密偵をだすこととしました。
その大役を任されたのが長篠合戦の主役とも言える「鳥居強衛門(とりいすねえもん)」なのです。

わが君の命にかわる玉の緒を なに厭ひけむ武士の道

そう辞世を残し、夜半に出発するのです。

…きました!
ひでるさんはこの鳥居さんと会ったこともなければ(そりゃそうだ)、長篠城内で帰りを待っていた訳でもありません。
…ですが、このエピソードを聞くとなんだかぐわーっときて泣けるんですよー。
るるる。
当時の方も同じような気持ちであったらしく、後に彼の姿を自らの旗印にする者さえもいたそうです。
これからイイ場面ですよ!!

⇒つづく

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※光栄さんはこういった似たようなネタとか、追加パックで稼ぐのが好きでないです。
 ‥汚いよね。


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武田勝頼侮り難し 「長篠合戦」1

2006年08月28日 | 歴史
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本日は現代でも議論が尽きない新旧入れ替え戦「長篠合戦」について。

…ついにきました、「長篠合戦」ですよ。
これをやりたいがために、先に祖父「武田信虎」と戦の当事者「武田勝頼」をやってきました。
そういった記事を読んだ貴方なら、当時の武田家というものが普通が想像されるような、主君絶対な江戸時代の主従関係とは違うんだな、家臣団が力を持っていたんだな、というのがだいたいご理解頂けているかと思います。
実はこの合戦も、そんな前提があった方が読み解き易いと思われるのでした。
…では、どうぞ。


天正三年(1575)七月 …これが、運命を決する「長篠合戦」が勃発した年月です。

当時の付近情勢ですが、勢いに乗って畿内まで制圧していた「織田信長」をさんざんに苦しめた「信長包囲網」が盟主「武田晴信」の死とともに事実上瓦解。
「桶狭間合戦」に続いて人生最大の窮地を脱した信長はその機会を逃さず、越前・朝倉、近江・浅井を討伐、裏で糸を引いていた将軍「足利義昭」を追放するなど、絶対不利であった状況を各個勢力の撃破で乗り切っておりました。

対する武田家は、晴信の死後に後を継いだ勝頼が積極的に織田・徳川領に攻め込み、”勝頼侮り難し”という印象を周囲に与えています。

これは東に位置する相模北条家との同盟に加え、仇敵であった上杉家も反織田ということで、お互いの敵対関係が和らいでいたことがあると思います。
(※ごめん、この当時はそこまでではないかもしれません)
まぁ、要するに武田家としては敵を織田・徳川に絞り込めるような状態にあった、ということなのです。

特に勝頼の猛攻の矢面に立った徳川勢は若い指揮官の武田勢に悩まされ、何度も信長に援軍を請うております。
しかし、この際の信長は珍しいほど反応はにぶく、一時は「織田と断って武田と結ぶ」とまで家康が言い出すほどでした。
…まぁ、これは家康の「困ってんだよ、助けろよ」というアピールでしょうけど。

しかし、そんな風に煮え切らない信長は、この間も虎視眈々と攻め続ける「武田勝頼」という若い大将を注視・研究していたに違いありません。
なにしろ、相手は老練な晴信よりもはるかに与し易い相手だったでしょうから、その足元をいかに崩すか観察していたのでしょう。

この「織田信長」という人は、かなり早期の段階から、目障りな対武田に向けて必勝の作戦を練っていたのだと思うのです。

⇒つづく

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鉄砲隊と騎馬軍団―真説・長篠合戦

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※こういったのを読むと、歴史ファンはちょっとがっかりするかもしれません。
 しかし、誤った歴史を真実として記憶し続けるのはこれまた「悪」でしょう。


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印相編 (お父さんのための仏像講座) <後編>

2006年08月27日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も前回の続きで仏像講座です。

「お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

印相(いんぞう)編の後半ですね。
別に印契(いんけい)とも言うそうです。これによって、ほぼ似たような如来の見分けができるのです。
ちなみに、何かしら持っている方(※地蔵菩薩とか四天王とか…)には当然ながら当てはまりません。
そりゃ印を結べないですから(笑)

まぁ、おそらく今後の人生には確実にまず間違いなく役に立たないことでありますが、その手の形、「印相」の名称について引き続き勉強してみましょう。
ちなみに下の丸数字は写真と対応していますんで、見ながらどうぞ。


⑦天法輪印(説法印)
天法輪印(てんぽうりんいん)、あるいは説法印(せっぽういん)とも言います。両手を胸のあたりに位置し、右手を外に、左手は内に向け、左右共に指で円を作ります。釈迦如来に見られます。
岐阜は「願興寺」の釈迦如来はこの印相です。ちょっとレアめな印相ですよ。まぁ、作るの難しそうだし。
写真は…右手若干違うっぽいですが、左手はたぶん合ってると思います。

⑧合掌印
合掌印(がっしょういん)です。そのまま、拝んでいる「合掌」という印相です。
まぁ、わざわざ説明するまでもないですよね。
ただ、これが掌全てを合わせたものだと「堅実心合掌印」、指先だけを合わせたものだと「金剛合掌印」と二種類あるのです。
普賢菩薩など、様々な仏像がこの印をとってます。
「おてての、しわとしわをあわせて”しあわせ”」ナムー。

⑨降魔印(触地印)
降魔印(ごうまいん)、または触地印(そくちいん)、または指地印(しちいん)と言います。
一方を膝上に置き、指先を下向きに、一方は腹前で手のひらを上にしたような形です。悪魔の誘惑を退けた時の釈迦の姿だそうです。
「釈迦如来」「弥勒如来」に見られます。こちらもレアめ。

⑩降三世印
降三世印(ごうざんぜいん)です。グーにした(※あるいは影絵の狐のようにした)手を胸の前で交差し、互いの小指を絡ませた印です。
名前そのまま「降三世明王」の印相です。

⑪大瞋印
大瞋印(だいしんいん)です。両手を胸の前で交差した、駄目ぇーというような雰囲気の印相です。右の人差し指、中指、薬指を伸ばして、曲げた小指の頭を親指で押さえるようにしています。ここがポイント。
こちらは「軍荼利明王」に見られます。

⑫壇陀印
壇陀印(だんだいん)です。いい響きな名前ですね。
どっかの歌手か、過去にも使ったネタですが「ダンバイン」を想像させられます。こちらは左右の手を胸前で組み、互いの中指を立てた印相です。
「大威徳明王」に見られます。他にはいないでしょ、たぶん。


…と、とりあえず今回は以上です。
今後の人生ではまったく、確実に役に立たないであろう印相特集はこんなんでー。
色々あって楽しいです…よね、どう?
「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)


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※と、いう訳で今回は…あ、印違いですね(笑)
 無印さんは「無印」というブランドになっているところがドッコイ。


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印相編 (お父さんのための仏像講座) <前編>

2006年08月26日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は久しぶりに仏像講座です。この書き出しも前と同じですね。
前回が五月末でしたから…ずいぶんこのネタほったらかしにしたものです。
うふふ…。

…なんて裏事情はさておき。
「お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

如来、明王、座り方と紹介してきましたから、本日は印相(いんぞう)編です。
わーわー。
えっと、詳しくは写真みて下さい。そんなんです。
…ってことでおしまい。
なーんて終わり方したらぶっとばされそうなので真面目にやります。

仏像をあちこちで見ていくと、実に様々で多種多様であることに気付く筈です。
しかし、その形状・手の形とか座り方などには、ある一定の法則があることにも気付くでしょう。たぶん。
これが見極められれば、これで仏像の名称までわかるのです。
ちなみに、インドでは古くから手・指にて意思をあらわす風習があり、それが仏像にも反映されて状態から種別を示すものとなったそうです。
まぁ、おそらく今後の人生には確実にまず間違いなく役に立たないこと(※あるいはそのまったく逆かも)ではありますが、その手の形、「印相」の名称について簡単に勉強してみましょう。
ちなみに下の丸数字は写真と対応していますんで、見ながらどうぞ。


①施無畏印
施無畏印(せむいいん)です。掌を正面に向けた、「やあ」という天皇家挨拶みたいな印相になります。釈迦如来とか薬師如来に見られる印となります。

②与願印
与願印(よがんいん)です。指を下にして、掌を正面に向けた逆「施無畏印」というべき印相です。指の一部が曲がっていたり、全て伸ばしていたりしますが呼び方は変わらないようです。釈迦如来などに見られます。

③智拳印
智拳印(ちけんいん)です。左手の人差し指を立て(金剛拳)、その人差し指を右手で包み、胸の中央に位置する印相になります。「金剛界曼陀羅」の主尊である大日如来などに見られます。忍者がドロンとするような手つきですね。

④禅定印(法界定印)
禅定印(ぜんじょういん)、または法界定印(ほっかいじょういん)と言います。膝上で伸ばした両手の指を重ね組み合わせた印相ですね。座禅組んだ時にこうしたくなりませんかね?釈迦如来とか「胎蔵界曼陀羅」の主尊である大日如来などに見られます。

⑤阿弥陀定印
阿弥陀定印(あみだじょういん)です。禅定印と似ていますが、両手を膝上で組み、左右の親指・人差し指で円を作ったような印相です。「世の中ゼニやー」ということで阿弥陀様です。実は細かく分類すると、下品上生(かぼんじょうしょう)・中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)・上品上生(じょうぼんじょうしょう)と、三種類あります。

⑥来迎印
来迎印(らいごういん)です。阿弥陀如来が来迎(※仏様が住む清らかな世界へご招待するため、阿弥陀様以下支援団体が総出演で迎えに来ること)する時の印相です。施無畏・与願印と似ていますが、両手ともに第一指ともう一本の指を捻ります。やっぱりこちらも「世の中ゼニやー」ということで阿弥陀様です。上も数種類ありますが、実際に阿弥陀様の印相は九種類(※九種の浄土でそれぞれ対応する阿弥陀様がいる)ほどあるようです。これを「九品の印相」といいます。


…えっと、写真の関係で他は後編としました。
今後の人生ではまったく、確実に役に立たないであろう印相特集。
しかし、こんなんをちょっと知っているだけで、お寺へ行った時の楽しさは倍増するでしょう。たぶん。
まぁ、マメ知識ですね。
「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

⇒つづく

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※今回は印の話なので、印の本をば。これで印を結びましょう!!
 ほどほどにしないと頭おかしくなったかと思われるかもしれませんが。

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聖護院門跡 (京都)

2006年08月25日 | お寺
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本日は京都は左京区の聖護院(しょうごいん)です。

写真があるので、確かにココ行っているはずなんですが、まったくひでるさん記憶ありません。
時間が遅かったか…あるいは、予約が必要だったのかな……聖護院HPには予約うんぬん書いてありましたが、必須という記述はなかったです。
なんだっけ?まぁ、いいか。

さて、この聖護院。
添付した写真の看板に「総本山」という文字が見えると思うんですが、ここは「本山修験宗」の総本山です。
修験道…ならわかりますが、「修験宗」なんては知りません。
なんなんでしょう?

えっと、そんな訳でこれを調べたんですが、文にするとエラク分かりづらいので、箇条書きにてお送りいたします。


い) 増誉大僧正
時代は平安。
ここに増誉大僧正(ぞうよ・だいそうじょう)という方がおりました。この人葛城山で厳しい山岳修行を行い、最終的には”天皇の護持僧”にまで出世した、たいそうすごい方なんです。

ろ) 白河上皇
護持僧であったその増誉さんは白河上皇の熊野三山参拝の案内役に抜擢されると、これを見事に務め、その功により寺をもらいます。
このお寺こそが「聖体護持」の二字を取った、「聖護院」なのです。

は) 熊野三山・検校職
よほど「増誉」の案内が行き届いていたのか、聖護院を貰っただけでなく、「熊野三山検校職(くまのさんざんけんぎょうしょく)」にも任ぜられています。

この熊野三山ってのは「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三つの神社でして、昔から修験道の地として有名だったところなのです。
でねでね、「熊野三山検校職」はその修験者(神社)たちの最高責任者みたいなものなんですよ。最盛期は全国二万という末寺を抱える、一大修験集団にまでなったそうなのです。
ちなみに、
伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり
なーんて言われるほど、一時期は熊野参拝が盛んであったのでした。

に) 静慧法親王
静慧法親王(じょうえほっしんのう)は「後白河上皇」の皇子さまさまです。
その静慧法親王が「聖護院」に入ったことで、代々の法親王も入寺していく「宮門跡寺院」としての地位を固め、当時属していた天台宗内でも特に重要な地位を占めることとなるのです。
さらに、「後白河上皇」は熊野に自領を有しておったんですよ。
それがため、熊野との結びつきもここでより一層強くなっていくのです。

ほ) 本山修験宗の設立
その後、ほとんどの京都寺院同様に「応仁の乱」など数々の戦火によって度々焼失。再建と移転を繰り返し、現在の位置に落ち着くのは延宝四年(1676)、江戸時代では将軍「徳川家綱」の頃でした。

その後、明治元年(1868)の「神仏分離令」、明治五年(1872)の「修験道廃止令」によって一時は天台宗に属しますが、昭和二十一年(1946)に本来の教えに近くなる「修験宗」を設立。
さらに昭和五十七年(1982)には現在も続く「本山修験宗」が設立されるのでした。

…と、まぁそんな訳で、こちらには修験道に関連した「役行者」や「蔵王権現」があり、さらに本尊は平安時代作の「不動明王」なのです!
興味ある方はぜひどうぞ!事前に予約しておけば完璧なはずです!


[住所] 聖護院門跡 京都市左京区聖護院中町15

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山伏入門―人はなぜ修験に向かうのか?

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※なぜなんでしょう(笑)
 そこに山があるからさ!


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播州皿屋敷がせんべいに  (お寺さんぽニュース)

2006年08月24日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はなんやかんやと色々あってご無沙汰だったこの企画をお送り致します。
いやね、ちょうど勝頼くんが終わって、またいい記事をみつけたもんだから…。


気になる情報をピックアップ!ネタがたまりしだいお届けするのんびり企画。
こんにちは「お寺さんぽニュース」の時間です。
さっそくですが、こちら↓の記事からどうぞ。


●播州皿屋敷がせんべいに 姫路の町おこしグループ商品化 [神戸新聞] 2006年 8月22日

「いちま~い、にま~い…」
 亡霊・お菊が恨めしげな声で皿を数えることで知られる、姫路城が舞台の怪談「播州皿屋敷」姫路の町おこしグループが考案した「播州皿せんべい」がこのほど、JR姫路駅の土産店「おみやげ楽市」に登場、観光客らの人気を集めている。
 怪談そのままに“一枚不足”の九枚入りと遊び心も十分で、城下町の新たな名物になりそうだ。

 住民有志でつくる「お菊楽(きらく)会」(藤井宏造代表)は、「播州皿屋敷」をはじめとする姫路の歴史の再発掘に取り組む。明治時代の町並みを撮影した写真に「播州皿せんべい」の看板を見つけ、「姫路名物として復活させよう」と、五年がかりで商品化にこぎ着けた。
 憂いのある表情の中に愛らしさがのぞくお菊さんのイラストは、姫路の女子中高生の美術グループが担当。食材も地元産にこだわり、夢前町養鶏農業協同組合の卵せんべいを使用した。皿を収納する木箱をイメージした箱は、地元の紙器販売店の手作りだ。

 今年五月、姫路・十二所神社での「お菊大まつり」で販売を開始。姫路城の土産店などでも売っているが、手作り感と一箱三百八十円のお手ごろ感が若者らに支持を広げ、姫路の玄関口への進出を果たした。
 同会の中谷節子さん(70)は「とことん地元にこだわった逸品。姫路の名物として広く発信したい」と意気込んでいる。
---------------------------------- 。。。

食べ歩きの達人(ウソ)ひでるさんをひきつけたこの記事。
「一枚不足」ってーのは、なかなか楽しいネタでした。
こう見ると、いかにもありそうな土産商品でして、いままでなかったのが逆に不思議な感じさえします。
いいですね、ぜひ新たな名物になってほしいものです。
なにせ姫路城はまだひでるさん行ってないですからね。
うふふ…。



●長野・安全第一 子安地蔵菩薩立像

さて、「お寺さんぽニュース」はひでるさんが所持する膨大なくだらんネタ写真を消化するためにやっているという…。
毎度お馴染み、恒例の一発ネタです。
たしか長野かどっかの石材店でみつけたのが↓コチラ。



お地蔵さまは傘とかニット帽をかぶせられても大人しく従う無口な方(笑)なんですが、こちらではヘルメットをかぶせられてしまったんですね。
もう、完全におもちゃと化しています。
まぁ、馬鹿馬鹿しいくだらんネタなんですが、妙に似合っているところがミソ。
首にタオル巻かれたりして、どこにでもいそうなおっちゃん風情になってます。
なんかいいよね。



●舞妓:ホームページ募集に予想外の反応 京都 [毎日新聞] 2006年8月21日

 京都市の花街で、舞妓(まいこ)をホームページで募集するお茶屋が増えている。
 血縁、地縁だけでは集められなくなったためだが、予想以上の反響があり、今年3月末の舞妓の人数は75人と過去10年で最多となった。
 
 今秋に店に出る予定で修行中の亀田愛美さん(16)は、「京都への家族旅行で見た舞妓さんにあこがれていた。一般にはなれないと思っていたが、HP募集を見てチャンスと思った」と話している。

 京都花街組合連合会によると、かつて200人以上いたともいう舞妓は、04年3月末に58人に減少。HPなどで募集する店が出始めた。
 同市上京区・上七軒のお茶屋「市(いち)」は昨年12月、舞妓の日常をつづったブログを開設。
 舞妓の市まめさん(18)がけいこや年中行事などでの体験を書くとともに募集もしたところ、約50人から電話や電子メールで応募があった。

 石川県加賀市出身の亀田さんは、県立高校デザイン科の1年生だった今年3月、京都旅行で舞妓に興味を持った。旅行後に携帯電話を通じたHPで「舞妓」を検索し、このブログを見つけて申し込みを決めた。両親は高校を中退したうえ、親元から離れて花街に出ることに反対の気持ちがあった。しかし、最後には「やりたいことなら」と了承してくれたという。

 京都の他のお茶屋でも、4軒ほどがHPで募集している。京都伝統伎芸振興財団も今年2月からHPで舞妓の募集を実施し、半年間で約20人から応募があったという。

お茶屋「市」のブログ
---------------------------------- 。。。

舞妓さん研究の第一人者(ウソ)ひでるさんをひきつけたこちらの記事。
そうですね、いざ「舞妓」になりたいって思っても、どうしたらいいのかわからないのが事実。
うん、いいじゃない。
HPで募集ってーのはいかにも現代ちっくで不安な感じですが。変な人まできそう。

…しかし、古き良き伝統がそれで存続できるのであればいいのではないでしょうか。
確かに、不変でなければいけないところもあるとは思いますが、できうる限りその時代に合わせた形をとっていくのは、またこれも必然なのでしょう。たぶん。

ただね、舞妓を目指そうというそこの皆様。
はっきり言って生半可な覚悟ではつとまりそうにない世界ですんで、くれぐれもよく考えて下さい。ネットだからって適当は駄目よ。
…ひでるさんも申し込みは泣く泣く  諦めました。(←根本的に無理だってば)



[お寺さんぽニュース・過去記事]
⇒ 奈良にコンビニ寺院出現
⇒ 奈良で人気「大仏プリン」
⇒ 寺の裏山から古銭11万5000枚
⇒ 愛国心 通知表評価項目に
⇒ 短パンは反イスラム 過激勢力が警告
⇒ 浄土宗:7億円が使途不明


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怪談 青山家の井戸に身を投げた物悲しいお菊の物語り 番町皿屋敷 [江戸怪奇夜話し 第6話]

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※話を知らない人のためにこんなんをご紹介。
 ひでるさんは絶対に見ませんよ。夜眠れなくなります。


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がんばった勝頼くん/強すぎる大将「武田勝頼」4

2006年08月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は甲斐武田氏十二代目の当主「武田勝頼」です。厳密にはこの人当主ではないようですが、まぁいいでしょう。

長男である良将「武田義信」の死によって、偶然当主となった勝頼くん。
武田を滅亡に追い込んだことから彼の評価は厳しいものが多いですが、実際はよく頑張っています。決して名の上にあぐらをかいて遊んでいたわけでも、暗愚な大将でもないのです。
今回は、そうした不幸を背負う「武田勝頼」の最終回です。
ハンカチなくては見れない、胸を打つようなのラストをとくとご覧下さい。


さて、勝頼が継いだ武田家は中心たる晴信を欠いた後でも、以前の勢いを失ってはいませんでした。積極的に活動する若い大将・勝頼に、信長も警戒を解いてはおりません。
しっかり、”手ごわい相手”として彼を認識していたのです。

徳川領へ進攻した勝頼以下、武田勢。(※この模様は後に当ブログで詳細に書きます)
ここで織田・徳川連合軍と対峙した勝頼は徹底した守りの構えと倍の兵力に圧倒され、多くの重臣を失う致命的な敗北を喫するのです。
また、「長篠合戦」後には、前回ちょろっと書いた”上杉家内乱の介入”で結果的に周囲の敵を増やし、勢力を大幅に衰えさせていくのでした。

経験豊富な「山県昌景」や「馬場信房」といった古参の良将を失っていたこと、織田・徳川・北条といった勢力に四方を囲まれたこと、軍事費などがかさみ、急速に経済状況を圧迫させたことは、滅亡に拍車をかけるのです。


さて、娘婿で一門衆の「木曾義昌」は勝頼に命ぜられた「新府城」築城の増税から不満を募らせ、なんと織田方へ寝返ってしまうのです。
この事件を切っ掛けとして、本格的な崩壊が始まります。

もともと勝頼と仲が悪かった(らしい)、というのもあるようですが、人質となっていた母や子供をも犠牲にした一門衆、義昌の反乱は周囲に大きな影響を与えたようです。
そして、晴信の時代にはなかった、城を築こうとした事実。
…これらが、勝頼の求心力が大きく低下していたことを物語っているのです。

反乱者、木曾義昌の討伐に乗り出した勝頼ですが、木曽谷へと続く信濃での戦で土地に精通した木曾軍に敗北。
また、これは義昌の支援に乗り出した織田・徳川軍進攻の切っ掛けとなり、信長の頼れる息子「織田信忠」率いる織田の大群が進入すると、鉄の結束を誇っていた武田は裏切りと逃亡が続出し、あっさりと瓦解してしまうのです。

晴信の弟、「武田信廉」は戦わずに戦意喪失して逃亡、一門衆の「穴山信君」も徳川に降伏。
わずかに抵抗したのは、高遠城を守る弟「仁科盛信」のみであったという、悲惨な状況でした。
こうなると勝頼の指揮力は皆無となり、その命令に従う者はもうどこにもおりません。


一族や譜代の家臣にも背かれた勝頼。
まだ未完成だった新府城を燃やした勝頼は、受け入れを申し出た一門衆の「小山田信茂」と小姓から晴信に仕えていた「真田昌幸」両名から小山田を選ぶんですが、なんとこちらにも裏切られてしまうのです。

この時、もし勝頼が「真田昌幸」を選んでいたなら、末路は多少でも彼にとって安らかなものであったと思います。
昌幸は小姓として晴信の傍に長く仕え、その才を高く評価されていた人物です。
独立後は生き残りのため、やむなく主家をコロコロ変えてはいましたが、それは本意でなかったと思います。二人の息子の行動が、それを証明しているように感じます。
だから、彼が勝頼の首を土産に信長に頭を下げるとは到底想像できないんです。


失意の勝頼は僅かな従者と共に天目山に追い詰められ、こちらで織田方の兵を受け、孤軍奮戦するもかなわず、自害するのでした。
勝頼は三十七歳、息子の信勝はまだ十五歳なのでした。


カリスマの父を持った息子は精一杯がんばったんです。ただ、ちょっとだけがんばりすぎたのかもしれません。
これには父晴信が後継者育成を怠っていたことにも原因があると思います。
自身が病を患っていたとされるなら、なおさらでしょう。

強すぎる大将「武田勝頼」はこうしていくつかの偶然が重なったことで歴史の表舞台に立たされ、淋しく悲しくわずかな従者と共に消えていくのでした。
ああ…勝頼さま……。


[関連記事]
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]


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武外伝 ~激闘・戦国武将 BOX

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※よくあるコレクターズアイテムですよ。いいよね、刀剣って。
 


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後を継ぐ勝頼くん/強すぎる大将「武田勝頼」3

2006年08月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は甲斐武田氏十二代目の当主「武田勝頼」です。
厳密にはこの人当主ではないようですが、まぁいいでしょう。

武田軍団の一員として頑張る勝頼くん。長男である良将「義信」は作戦の違いから父と対立し、幽閉された末にそこで死亡してしまうのです。

後継者の筆頭であった「太郎義信」の死でにわかに世継ぎ問題が発生した武田家。
さて、ここで歴史が語る事実は不鮮明なのでした。
勝頼くんが正式に父晴信から後継者指名を受けたとか、孫にあたる「信勝」をひとつ飛んで後継者に指名したのだ、などと色々言われています。

家臣と普通に肩を並べていた四郎勝頼。
諏訪家を継いでいた彼は、武田とはみなされていなかったのでしょう。…晴信も彼を特に息子として遇してはいないようですし。(たぶん)

…余談ですが、晴信が色々勝頼に対して訓戒したという話もありますが、どれも胡散臭い雰囲気が漂っています。なんというか、晴信の言うことをことごとく守らなかったから滅亡した、みたいに書いてあるのね。
実に具合良いエピソードばかりなので、それらは創作ではないか、と思うのです。

また晴信の遺言、山県昌景に言ったという「明日は瀬田(※京へ至る地名)に旗を立てよ」に反して、「三年間自重」してしまった武田家の動きを見ると、後継者指名されたのはやはり「信勝」ではなかったのか…と思うのです。
(※実際は三年を待たず、活動してます。当時は信長包囲網の真っ最中でしたから、戦略的には攻め続けなければ織田方に余裕を与えてしまうのです)


さて、「信長包囲網」は晴信存命中に越前朝倉が突然撤兵したことでほぼ瓦解。おまけに盟主である「武田晴信」の死によってこれが完全に崩壊すると、窮地に追い込まれていた「織田信長」はその機会を逃さず、各勢力を各個撃破するのです。

…そんな状況下で実質後を継いだ武田勝頼。
幼少期(小姓)から晴信に仕えてきた重臣「高坂昌信」より「強すぎる大将」とまで評されるほどの活躍をするのです。
よく言われる、徳川方の「高天神城」は父晴信がどうしても落とせなかった難攻不落の名城ですが、勝頼はこれを支配下に置くなど、上々の戦果を上げているのです。
おそらく、戦においては滅法強く、評した高坂など老臣たちは”頼もしい”と感じると同時に、どこか微妙な危うさを察知していたのではないでしょうか?

勝頼は、越後上杉家の内乱「御館の乱」に介入して相模北条家を敵に回すなど、自ら不利になるような戦略を後にやってしまいます。
(※ちなみに、この↑戦略間違いは、長篠合戦と並んで滅亡の切っ掛けであります)
思うに、戦術(局地戦)には強く、戦略(大局的見地)にはやはり劣っていたのだろうと思うのですよ。
このひとは。

⇒ つづく

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信長の野望サウンド・ヒストリー
ゲーム・ミュージック
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※いつも書籍なので、たまにはCD音楽をば。
 「…そこの旦那ぁ、ゲーム音楽って馬鹿にしちゃーいけませんぜ
 と、言うことで、これで戦国体験できるくらい優れたモノです。
 ちなみに、ひでるさん携帯音楽は信長の野望・全国版の「現世夢幻(PC88版)」です。


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運命が変わる勝頼くん/強すぎる大将「武田勝頼」2

2006年08月21日 | 歴史
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本日は甲斐武田氏・十二代目の当主「武田勝頼」です。
厳密にはこの人当主ではないようですが、まぁいいでしょう。

さて、武田軍団の一員として頑張る勝頼の身に、突然その運命をゆるがす事件が起こるのでした。
…ということで前回からの続きをば。


武田晴信(信玄)の正室「三条の方」に生ませた嫡男は「武田義信」でした。
今に伝え残る話では、父に負けない勇猛さと真っ直ぐな心をもつ、家臣の評判も上々な良将であったようです。
晴信はやむなく親子対立となってしまった自らの経験もありますから、この嫡男を大いに可愛がったものと思われます…が、しかし!

今川義元、織田信長の急襲に遭い、桶狭間にて討死!!

当時、駿河・今川家、甲斐・武田家、相模・北条家は「三国同盟」を結んでおり、義元の敗死は武田家にとって、容易ならざる事態だったのです。
(※ちなみに、今回写真は桶狭間合戦画)

北条はこの同盟を守り、混乱の中に後を継いだ嫡男「今川氏真」を助けるべく、動きます(※北条家として西に敵を作りたくない、という戦略もあると思う)が、晴信はここで同盟を破棄し、駿河への進出を決断するのです。

山国を本拠とする武田家にとって、海産物を入手できる海沿いの国、しかも豊かな平野と穏やかな気候の駿河国は非常に魅力的だったのです。
(※これは嘘話ですが「敵に塩をおくる」で知られる”塩止め”も回避できるしね)
ついでに、後継者の「今川氏真」は馬鹿の代名詞的な愚将だった、というのもあるのでしょう。

しかし、義信の正妻は今川義元の娘であり、「これは信義に反する」ということから、なんと親子対立に陥ってしまうのです。
…ここで歴史の語る事実は、義信死亡。晴信が駿河を併呑する、となるのです。

これには謀反を企てたとか、切腹したとか、病死したとか、色々様々に伝えられています。
しかし、確かなことは、義信は幽閉され、そこで死亡したこと。さらに、義信つきの猛将「飯富虎正(おぶとらまさ)」が同時期に自刃しているということです。

本稿は「太郎義信」ではないので詳細は避けますが、なにはともあれ武田の有力な跡継ぎはこうして歴史の表舞台から消えてしまうのでした。

さて、勝頼くんは四郎との名乗りで想像できるかもしれませんが、彼は四番目の男子なのです。
ここで晴信の子供らを具体的に書きますと、

1) 義信 …幽閉され死亡。
2) 信親(竜芳) …盲目のため、出家。
3) 信之 …夭折。
4) 勝頼 …諏訪家の名跡を継ぐ。本編の主人公。
5) 盛信 …仁科家の名跡を継ぐ。滅亡前に高遠城で「織田信忠」の大軍に囲まれ、討死。 

この他に男子が二、三名おりますが、まぁそんな感じなのでした。
要するに、順番で言えば勝頼くんが適当なんですねー。

⇒ つづく

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新府城と武田勝頼

新人物往来社

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※しかし、跡継ぎとなったことでこうして本もいくつかでている勝頼くんです。
 新府城と勝頼ってタイトルだと厳しい批評かもしれませんが。

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誕生する勝頼くん/強すぎる大将「武田勝頼」1

2006年08月20日 | 歴史
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本日は甲斐武田氏十二代目の当主「武田勝頼」です。
厳密にはこの人当主ではないようですが、まぁいいでしょう。


武田氏のおこりについては別途「武田信虎」の巻を見て頂くとして、その息子晴信(信玄)は実父信虎を追放して国主となっていました。
当時から最強軍団と恐れられていた武田家(本当)は、信長包囲網の大看板として重要な位置にありましたが、上洛途中で病死してしまうのです。
これはNHK大河ドラマ↓などでもやっておりますんで、ご存じな方も多いでしょう。
…だもんでやりません(笑)
今回はその後を継ぐこととなる勝頼くんのお話。


当主の座に着いた「武田晴信」は信濃(長野)へ進出する際、父信虎が進んだ北方ルートではなく、西方への進出を企み、父の代では同盟を結んでいた諏訪氏を攻撃してこれを滅ぼすのです。

勝頼の母「諏訪御料人」は滅ぼされた「諏訪頼重」の娘でして、美人で知られる(と言われる)彼女を側室に、と考えた晴信は家臣団の総反対に遭います。
これを説得して、望みを叶えたのが実像が不確かな軍師「山本勘助」であると言われています。
(※山本勘助は存在したことは確かなようです)


…ちなみに、ひでるさんはこないだ知りましたが、今度の大河ドラマはその「山本勘助」が主役だそうですね。
ほとんど資料が残っていない方なので、たぶんやりたい放題ですよ。
おそらく、まず間違いなく、ぜっったいにひでるさんは見ることないでしょう。
見たら、画面にツッコミ疲れするでしょうから。



さて、そんな両者から生まれた勝頼はその名跡を継ぎ、「諏訪四郎勝頼」と名乗ります。
武田家中では、この”滅ぼした諏訪家の血を引く勝頼”に対して、どうやら一種の恐怖感を持っていたようなのです。

また、それがために、家中ではやや距離を置かれていた(と想像できる)勝頼は自らを認めさせるため、合戦のたびに獅子奮迅の活躍をするのでした。

彼にしてみれば、諏訪家再興も敵討ちもまったく頭にない、関係ない話でしょうから、訳のわからん噂話を払拭するためにも、実力をもって訴えることしかできなかったのです。
…こうして武田二十四将の一人(※余談ですが、当時はそんなくくりありません)とまで言われるようになる勝頼ですが、その運命を揺るがす事件が起こるのでした。

万が一、これがなければ、勝頼は武田の猛将として、普通に一生を終えたかもしれないのです。

⇒ つづく

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NHK 大河ドラマ 武田信玄 完全版 第壱集

ジェネオン エンタテインメント

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※どうせなら、また武田信玄でいいのにー(見ないけどね)
 風林火山だっけか、なんで山本勘助なんてところにするのかねぇ。
 …っていうか上杉謙信やってくれ。


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五智如来石像 (葛飾区・真勝院)

2006年08月19日 | 仏像
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本日は葛飾区の「真勝院」です。
ここには指定有形文化財の「五智如来石像」がありますんで、寅さん記念館を見た帰りにでも眺めていって下さいね。
こんなんなかなかありませんので、ぜひ。


さて、五智如来(ごちにょらい)とはなんでしょうか?

密教では大日如来の知恵を五つにわけ、これにそれぞれ仏さまをあてがって「五智如来」と言っているそうです。
ちなみにその五つの知恵ってのは、

1) 法界体性智(ほっかいたいしょうち) 最高の知
2) 大円鏡智(だいえんきょうち)     清浄な知
3) 平等性智(びょうどうしょうち)     平等を観ずる知
4) 妙観察智(みょうかんざっち)     疑いを解く知
5) 成所作智(じょうしょさち)       衆生のためにすべきことを成就する知

…なんだって。
真言の行者は発心修行(ほっしんしゅぎょう)の結果として、この五智を得ることができるそうです。
すごいですね!
ちまちま学校なんぞへ行って退屈な授業うけることないですよ!!

さて、そうするってーと「発心修行」ってのがどんなんか気になるでしょ?
どうよ?

その発心ってのは「発菩提心」の略でして、菩提心をおこすこと、だそうです。
んでもってその菩提心とは、悟りを求めて仏道に入ること、なんですね。
要は信者を広めなさいな、ということですよ。

いやーん、なんだか結局は政治ちっくな話なんですね。
くさいくさい。キムコでも置いておきましょうか。

でねでね、写真の像は向かって右から…
 阿閦如来(あしゅくにょらい) (2)
 宝生如来(ほうしょうにょらい) (3)
 大日如来(だいにちにょらい) (1)
 阿弥陀如来(あみだにょらい) (4)
 不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい) (5)
…の各如来となります。(※括弧数値はそれぞれ上記記載の五つの知恵に対応)

平安時代以降に若干だけ作成されたようですが、基本的に一般庶民の信仰対象ではないということで、非常にレアなものです。
有名なものですと、京都「安祥寺」には重文の五智如来がおられるそうですよ。

さて、この真勝院「五智如来石像」は柴又の名主「済藤次良衛門」、相模伊勢原村は「鳥居九良左右」らによって逆修供養の目的で建てられたそうです。
この逆修供養(ぎゃくしゅうくよう)ってーのは何かというと、生前に”自分”の死後の冥福を祈って仏事を営むことだそうです。

なんでー、これって金持ちの道楽じゃない。
どうせ自分で彫ったんではないでしょうし。
さっきの修行といい、作った目的といい、なんだかがっかりですよ。
…とか言ったりして。まぁ、珍しいものなんで、みてみて下さい。



[住所] 真勝院 東京都葛飾区柴又7-5-28

[関連記事]
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 大日如来
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 胎内参拝 五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来
⇒ 薬師如来 蛸薬師
⇒ 弥勒如来

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高台寺 (京都)

2006年08月18日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は東山区の「高台寺」です。

前に秀吉の正妻「ねねさん」の関係でこちらの写真を掲載しましたが、お寺については(たぶん)触れていなかったと思いますんでこちらをば。

歴史の女性では北条ファンクラブ(んなのない)でもありますんで、「北条政子さま」が好きなひでるさんです。この方は伊達に「尼将軍」なーんて呼ばれているだけあって、色々な意味で歴史上最も優れていてスゴイ方だと思っているんですが、このねねさんこと「北政所さま」も、下級武士出身の女性が国のトップたる女性にまで出世したわりには、生涯生き方がまったくブレなかったという点で凄い方です。
さして政治世界には首を突っ込まなかったところも、いいところだと思います。
…なんというか、年とっても可愛らしい女性だったのではないでしょうか?
(※ちなみに、雰囲気的に北条政子さんは普段凛々しく、家で可愛い感じよ。いいなぁ

結城秀康(※徳川家康の次男)の小説で、彼はなかなか認知されなかった、縁薄い実家・徳川家から人質として豊臣家へ出されるんですが、秀吉とねねさんはまるで実子のように受け入れて、物凄く可愛がるシーンがあるんですが、実際もそんな感じであったかなと思います。
福島や加藤といった子飼いの武将らがよく懐いていた、って話もありますし。

…と、まぁた寺の説明するとか書いておきながら、いつしかねねさんの話題になっていましたので戻しますね。
鷲峰山「高台寺」は正式名称「高台聖寿禅寺」といいまして、秀吉死後にねねさんがその菩提を弔うため、出家して開創したお寺です。

慶長十年(1605)創設。
ちなみに、関ヶ原合戦は慶長五年(1600)、大坂の陣は慶長十九年(1614)でした。時代的には実に微妙な頃なんですね。
この造営に関しては、徳川家康が多大な援助をしたそうで、寺は壮麗を極めたと言われています。
ねねさん当人もわかっていたことでしょうが、この当時はマークすべき要注意人物なんですね。家康も様々な思惑などがあって気を使ったんでしょう。

ほか、茶室や化粧御殿(※写真)はなんと伏見城からわざわざ移築したもので、ねねさんはここに住んでいたようです。

寛永元年(1624)にそんなねねさん死去。
享年七十六。
その年に「建仁寺」の三江和尚を迎え、ここで初めて「高台寺」となったそうです。これはねねさん出家の際に「高台院殿湖月尼」と号していましたから、そこからとったのではないかと言われています。

以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失っておりますが、残った霊屋や開山堂などは重文指定となっています。秀吉木像などいろいろあって楽しいお寺なので、ぜひ行ってみて下さい。



[住所] 高台寺 京都市東山区高台寺下河原町526


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戦国の女たち―司馬遼太郎・傑作短篇選

PHP研究所

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※こんな本はどうでしょうか?
 ねねさんもいると思います。たぶん。


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追放された巨星の父 「武田信虎」 <後編>

2006年08月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国最強軍団と恐れられた武田軍の頭目、武田晴信こと信玄の父、「武田信虎」です。


天文十年(1541)
武田晴信は父「武田信虎」を国外追放としました。
粗暴で傲慢、極悪非道な「鬼畜王ランス」のように言われる信虎ですが、それはちょっと言い過ぎではないかいな、という話のつづき。

昨日までの点から伺えるキーワードは「家臣団」なのです。
ここに、想像される事態を箇条書きにしてみました。

い) 国内統一のため、武力によって有力豪族を討伐した。
ろ) 屈服した生き残りを傘下に組み入れた。(心服ではない)
は) 自ら望んで旗下となった勢力も、武威に恐れをなしただけだった。
に) 外敵に対抗するため、勢力拡大をする必要から戦闘が続いていた。
ほ) 山国である甲斐の国力は豊かでなかった。
へ) 兵役のため、民は何度も働き手(農民ね)を戦に取られていた。
と) 傘下となった豪族たちも、それに困っていた。
ち) 信虎自身が豪快でおっかない性格だった。
り) 自らの権威を上げるためか、単に性格なのか、信虎はワンマンであった。
ぬ) 諌言した家臣が手打ちにされた。その事実に尾鰭がついて広まった。
る) 成長した晴信はおやじに比べ、聡明で人の話をよく聞いていた。
   実績も立て、将来有望だった。

…こんな感じでしょうか。
と、そーんな流れが重なり・広まり、立派な若武者となっていた晴信のもとへ家臣団が集結したのではないでしょうか。

いわゆる室町時代の流れである連合国家の色が強かった武田家では、配下たる家臣団に担がれない(信服させない)限り、国を維持することはできなかったのです。

それ以外には、信虎は物静かでどことなく気味悪い晴信よりも、素直で柔順な次男信繁を愛し、彼に後を継がせようとしていた、なんて話もあります。
(※信虎にしてみれば、息子晴信は初陣の際などもそうですが、コイツ何考えてるのかわからない、という感じを受けていたようです)

これ本当かどうかは不明ですが、信繁を溺愛する信虎は何かと彼に贈り物をするんですね。
それを丁寧に拝領した信繁は「こういうものを頂きました」とわざわざ晴信のもとへ見せに行き、場合によっては献上していたというのです。
「武田の副将」と言われ、その片腕として活躍した彼の性格・兄弟関係がよく見て取れるエピソードだと思います。
(※余談ですが、後に信繁は川中島合戦で窮地に陥った晴信を守るため、自ら身代わりに討死するのです。「惜しみても、尚惜しむべし」と言われた彼の死は晴信にとって大変な衝撃で、号泣したと伝えられています。ちなみに「真田幸村」の名(信繁)はこの人から拝借したとか…)


話を戻しまして、信虎が本気で後継を信繁にと考えていたのなら、これも追放となる要因の大きな一つになったでしょう。
大名家はいわば現代の会社のようなものですから、おかしな方向へ進む大将(社長ね)を家臣団(社員)としては捨て置くことできません。
特に後継者問題は、大友・斎藤・織田・上杉…などでもあったように、国を二分し、それがため最悪他国に付け入られて滅亡の危機にもなりかねません。
変に派閥が出来上がって内乱へと発展する前に手をうったのだとも考えられます。


追放された信虎は今川氏へ居候し、その滅亡後は各地を流浪。
勝頼の代になってようやく甲斐へ戻り、そこで死亡するのです。
結局、病によって志半ばで死んだ息子晴信より、長く生きたのです。
享年八十一。


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 かるた、ですよ懐かしいなー。


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