のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は現代でも議論が尽きない新旧入れ替え戦「長篠合戦」について。
長篠城へと攻め寄せた武田勢は予想外の抵抗によって難航し、守備側の兵卒「鳥居強衛門」の活躍もあって士気のあがった城兵は、結局織田・徳川連合軍の援軍到着までねばりつづけたのでした。
さて、織田・徳川の連合軍約三万五千は長篠城の西、設楽原に布陣します。
その際、各兵士が担いできた木々で馬防柵を築き、さらに二重・三重の空堀を掘りすすめ、土塁を作るなど、二倍以上の兵力を有しながらも完全な守備隊形を敷いていました。
これは長篠合戦を理解するポイントのひとつです。=Point!=
さて、これと同時に長篠城救出のため、密かに出発した「酒井忠次(さかいただつぐ:徳川四天王の一人)」は鉄砲隊を含む別働隊を引き連れ、武田勢が城攻めのために築いていた付城の「鳶の巣山砦」を夜襲。
これは大成功し、武田方は晴信の弟「信実」をはじめ、名だたる武将が次々に討死するという大敗北となるのでした。
こちらの夜襲戦は設楽原のメイン戦場に隠れてあまり知られておりませんが、長篠城を救出すると共に武田方の補給線を断つという、非常に重要な意味を持っていたのです。
でね、こちらもこの合戦を理解する大きなポイントのひとつなのですよ。=Point!=
この戦いはそれら要因により、武田方は野戦へと引っ張り込まれた形なのです。
これは「川中島合戦」で、軍師「山本勘助」が進言した「啄木鳥戦法」をそっくり逆にやられてしまったような感じなのでした。
川中島では戦の天才「上杉謙信」が事前に策を察知し、武田方の虚をついたのですが、勝頼はまんまと相手の思惑にのってしまったんですね。
さて、よく言われている話がありますね。
軍議の席上にて、勝頼お気に入りの長坂・跡部の両名が対決を主張して譲らず、反対する老将らがやむなくそれに従った…というお話。
これは明らかな誤りです。
なにしろ、その二人は軍議どころか合戦にすら出ていないのですから。主張しようもありません。
もう一つ、老将らがこぞって反対したというのもおそらく違うでしょう。
なんでー?という訳で、ここでまとめとして、対決を決意したであろう事柄を箇条書きにしてみました。
どうぞ↓
い) 砦が落とされ、退路(補給路)を断たれてしまった。
ろ) 相手の兵力は多いが、横に広がった布陣なので、一点突破して陣形を崩せば勝機があると判断した。
は) 信長は過去の動きからしても武田を怖がっている、対決を避けたがっている。
に) 現に、兵力に勝っていながら徹底した守備陣形を敷いている。
ほ) 武田勝頼以下、皆野戦には連戦連勝だったため物凄く自信を持っていた。
へ) 当時の常識で、畿内・尾張は弱兵として有名だった。
(※逆に甲州兵は強いと評判)
と) それらの証明として「三方ヶ原合戦」では連合軍をコテンパンにやっつけていた。
ち) 時期的に鉄砲は使いづらいと予想した。
(※7月の梅雨時期で雨が多い)
り) 織田の家老「佐久間信盛」が寝返るという情報があった。
(※これは本当か不明)
…以上ですね。
ひでるさんは「山県昌景」以下、晴信の代からの老将たちもいける、という見込みで、案外勇躍して合戦に望んだのだと思っています。
ここで不安を覚えていたであろう者は、殿軍を努めて最後まで踏みとどまった「馬場信房」と、さして戦には加わらずに撤退した「穴山信君」くらいだったのでしょう。
⇒つづく
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⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [前 中 後]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [1 2 3 4]
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操作方法切り替えれたらいいのになぁ。
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本日は現代でも議論が尽きない新旧入れ替え戦「長篠合戦」について。
長篠城へと攻め寄せた武田勢は予想外の抵抗によって難航し、守備側の兵卒「鳥居強衛門」の活躍もあって士気のあがった城兵は、結局織田・徳川連合軍の援軍到着までねばりつづけたのでした。
さて、織田・徳川の連合軍約三万五千は長篠城の西、設楽原に布陣します。
その際、各兵士が担いできた木々で馬防柵を築き、さらに二重・三重の空堀を掘りすすめ、土塁を作るなど、二倍以上の兵力を有しながらも完全な守備隊形を敷いていました。
これは長篠合戦を理解するポイントのひとつです。=Point!=
さて、これと同時に長篠城救出のため、密かに出発した「酒井忠次(さかいただつぐ:徳川四天王の一人)」は鉄砲隊を含む別働隊を引き連れ、武田勢が城攻めのために築いていた付城の「鳶の巣山砦」を夜襲。
これは大成功し、武田方は晴信の弟「信実」をはじめ、名だたる武将が次々に討死するという大敗北となるのでした。
こちらの夜襲戦は設楽原のメイン戦場に隠れてあまり知られておりませんが、長篠城を救出すると共に武田方の補給線を断つという、非常に重要な意味を持っていたのです。
でね、こちらもこの合戦を理解する大きなポイントのひとつなのですよ。=Point!=
この戦いはそれら要因により、武田方は野戦へと引っ張り込まれた形なのです。
これは「川中島合戦」で、軍師「山本勘助」が進言した「啄木鳥戦法」をそっくり逆にやられてしまったような感じなのでした。
川中島では戦の天才「上杉謙信」が事前に策を察知し、武田方の虚をついたのですが、勝頼はまんまと相手の思惑にのってしまったんですね。
さて、よく言われている話がありますね。
軍議の席上にて、勝頼お気に入りの長坂・跡部の両名が対決を主張して譲らず、反対する老将らがやむなくそれに従った…というお話。
これは明らかな誤りです。
なにしろ、その二人は軍議どころか合戦にすら出ていないのですから。主張しようもありません。
もう一つ、老将らがこぞって反対したというのもおそらく違うでしょう。
なんでー?という訳で、ここでまとめとして、対決を決意したであろう事柄を箇条書きにしてみました。
どうぞ↓
い) 砦が落とされ、退路(補給路)を断たれてしまった。
ろ) 相手の兵力は多いが、横に広がった布陣なので、一点突破して陣形を崩せば勝機があると判断した。
は) 信長は過去の動きからしても武田を怖がっている、対決を避けたがっている。
に) 現に、兵力に勝っていながら徹底した守備陣形を敷いている。
ほ) 武田勝頼以下、皆野戦には連戦連勝だったため物凄く自信を持っていた。
へ) 当時の常識で、畿内・尾張は弱兵として有名だった。
(※逆に甲州兵は強いと評判)
と) それらの証明として「三方ヶ原合戦」では連合軍をコテンパンにやっつけていた。
ち) 時期的に鉄砲は使いづらいと予想した。
(※7月の梅雨時期で雨が多い)
り) 織田の家老「佐久間信盛」が寝返るという情報があった。
(※これは本当か不明)
…以上ですね。
ひでるさんは「山県昌景」以下、晴信の代からの老将たちもいける、という見込みで、案外勇躍して合戦に望んだのだと思っています。
ここで不安を覚えていたであろう者は、殿軍を努めて最後まで踏みとどまった「馬場信房」と、さして戦には加わらずに撤退した「穴山信君」くらいだったのでしょう。
⇒つづく
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