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豊国、ちゃっかり生き残る (山名祐豊・豊国)8

2009年09月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は但馬国の名門家である山名氏のラストです。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。

清和源氏からの名門家山名氏。
戦国時代頃に宗家・但馬守護を継いだ「山名祐豊(やまな・すけとよ)」
尼子氏に通じた「山名誠通(やまな・のぶみち)」を討伐したほか、因幡「武田高信」には尼子氏残党と結んで対抗。
甥「山名豊国」を鳥取城へ入れるほか、生野銀山を開発するなど、傾いた山名家にあってはかなり頑張っていたんですが…独立色を強める国人衆の統制はいま一つであり、また巨大勢力に挟まれたことで困難な舵取りを強いられるのでした…。


天正三年(1575)
宗家の「山名祐豊」は、「山名豊国」の仲介で突如織田家を離れ、毛利方へと寝返りました。
そんな山名氏からの依頼により、一時は毛利氏の支援を受けていた因幡「武田高信」、そして織田氏がじんわり支援していた尼子氏残党らは、「吉川元春」による討伐を受けることとなったのです。

なお、この際の混乱に乗じて、「垣屋続成」の子「垣屋光成」は、国人「田結庄是義」を攻撃して見事仇討ちを果たしております。
その後、光成は毛利氏に接近した祐豊とは行動を共にせず織田氏を助け続け、後の鳥取城攻めで功を立てるのでした。
(※因幡一万石を安堵。子の「垣屋恒総」も秀吉に従い、主要合戦に従軍しています)

西から迫る毛利氏に屈していた「山名豊国」
あまり評価されることのない彼ですが処世術には長けていたらしく、織田・毛利という両勢力に挟まれていた豊国は、天正六年(1578)からはなんと「織田信長」とちゃっかり誼を通じるなど、その間を巧みに行き来するのです。
(※この頃は秀吉ほか織田勢が播磨まで進出していたのね)

後に激戦の舞台となる鳥取城の守備についても備蓄を怠らなかったなど、ある種の才覚を見せてはいるのです。
…まぁ、これは苦労した結果ですかね(笑)

天正八年(1580)
甥・豊国はちゃっかり織田氏にも通じていましたが、毛利に与したとして宗家「山名祐豊」「山名堯熙」親子は播磨より突如侵攻した織田勢の攻撃を受けるのです。
中国方面司令官であった「羽柴秀吉」はたちまち諸城を陥落させ、続く有子山城への攻撃によって祐豊は死去。
享年七十。
その子「山名堯熙」は秀吉に下り、馬廻衆となっています。

なお、織田勢は但馬に続いて因幡にも進出し、国人衆らを次々に降伏・懐柔させています。
そして撤退した後には再び毛利氏が取り返す(笑)という、刈り取り場となっていたようです。
それは豊国が守る鳥取城も例外ではなく、毛利氏に通じるた後は秀吉に囲まれて織田家に降伏。
彼らが引いた後にはまた毛利が侵攻し、そちらに降伏…というような、まさにぎりぎりの有様なのでした。

天正九年(1581)
またまた「羽柴秀吉」から侵攻を受けた際には、主戦派だった家臣「中村春続」、「森下道誉」らが徹底抗戦を叫ぶ中、豊国は単独で降伏。
実は、城から追い出されたという情けない説もありますが、ともかくぎりぎりで城を脱出したことで命を長らえました。
鳥取城の「中村春続」らは毛利氏から城将として「吉川経家」を迎え入れ、織田氏に抵抗。
因幡山名氏の家臣「吉岡定勝」などは籠城戦中に巧みなゲリラ戦を展開して秀吉軍を悩ませますが、徹底した兵糧攻めによって四カ月ほどの籠城戦の後に開城するのです。
こちらははまた別途やります。

さて、「禅高」と称して隠居の道を選んだ「山名豊国」
もともと名門家の出身であったため文化面には精通しており、後に秀吉の御伽衆(おとぎしゅう:話し相手。読み書き代理なども行う付き人的な存在ね)となるのでした。
特に儀礼に関して明るかった彼は、成り上がりであった秀吉に重用されていくのです。
何が身を助けるか分かりませんねー

秀吉の没後も判断を誤らず、関ヶ原合戦では「徳川家康」の東軍に属しました。
慶長六年(1601)頃になると、但馬村岡に六千七百石という領地を与えられ、なんと子孫の存続にも成功するのでした。
享年七十八。
苦労した彼ですが、処世術はしっかりと身につけていたようです。


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※攻め手が秀吉であった事は、豊国の幸運だったと思います。
 もし信長だったら…(笑)



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (チアノス)
2009-09-03 19:21:33
山名豊国は七十八でお亡くなりになりました
返信する
そうですね! (あおぶひでる)
2009-09-04 00:17:36
チアノスさん、ご指摘ありがとうございます。
その通りでした、訂正しますね。

誕生が不確かなもの、七十九とするものもありますね。
返信する