お寺さんぽ Ver.03

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守れ忍城・リアルなんちゃら無双 「忍城攻防戦」前編

2011年08月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、こないだ行ってきました、関東七名城の一つ「忍城」の攻防戦について、です。

天正十八年(1590) [小田原征伐]
関白「豊臣秀吉」は、北条・真田の事件を切っ掛けに、北条征伐を決断。
東山道、東海道、そして海路から、数十万という大軍勢を小田原へ向かわせたのでした。
小田原城を囲む一方、北条方の支城を次々と攻略していった豊臣勢。
しかし、武蔵国の忍城は頑固に抵抗を続け、容易に落城しなかったのです…。


もともと、付近には忍一族という豪族がおりました。
関東管領・山内上杉氏に仕えていた成田氏はそれを攻め滅ぼし、城を築いたのが始まりとされています。
戦国期、「成田長泰(なりた・ながやす)」は関東管領・山内「上杉憲政」に属していましたが、主家の衰えと共に生き残りを模索。
上杉氏から離れ、当時勢いのあった北条氏、上杉(長尾)氏の間を、いったりきたりすることとなったのです。
天文十五年(1546)の川越夜戦後には、「北条氏康」に包囲され、北条方へ。
後の永禄三年(1560)に小田原へ「上杉謙信」が出陣した際には、そちらに従っております。
しかし、ここでは謙信と対立。
今度は上杉勢から攻囲されることとなるのでした。

永禄九年(1566)
嫡男「成田氏長」が家督を相続。
父・長泰としては、もともと次男である「成田長忠(なりた・おさただ)」に家督を譲ろうとしていたらしく、親子で揉めています。
(※家臣の反対や長忠が譲ったことで結局断念し、長泰は出家)
また、上杉・北条の同盟もあり、最終的には北条方に属することとなったのでした。
こうして、北条氏のもとで勢力を拡大させていた氏長でしたが、「織田信長」の後継者となった「豊臣秀吉」の軍勢が襲ってきたのです。

天正十八年(1590) 
秀吉の大軍が小田原へと迫ると、氏長は弟の長忠と共に五百あまりの兵を率い、小田原城へ入りました。
城主が留守となった忍城。
残ったのは、城代「成田長親(※氏長の従弟)」、そして名将「太田道灌」の曾孫「太田資正」の娘という、氏長の正室でした。

長親ほか主だった武将らを集めた氏長の妻は、
上方勢が来攻したなら、士卒が心を一つにして城を枕に討死するまで
そう言って、守りを固め、籠城の準備を進めるのでした。
成田氏ら守備側は、約二千という兵力。
さらに、農民や僧侶、工商、婦女子らを含めた非戦闘員の約千名ほどが参加しています。

一方、支城の攻略を進めていた豊臣勢。
上野国館林城を攻略(※)した「石田三成」、「大谷吉継」らは、常陸「佐竹義宣」、下野「宇都宮国綱」らと合流し、二万三千という軍勢で武蔵国忍城へ進軍するのでした。
(※こちらは十三日ほどで開城)




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