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国人衆、誠豊を擁立する (山名祐豊・豊国)4

2009年08月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえずは山名氏の歩みである“山名氏とはなんぞや??”の4回目をお送りしております。

清和源氏から続く山名氏。
室町幕府初期頃には「山名一族は六分の一殿」と言われたほどの権勢だったものの、三代将軍「足利義満」に三ヶ国とさせられてしまうのです。
「嘉吉の乱」に活躍して勢力を回復させた「山名宗全(持豊)※写真」でしたが、「応仁の乱」に長期関わったことで山名一族は急速に衰退。
各国の支配は不安定になってしまうのです。


さて、後を継いだ「山名政豊」は六角氏討伐に従って戦功をあげたほか、京の政変でも活躍。
しかし、「応仁の乱」にて播磨を回復していた赤松勢に挑んだ合戦では初戦こそ勝利したものの、文明十七年(1485)の蔭木城合戦、そして文明十八年(1486)の英賀合戦にて敗北。
特に但馬の有力国人であった垣屋氏は、この合戦にて一族に多大な被害のあったことから政豊と不和となり、山名家中に混乱を招くのでした。

政豊は晩年に「山名致豊」を溺愛して嫡男「山名俊豊」と争うなど、自ら混乱の火種を巻く失策を重ねてしまったのです
こうした事が、後に「山名四天王」と呼ばれる大田垣氏、八木氏、垣屋氏、田結庄氏ら有力国人衆の独立・反乱を招く原因となるのでした。

永正元年(1505)
ついに但馬国気多群の国人「垣屋続成」が此隅山城を攻めるという事態にまで発展。
さらに永正九年(1512)には、その「垣屋続成」・「垣屋続成」親子が但馬の有力国人らと謀って後継者であった「山名致豊」に反乱。
「山名誠豊」を擁立した国人衆らは、なんと致豊を放逐してしまうのです

そう、当時の守護大名というのは普通に想像する(※戦国大名ね)ような主従関係ではありません。
有名なところでは甲斐・武田氏の例があります。
力によって国人衆を支配した「武田信虎」は家臣団らに擁立された嫡男「武田晴信」によって追放されます。
自らを脅かす、または頼りにならない領主は認められないのです。
擁立された「山名誠豊」にしても、とりあえずトップに据えただけのこと。
誠豊が即支配力を発揮することはなかったのです。

そんな訳で有力家臣であった、垣屋氏、太田垣氏、八木氏らは、守護・山名氏の衰退によって独立傾向を強め、国内に割拠していくのです。
轟城を中心に支城を形成した垣屋氏は気多群に加えて竹野郡にも勢力をもったほか、太田垣氏は竹田城を、八木氏は八木城をそれぞれ中心として独自の勢力を広めています。
しかし、結局他国のように山名氏に代わって国を統一するほどの勢力は現れず、後に織田氏によって占領されることとなるのです。

⇒ つづく
 次回は「祐豊、悲願の因幡但馬を統一」(5/8)

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※試しに山名氏でプレイ(※DS2ね)しましたが…なかなか上級編な感じでしたね。
 周辺大名は強いし、丹後攻めても利益ないし…。
 こちらは最新版です。やる暇ないかなぁ。


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