お寺さんぽ Ver.03

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激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」1

2007年12月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…涙なくしては見られない、こちらの合戦をば。
(※実際目の当たりにはして無いですが。…当たり前か)

この合戦を知っていますか?
九州にて起こった合戦のうち、喜劇的なのは先日紹介した「耳川合戦」、衝撃的なのが「沖田畷合戦」、そして悲劇的なのがこちらの「戸次川合戦」だと思うんですよ。
「川中島合戦」で「武田晴信」の弟「武田信繁」が上杉軍の猛攻を支えて討死したように、誰かの身代わりとなって、その盾として散るというのは心を揺さぶられるものがあります。
こちらの「戸次川合戦」でも、大変に衝撃的な展開があるのでした。
ひでるさんは涙なくしては語れません。
…ハンカチを片手にどうぞ。

天下統一に向けて進む「豊臣秀吉(※写真)」
九州へ進出したばかりの豊臣勢が怒涛の進軍を見せていた島津勢に破れる戦いがこちらの「戸次川合戦」です。

信長横死後の「清洲会議」にて実権を握った「羽柴(豊臣)秀吉」
「賤ヶ岳合戦」ではライバル「柴田勝家」を討つと、織田家旧領を手中とし、天下統一に向けて駒を進めるのでした。
一方、九州では戦国時代初期から勢力を伸ばした有力大名「大友」勢、その大友家を「今山合戦」にて退けた「龍造寺」勢、最南端の薩摩に根を張る名門「島津」勢。
それら有力家による、まさに”九州三国志”というような情勢でした。
そんな九州統一レースで一歩抜きん出たのは、薩摩の島津家だったのです。

この名門島津家。
平安時代は「惟宗」を姓にしていたと言われています。
薩摩、大隈、日向の三国を有する”島津庄下司職”に任ぜられたことから、「島津」を姓としたのが始まりであるようです。
鎌倉時代頃には同三国の守護にも任ぜられていた島津家。
南北朝時代には九州に追い落とされた「足利尊氏」を助けますが、日本国の混乱そのまま家中は分裂して同族から国人・一揆勢などと争い、離合集散するのでした
中興の祖「日新斎」の名が有名な祖父「島津忠良」の活躍で勢力拡大すると、次代「島津貴久」は薩摩統一に成功して戦国大名へ脱皮、さらに大隅へ勢力を拡大させるのでした。
その子である島津四兄弟は嫡男「義久」を筆頭にそれぞれタイプの異なる優秀な武将で、祖父・父の後を継いでさらに勢力を伸長させていくのでした。

当時は最大勢力であった大友勢が南下すると、この大軍を「耳川合戦」にて破り、九州勢力図の塗り替えに成功。
続く「沖田畷合戦」でも肥後の有力大名である龍造寺の大軍を壊滅したのでした。
この二大勢力を真っ向から撃退した島津家に周囲勢力は進んで傘下へと入り、一族の悲願であった「九州統一」に向けて、凄まじい速度で侵攻を開始するのでした。

⇒ つづく。
  次回は「迷う当主島津義久の予感」

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※ひでるさん好きなお兄ちゃん「島津義久」ですよ。
 やや正体不明なところが素敵です。


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