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城攻めの達人、羽柴秀吉 (鳥取城合戦)4

2009年09月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も魅惑の攻城戦シリーズ(そんなのない)です。
後の太閤「羽柴秀吉」の実力が遺憾なく発揮される「鳥取城合戦」をお送りしております。


天正九年(1581)三月(十八日)
織田勢の影響力がじんわりと強まる山陰方面。
こちらを担当する「吉川元春」は、「中村春続」、「森下道誉」らの要請に応じて一族の「吉川経家(きっかわ・つねいえ)」を城主として送り込んだのです。
自らの棺桶を掲げ、決死の覚悟で入城した経家ですが…城内の兵糧があまりに少なかったことに愕然としていました。
鳥取城攻略のため、なんと「羽柴秀吉」は前もって商人を手配し、高値で米を買っていたのです!

六月
ついに姫路城から出陣した秀吉率いる織田勢は、但馬国にて弟「羽柴秀長」らと合流しました。
総勢は約三万という大部隊です。
秀長勢は海路から、秀吉勢は陸路を進んでそれぞれ因幡入りし、本陣山(太閤ヶ原)に本陣を置いてさっそく攻略を開始しました。

まず、付近の農民らを追いたて、いやおうなく鳥取城へ入るよう仕向けています
こうして、城内は約二千ほどの城兵ほか四千ほどの人間で溢れました。
もともと非戦闘員である多くの農民らが城へ入ったことにより、兵糧の欠乏をいっそう早める結果となっていくのです。

包囲陣形に着手したのは、七月頃から。
経家の記録では、
「三里(※約12km)四方に堅固な柵をめぐらし、河には乱杭を打ち、あるいは逆茂木を引き、あるいは水底に縄網を張り、諸陣の櫓には鼓、螺、鐘を鳴らし、所々の篝火はまるで万燈のよう」
…と、残されています。

東は峰上、西は袋川を前線として、兵を配置。
総延長三里という包囲網は鳥取城、そして北の丸山城(出城)をもすっかり囲んでしまうほど。
川岸には櫓を建て並べ、築地塀(ついじべい:土を固めた塀)を高く築くなどして、毛利方の援軍に備えています。
その包囲はまさしく、”水も漏らさぬほど”だったのでした。

一方、織田陣中では町屋を建て、市を開かせたり、歌舞伎を呼ぶなどしていました。
秀吉は後の小田原城攻めでも同じことをやっていますが、長陣に退屈しないようちゃんと工夫をしていたのです。
このため、自軍の士気は衰えることなく、逆にその様を目の当たりにした城兵の士気は大いに衰えていくのでした。

当然でしょう。
必死に守備をするその目前で、ちゃんちゃかと楽しげに遊んでいるのですから…。
まったくひどい話ですよ(笑)

⇒ つづく
 次回は「地獄絵図の鳥取城」(5/6)


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※こんなん発見しましたよ!かっちょえー!
 思わず即買いしてしまいました。

米がない!~驚愕の経家~ (鳥取城合戦)3

2009年09月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も魅惑の攻城戦シリーズ(そんなのない)です。
後の太閤「羽柴秀吉」の実力が遺憾なく発揮される「鳥取城合戦」をお送りしております。


天正八年(1580)九月
鳥取城を包囲した秀吉率いる織田勢に降伏した「山名豊国(やまな・とよくに)」
しかし、すぐさま出撃した毛利氏によって再びそちらに臣従するのでした。
なかなか大変です。
単独で講和に応じたと言われる、どうにもいまいち頼りにならない豊国
主戦派だった「中村春続」、「森下道誉」ら山名家家臣はクーデターを起こし、豊国を追放。
毛利氏に配下の武将を派遣するよう要請するのでした…。
(※豊国が単独で逃亡したとも言われる)

山陰方面を担当する「吉川元春(※写真・左)」はこれに応じ、「牛尾元貞」、「市川雅楽允(いちかわ・うたのじょう)」、「朝枝春元」ら武将を次々に送り、防備に務めました。

天正九年(1581)三月(十八日)
不利な戦況は変わらず、”指導力のある大将を”と願われた元春。
こうして、吉川家庶流であった「経安」の子、一族の石見国福光城主「吉川経家(きっかわ・つねいえ)」を新たな城主として送り込んだのでした。

四百の兵と共に運命の鳥取城へと入城した経家。
これで城兵は約二千。
この時、彼は自らの棺桶を掲げて入城したそうです。
決死の覚悟が伝わってきますね。

そんな経家でしたが、城に入った彼は驚愕していました

人や武器・弾薬は十分の備えがあったものの、兵糧が圧倒的に不足していたのです!

慌てた経家はすぐさま元春へ原状を訴え、一方では城外からの糧道確保の拠点として、千代川のそばに「丸山城」を築きました。
こうして応急の兵糧を運び込まれても、まったく足りないという有様なのでした。

…と、いうのも……。
鳥取城の攻略を目指す秀吉は、前もって若狭商人(商船)に手を回していました。
命令を受けた商人らは因幡へ入り、なんと”時価の数倍”という価格で事前に米を買っていたのです
あまりの高値がため、城兵らは「山名豊国」が万が一にと城内に蓄えていた備蓄米をもこっそりと持ちだして売っていたというのです。
要害堅固な城であった鳥取城を攻略するために、兵糧攻めの戦法が得策であると秀吉は考えていたのですね。

こうした作戦は、派手好きで惜しみなく金を使う秀吉が最も得意とする感じです。
ケチではこうはできません。

⇒ つづく
 次回は「城攻めの達人、羽柴秀吉」(4/6)


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※当時は玄米が主食だったようです。
 健康にもいいので、スーパーなどで売ってますよね。

秀吉、因幡国へ進出 (鳥取城合戦)2

2009年09月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も魅惑の攻城戦シリーズ(そんなのない)です。
後の太閤「羽柴秀吉」の実力が遺憾なく発揮される「鳥取城合戦」をお送りしております。
これがやりたかったので、ちまちま山名氏を調べていたんですねー。


「応仁の乱」では、西軍総大将という地位であった山名家。
しかし、京都にて疲弊した山名氏は播磨攻めなどに失敗したほか、各地での支配力も次々失って大きく没落。

戦国時代になると、尼子・毛利などの新興勢力に押されておりました。
今回の戦場となる「鳥取城」は、因幡山名氏の「山名誠通(やまな・のぶみち)」が築いたとされています。

久松山の地形を利用した、天険の要害である山城。
もともとは誠通に従っていた「武田信高」は、こちらの改修を続けてじっくりと力を蓄え、主家の混乱を機に下剋上を果たしたのでした。

その信高によって追放されてしまった「山名数豊」の弟「山名豊国(やまな・とよくに)※写真」
劣勢であった豊国は、宗家・但馬守護「山名祐豊(やまな・すけとよ)」に身を寄せ、その助力を受けて毛利に追われた尼子氏残党とも結びました。
一方の信高は毛利氏と結び抵抗したものの、尼子残党軍との合戦に敗れるなど戦況は信高勢に不利でした。
こうして両者の間で和睦が結ばれ、「鳥取城」は豊国へと明け渡されたのです。

城主へ返り咲いた豊国。
しかし、その前途は明るいものでなく、因幡へと兵を出す大義名分を得た毛利氏より出陣した猛将「吉川元春」に攻められ、あっさり降伏しております。
また、将軍を奉じて上洛を果たし、瞬く間に近畿を制圧した難敵「織田信長」率いる織田勢も山陰へと兵を進めてきたのでした

さて、中国地方の司令官として抜擢されたのは「羽柴秀吉」でした。
草履取りから出世した彼は織田家の有力な武将となっており、北陸の「柴田勝家」、関東の「滝川一益」、近畿の「明智光秀」らと共に、司令官クラスの一人に抜擢されていたのです。

参謀「竹中重治(※三木城攻めの際に病死)」、「黒田孝高」らを加えた中国地方の攻略は、播磨制圧から但馬・因幡という山陰方面にシフトしておりました。
天正六年(1578)頃から但馬国の攻略にかかり、天正八年(1580)には因幡国へと進出していました。

城主「山名豊国」の鳥取城はそれらのターゲットとなり、次々と来襲する両軍に挟まれた山名勢は、毛利氏・織田氏の間をぎりぎりで渡り歩くのです。

天正八年(1580)九月
秀吉率いる織田勢が鳥取城を包囲。
三カ月ほどの籠城に耐えた豊国でしたが毛利氏の援軍はなく、これに降伏するのでした。

⇒ つづく
 次回は「米がない!~驚愕の経家~」(3/6)



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※タオルだそうです。
 「夢のまた夢」がかっちょえーのですよ。

攻城戦とはなんぞや (鳥取城合戦)1 

2009年09月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだ散々山名氏をやってきましたが…ようやく本編となりました。
魅惑の攻城戦シリーズ(そんなのない)、「鳥取城合戦」です。
これがやりたかったので、ちまちまと山名氏を調べていたんですねー。
まぁ、おかげでざっくり知っているだけだった付近の歴史について、ある程度を理解することができました。


三木の干殺し(ひごろし)、鳥取の渇殺し(かつえごろし)、太刀も鉄砲(刀)もいらず…


自らの戦術をそう宣伝した戦国武将がおります。
おそらくはご存知な方も多いでしょう、後の太閤「羽柴秀吉」その人です。
相変わらずアピールがうまい方です。

合戦というと、川中島とか桶狭間のような遭遇戦を想像しがちですよね。
なにしろ、たいそう派手で華やかなものですから。
しかし合戦というのは、大抵のところ城の奪い合いであったようなのです。

えー、ゲームの経験がある方は、こないだの「信長の野望DS2」などで考えてみて下さい。
もし、あなたのプレイする大名が他国から攻められたら…野戦を選びますか?
場面によっては、なるほど野戦で一気にカタをつけることもあるでしょう。
しかし、普通は城へ篭るはずです。

攻撃されたということは、ほぼこちらの戦力(兵数)が劣っている筈です。
当然ながら、守備側としては攻めずらく守りやすい、城内へと逃げ込むのが普通でしょう。
まぁ、大雑把な話ではありますけどね。
話進まなくなるので、だいたいそんなんとして下さい(笑)


また、城を確保するというのは、付近の土地を支配したことになります。
例えば「徳川家康」は桶狭間合戦にて総崩れになった今川勢が捨てた、空き城となっていた「岡崎城」に入って独立を果たしています。

そんな訳で、戦国武将たちは日々城の攻防戦を繰り広げていたようなのです。
おおまかには。
ただし、華々しく決着が早い野戦とは違い、地味で時間から人・金まで要するのが城攻め。

これを得意としていたのが、自らの戦術を大々的に宣伝している「羽柴秀吉」その人なのでした。

…だいぶ前置き長くなりましたが、秀吉お得意の有名な城攻め、鳥取城攻略戦についてお送りいたします。

⇒ つづく
 次回は「秀吉、因幡国へ進出」(2/6)


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※そんなこんなで、城です。
 復元もいいんですが、城址に心ひかれます。

お寺で動物ウォッチング~鳥獣座について~ (お父さんのための仏像講座) 

2009年09月13日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は仏像講座なのです。
このネタを初めてから、いつか必ずやろうと思っていた”仏像と動物”ネタなのでした。
では、さっそくいってみましょう。

「お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

お寺には色々な動物がいます。
いや、そこらでふらついている猫とか犬ではなく…仏像として。
何らかの形で、仏像と共にある動物たち。
実は、それが見分けるための大きなポイントになっていたりするのです。
手が何本とか、顔がいくつなんて覚えにくいものですが、動物だったらいいのではないでしょうか?

さて、仏像が座っている台は、そのまま「台座(だいざ)」と言います。
これは時代と種類によって様々な種類があるんですが、象などの動物であった場合は「鳥獣座(ちょうじゅうざ)」と言います。
なお、基本としてタイトル通り台座で書いていますが、臨機応変に冠としている像も含めてみました。


一 【獅子】 しし
獅子に騎乗するのは、知恵で知られる「文殊菩薩」です。
文殊さまは「釈迦如来」の脇侍であるため、その際などで獅子に乗った「文殊菩薩」の姿がちらほら見られます。
直接またがらず、蓮華座の上に結跏趺坐するのが基本です。
当然、違うパターンもありますが。

二 【象】 ぞう
像でなくて象ですね。
コレに騎乗している場合は、ちと注意が必要です。

とりあえず白象に騎乗している方をみたら、たいてい「普賢菩薩」で問題ないでしょう。
ポピュラーな「釈迦如来」の脇侍であるため、普賢さまなパターンが最も多いのです。
ちなみに佐賀・滝田寺の普賢さまは、四頭の象に乗っているので注目。
また、たまーにインドちっくな、妙な笑顔の象がいるので、ぜひ注意深く観察してみて下さい。

…さて、”たいてい「普賢菩薩」”と書いたように、象に騎乗する方はまだいるのでした。
それが、寅さんでもお馴染み「帝釈天」です。
もともとの「インドラ」が白象に乗っているんですねー。
ちなみに、”アイラーヴァタ”という、牙が四本で翼があるという聖獣なので、もともとは厳密に象でないようです。

なお、膝に象面があった場合は…「深沙大将(じんじゃたいしょう)」です。
これが見られるのは、京都舞鶴市・金剛院くらいではないかなぁ。
仏師「快慶」作のかっちょえー・有名な仏像ですよ。

ついで。
もし…頭がそのまま象となっている場合は……ひでるさんの憧れ「歓喜天(聖天)」です。
非常に気難しい方であるため、ほぼ間違いなく秘仏なはず。
まず、普通に目撃することはないでしょう。
仏像展などても、出ていないと思います。
見かけたら超・ラッキー!!
(※インド仏像などで探すと「ガネーシャ」として広く信仰されているので、比較的よく見かけるでしょう)

三 【牛】 うし
こちらも比較的多く見られると思います。
五大明王像があった場合、最も簡単に見分けのつく「大威徳明王」ですね。
実際に騎乗しているのは水牛。
大威徳さまは六脚もあるため、牛くらいの動物に跨るのがちょうど良いのでした。
五大明王と共にあちこちで見かけるでしょう。

なお、同じく水牛に騎乗している方では「閻魔天」がおります。
中国で「閻魔大王」となる方なんですが、もともとの「閻魔天」も日本に伝来しているんですね。
ただ、なにが刺さったのか、「閻魔大王」の方が圧倒的な人気となり、「閻魔天」はあまり見かけないのでした。
レア像です。
ひでるさんも一回ほどしか見てません。
たしか…京都・醍醐寺の宝物館の像がソレだった筈。

四 【馬】 うま
そのまんまで覚えやすい像ですね。
こちらを冠としている方こそ、「馬頭観音」です。
観音でありながら、ほぼ明王という憤怒相な方なのですよ。
梵名「ハヤグリーヴァ」がそのまま「馬の頭をもつもの」という意味になるのでした。
いかにも騎乗し易そうなんですが、たぶんないと思います。

五 【鵞鳥】 がちょう
…これって誰だか分ります??
実は「梵天」なのでした。
これもレア像ですね。
実際に乗っているのは、京都・東寺(教王護国寺)のくらいではないかなぁ。
もともとの「ブラフマー」が水鳥ハンサ(※白いガチョウの姿っぽい神鳥)に騎乗しているのです。



六 【孔雀】 くじゃく
これまたレア像です。
漫画ですっかりおなじみ、「孔雀明王」ですね。
先の馬頭さまと逆で、明王でありながらほぼ観音ちっくという方。
名前もそのまんまですし、目を見開くほどキレイなので、簡単に覚えることができるでしょう。
ただ、そう滅多には見かけないんですよねー。
インドで孔雀は毒蛇を食べ、雨を呼ぶ吉鳥なのだそうです。

七 【狐】 きつね
レア像ですよー。
もし、狐に騎乗している方がいた場合は「荼吉尼天」となります。
白狐に騎乗した天女形で、絵のほうが見かけることあるかもしれません。
(※東京・金剛寺こと高幡不動にあります)
この狐がため、稲荷信仰と結びついていくのでした。

八 【猪】 いのしし
これまた滅多に見かけることないでしょう。
猪と言えば…陽炎を神格化した「摩利支天」さまです。
陽炎は実体がないため、”小さく作る”こととされているのでした。
(※一寸、二寸以下とするように、と規定されてます)
まだ実際に見たことないんですよー。

九 【猿】 さる
実は結構見かける可能性あるのがこちら。
もし猿が三匹並んでいたら…「青面金剛(しょうめん・こんごう)」さまです。
いわゆる庚申信仰と結びついたため、よく石仏では三猿と共に表現されているのでした。
こちらの詳細は「三猿について(日光東照宮)(庚申信仰)」を参照下さい。

十 【十二支】 じゅうにし
これを冠としている場合は、数そのまま十二神将です。
実際にややこしかったためか、藤原時代以降の像にはぱっと見で分かりやすいように、十二支の冠となっています。
詳細は以前やった「十二神将 (仏像・天部)」の記事にてどうぞ。

おしまい。
細かくはまだまだあるんですが、だいたい以上ですね。
こうした視点からでも、仏像を楽しめると思います。
ぜひあちこち気にしてみて下さい。

「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」



[関連記事] 【如来のいろいろ】 
⇒ 仏像の種類 (お父さんのための仏像講座) [前編] [後編]
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 仏の三十二相(お父さんのための仏像講座) 前編1-16 後編17-32
⇒ 座り方編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 木彫の技法について (お父さんのための仏像講座)
⇒ 五大明王 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 石仏っていいね (石仏・入門編)
⇒ 石仏の種類について (石仏・基本編)
⇒ お寺と神社
⇒ 本地垂迹ってなんだ? (仏教・神道)
⇒ 本地垂迹のややこしい話 (仏教・神道)
⇒ 三猿について (日光東照宮) (庚申信仰)


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※あ、天野喜孝!?
 このシュタイフ系、値段の割に小さくてびっくりでした。

冷たい抹茶 (京都・高台寺付近)

2009年09月10日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ京都「冷たい(アイス)抹茶」です。

…まぁ、今の時代はコンビニでも緑茶を粉状にした、水で溶かすやつも出ていたりしますよね。
さして珍しくもなかったので、かなりの期間そのままにしておきましたが…食べ歩きシリーズがそこそこ量になったので復活させてみました。


真夏のこと。
自転車にて京都をうろうろ・ふらふらとしていたひでるさんは、カサカサのミイラのようになりかけていました(うそ)
へろへろになりながら、店へ立ち寄った際に頼んだのがコレ。
(※↑上写真参照)
「まづいー」でお馴染み”あおじる”でなく、お茶を冷たくしたものです。
うまそうでしょ?

お茶の産地として知られる静岡と縁のあるひでるさん。
幼少期より竹茗堂(※)の「ウス茶糖(うすちゃとう)」をよく飲んでいた関係で”抹茶味好き”なんです。
アイスとかチョコレートなどでも、抹茶味を見つければ買ってしまうという、抹茶キ○ガイなのでした。
…まぁ実際の抹茶を飲みましたが、あれは正直美味くなかったですが。
お茶菓子必須ですよね。

さて、京都の店で売っている、そんなんがどんな味だか興味あるでしょ?
いきなり結論から言えば…変わりません(笑)
というか、上記↑のような状態でしたから、ほとんど一気に飲み干してしまいました。てへ。

まぁ、さっぱりした、後味の良い飲み心地です。
やや舌に粉っぽいのが残るところも変わりませんが、スカット爽やかでしたよー。


【おすすめ★メーター】
■■■□□ 3Point …まぁ、好みなんです。


ちなみに金額は三百円。
うう、微妙。



……でね、この抹茶。
見るたびに思い出されるのが、コレ↓
えっと、奈良のお寺にあった池です。
池なんですよ、庭でなくて。
残念ながら、場所どこかは失念してしまいましたけど。



すごいでしょ?
なんだか見ていると歩けそうな気にもなりますが、足出したら沈むと思います(笑)
中央で若干背中が見える亀もベタベタな雰囲気です。ああ…。
まるで不二家ネクターのようです。
……あれ、抹茶関係ないじゃん。


(※)竹茗堂(ちくめいどう)
 竹茗堂は、いまから二百二十年前の天明元年、徳川第十一代「家斎」の時代に駿河の国の中心地、駿府の城下町に誕生。
 いいよね、ウス茶糖とか。ネット購入もできるようです。
 ⇒ 竹茗堂HP

[関連記事] 【ひでるグルメレポート特集】
⇒ そうめん 仁和寺(京都)
⇒ ひやしあめ (神護寺・売店)
⇒ 続・ひやしあめ (柴又・題経寺周辺)
⇒ 八つ橋ソフト(京都・おたべ)
⇒ ゆばソフトクリーム (日光)
⇒ ずんだ抹茶ソフトクリーム (仙台・松島)
⇒ 紫いもソフトクリーム (神奈川・鎌倉)
⇒ 浅草もんじゃまん (東京・浅草寺)
⇒ ほうじ茶そふとくりーむ (滋賀・石山寺)
⇒ 八丁味噌ソフトクリーム (愛知・名古屋城)
⇒ 和のしずく ~抹茶あん~(ロッテ)
⇒ しそソフトクリーム (京都大原・三千院付近) 
⇒ 京野菜ソフトクリーム (京都・嵐山付近) 
⇒ お米から生まれた清涼飲料「ビアンラルク」 (岩手県遠野市) 
⇒ 金箔ソフト (石川県・今井金箔) 
⇒ とちおとめイチゴソフト (栃木県・鬼怒川温泉) 
⇒ 北條五代祭り弁当 (小田原・東華軒) 
⇒ ディッピンドッツ・アイスクリーム (東京ジョイポリス) 
⇒ 激辛!わさびソフトクリーム (伊豆・修禅寺付近) 
⇒ 権現力ソフトクリーム (高尾山・薬王院) 


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京の抹茶もん (らくたび文庫 No. 3)

コトコト

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※そんな訳で抹茶関係。
 京都に行く際には、こんなん良さそうです。

成相寺 (京都・天橋立)

2009年09月06日 | お寺
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本日は「天橋立」に立ち寄ったならこちらにもぜひ行ってほしい、西国二十八番札所の「成相寺(なりあいじ)」です。

行ってきました、日本三景の一つ「天橋立」
股のぞきしてきましたよー。
看板によると、”だんだん頭に血が充血して目が廻るようになり、まさに天橋立が幻想的にうんぬん…”とか、なかなか危険なことが書いてありました(笑)
設置されている股のぞき台のむこうには特に何がある訳でもなく、なかなかスリリングです。
ぶっちゃけ、ちょっとおっかないです。
なお、こちらのお寺途中に経由することとなる傘松公園からの眺望は”斜め一文字(※上写真)”、もう一方の天橋立ビューランド(文珠山)からの眺望は”飛龍観”と言うんだって。
ぱっと見て面白いのは、やっぱり”飛龍観”かなぁ…。


※股のぞき台 …こわいよ。

さて、眺めた後に立ち寄りました「成相寺」です。
(※実はひでるさんはお寺のがメインなんですが)
正式名称は「成相山成相寺」というそうです。
創建はなかなか古く、慶雲元年(704)のこと。
ユルキャラ問題で有名な平城京遷都は和銅三年(710)なので、それよりも前なのです。
真応上人の創建時には山頂にあり、流行りであった修験道場として信仰を集めていたようですが、室町時代頃の山崩れによって、現在の位置へ移されたんだとか。
京都市内から外れた場所的なこともあってか戦火などにも遭わず、また何年に何があった~みたいなことは書かれていませんでした。
しかし、パンフに書かれていた由来はなかなか興味深いので注目。



一人の僧が山の草庵にて修業中、雪によって周囲を閉ざされたため餓死寸前となってしまいました。
「今日一日生きる食物をお恵み下さい…」
そう願ったところ、外には傷ついた猪(鹿?)が!
本来肉食は禁じられているんですが…ここで僧は左右の腿(つぶし…ってもも付近のことかな)を削ぎ、それを煮て食べたことで生きながらえたのでした。
雪が止んだ後に堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ、なんと鍋の中には木片があったのです!!
こいつぁ、たまげた!!
ふと試しに木片を本尊の腿にくっつけてみると、ぴたりと元通りになったのでした。
それがため、くっついて元通りに…成合(相)寺、と名づけられたのです。

…上記には多少”ひでるさん文”が混じってますけど、おおむねそんなん。
肉食っちゃーダメでしょー(笑)
雪で孤立して餓死寸前というくだりも、山男らに言わせると「山をなめちゃイカン!」というところでしょう。
本尊「聖観音菩薩」さまもいちいち大変です。
鍋に残っていたという木片ですが…”仏像を煮ると良いダシが取れそう”という感覚で読ませて頂きました。
僧も極限状態だったようですし、朦朧とした意識の中で単に仏像を煮て、そのスープすすっていただけだったりして。
すみません、悪気はありません。


※左甚五郎作「真向きの龍」…こちらは撮影可でした。

ともかく、そんなお寺なのでした。
なお、物語に登場する本尊は三十三年に一度開扉という秘仏。
ほかには、またまた興味深いエピソードがある「撞かずの鐘」とか、左甚五郎作「真向きの龍」などがあるんですが…もっとも印象に残ったのは、バスの運転。

お寺へのアクセスですが、まずケーブルにて傘松公園まで。
その後、今度はバスに乗って本堂下まで行くんですね。
(※公園からお寺までは歩きだと相当な距離がある様子)
このバスの運転が凄まじい。
ガードレールも完全ではないという山道を、そこそこの図体であるバスが市内では出さないだろうスピードにてぐいぐいと上って行くんですよ。
目前に広がる断崖絶壁もなんのその。
さすがに下りは減速していましたが貴重な体験でした。
まぁ、何度も往復しているので慣れっこなのだと思いますが、ベテランのテクニックを見させて頂きました。


※撞かずの鐘 …鐘の音と共に、子供のすすり泣く声が……

本堂は安永三年(1774)のもの。
山門には仁王像がいたようなんですが…バスに乗るとすっ飛ばしてしまうので、そちらも見たい方は注意。


[住所]
 成相寺 京都府宮津市成相寺339

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※なかなか良い温泉地でした。
 そんな訳で、当然サスペンスの舞台にもなるんですねー。



豊国、ちゃっかり生き残る (山名祐豊・豊国)8

2009年09月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は但馬国の名門家である山名氏のラストです。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。

清和源氏からの名門家山名氏。
戦国時代頃に宗家・但馬守護を継いだ「山名祐豊(やまな・すけとよ)」
尼子氏に通じた「山名誠通(やまな・のぶみち)」を討伐したほか、因幡「武田高信」には尼子氏残党と結んで対抗。
甥「山名豊国」を鳥取城へ入れるほか、生野銀山を開発するなど、傾いた山名家にあってはかなり頑張っていたんですが…独立色を強める国人衆の統制はいま一つであり、また巨大勢力に挟まれたことで困難な舵取りを強いられるのでした…。


天正三年(1575)
宗家の「山名祐豊」は、「山名豊国」の仲介で突如織田家を離れ、毛利方へと寝返りました。
そんな山名氏からの依頼により、一時は毛利氏の支援を受けていた因幡「武田高信」、そして織田氏がじんわり支援していた尼子氏残党らは、「吉川元春」による討伐を受けることとなったのです。

なお、この際の混乱に乗じて、「垣屋続成」の子「垣屋光成」は、国人「田結庄是義」を攻撃して見事仇討ちを果たしております。
その後、光成は毛利氏に接近した祐豊とは行動を共にせず織田氏を助け続け、後の鳥取城攻めで功を立てるのでした。
(※因幡一万石を安堵。子の「垣屋恒総」も秀吉に従い、主要合戦に従軍しています)

西から迫る毛利氏に屈していた「山名豊国」
あまり評価されることのない彼ですが処世術には長けていたらしく、織田・毛利という両勢力に挟まれていた豊国は、天正六年(1578)からはなんと「織田信長」とちゃっかり誼を通じるなど、その間を巧みに行き来するのです。
(※この頃は秀吉ほか織田勢が播磨まで進出していたのね)

後に激戦の舞台となる鳥取城の守備についても備蓄を怠らなかったなど、ある種の才覚を見せてはいるのです。
…まぁ、これは苦労した結果ですかね(笑)

天正八年(1580)
甥・豊国はちゃっかり織田氏にも通じていましたが、毛利に与したとして宗家「山名祐豊」「山名堯熙」親子は播磨より突如侵攻した織田勢の攻撃を受けるのです。
中国方面司令官であった「羽柴秀吉」はたちまち諸城を陥落させ、続く有子山城への攻撃によって祐豊は死去。
享年七十。
その子「山名堯熙」は秀吉に下り、馬廻衆となっています。

なお、織田勢は但馬に続いて因幡にも進出し、国人衆らを次々に降伏・懐柔させています。
そして撤退した後には再び毛利氏が取り返す(笑)という、刈り取り場となっていたようです。
それは豊国が守る鳥取城も例外ではなく、毛利氏に通じるた後は秀吉に囲まれて織田家に降伏。
彼らが引いた後にはまた毛利が侵攻し、そちらに降伏…というような、まさにぎりぎりの有様なのでした。

天正九年(1581)
またまた「羽柴秀吉」から侵攻を受けた際には、主戦派だった家臣「中村春続」、「森下道誉」らが徹底抗戦を叫ぶ中、豊国は単独で降伏。
実は、城から追い出されたという情けない説もありますが、ともかくぎりぎりで城を脱出したことで命を長らえました。
鳥取城の「中村春続」らは毛利氏から城将として「吉川経家」を迎え入れ、織田氏に抵抗。
因幡山名氏の家臣「吉岡定勝」などは籠城戦中に巧みなゲリラ戦を展開して秀吉軍を悩ませますが、徹底した兵糧攻めによって四カ月ほどの籠城戦の後に開城するのです。
こちらははまた別途やります。

さて、「禅高」と称して隠居の道を選んだ「山名豊国」
もともと名門家の出身であったため文化面には精通しており、後に秀吉の御伽衆(おとぎしゅう:話し相手。読み書き代理なども行う付き人的な存在ね)となるのでした。
特に儀礼に関して明るかった彼は、成り上がりであった秀吉に重用されていくのです。
何が身を助けるか分かりませんねー

秀吉の没後も判断を誤らず、関ヶ原合戦では「徳川家康」の東軍に属しました。
慶長六年(1601)頃になると、但馬村岡に六千七百石という領地を与えられ、なんと子孫の存続にも成功するのでした。
享年七十八。
苦労した彼ですが、処世術はしっかりと身につけていたようです。


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※攻め手が秀吉であった事は、豊国の幸運だったと思います。
 もし信長だったら…(笑)