お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

更新を無期延期します

2011年10月16日 | ネタ
どうも。
こちらのブログ「お寺さんぽ」ですが、更新ストップすることとしました。

開始は2006年でしたか。
毎日更新していたのが週二、週一ペースとなりつつも書いていたものの、最近は日常がさらにまた忙しく。
いっぱい・いっぱいになってしまいました。
まだネタはいっぱいあるんですけどねー。

そう多くはないでしょうけど、見てくれてた方、またコメントいただいていた方、ありがとうございました。
また時間が出来た頃に再開したいと思います。
その頃また宜しくお願い致します。


金龍寺 (群馬県・太田市)

2011年10月09日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はこないだ紹介した「金山城跡」、そして「太田市立史跡金山城址ガイダンス施設」…へ、行った後にそのまま立ち寄りたい、「新田義貞」ゆかりのお寺「金龍寺」です。
徒歩で「金山城跡」から十分可能な距離だったので、ぜひこちらも攻略しておきましょう。
ひでるさんはガイダンス施設の方に近道(ちょっとね)を聞いていきましたよ。

上州太田七福神では「毘沙門天」、秋の七草寺では「桔梗」が担当というこちら「金龍寺」
正式名称は、「大田山義貞院金龍寺」でした。
「新田義貞」の法名は「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」であり、そのお名前にちなんで命名されたことが伺えます。


※駅前の「新田義貞」さまです。

時代は、まだ「後醍醐天皇」がブイブイ言わせていた頃。
元亨元年(1321)
こちらのお寺はもともと、「新田義貞」が精神道場としてお寺を開いていたとも言われております。
確かではなく、そんな感じだったらしいのよ。
南北朝の動乱で敗れた義貞は北陸へ逃れ、延元三年(1338)に越前で戦死してしまうのです。

その菩提を弔うため、新田一族の「岩松満純(いわまつ・みつずみ)」はこの地に諸堂を建立。
応永五年(1398)には、「金龍寺」を開いたのでした。
義貞の開山が真実なら、それを中興したというところでしょう。
そんな祖先思いの岩松氏でしたが、新田荘横瀬郷を本領としていた横瀬氏(※戦国時代には由良氏と改名)に下剋上そのまま取って代わられることとなるのです。

応永二十四年(1417)
新たに金山城主となったのが、岩松氏の重臣だった横瀬氏。
越前から義貞の遺骨をこの境内まで移し、「大見和尚」を招いて開山したのは初代とされる「横瀬貞氏」
(※あまりハッキリしてない様子)
義貞の廟所と定めて、その木像を安置しました。
その後、横瀬氏は主家と対立・圧倒し、実権を握っていくのです。
周辺地域を併合して、自らの勢力を拡大。
その菩提寺となった「金龍寺」も、共に栄えていったのでした。


※五輪塔・供養塔

しかし、「由良(横瀬)国繁」の代に「豊臣秀吉」の小田原征伐が勃発。
国繁は北条氏に加担したものの、祖母、息子は前田勢に参加したため、どうにか滅亡の危機を回避しております。
戦後は上総国牛久へ移封。
それと共に寺・僧なども移り、建物や木像、墓のみが残されたこの地は荒廃してしまうのです。
上野国・館林城主となっていた徳川四天王の一人「榊原康政」はこれを惜しみ、寺領を整備し再興させ、現在に至るのでした。
康政は”田畑八町余りを寄進”したそうですよ。


※看板の七福神です。漫画ちっくなのね。

本堂の裏手には歴代金山城主となった横瀬氏(由良氏)の五輪塔は九基ほど。
また、最上段には寛永十四年(1637)に造立されたという「新田義貞」の供養塔もありました。


[住所]
 金龍寺 群馬県太田市金山町40-1

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  時代背景[   
  「赤坂城籠城戦」[ 
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  信濃源氏・村上親子の奮戦[
  「千早城籠城戦」[ 10
  天皇親政[11 12 13 14
  「湊川合戦」[15 16
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     



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松本城 (長野県・松本市)

2011年10月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、新潟からの帰りに立ち寄った、国宝「松本城」です。

そう、帰り道にあったので、ふと軽い気持ちで行ってきました。
さーっと写真撮って、登って見てこよう、みたいな。

なんだか人がいっぱいいたんですよ。
ああ、連休も最終日だからねー。
そんな事を思いつつ、城に至ると…なんとびっくり、人、人、人……
あの「松本城」が、大量の人でずらりと埋め尽くされていたのです。
びっくりしました。
床が抜け落ちてしまいそうです。
最上階まで八十分だってよ
ウソか本当か、そんな噂まで城内にありました。

さすがにそこまでは耐えられず、泣く泣く城外へ。
せめてグッズでも~と、立ち寄ったお土産にて、今回の原因が分かりました。
NHK・連続テレビ小説「おひさま」

こ、これかー!!

確か川越へ行った時も同じ目に遭いましたが、みなさんお好きですね。
最上階はまたの機会にしますよ。


※逆さ「松本城」ですよ。

さて、そんなこんなで国宝「松本城」です。
趣たっぷりな深い濃いめな色彩の五重な城と、たっぷりな堀が素敵なこちら。
文禄二年から三年頃(1593~94)の築城が残っているんだって。

もともとこちらは守護大名である、清和源氏の名門小笠原家のお城でした。
築城はだいたい戦国時代の初期である、永正年間(1504~1520)のこと。
えっと、永正七年(1510)は「織田信秀」とか、「松永久秀」が生まれてますね。
だいたいそうした頃。

松本平の井川あたりに館を構えていた、小笠原氏。
しかし、同族争いは激しく、戦国の世となると、防御に適した林地区へ館を移しました。
この「松本城」は、そちらを守る支城の一つだったのです。
この当時は「深志城」という名称でした。

さて、クーデターによって当主となった甲斐「武田晴信」は、信濃へと侵攻。
こちらの小笠原氏とも激しく争い、当主「小笠原長時」は敗れて逃亡。
付近は、武田氏の治める土地となったのでした。
武田氏は林城を破棄し、この「深志城」を拠点としたようです。

それから、時は天正十年(1582)
この年に、武田家滅亡と共に、京都では「本能寺の変」が勃発しています。
配布しているパンフレットには、再興を目指す「小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)」が混乱に乗じて挙兵し、「深志城」を占領した、という雰囲気でしたが。
(※「小笠原長時」の三男です)
実際のところは、織田家に属して武田氏の対策をしていた貞慶が功を認められて与えられた、あるいはその後信濃を占拠した徳川氏によって与えられた、というのが正しいようです。
ともかく、徳川氏の家臣となった貞慶が、城主として返り咲いたのでした。
「松本城」と命名したのも彼でいいのかな。


※裏側はこうした風情になってます。

その後、歴史の主役は「豊臣秀吉」に。
徳川氏が関東へ移封されると、この地は「石川数正」が入っています。
城と城下町の整備ほとんどを行ったのは、数正のようです。
秀吉にそそのかされ、徳川氏より出奔したという経緯もあってか、石落・矢狭間・鉄砲狭間などを無数に備えた、戦闘城という風情になってますね。
大久保長安事件に連座し、数正の子「石川康長」は改易。
その後は戸田氏、松平氏、堀田氏などが藩主となっていったのでした。

城内には展示があり、鉄砲とか城の歴史が見れます。
だいたい城はそうですが、かなり階段が急で段の高さもあったので、お年寄りは特に注意。


[住所]
 松本城 長野県松本市丸の内4-1

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※コレですね。
 いやはや、凄い集客力でした。