お寺さんぽ Ver.03

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本当のところはどうなのよ? (姉川合戦)1

2008年01月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は結構世に広く知られていながら、「本当のところはどうなのよ?」ってな色が強い、激戦「姉川合戦」をお送り致します。

美貌の妹「お市の方」を嫁がせ、同盟関係となった尾張・織田、近江・浅井の両家。
しかし、浅井家の盟友であった朝倉家を無断で攻撃したことによって両家は断交。
自分の非はさておき(笑)、怒りに震える「織田信長」くんは浅井攻めを決断するのでした…。

さて、この何気なく我々が使用している「姉川合戦」という呼び名。
これは、”それぞれが陣を張った場所を合戦名とする風習”からきているのだそうです。

なるほど、当時の両軍がお互い示し合わせて決めた訳でなし、それぞれ異なる呼び方・記述となっているのは、当然のことなのでしょう。
よく知られている「姉川合戦」という呼称については、記録がはっきりと残っている徳川方のものなのです。
当時の織田方では「野村合戦」という呼び方でした。
(※浅井勢も同様に「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼んでいたそうです)
徳川方のソレが今の時代まで採用されているのは、最終的な勝利者であるため。簡潔な記述だけの織田家資料とは違い、記録がしっかりとした徳川家の記録に頼っているためなのです。

…そんな訳で、こちらでは織田が苦戦して徳川が活躍する場面があるんですが、それをちょっと疑った方がいいのかもしれません。
そんな訳で、今回はうたぐりブログです。
あらかじめ。
ここが違う!みたいに指摘できるほどの資料・確実な根拠などはありませんので、ご了承下さい。
まぁ、雑談程度で気楽に見て頂ければー。

永禄十一年(1568)
美濃を手に入れた「織田信長」
そんな彼を頼ってきた流浪の将軍「足利義昭」はその力を借りて上洛、見事十五代将軍となったのでした。
しかし、その地位が傀儡(かいらい)に過ぎないことを知った彼は対抗できそうな諸大名らと密かに連絡を取り合うようになっていくのです。
その誘いに応じたのが、上洛のチャンスがありながらも優柔不断な性格でみすみすそれを逃し、信長に権利を簒奪されてしまっていた、越前の名門「朝倉義景」なのでした。
しかし、「織田信長」もさすがにその行動を察知していたのです…。

元亀元年(1570)四月
突然三万という大軍を率いた「織田信長」以下織田勢は京都を出陣。
幕府に叛いた若狭(福井県)「武藤氏」討伐との名目でしたが、若狭・越前の国境で逆方向である関峠から越前敦賀郡へ進入。
敦賀は妙顕寺に本陣を置いたのでした。(※これは武藤氏の討伐後かもしれません)
ここには徳川勢も加わっております。

そう、この出陣はもともと上洛に応じない、朝倉攻めを考えていたのです。
結果としてこの電撃作戦は見事に的中し、織田勢は勢い良く「手筒山城」・「敦賀城」を陥落させると木芽峠をも越え、一気に本拠である一乗谷近くまで迫っていたのでした。
…朝倉方に体制が整っていなかったことも当然なんですが、あまりに呆気ないですね。
後々の話なども考えると、当主「朝倉義景」以下、この頃の朝倉家は支配体勢自体がかなりゆるゆるになっていたのだと想像できます。
それが大内氏や土岐氏にも見られた、名門家にありがちな弱点なのでしょう。
ともかく、こうして平安時代から続くと言われる名族は滅亡の危機となるのでした。

「朝倉景恒」が守備する「金ヶ崎城」を勢いそのまま無血開城させた織田勢。
そこに、思いもしなかった報が届くのです!

⇒ つづく。
  次回は「美貌で知られるお市の方、迷う浅井長政」です。

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※姉川合戦もある「戦国無双2」です。
 朝倉勢はだらしないですねー。


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