お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

文武二道、日本において一人、二人の大名 (蒲生氏郷)7

2007年12月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…現代ではあまり名前が出なくて地味めですが、当時の人々は誰しもが「彼はスゴい方だ!」とその才覚を認めていた、歴史に隠れた英気「蒲生氏郷(がもう・うじさと)」をお送りします。
長くやってきましたが、本日最終回です。

会津で四十二万石を領することとなりました氏郷くん。
名城「鶴ヶ城」を築き、会津に入るのでした。

天正十九年(1591)
ついに百万石を領する大大名となりました。

いたずら小僧「伊達政宗」が扇動した葛西・大崎一揆の件では、秀吉の思惑通り彼の野望を打ち砕いた氏郷。
東北の混乱がひと段落すると、城下町の経営に乗り出しました。

まず、武士と町人の住む場所を区別します。
会津の町に残る、食い違いのある独特の四つ辻はそのころの名残りだそうです。
さらに、主君であり、政治の師でもあった「織田信長」を真似て楽市を実施。
町人町には市日を定め、毎日城下のどこかで市が開かれるようにしました。
三日市、七日市という町名はそれに由来しているようです。
また、特産物「会津塗りの漆器」もこの氏郷によって広められたものだそうです。

こうした治世によって、付近はわずか四年にして”奥州の都”というほどの賑わいとなりました。
合戦で華々しく戦う姿のが目立つ氏郷ですが、政治家としても超一流であったのです。

また、大変情に厚い人物であったようです。
こんな話があります。
橋本惣兵衛(はしもとそうべえ)という家来を召し抱えた時のこと。
当初、惣兵衛は一万石の約束で召し抱えられました。
しかし、無事登用された惣兵衛は、
「もし十万石頂ければ、子供の一人二人投げ捨ててもかまわない」
…と言っていたことを、氏郷は聞いてしまうのです。
氏郷は本人を呼び出し、
そんなことを言う人間は利のために裏切るものだ。おまえには千石しかやれない、不服なら去れ
そう言ったのでした。
彼の人柄が分かるエピソードですね。

文禄四年(1595)
こうして才を発揮した「蒲生氏郷」ですが、四十歳で死去。
朝鮮出兵にて秀吉と共に肥前・名護屋城に滞在していましたが、そこで病を得てしまうのです。
この時秀吉は氏郷の身を案じ、名医「曲瀬道三」を送っています。

一部には氏郷の才を恐れ、暗殺したという説もあるようですが、それはまったくの間違いでしょう。
政権を維持するため、関東・奥州の押さえとして必要不可欠な人物であり、また秀吉は”氏郷を使いこなす自信”があったでしょうから
結局、病は回復しないまま、死去。
遺骸は京都大徳寺黄梅院に葬られました。

限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山嵐

茶人、「千利休」は最も優れた弟子でもあった氏郷を
文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名
と評していたそうです。


【 戦国メーター★蒲生氏郷 】
 家柄: ■■■■□ 祖先「藤原秀郷」という名門家です。
 実力: ■■■■■ 天才ではなく努力タイプ。勉強好きだったみたい。
 地理: ■□□□□ 会津。本人がっかりしたそのままですね。

[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [    
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編
⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) < >
⇒ 秀次切腹と石田三成 [
⇒ 宇喜多秀家 < >
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


JOYJOY コレクション 鶴ヶ城 1/460 JOYJOY コレクション 鶴ヶ城 1/460
()
童友社

この商品の詳細を見る

※もう一つ「鶴ヶ城」です。
 いいなぁ。

★おまけ 「氏郷」の息子さんは…

蒲生秀行(がもう・ひでゆき) 1583~1612
氏郷の嫡男。
文禄四年(1595)家督相続。
慶長三年(1598)家臣の紛争の咎を受け、下野宇都宮十二万石へ移封。
正妻は徳川家康の娘。
関ヶ原で東軍に属し、会津六十万石へ復帰。
※この方も早死にしてしまいますが。


最新の画像もっと見る