お寺さんぽ Ver.03

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宇喜多秀家 <後編> (神奈川・一夜城址)

2006年02月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
今回も小田原は石垣山一夜城址、そこに参加した武将として看板がありました
五大老の一人従三位中納言、宇喜多秀家さまです。
その後編。

一時期は豊臣秀吉の後継者と言われた秀家さま。
結局指名されたのは甥の羽柴秀次でした。
秀次は譲られて関白となりますが、なんと淀さま御懐妊。(※二度目)
結果、秀次は高野山へ追放、そこで切腹となりました。

秀吉が老衰で死去するとき、後継者秀頼はわずか五歳でした。
「くれぐれも秀頼のことを頼む…」
…ってデジャビュ!
そうですよ、この秀家さまは唯一、同じことをまったく逆の立場で経験して
いたんですね!!
ここが歴史の面白いところですよ、ドラマチックなとこですよ、ええ。

だから、その後家康が台頭してくると、さぞかし彼の正義の心は燃え上がったのでは
ないでしょうか?
そして、彼と同じにどうにも家康が気になって仕方ない石田三成は紆余曲折の末に
戦いを挑みました。
この関ヶ原合戦では、西軍方の副将として秀家さま参戦します。
三成は秀家さまについて「中納言殿には余計な気を使わなくていい」というようなことを
言っていたそうです。なめてたんではないですよー。
他の武将は東西どっちに味方するのか、何を考えているか知れないが、その点で
秀家さまは心配しなくてもいい、ということなんですね。
この時まで純粋さはまったく変わっていなかったんてす。
というか、秀家さまはおそらく亡き秀吉の恩義に報いる、最大のチャンスと考えていた
のではないでしょうか?

西軍方でも特に奮起していた宇喜多勢。
有名な小早川秀秋の裏切りで西軍が総崩れとなった際、秀家さまは小早川と刺し違える
覚悟であったようです。
そりゃ、どうにも納得いかなかったでしょう。彼の辞書に「裏切り」なんて言葉は存在
しなかったでしょーから。

結局は秀家は家臣に諫められ、無念のまま脱出。
どうにか死罪は免れますが、八丈島へ流罪となりました。
(※ちなみに妻豪姫は前田家に戻り、秀家に援助物資を送り続けました)
それから八十三歳(四代家綱時代)まで生きたのは有名な話です。


[住所] 石垣山一夜城 神奈川県小田原市早川字梅ヶ窪地内

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