お寺さんぽ Ver.03

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金戒光明寺 (京都)

2007年12月28日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都市左京区の「金戒光明寺」です。
最近はどのお寺が紹介していて、どこがしていないのか、よくわかんなくなってきました(笑)
こちら「金戒光明寺」はまだやっていなかった…と思いますが。やってないよね?

なんだか格好いい名前ですね、「金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)」って。
(※おもろいので残しましたが↑その読みは間違い。本当は「こんかい・こうみょうじ」が正解なの。てへ☆ ⇒ご指摘頂きました京都暗記帖さま、毎度助かります!さすが!!)
漢字六文字がしっくりくるのでしょうか。
こちらはあの「知恩院」と並ぶ格式で、浄土宗の大本山なのでした。
大本山シリーズです(そんなんない)

大本山って聞くと大層凄いイメージがあるかもしれませんが、実は総本山のが寺格は上で、大本山のが下
所属している末寺を統轄するお寺なんだそうな。
ちなみに、浄土宗の総本山は「知恩院」です。

こちらは浄土真宗七高僧の一人、「円光大師」こと「法然上人」がはじめて草庵を営んだ地に建てられたというお寺です。

十五歳で比叡山へ登った「法然上人」
承安五年(1175)
四十三歳で修行を終え、教えを広めるために下山した「法然上人」はこの地にて念仏をしました。
…すると、紫雲全山にみなぎり、光明があたりを照らした…ことから、このお寺が生まれたんだとかなんとか。
あはははははは、まぁ冗談は置いといて。
実際には「法然上人」の草庵程度だったところが次第にお寺っぽくなっていった、ということだと思います。

本尊はパンフレット表紙を飾るふくよかな阿弥陀様。
こちらは浄土真宗七高僧の一人、恵心僧都(源信)の最終の作であります。
そうすると平安時代末期頃の作なのかな。
お腹に彫刻の器具が納めてあることから、「ノミおさめの如来」とも呼ばれているのです。
そんな阿弥陀様がおられる阿弥陀堂は慶長十年(1605)「豊臣秀頼」によって再建されたもので、こちらが現存する建物で最も古いものとなっております。

開祖「法然上人」がおられる御影堂には七十五歳での坐像が安置されています。
ここは火災に遭い、現在のものは昭和の再建なんだって。
なお、こちらは明治維新の際には京都守護職の会津藩と新撰組の屯所が置かれていました。
そんな訳で「新撰組発祥の地」とか名乗っていました。
読みづらいと評判の「松平容保(まつだいら・かたもり)」さまはここで近藤・芹沢らに拝謁したのかもしれませんね。

注目すべきはパンフレット。
見開きがイメージ映像みたいで、大変格好いいものに仕上がっております
これからパンフ作成を考えているお寺の方は参考にしてみるのが良いでしょう。

池の水 人の心に 似たりけり
濁り澄むこと 定めなければ
智者のふるまいをせずして
ただ一向に念佛すべし
                    (※パンフレットより)
                    
そんな文字と共に夕暮れに浮かぶ「金戒光明寺」と阿弥陀様の写真があり、中には春夏秋冬な写真と各所の説明。
裏の地図やアクセスも詳細で、イイ雰囲気でした。


[関連記事]
⇒ 知恩院 (京都)
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 
  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀

[住所]
 金戒光明寺 京都市左京区黒谷町121


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敗者から見た明治維新~松平容保と新撰組 敗者から見た明治維新~松平容保と新撰組
早乙女 貢 (2003/11/27)
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※いまだファンの多い「松平容保」さまと「新撰組」です。
 光栄のシミュレーション「維新の嵐」ではどちらもプレイヤーキャラでしたねぇ…。

蔵王権現・信仰編 (本地垂迹・権現)

2007年12月27日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は魅惑の神様、日本国の総鎮守神「蔵王権現」とその信仰について。
はっきり言って、先の「蔵王権現」ネタであぶれたお話なのですが…。

さて、日本国土の大半は山岳、丘陵地帯ですよね。
現在でも危険とよく言われていますが、奈良時代・平安時代のそこは厳しい自然に溢れ、体力と知識が必要不可欠でした。

また、山には神様がいると古来より信じられておりましたから、その下で修行することこそ霊験感得の方法と考えられたのでしょう。
結果として、古くからの「神道」、大陸から渡ってきた「密教」、当時は神秘的にとらえられていた「陰陽道」などが混ざり、自然・山岳崇拝的な「修験道」という新しい修派が形成されていきました。
その本尊として選ばれたのが「蔵王権現」なのです。

平安時代初期頃には存在していたらしい「蔵王権現」さま(笑)
「執金剛神(しゅうこんごうじん)」の総称で、「金剛薩埵(こんごうさった)」の変化と言われています。
続く平安時代後期頃、吉野山で修業をしていた南都験者たちによってまとめられ、「金剛蔵王」・「金剛童子」・「金剛力士」などの信仰をもとに神格が創案されていったのでした。

なお名称の初出は、寛弘四年(1007)
「藤原道長」の願文「南無教主釈迦蔵王権現」という文句とされています。
ただし、それ以前にも、金峯山(きんぶせん)で修行中の「道賢」が「執金剛神」の導きで「蔵王菩薩」に会ったエピソードなどが残っており、”もともとは「蔵王菩薩」と称されていた、金峯山の守護神ではないか?”と想像されています。

平安時代末期から金峯山が修験者たちの拠点となってくると、彼らのヒーロー「役行者(えんのぎょうじゃ)」が実はこちらの「蔵王権現」を感得していたのだ、という伝承が生み出されていったのです。

そんな訳で、行者さんと「蔵王権現」の関わりは実際のところ未知数でして、完全に後付けなんですね。
話に尾ひれがついた…というよりも明確な意思があるようなので、有名人を宣伝に起用したのでしょう。
政治家の応援演説みたいなもんですか。ちょっと違うか。

一般的に知られている「金剛山秘密伝」には、「役行者」が祈祷すると「釈迦如来」・「千手観音」・「弥勒菩薩」の諸尊、さらにその後に「蔵王権現」が出現したとされています。
それが「太平記」になると「地蔵菩薩」が最初で、後に「蔵王権現」が出現したとされ、「両峯問答秘鈔」では最初に童子が出現したこととなっているのですよ。
どれが本当か、というより、全てウソではないか、って(笑)

修験道が最も流行した中世期では吉野山に、
・山下の「蔵王堂」 :吉野山・金峯山寺の蔵王堂。現存。
・安禅の「蔵王堂」 :金峯神社付近にあったとされる。
・山上の「蔵王堂」 :現在の大峯山寺。
…などが設けられ、「蔵王権現」は修験道の主尊という位置づけにされていきました。

鎌倉時代となると、正月には蔵王供養、毎月十九日には蔵王講が行われ、そのための教義書まで作られていくのです。
(※先の「金剛山秘密伝」は鎌倉時代のもの)
これらによって、「蔵王権現」は「釈迦・観音・弥勒」の徳を一身にそなえた神格とされ、諸魔を降伏し、七難即滅、七福即生をもたらすという信仰が広まっていったのでした。
めでたし・めでたし。


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※ひでるさんのヒーローと言えばやっぱり「ウルトラマン」ですね。
 なんか適当な伝承を流布して定着させれば、後の世に「実際いた」ってなるかもしれませんよ。

蔵王権現・仏像編 (本地垂迹・権現)

2007年12月27日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はたまーに見かける…かもしれない、「蔵王権現(ざおうごんげん)」について。

だいたいが直立だったり、座っている仏像たち。
その中で、いまにも動き出しそうな、ドラクエの「うごくせきぞう」みたいな仏像があるのをご存知でしょうか?
日本国の総鎮守神。
「金剛蔵王(こんごうざんおう)」「蔵王菩薩(ざおうぼさつ)」とも言う、大和吉野金峯山(やまとよしの・きんぶせん)蔵王堂の本尊こそがこちらの「蔵王権現」なのでした。

時は奈良時代。
呪術をもって知られ、後に修験道の祖とされる「役行者(えんのぎょうじゃ)」さま。
その「役行者」が大峰山(山上ヶ岳)で感得した魔障降伏の菩薩なのです。
話としてはこんなん。

「役行者」が大峯山を開いたとき、彼の祈祷によって釈迦・千手観音・弥勒という三尊が現われました。
さらに、所願にそって念じたところ、青黒色の憤怒神が出現したのでした。

青黒色の憤怒ですか。
…間違って化け物呼び出してたりして(笑)
いったい何を願っていたのやら。

ともかく、そんな話から、山下吉野金峯山寺本堂では、「蔵王権現」三体を祀る蔵王堂が建てられたのでした。
その三体は、釈迦・千手観音・弥勒を表現しているんだって。
(※要するに、それが本体・本源という意味でして、尊格(本地仏)のことなの)

山岳信仰と密教が結びつき、金峯山における修験道が確立した以降の成立が一般的です。
「蔵王権現」の姿は根拠が不明。
「五大力菩薩」「執金剛神(しゅうこんごうじん)」「金剛蔵王菩薩」がもとになったという考え方があります。

一般には一面三目二臂で憤怒相を示しております。
身体は青黒色に彩色され、右手は三鈷杵を持って振り上げ、左手は腰の辺りで剣印(人差し指・中指立てたような印相です)を結び、さらに右足を高く上げるという、いまにも踏み出してきそうな躍動的な姿の珍しい像です。
なお、右手に剣印を振り上げて左手を腰に添えたもの、あるいは金剛杵(こんごうしょ)を振り上げたもの、左右手が逆になっているものなどもあります。
だいたいがそんな感じで、簡単に見分けることができるでしょう

最古の像は長保三年(1001)という、東京・総持寺(西新井大師)の鏡像。
また、奈良・如意輪寺では源慶の重文があり、桜の一木造。
こちらは足利氏との戦いから逃れた「後醍醐天皇」が勅願所としたお寺で、「楠木正行」が出陣前に辞世の歌を刻んだ扉があることでも知られていますね。
発祥の地である金峯山寺本堂には、八メートルにも達する巨像があります。

「蔵王権現」は修験道の本尊であり、ご利益を得るには単に祈願する程度では危険。
除災・除魔の力は大変に強力で、霊験を疑った男がカエルにされてしまうというエピソードもあります。
(※寸劇風の祭「蛙とび」ってやつらしい)
たいへんに位の高い神様でして、東大寺のお水取りでは全国諸神よりも早く名を呼ばれるのです。
「おん、ばきりゆ、そわか」が真言ですが、くれぐれも安易に唱えないように。
カエルにされちゃいますよん。


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※なかなか面白いですよー。
 こちらで「うごくせきぞう」を作ってみてみて!!

知恩院・鶯張り廊下「鳴き声」消える?(お寺さんぽニュース)

2007年12月27日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
ちょっと衝撃的な文字を見つけましたので、急遽予定を変更してこちらをば。
前が二月のことですからだいぶ久しぶりですが、まだまだ生きてたこのシリーズ。
とりあえず↓こちらをご覧下さい。

■知恩院・鶯張りの廊下、修復で「鳴き声」消える見通し
 [読売新聞] 2007年6月16日

 知恩院(浄土宗総本山、京都市東山区)の七不思議の一つで、歩くとウグイスの鳴き声のような音が聞こえる「鶯(うぐいす)張りの廊下」が、宗祖法然の遺徳をしのんで行われる「平成の大修復」後、御影堂(みえいどう:国宝)と集会堂(しゅうえどう:重要文化財)から“消える”見通しになった。
 長年の歳月で緩んだくぎが床板の留め金具にこすれて音がするが、修復でくぎを固定するため。
 寺は「50年、100年が過ぎれば再び鳴き声が聞こえるようになるはず。それまでご辛抱を」としている。

 鶯張りの廊下は、境内の御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に続く全長約550メートル。静かに歩くほうが音が鳴るため、不審者の侵入を感知する警報の役目もあるとされる。
---------------------------------------------------- 。。。


修復するのはいいことなんですが…。
そうかー、釘固定すりゃ音はしなくなりますよね(笑)
まぁ、ひでるさん的にはどうしてもギコギコとしか聞こえませんでしたが…修復前に行っておいて正解でしたね。
だいたいねぇ、再び鳴き声が聞こえるのは五十年から百年でしょ?
それまでご辛抱を、ってその頃はひでる死んでますってば!!

ちなみに、この「鶯張りの廊下」は風流とかそんなんよりも警報装置としての役目が主であったらしく、「忍び返し」と呼ばれているそうです。
…この名称だと人気でなさそうね。

なお、「知恩院」のHPによると、鶯の鳴き声「ホー・ケキョ」が「法・聞けよ」と聞こえることから、仏様の法を聞けという解釈もあるんだそうです。
これを知っていると、またちょっと違う見方できるでしょ。


[お寺さんぽニュース・過去記事]
⇒ 知恩院 (京都)
[お寺さんぽニュース・過去記事]
⇒ 奈良にコンビニ寺院出現
⇒ 奈良で人気「大仏プリン」
⇒ 寺の裏山から古銭11万5000枚
⇒ 愛国心 通知表評価項目に
⇒ 短パンは反イスラム 過激勢力が警告
⇒ 浄土宗:7億円が使途不明
⇒ 播州皿屋敷がせんべいに
⇒ オウム・松本被告、死刑が確定
⇒ 腹びれなど盗まれる 墨俣一夜城
⇒ 「仏陀の生まれ変わり少年」が9カ月ぶりに姿現す
⇒ 「銀閣」に銀なし 成分分析で改めて判明
⇒ 「江戸城」展で特別観覧会
⇒ 京都市が「京町家」を買い取り
⇒ 隠岐の国分寺本堂焼失


[住所]
浄土宗 総本山知恩院 京都市東山区林下町400 Tel.075-531-2111(代)

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※写真集もありました。さすが総本山!!
 こちらは鶯廊下がなくなっても見所がやたら多いので、オススメです。

栄光から転落した北信の雄 (村上義清)3

2007年12月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、戦国最強軍団として遠く瀬戸内海にまでその武名が轟いていた(本当)、武田勢を数度も破った”北信の雄”、「村上義清」さまについてです。

諏訪氏を抜いて信濃へと侵入した武田勢。
北信濃を治める村上氏と激突することとなるんですが、老獪な「村上義清」の巧みな用兵術によって、若い「武田晴信」は終始苦戦。
なんと、二度も敗戦を味わうこととなるのでした。
強いぞ!義清さま!!


天文十九年(1550)の砥石城攻略戦でも敗戦を味わった甲斐「武田晴信(信玄)」
なんやーかんやーとこの方のスゴイところは、それをちゃんと分析・研究して、次に活かすところでしょう。
この大敗にもめげなかった「晴信」は信濃への復帰を目指して接近してきた、土地に明るい「真田幸隆」を起用。
(※写真は攻略に尽力した真田氏の居城「上田城」です)
その智略と功績によって”攻め弾正”の異名をつけられる「幸隆」の切り崩し調略によって、葛尾城北方の清野氏、望月氏などを寝返らせることに成功するのでした。
さらに続く工作によって、次々と内部から切り崩されてしまう村上勢。
内通者が出た砥石城はその手引きによってあっけなく落城。
これが致命的となり、支配力は急速に低下してしまうのです。

二度の合戦に勝利した村上勢ですが、結局どちらも防衛戦で利が少なく、手痛い敗戦で大いに学んだ晴信に対して、時代の変化に愚鈍だった村上勢が衰退してしまうのは必然だったのかもしれません。
また、どちらでも大勝してしまったことは、晴信の実力を過小評価してしまった原因なのでしょう。

天文二十二年(1553)
一部合戦では勝利するものの大勢に変化なく、動揺した領主・家臣団は勢力を盛り返した武田勢へと下っていくのです。
こうなっては抵抗することすらままならず、いままで晴信がどうしても攻略できなかった葛尾城も続いて落城。
逃れた「村上義清」は越後の龍「長尾景虎(上杉謙信)」を頼って落ち延びるのでした。

長尾勢の助力を得た「義清」は一時期だけ葛尾城を奪回していますが、後には武田方の圧迫によって退き、以後より長尾氏に従うこととなるのでした。

あの戦国時代にて、正義を目指す真面目でおかしな「長尾景虎」はその本領回復の要請、また当然ながら自国越後国の安全のため、度々信濃へと出陣して、武田勢と交戦することとなるのです。
…こんなんが、有名な「川中島合戦」に至るあらましなのよ。
当然恨みに燃える「村上義清」も各合戦に参加しております。

永禄四年(1561)の大激戦となった「川中島合戦」にも参陣し、老体に鞭打って八幡原にて大激戦を繰り広げるのでした。
しかし、度々の出陣にも関わらず大勢に変化はなく、十二年も続いた死闘でも旧領奪還は果たせなかったのです。

謙信の保護を受けた「村上義清」は越後・根知城主となり、懐かしの地へ帰ることなく、天正元年(1573)越後・根知城にて死去。
享年七〇(七三歳という説もあり)

武田勢を打ち破った剛勇・用兵と、統治していた六郡で反乱・一揆が起こっていないことから、統率力にも長けていたらしい「村上義清」さま。
ただ、ライバル「武田晴信」よりも年齢が圧倒的に高く、どうしても柔軟・革新的な発想ができなかったことが残念なところでしょう。
なお、嫡男「国清」は父と共に長尾家に寄寓。
侍大将として梅津城を預けられ、その家臣として働いていたようです。
「上杉景勝」の先手として小田原合戦にも参加しております。


【 戦国メーター★村上義清 】 文亀三年(1503)~天正元年(1573)
 家柄: ■■■■■ 清和源氏です。
 実力: ■■■■□ 超一流ではないようですが、一流の武将に違いありません。
 地理: ■■■□□ 距離としては適当ですが、四方を敵に囲まれた信濃という土地で。


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⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [  ]
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※そんなこんなで、こちらも人気だった大河ドラマです。
 どうせなら「上杉謙信」をやればいいのに…。

最強軍団を撃退した北信の雄 (村上義清)2

2007年12月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、戦国最強軍団として、遠く瀬戸内海にまでその武名が轟いていた(本当)武田勢を数度も破った”北信の雄”、「村上義清」についてです。

清和源氏の名門・村上家。
信濃更級郡に土着した村上家は南北朝時代から勢力を拡大、名門守護家・小笠原氏と肩を並べる存在となっていくのです。
そんな村上家を継いだ本編主人公「義清」さまは付近の諸豪族・有力国人をことごとく撃破し、信濃六州郡を支配することに成功しておりました。
一方、甲斐「武田晴信(※写真)」は諏訪氏を倒して信濃への進出を果たしており、必然的に村上氏との衝突が間近に迫っていたのです。

天文十七年(1548) [上田原合戦:長野県上田市上田原]
先に動いたのは村上勢。
一方の武田方は一万という軍勢で甲府を出陣し、大門峠を越えて小県郡へと侵入しました。
(※正直、一万という数は大げさだと思うの。…せいぜい半分くらいかなぁ?七千と書いてある本もありましたが)
本領坂本へと進軍する武田勢に対して、「義清」は七千あまりの兵力で出陣・迎撃。
千曲川の支流、産川と浦野川に広がる小県郡・上田原にて両軍は激突したのでした。

緒戦は武田方の先陣「板垣信方」の突撃によって、第一陣を突破されるなど優勢だった武田勢。
ですが、次々と波状攻撃を繰り出す老獪な「義清」によって次第に統制を乱し、敵中深くまで進んでいた先鋒隊「板垣信方」は孤立し、伏兵に倒され、包囲されて撃退・戦死されてしまうのです。
これによって、大いに気勢の上がった村上勢は逆に武田の陣へと突入するのでした。
この逆襲により、「甘利虎泰(あまり・とらやす)」、「初鹿野伝右衛門(はじかの・でんうえもん)」、「才間河内守」ら踏みとどまった武将も信方に続いて、ことごとく討ち取られてしまうのです。

この合戦では、晴信の片腕とも言われた諏訪郡代「板垣信方」・甘利郷「甘利虎泰」という譜代家臣を筆頭に、「初鹿野伝右衛門」など諸将を討ち取られ、さらに晴信本人も負傷するという、大敗となるのでした。
大将同士、「義清」と「晴信」が一騎討ちを演じたという説もあるようですが、これは怪しいかなぁ…。
皆さん一騎討ちがお好きなのね。

天文十九年(1550) [砥石崩れ:長野県上田市上野字伊勢山]
当主「義清」が留守であった隙を突き、善光寺平への要所・「砥石城(上田市神科)」を攻撃した武田勢。
この砥石城(戸石城)は天嶮の要害というべき山城で、さすがの武田勢も抜くことができず、苦戦していたのです。

その報に接すると、村上勢は六千の兵を率いて急遽軍を反転。
退却する武田勢に追撃を開始するのでした。
背後からの攻撃を受ける不利な状況での合戦は武田勢を大いに苦しめ、こちらでも「横田高松」ほか数千人の死者と二千人以上の負傷者を出すという総崩れの大敗となるのでした。
こちらでも、「村上義清」は戦国最強と言われる武田勢を大いに打ち破っていたのです。

⇒ つづく。
  次回は「栄光から転落した北信の雄」

[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
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⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    

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※諏訪郡代「板垣信方」、甘利郷「甘利虎泰」など初期の参謀を知りたいならばこちら。
 晴信くんはキライですが、いい家臣団ですよ。


剛勇で知られる北信の雄 (村上義清)1

2007年12月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、戦国最強軍団として遠く瀬戸内海にまでその武名が轟いていた(本当)、武田勢を数度も破った”北信の雄”、「村上義清」についてです。

イカスぜ、義清さま!
ひでるさんは武田…というか「晴信くん(※写真)」がキライなので、必然的にその敵対勢力は好きなのでした(笑)
そんな訳で「村上義清」をお送り致します。


信濃国(長野県)葛尾城主の「村上義清」さま。
もともと村上氏は清和源氏「源頼信」の次男「頼清」より続く血統です。
その昔、「白河上皇」との確執によって、信濃国更級郡村上郷へ流罪となった「源盛清」の子孫と言われております。
一部は鎌倉幕府に仕えて京へ上るなどしていた様子ですが、基本的には近隣に土着しました。

建武二年(1335)
南北朝で日本が割れていた際、当主「村上信貞」は判断よく「足利尊氏」の北朝に属して戦功をあげ、以後より信濃国では守護・小笠原氏と肩を並べるほどの威勢となりました。
代々大将は切れ者揃いだったらしく、近隣を次々に征服していったことに加え、「村上政清」当主の時代では分裂した小笠原氏の内紛に乗じて、勢力を大いに拡大していったのでした。(※嘉吉二年(1442)頃のこと)

父「村上顕国」はその「政清」の孫。
今回の主人公「村上義清」はその子として文亀三年(1503)、葛尾城に誕生しました。
幼名は「武王丸」
永正十七年(1520)頃には、父親の後を受け当主となっていたようです。

天文十年(1541)
家を継いだ「義清」は当面の敵であった水内郡・高梨氏、小県郡・海野氏などに対して攻撃を開始。
特に小県郡では、甲斐「武田信虎」と盟約して「海野棟綱」「真田幸隆」を撃退、これらを上野へ追放しています。
こうして、佐久・小県(ちいさがた)・更級・埴科(はにしな)・高井・水内…という、信濃六州郡を支配することに成功。
信濃北東部では最大勢力となったのでした。

⇒ つづく。
  次回は「最強軍団を撃退した北信の雄」

[関連記事]  【 源氏祭り 】
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※さすがに流行りだけあって、「風林火山」限定パッケージだそうです。
 頭脳ゲームなんだって。


瑞鳳寺 (宮城県仙台市)

2007年12月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はぞろりと北へ北へ…宮城県仙台市は「瑞鳳寺」です。

観光関連では、やっぱり「伊達政宗」一色な仙台。
仙台駅周辺の観光施設は”政宗騎馬像”が有名な青葉城址以外、正直さしたるものがないんですね。
あとは政宗くんが墓所と定めた瑞鳳殿(ずいほうでん)、そこへ向かう坂の途中にある一刻館…ではなく「瑞鳳寺」くらいかなー、ってな訳でこちら。
正確には「正宗山瑞鳳寺」です。

こちらは寛永十四年(1637)、仙台藩初代当主であります「伊達政宗」の菩提寺として、二代「伊達忠宗」によって創建されました。

この方「伊達忠宗」は実際には次男なんですが、正妻「愛姫(陽徳院)」の子でありまして、家督を相続することとなったのです。
(※そんな訳で嫡男、猫御前の子「秀宗」は粛清されたりはしませんでしたが、色々大変だった様子)
そんなこんなで、代々伊達家の菩提寺となった御一門格のお寺なのでした。
こちらは臨済宗は妙心寺派の寺院です。

本尊である「釈迦如来」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」の三体は平泉「毛越寺(もうつうじ)」より移したもの。
ちなみに、「毛越寺」ってーのは、「慈覚大師(じかくだいし)」こと「円仁」さまが嘉祥三年(850)に開山したとされる、大変に由緒あるお寺でした。
なんと、国の特別史跡・特別名勝というそれぞれからの指定を受けているんだって。

さて、こちら「瑞鳳寺」は…「伊達忠宗」の寄進である梵鐘が県指定の文化財。
山門は東京伊達屋敷の門を模したもの。
その境内には多数の草木があちこちやたらめったらに植えられており、にわかジャングル状態なの(本当)


※ほらほら、こんなんですよ。

本堂前の冠木門は三代「綱宗」側室椙原お品邸にあったもので、俗に高尾門と呼ばれるもの。
愛人宅の門を菩提寺へ持ち込んだってことなようです。
いやねぇ。
なんか気に入ったんでしょうか?

ほか、政宗が好んだ生け花やお茶にちなんで、本源流の奥義を示す組み方である花塚、茶室・瑞新軒なんてものがあります。

もうひとつ、このお寺での注目は、三代「綱宗」の品川屋敷にて池の飾り物であった「浦島太郎と乙姫様」像。
こんなんなかなかないでしょう?

さらには、歌舞伎仙台萩の一場面を模した「亀千代毒殺計画」像などがありまして、仏像ではないんですが立体像好きなひでるも満足な内容でした。
ついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。


住所]
瑞鳳寺 宮城県仙台市青葉区霊屋下23-5

[関連記事] 
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 水琴窟 (京都・妙心寺退蔵院、正法寺)
⇒ 大雄院 (京都・妙心寺派)
⇒ 妙心寺・退蔵院 (京都)

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高橋留美子、 他 (2007/07/25)
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※坂の途中に…ってのはこちらのネタでした。
 原作漫画のが好きなんですが。


勢至菩薩 (仏像・菩薩) 

2007年12月24日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はあんまり一般的ではないですが、おそらくたいていの人が目にしているだろう、こちら「勢至菩薩(せいし・ぼさつ)」についてです。

ちょっと仏像に詳しい方はとりあえずおいといて(笑)、皆さん聞いたことありますか??
ひでるさんはこの方の名前がなかなか覚えられなく、「阿弥陀三尊」を見たときなどでも、必ず名前が喉で引っかかってしまう方なのでした。

そんな訳で「勢至菩薩」について。
梵名は「マハースターマプラープタ」
…早口言葉みたいです。舌かみそうです。

正確には「大勢至菩薩」、他にも「得大勢(とくだいせい)」とか、「大精進(だいしょうじん)」などと訳されるそうです。
「勢至」ってのは、それらを略したものである様子。
こちらは「知恵の光をもってあまねく一切を照らし、その偉大な力で人々の迷いを除く」という、大層な菩薩なの。

ほとんどの場合は「観音菩薩(聖観音)」と共に「阿弥陀如来」の脇侍となっており、三名で”阿弥陀三尊”を形成することで知られています。
この三尊形式である場合、「日光・月光菩薩」と同じで右に位置(※むかって左ね)する「勢至菩薩」は対になる「聖観音」と対照的な同じ姿で作られます。
そんな訳で単独での信仰は非常に少なく、単独に「勢至菩薩」として祀られている際には”なんらかの理由があって本来の三尊から離れた”のだそうです。
…なんだか意味深。
気になりますね。
相棒の「聖観音」はあちこちやたらめったらあるというのに…。

なお、「勢至菩薩」が知恵の内容であるのに対し、一方の「聖観音」は慈悲を司ります。
この二尊はやたらめったら区別がつきづらく、「聖観音」は頭上正面に如来化仏があり、「勢至菩薩」はそこに水瓶があるのが唯一の基本見分けでして、他にはこれという特徴はないそうです。
そんな程度なんですよ。
当然、例外もあるので見分けについては諦めた方が良さそうですね(笑)

なお、長野「善光寺」での「阿弥陀三尊」への信仰が各地へ広がった結果、各地で善光寺式と呼ばれる「阿弥陀三尊」が制作されています。
こちらの場合、観音・勢至の両菩薩は胸前で左の掌に右の掌を重ね合わせる姿(梵篋印:ぼんきょういん)で作成されます。


[関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
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⇒ 執金剛神・仁王像
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⇒ 二十五菩薩
⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 地蔵菩薩半跏像
⇒ 兜跋毘沙門天
⇒ 荼吉尼天
⇒ 摩利支天
⇒ 大天狗像
⇒ 千二百羅漢像 びんずるさま


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ロマンティック善光寺 ロマンティック善光寺
小林 由美子 (1997/03)
信濃毎日新聞社
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※そんなこんなで善光寺。
 うふふ…ロマンティック、ですよ(笑)
 結構本が発売されているんですね。

四条畷にて玉砕した英雄 (楠木正行)3

2007年12月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も南北朝時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」、その子「楠木正行(くすのき・まさつら)」をお送りいたします。

正平三年(1348) [四条畷合戦]
四条畷へ出撃した「楠木正行」は過去に「高師直」の軍勢を破ったことがある南朝「四条隆資」と合流。
総勢はなんと二万あまりとなりました。
一方の北朝方は尊氏の腹心「高師直」以下六万という大軍。
こちらは、四条畷・飯盛山山麓一帯にずらりと陣を敷きました。

そんな敵軍で溢れる地へ、南朝勢は進出。
戦は早朝から開始されるのでした。

「四条隆資」率いる四条勢は飯盛山へ向かって陽動作戦をとり、「楠木正行」の楠木勢は真っ直ぐに突撃して「高師直」の本陣へと迫ります。
その勢いは凄まじく、行く手を阻んだ「県下野守」、「武田伊豆守」ら諸隊が次々と蹴散らされてしまうのです。

しかし、一連の激戦にてにわかに疲弊してくると、その機会を狙っていた「長崎資宗」、「佐々木道誉」らの軍勢が楠木隊を包囲するべく後方から突撃を開始。
兵力に勝る北朝方に囲まれてしまった楠木勢はここで大半が討たれてしまうのです。
しかし、これでもひるまずに応戦していた「正行」以下先陣三百ほどの部隊は敵中に孤立していながらも突撃を止めず、一時は大将「高師直」本陣が崩される、ぎりぎりのところまで追い詰めるのでした。
なお、この際には「師直」の鎧を着た「上山六郎左衛門」がその身代わりとなって討死しております。
ほぼ壊滅しかかった状況でありながら、まさに”あと一歩”というぎりぎりまで迫っていたのです。
…惜しかった。
あと一歩だったのに…。

早朝から果敢に攻め続けた楠木勢、「楠木正行」でしたが、夕刻頃になると矢に射倒され、遂に力尽きてしまうのでした。
わずか三十騎にまで減っていた楠木勢。
これまでと考えた「楠木正行」は弟「正時(次男)」と刺し違えて死亡。
残った兵らもことごとく自刃。

こうした楠木勢の玉砕により、別働隊であった「四条隆資」以下軍勢も支えきれずに崩されて壊滅。
余談ですが、この「四条隆資」は後に「後村上天皇」を脱出させるため殿軍を務め、奮戦の末に討死しています。

こうして「四條畷合戦」では、高師直・師泰兄弟率いる軍勢に敗北。
北朝方の勝利となるのでした。

この時、父との「桜井の別れ」から十年以上が経過していました。
「楠木正行」、享年二十二~五歳。

返らじとかねて思へば梓弓(あづさゆみ)
             なき数に入る名をぞとどむる



…とかなんとかお送りしてきましたが、これは軍記「太平記」による描写が大半でして、実際のところは結構不明らしいのですよ。
なお、古戦場付近の四条畷神社ではこの忠義に殉じた英雄「楠木正行」を祀っております。
「大楠公」と称された父「正成」に対し、小楠公(しょうなんこう)と称されております。

おまけ。
「楠木正成」には嫡男「正行」、次男「正時」のほか、三男「楠木正儀(くすのき・まさのり)」という男児がおりました。
この「正儀」は兄の戦死後、楠木氏の頭領となって南朝の軍事部隊の中心的存在になっております。
一時的に京都を占領するなど、父・兄に変わらぬ武勇を発揮していますが、三代将軍「足利義満」に降伏。
後に再び南朝へ復帰するなど、一貫性に欠けるがっかりな行動を取っております。


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太平記“よみ”の可能性―歴史という物語 太平記“よみ”の可能性―歴史という物語
兵藤 裕己 (2005/09)
講談社
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※最近ブログ書くことで、このあたりのややこしい話がなんとなく分かってきました。
 そろそろ、こうした本読むのも苦ではなさそうですよ。

四条畷へ出陣する英雄 (楠木正行)2

2007年12月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も南北朝時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」、その子「楠木正行(くすのき・まさつら)」をお送りいたします。

突如歴史の表舞台に現れた正体不明な「楠木正成」、および楠木家。
見事、政権を牛耳っていた北条家を打倒して「後醍醐天皇」の望みを叶えますが、その時代錯誤な政治にあきれた武士たちは「足利尊氏」の下へ集結。
ついに朝廷と敵対することとなるのです。
一時は九州まで落とされた「尊氏」ですが、不屈の闘志で再起すると再び京都を目指すのでした。
その鎮圧に出撃する「楠木正成」は自らの死を覚悟し、嫡男「楠木正行」を桜井駅にて本拠河内へと帰すのです。

「桜井の別れ」での嫡男「楠木正行」はもう分別がつく十一歳頃。
父「正成」はその際、いざという時の策を授けたとかなんとかいう話もあります。
…そういえば、「真田昌幸」も共に従っていた次男「幸村」に”徳川と事を構えた際の策を授けた”という話がありますが、こんなんはお互い戦術論を交わす程度だったものが、後にそう伝えられたと思います。たぶん。
わかんないけど。
まぁ、そうした方がドラマチックですからねー。


さて、父「正成」の戦死後、「正行」が楠木氏の頭領となりました。

正平二年[貞和三年](1347)
ついに「楠木正行」は遺言通りに挙兵。
父譲りの武勇を遺憾なく発揮した「正行」は河内八尾城、河内藤井寺の合戦。
続く摂津住吉、摂津天王寺など各地の戦にて北朝・幕府軍をことごとく撃破。
特に摂津天王寺の合戦では救援に赴いた「山名時氏」の軍勢を大いに破りました。

その際、淀川に追い落とされ、溺死した者が多数おりました。
ここで「正行」は味方の兵に命じ、溺れかけた敵兵を次々と助け上げ、敵陣へ送り返しているのです。
こうして一命をとりとめた兵たちは「正行」の恩に報いるため、後に五百名ほどが楠木陣へと馳せ参じ、四條畷の激戦にてことごとく討死しているのでした。

英雄である父「楠木正成」に隠れてあまり語られることが多くない「楠木正行」ですが、こうした人間的な魅力も持った、間違いなく「英雄」だったのです。

活躍する「正行」率いる軍勢が勝利と共に膨れ上がると、侮りがたいと知った幕府側「足利尊氏」は信頼厚い「高師直」・「高師泰」兄弟に出撃を命じるのでした。

その動きを察知した「正行」は弟「楠木正時」ほか一族と吉野「後村上天皇」に伺候。
ここで別れを告げると、それぞれの髪を奉納・壁に全員の名と辞世を刻んでおります。(※写真)
これからの運命を予想していたのかもしれませんね。

正平三年(1348) [四条畷合戦]
軍勢三千あまりを率いた「正行」は四条畷へと出撃。
友軍である南朝方の中心人物、中納言「四条隆資(しじょう・たかすけ)」以下二万あまりと合流しました。

この「四条隆資」という人は公家でありながら武士をよく理解して公平に接していたという南朝では稀な方で、過去には「高師直」の軍勢を破ったことがありました。
当時のベストメンバーで臨んだのです。

⇒ つづく。
  次回は「四条畷にて玉砕した英雄」

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楠流軍学に学ぶ経営戦略 楠流軍学に学ぶ経営戦略
中村 晃 (2003/10)
東京経済

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※さすがに一流の軍略家です!
 なんと、経営戦略まで学べてしまうということですよ!!

父の背中を追う英雄 (楠木正行)1

2007年12月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代の英雄って言えば、若き将軍「北畠顕家」さまもいいんですが、やっぱり皆さまご存知「楠木正成(くすのき・まさしげ)」でしょう。
…どうですか、違いますか?

突如歴史の表舞台に現れ、颯爽と活躍した正体不明な「楠木正成」、および楠木家。
なんだかかっこいーですよね。
この人がまた忠義を曲げることなく、志半ばで死んでしまうところが悲劇的で、この現代でもなお多くの人の心を掴んでいるのでしょう。
本日はそんな「楠木正成」さま…ではなく、ちょっと一般には知られていない嫡男「楠木正行(くすのき・まさつら)」さまについて、です。

そんなこんなで楠木家。
まず苗字ですが、一般には「楠木」となっていますが、正しくは一字で「楠」が本当であるようです。
古代の名門「橘氏」、右大臣「橘諸兄(たちばな・もろえ)」の末裔と自称しておりますが、実際のところ不明。

「橘氏」は公卿になれる氏族(※「源平藤橘」の四つ)でして、おそらくは「後醍醐天皇」の新政府参加の際に、周囲に匹敵するよう系図を飾る必要があったためかもしれません。
武家の棟梁として知られる源氏・平氏、あちこちで見かける有名な藤原氏に比べ、最も当たり障りなかった姓が「橘氏」であったためと推察されています。

とりあえず、河内の豪族であったことは間違いなく確かである様子です。
そんな「楠木正成」は「後醍醐天皇」に応じて挙兵し、赤坂城、千早城という小城(砦)にて幕府の大軍を引き受けたのでした。
これが切っ掛けとなって倒幕の機運が高まり、鎌倉幕府崩壊へと繋がるのです。


延元元年(1336)
九州へ追い落とした「足利尊氏」はそちらで実力を蓄え、再び京へとせまります。
その迎撃を命じられ、死を覚悟した「正成」は現在の桜井駅跡(※電車の駅ではなく、大阪府三島郡島本町の史跡名なんだって)にて、嫡男「楠木正行」を八尾別当(やおべっとう)「顕幸」僧正を後見として、河内へ帰しました。
これが有名な「桜井の別れ(※写真)」です。

自分の命を惜しんで、これまでの後醍醐天皇への忠節を忘れ降伏してはならぬ

そんなことを言い残し、父「正成」は「湊川合戦」にて討死。
当時「正行」は十一歳頃でした。
この際、ショックで自刃しようと考えた、とも伝えられています。

もしかしたら、赤坂・千早の攻防戦を知る「正行」には、その不利な「湊川合戦」でも勝利して帰ってくる父の姿を想像していたのかもしれません。

⇒ つづく。
  次回は「四条畷へ出陣する英雄」

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楠木氏三代―正成・正行・正儀 楠木氏三代―正成・正行・正儀
井之元 春義 (1997/02)
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※いいですよね、かっこいいですよね、の楠木氏三代です。

仁和寺 (京都)

2007年12月24日 | お寺
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本日は京都は右京区の「仁和寺」です。
真言宗御室派の総本山であるので、総本山シリーズ(そんなんない)ですよ。

こちらは世界遺産なんですが、そんなお寺をほっといて以前「そうめん」とかどーでもイイもの紹介してましたね。
はちゃめちゃです。

ひでるさん、京都へ行って最初に訪ねたのは「広隆寺」なんですが、その流れで自転車走らせ、最終的にたどり着いたのがココ「仁和寺」なのでした。
懐かしいなー。
また行きたいなー。
住みたいなー。
…と、そんな訳で再び京都への転勤を密かに願っているひでるさんです。

さて今回は「仁和寺」のお話です。
平安時代のこと。
こちらは「西山御願寺」として、五十八代「光孝天皇」の勅願によって着工されます。
がしかし、完成を見ぬまま天皇は死去してしまい、その意思を継いだ「宇多天皇」によってついに完成したのでした。
当時の年号そのまま、「仁和寺」と名付けられたようです。
(※なお、完成は仁和四年(888)のフィーバー年。きゃー!!)

正式名称は「大内山仁和寺」です。
「宇多天皇」は完成したこちらがたいそう気に入ったらしく、退位後に出家するとお住まいを「仁和寺」としたのでした。
西南に「御室(おむろ)」という僧坊を建て、そちらに三十年もの間生活していた様子。
生活、ってたって真言密教の修行してたんですけどね。いちおう。

それ以後も天皇皇族の庇護を受け、なんと明治維新にいたる長きにわたり、皇子・皇孫が歴代の門跡となっていくのでした。
別名「御室御所」ってのは、そんな理由なんですね。

広大な境内と多くの伽藍を有してブイブイ言わせていたこちら「仁和寺」ですが、やっぱり応仁の乱で焼失。
一時期は双ヶ岡西麓に仮御所を設けていたという時期もあったそうです。
なお、現在の建物は江戸時代、寛永年間に「徳川家光」の協力を得て再興されたものなのでした。

金堂は京都御所の紫宸殿を移転したもの。
これは国宝、そりゃそうでしょう。
本尊は「阿弥陀如来」です。
ほか、仁王門や五重塔なども、江戸時代で重文。
春・夏に公開されている霊宝館には数多くの国宝・重文がずらりと並び、もともとの本尊らしい「阿弥陀三尊像」は平安時代初期頃のもので非常にやさしーいお顔ですよん。

あとね、こちらのパンフレットはいい具合にはっちゃけており、まるでどこぞの雑誌記事みたいでした。
カラーも鮮やかで、なかなかいい感じ。

中門西側には「御室の桜」と呼ばれる里桜がありまして、名所として知られています。
好きな方はその頃にどうぞ。
ちなみに、ひでるさんが行ったのは八月の真夏(笑)


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⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 
  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀

[住所]
 仁和寺 京都市右京区御室大内33

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※さすがに世界遺産なお寺です!
 パズルなんてのがありましたよ。


本地垂迹のややこしい話 (仏教・神道)

2007年12月23日 | 仏像
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本日は…なんとなく知っていてもあまりよく知らない(かもしれない)、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」について。
前回は触り程度だったんですが、今回はまたややこしいお話。

あらかじめ断わっているあたりが自信のなさの象徴。
うふふ…。

もともとは「聖武天皇」による東大寺の大仏造立あたりからのことであるようです。
大陸から伝わったの高度な外来文化であった「仏教」
朝廷はそんな垂迹神に国政を護らせることとするのでした。
仏教を広めるため、神仏習合思想を利用して土着信仰との融和を図ったのです。

それが実を結ぶのは平安時代中期頃から。
神も衆生と同じように煩悩の苦しみがあり、仏の力によって脱却できるという教えが一般化していくのでした。
仏になるための修行中の姿が神である、とされたのです。

仏の悟りに達した境地を「果位(かい)」といい、それに達するまでの過程を「因位(いんい)」といいます。
日本古来の神をこの因位に位置づける思想がため、寺院の中にて仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社、すなわち「神宮寺」が多く建てられることとなるのでした。

八幡神が「八幡大菩薩」とされているのも、神仏習合の結果として”大菩薩の号”があたえられた結果なのです。

特に山岳信仰が盛んになると、山の神などの土着信仰と仏・菩薩などの接触が促進され、習合・同体となりました。
当時の流行で多く存在したという、修験道の行者たちがこうした信仰を広めるにまた一役買ったのです。

こうした流れで、多くの神社では祭神の本地仏を特定するようになっていくのです。
八幡宮の阿弥陀、伊勢神宮の大日ほか、平野、春日、日吉、北野、熊野…などなど主要神社で本地仏や菩薩を定めることとなり、それが支持されるようになると”仏法は垂迹の神々なくしてはありえない”という考えにまで至ったようなのでした。

鎌倉時代。
伊勢「度会氏(わたらいし)」による「神道説」はそのもので、「垂迹の神々こそが本体である」という、いわば逆転現象がおこるのです。
こうした反本地垂迹説という動きは室町時代から江戸時代まで続き、広く庶民の間に受け入れられることとなるのでした。

しかし、儒教との習合や神道の復古、明治時代の分離政策などで急速にその勢力は衰え、本地垂迹の神道は俗信として排斥。
数多くあった神宮寺も次々に消滅するなどして、その数を大いに減らしていくのでした。

まぁ、だいたいそんな感じだったらしいのよ。


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※とっかかりには漫画がラクちんですね。
 こんなんどうでしょうか?

本地垂迹ってなんだ? (仏教・神道)

2007年12月23日 | 仏像
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本日は…なんとなく知っていてもあまりよく知らない(かもしれない)、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」について。
まぁ、なんだ。
とりあえずどうぞ、見ておくんなまし。

インド(※インドの小国シャーキャ族)で生まれた仏教。
こちらの面白く興味深いことは”他の地域へ広まるにつれ、それらを取り込み・融合していったこと”にあると思うのです。

奈良時代
厳しい山中へ入って修行をする山岳信仰。
その土地、地方にて根強く残る民間信仰。
大陸の知識を持ち帰った僧侶たちが仏教を広めていくと、やがて古来から日本にあったそれらと衝突していくこととなるのです。

そして平安時代。
仏教が広まり、一般化していくに従って神仏習合という現象が見られるようになるのです。

異教の神々、そして日本古来の神々たちとの関係性が説かれ、神と聖人、仏と菩薩が同一のものとなり、仏に救済を求めて帰依していく”傘下へ下る”パターンから、共に仏教を守護する一人に生まれ変わる”馳せ参じる”パターン、さらには本来は仏教の仏様が神道の神の姿となって現れていたとする”同一人物パターン”ができるのでした。

真面目(笑)に書きますと、「法華経」とか「大日経」などにも書かれている、衆生を救うために超歴史的な存在が歴史世界のあらゆる形をとって現れるという思想。
それが一般的になったものなの。
中国では儒教の聖人や道教の神仙がそれであり、日本では神道の神がそれであった、ということ。

大陸から伝来した外来文化の一つである仏教を重視した朝廷が、古来からの土着信仰が根強い各地にまで広めるために利用した政策であった、という側面もあるようです。

「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という言葉があります。
秦の僧肇(そうじょう)が著した「注維摩(ちゅうゆいま)」にて示されたのが始まりとされています。

「本地」とは本体・本源という意味で、仏教の尊格(本地仏)のこと。
「迹」というのは具体的な姿。
「垂迹」とは本体が衆生を救うために仮の姿をとってこの世に出現することをいうのでした。

すなわち、(かり)に姿を変えてれる神(垂迹神)のことをさしておりまして、それがよく耳にするかもしれない「権現(ごんげん)」なのでした。
なんちゃら権現って聞いたことあるでしょ?

具体的には…

・大日如来 = 天照大神(あまてらすおおみかみ)
・阿弥陀如来 = 八幡神・熊野権現
・大勢至菩薩・十一面観音 = 白山明神(はくさんみょうじん)
・弁財天 = 市杵嶋姫命(いちきしまこめのみこと)
・大黒天 = 大国主命(おおくにぬしのみこと)

…などなど。

こうした神仏習合の結果として神社には僧形の神像や本地仏が安置され、逆にお寺でも境内に神社があるなど、その境界線はきわめて曖昧なものとなっていくのでした。
これは明治政府による神仏分離政策まで続くんですが、どちらも一般には見分け困難なことであり、微妙な区分けのまま今日まで到るのでした。
お寺と神社はどう違うのか、って分からん人は多いですが、それも仕方ないことなんですね。ええ。

⇒ つづく。
  気が向いたらやりますが…次回は「本地垂迹のややこしい話」

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戸部 民夫 (2004/01/06)
PHP研究所

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※そんな訳で、日本の神様もちょっと見てみると面白いと思います。
 ひでるさんとラブラブ(笑)な「みずはちゃわん」(※雨の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ))も日本の神様ね。