お寺さんぽ Ver.03

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天下人たる器 (蒲生氏郷)1

2007年12月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…現代ではあまり名前が出なくて地味めですが、当時の人々は誰しもが「彼はスゴい方だ!」とその才覚を認めていた、歴史に隠れた英気「蒲生氏郷(がもう・うじさと)」をお送りします。
これからちょっと長丁場ですが、お付き合い下さいませ。

とりあえず…この人の名前知ってますか?聞いたことありますか?
まず名字の「蒲生」ってのが読みずらいんですよね。
これで「がもう」と読むんですけれど。
また、氏郷くんはこれから、という時に死んでしまっているのも原因であると思います。

☆茶の湯では「千利休」高弟で当時一流の文化人。
利休が秀吉の命で切腹した際には、次男「少庵」を城内にかくまっています。
また、好んで深く学問をしておりますが、「これは本業でないからいいけげんにしないと武事が次になる」と悟ってやめたというエピソードがあります。

☆キリシタン大名「高山右近」との親交。
熱心なキリスト教信者であった右近の勧めでキリシタン大名となりました。
ローマ教皇から感謝の手紙を受けているんだって。

☆軍記は信長譲りの厳正なもの。
可愛がっていた家臣に「福満治郎兵衛(ふくみつ・じろべえ)」という者がおりました。
ふと、治郎兵衛は馬のくつが解けたので、隊列を離れてしまいます。
これは重大な軍記違反であり、氏郷は嘆きながら斬ったのです。
かわいそうとは思っても、軍記維持のためには仕方ない
後に、氏郷は彼を思って嘆声をもらしたという話が残っています。


利休七哲の一人、しかも筆頭にして洗礼名「レオ」の名をもつキリシタン大名。
文武両道で万事に才覚があり、諸大名からの信望も厚かった「蒲生氏郷」
おそらく、多少でも歴史に詳しい人は知っていると思うんですが、どうでしょう?

弘治二年(1556)
美濃では蝮こと「斎藤道三」が息子「義龍」によって「長良川合戦」で倒された年のこと。
隣国の近江(滋賀県)には、代々中央の政争に介入してきた”いやらしげな守護大名”、六角氏がおりました。
名門、近江源氏・佐々木氏の惣領家であった六角氏。
鎌倉時代より近江を支配し、軍事力と京に近いという地の利を生かし、これまでの畿内の政争に度々深くかかわってきたのです。
当時の当主は「承禎(じょうてい)」の名もよく知られる「六角義賢」でした。

その家臣に、「日野城(滋賀県蒲生郡日野町)」を領していた「蒲生賢秀(がもう・かたひで)」という人がおりました。
平安時代、近江三上山の「むかで退治(※写真)」で名高い「俵藤太秀郷(たわらとうだ・ひでさと)」こと「藤原秀郷」が祖先でありますから、こちらも負けずに名門家であったのです。
今回の主役「蒲生氏郷」は賢秀の嫡男として誕生するのでした。
幼名は「鶴千代(つるちよ)」。
有力な守護大名から戦国大名へと脱皮した六角氏のもと、順調に成長していた氏郷に大きな転機が訪れるのは、十二歳の凛々しい若武者となりつつあった頃のことなのでした。


⇒ つづく
  次回は「迫る第六天魔王」

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※そんな訳で多数小説にもなっている「蒲生氏郷」さまなのでした。


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