お寺さんぽ Ver.03

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天下を掴む男、秀吉の真骨頂 「清洲会議」4

2006年11月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。
「織田家に何が起こったか!?」です。


参加メンバーの四名については、前回記事を参照して下さい。
まず、参加資格があったのに出席していない、関東方面・司令官「滝川一益」について。
当時の織田勢は武田を駆逐し、関東へ進出したばかりでした。
そのため、新参の織田より、長く支配してきた北条家に心を寄せる者が多かったようなのです。
「本能寺の変」の勃発。
一益は上野の諸将をまとめ、急ぎ西へと戻ります。
上野から武蔵(北条領:当時の織田・北条は同盟していた)に入った滝川勢。
それを北条勢が襲撃するのでした。
圧倒的に不利な状況下で、手痛い敗戦をした一益は伊勢へ逃走するのでした。
しかし、会議参加については”その敗戦によって間に合わなかった”という説のほか、秀吉の事前工作「ひどく負けた滝川には会議参加の資格なし」によって、参加できなくされた、という説もあります。
「滝川一益」はどちらかと言えば「柴田勝家」と懇意にしていたようなのです。
会議の主導権を握りたい秀吉にとって、邪魔な存在だったでしょう。

そして、繰上げ参加した「池田恒興」
彼は温厚な人柄で、物腰の低い秀吉との仲は信長生前より良かったようです。
「山崎合戦」でも秀吉に従って戦っていますし、繰り上げられた彼の参加に異議を唱える者がいなかった事から、当時の織田家中では”会議に参加すべき人”という認識がありました。

この、滝川から池田になった参加者の件もそうですが、秀吉はこの会議に挑む前に、様々な事前工作をしていたようなのです。
確かな実証はありませんが、秀吉はそれをサボるような怠け者でないですし、なにより信長という絶対的な存在がなくなった彼の両目には”天下”がはっきり見えていたはずです。

さて、そんな秀吉の相手となるのは、筆頭家老の「柴田勝家」でした。
これに対抗するには、いかな敵討ちをした実績のある秀吉でも、まだまだ分が悪いのです。
そこで注目したのが、もう一人の家老、ナンバー2の「丹羽長秀」でした。
秀吉は会議前に長秀の元を訪れ、こんなことを言ったと思われます。

1)後継者は嫡男とするのが筋目である。
 信長の後継者としては、嫡男「信忠」の遺児「三法師(後の秀信)」とするのが筋目である。
 信忠は残念ながら戦死しているが、その男子がすでに誕生している。
 嫡孫である「三法師」が継ぐのがもっとも相応しく、禍根を残さないだろう。

2)勝家はこの機会に織田家の独裁者になろうとしている。
 筋目ではなく、普段から目をかけている「信孝」を選ぶのは、彼によからぬ思惑があるためだ。
 勝家の傲慢ぶりには、皆嫌気がさしている。
 自分(秀吉)は信長によって大身となった身であり、大恩がある。
 その恩に報いるのは今しかない。

3)○○を約束。
 もし味方してくれるのであれば、旧明智領からいくらか取り計らいます。
 どうか冷静に、公平に考えて頂きますよう…。

…おそらく、「池田恒興」にも同様のようなことを言っていたと思われます。
秀吉は低く柔らかな物腰で、論理的に、感情的に、さらに実利をもって誘っているのです。
彼の言には正当性があり、情にも訴えるような話で、かつ利をも約束されていました。
これに反対する理由はありません。
秀吉の”人たらしの名人”と言われる話術によって、「丹羽長秀」「池田恒興」は秀吉支持となって「三法師」擁立を支持するのです。

⇒つづく
 次回は「後継者決定、そして内乱へ…」


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