のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、世間一般にあまり広くは知られておりませんが、「下剋上」という冠が相応しい人物「尼子経久(あまご・つねひさ)」さまについてお送りいたします。
わずか一代にて、中国地方最大の守護大名・大内氏と肩を並べるまで勢力を伸ばした尼子氏。
その当主経久は謀略を得意とした反面、人間としても大変に魅力ある方だったのでした。
天文六年(1537)
家督は経久から孫・「尼子晴久(詮久:※写真のひとね)」へと引き継がれました。
なお、経久はこの可愛い孫が二十歳になるまで、しっかり後見していたと伝えられております。
その甲斐あってか、祖父・父同様に才を発揮した晴久はさらに版図を拡大。
ついに、大内氏へ鞍替えしていた安芸の有力国人「毛利元就」にターゲットを絞るのでした。
天文九年(1540) [安芸郡山城合戦]
総大将に経久の弟「尼子久幸」を指名して、出陣した尼子勢。
三万という大軍を擁する尼子勢に対し、籠城した元就以下の毛利勢はわずか三千程度の軍勢でした。
しかし、甲立城の「宍戸元源(ししど・もとよし)」が決死の抵抗。
さらに、伏兵によって別動隊の「尼子誠久」ら軍勢を逆に撃退するなど、「陶晴賢」率いる大内氏の援軍が到着するまでを必死にもちこたえたのでした。
さっすが元就ですねー。
こうして、逆に敵中で孤立することとなった尼子勢は不利なままの決戦を挑むこととなり、総大将久幸が戦死するという大敗北を喫してしまうのです。
経久がこの敗戦を見届けたか、どうか。
一説によると、毛利氏討伐の軍を整える晴久に対して、”思い直すよう諫めていた”と伝えられています。
…あるいは合戦前より、何かしら思うところがあったのかもしれません。
天文十年(1541)に病を得た経久は、そのまま病没。
この時代にしてはなかなかの長生きで、享年八十四。
前にも書いたように、人がよく、出雲国では大変な人気者であった経久。
その人あたりのよさがためか、配下の国人衆から一族に至るまで完全掌握とまではいかず、また組織的なこともせず(できず?)、支配についてはかなりの自由にさせたままだったという、古い守護大名を倣った領国経営をおこなっていたようでした。
度々周辺国へ攻め込んでいるのも、対外遠征によって国人衆をまとめようと努力していたのだ、と想像されています。
いわゆる戦国大名とは違って支配力は強くなく、もっぱら時代の傑物であった「尼子経久」その人の魅力によって、束ねられていたのです。
これは、甲斐「武田晴信」、越後「上杉謙信」らと同様な感覚だった言えるでしょう。
中国山地から産出される鉄・銀、さらには美保関港からの税金、海外との交易などで莫大な軍事力を支えていた尼子氏。
最盛期には備中・備前・美作まで支配は膨らみ、中国地方十一カ国を数えたと言います。
(※孫・晴久の代が最高潮。経久での勢力図は、出雲・隠岐・石見東部・伯耆東部等)
しかし、完全支配とはできなかった脆弱さは、永禄三年(1560)孫「晴久」の急死後、若くして継いだ「義久」の際にて滅亡する大きな要因となってしまうのでした…。
【 戦国メーター★尼子経久 】
家柄: ■■■■□ もともとは室町幕府の要職、四職の名門家です。
実力: ■■■■■ 浪人から再起したこともあり、並大抵の方ではないでしょう。
地理: ■■■■□ 実際に上洛もしてました。
[関連記事] 【織田政権セット】
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⇒ 魔王の弟 「織田信行」 [1 2 3 4 5]
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⇒ 米のような必需人「丹羽長秀」 前編 後編
⇒ 天才軍師「竹中半兵衛重治」 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
⇒ 海賊大名 「九鬼嘉隆」 [1 2 3 4]
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [1 2 3 4 5 6 7]
⇒ 信長に背いた男 「荒木村重」 [1 2 3]
⇒ 坂本城址 (滋賀)
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⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」
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※こんなのがありました。
しかし、さすがに元就さまですねー。
できれば経久との直接対決が見たいところでした。
本日は、世間一般にあまり広くは知られておりませんが、「下剋上」という冠が相応しい人物「尼子経久(あまご・つねひさ)」さまについてお送りいたします。
わずか一代にて、中国地方最大の守護大名・大内氏と肩を並べるまで勢力を伸ばした尼子氏。
その当主経久は謀略を得意とした反面、人間としても大変に魅力ある方だったのでした。
天文六年(1537)
家督は経久から孫・「尼子晴久(詮久:※写真のひとね)」へと引き継がれました。
なお、経久はこの可愛い孫が二十歳になるまで、しっかり後見していたと伝えられております。
その甲斐あってか、祖父・父同様に才を発揮した晴久はさらに版図を拡大。
ついに、大内氏へ鞍替えしていた安芸の有力国人「毛利元就」にターゲットを絞るのでした。
天文九年(1540) [安芸郡山城合戦]
総大将に経久の弟「尼子久幸」を指名して、出陣した尼子勢。
三万という大軍を擁する尼子勢に対し、籠城した元就以下の毛利勢はわずか三千程度の軍勢でした。
しかし、甲立城の「宍戸元源(ししど・もとよし)」が決死の抵抗。
さらに、伏兵によって別動隊の「尼子誠久」ら軍勢を逆に撃退するなど、「陶晴賢」率いる大内氏の援軍が到着するまでを必死にもちこたえたのでした。
さっすが元就ですねー。
こうして、逆に敵中で孤立することとなった尼子勢は不利なままの決戦を挑むこととなり、総大将久幸が戦死するという大敗北を喫してしまうのです。
経久がこの敗戦を見届けたか、どうか。
一説によると、毛利氏討伐の軍を整える晴久に対して、”思い直すよう諫めていた”と伝えられています。
…あるいは合戦前より、何かしら思うところがあったのかもしれません。
天文十年(1541)に病を得た経久は、そのまま病没。
この時代にしてはなかなかの長生きで、享年八十四。
前にも書いたように、人がよく、出雲国では大変な人気者であった経久。
その人あたりのよさがためか、配下の国人衆から一族に至るまで完全掌握とまではいかず、また組織的なこともせず(できず?)、支配についてはかなりの自由にさせたままだったという、古い守護大名を倣った領国経営をおこなっていたようでした。
度々周辺国へ攻め込んでいるのも、対外遠征によって国人衆をまとめようと努力していたのだ、と想像されています。
いわゆる戦国大名とは違って支配力は強くなく、もっぱら時代の傑物であった「尼子経久」その人の魅力によって、束ねられていたのです。
これは、甲斐「武田晴信」、越後「上杉謙信」らと同様な感覚だった言えるでしょう。
中国山地から産出される鉄・銀、さらには美保関港からの税金、海外との交易などで莫大な軍事力を支えていた尼子氏。
最盛期には備中・備前・美作まで支配は膨らみ、中国地方十一カ国を数えたと言います。
(※孫・晴久の代が最高潮。経久での勢力図は、出雲・隠岐・石見東部・伯耆東部等)
しかし、完全支配とはできなかった脆弱さは、永禄三年(1560)孫「晴久」の急死後、若くして継いだ「義久」の際にて滅亡する大きな要因となってしまうのでした…。
【 戦国メーター★尼子経久 】
家柄: ■■■■□ もともとは室町幕府の要職、四職の名門家です。
実力: ■■■■■ 浪人から再起したこともあり、並大抵の方ではないでしょう。
地理: ■■■■□ 実際に上洛もしてました。
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※こんなのがありました。
しかし、さすがに元就さまですねー。
できれば経久との直接対決が見たいところでした。