お寺さんぽ Ver.03

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北陸地方・覇者決定戦 (末森城合戦・前編)

2007年11月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は北陸地方の「小牧合戦」と言われる、「前田利家(まえだ・としいえ)」と「佐々成政(さっさ・なりまさ)」の同僚対決「末森城合戦」です。


ひでるさんは「応仁の乱」を切っ掛けとして幕府が弱体化する戦国時代初期、さらに「織田信長」の登場と共に時代が終結へ向かう安土時代も好きです。
「豊臣秀吉」が己の才を遺憾なく発揮して活躍するこのあたりの時代は実にいいですね。居並ぶ同僚・先輩らを押しのけて頂点へ向かうのは並大抵のことではありません。

この「前田利家」も当初は秀吉より先輩で高い身分であったものの、途中からは逆転され、豊臣政権ではその忠実な片腕となった人物です。
信長死後に勃発した「賤ヶ岳合戦」では戦線離脱し、秀吉方についた「前田利家」
今、彼の真価が問われようとしていました。


過去、版図を広げる「織田信長」は越前・朝倉氏を倒し、筆頭家老である「柴田勝家」に北陸方面を担当させました。
その与力として彼につけられたのが、今回の主要人物「前田利家」、「佐々成政」であり、もう一人「不破光治(ふわみつはる)」の三名だったのです。
このそれぞれは領土を与えられ、「府中三人衆」と呼ばれていました。

さて、その一人「佐々成政」は信長直属の精鋭隊「黒母衣衆(くろほろしゅう)」の筆頭でした。
ちなみに、「前田利家」は同じく精鋭部隊の「赤母衣衆」の一員です。
若い頃の利家は信長の小姓をつとめ、その剛勇から「槍の又左」と呼ばれていた武者だったのです。
どちらも、信長に近しい位置にいて武勇に優れる武将、そして長く付き合いのあった同僚なのでした。

ちなみに、「母衣(ほろ)」というのは風を受けると膨らむ長い布のことで、矢を防ぐための追加装備でした。
平安時代から鎌倉時代にかけては多く用いられましたが、戦国時代では旗指物のような識別目的が強かったようなのです。

そんな二人の運命は主君「織田信長」の死によって一変しました。

「清洲会議」にて対立した「羽柴秀吉」、「柴田勝家」両者の溝は深く、やがて「賤ヶ岳合戦」が勃発。
ここで利家は勝手に撤退して布陣を崩し、秀吉の勝利に間接的に貢献するのです。
「柴田勝家」は北ノ庄城にて妻・お市と自害。

ちなみに、この時の「佐々成政」は上杉勢の備えとして越中で待機していました。
ほぼ何も関与せぬまま、合戦は相手方の大勝利で終結し、また大将である「柴田勝家」が死んでしまうのです。
心情としては突如成り上がった秀吉に抵抗感があったと思われますが、とりあえず臣従を誓うのでした。

そんな急速に勢力を持った秀吉に不満を持った者がここにもう一人。
信長の次男である「織田信雄」です。
彼は「徳川家康」を味方につけ、ついに挙兵しました。
ここで家康は各地の大名と連携して、秀吉勢を取り囲むよう”包囲網”作戦を立てるのです。
(※上記図参照)

その包囲網作戦に北陸にて呼応したのが「佐々成政」であり、彼もこの作戦に従って挙兵。
「織田信雄」と結び、秀吉に叛旗を翻したのでした。


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※がんばれ利家さま!
 どちらかと言うと快活な秀吉に対し、慎重なイメージの利家ですが、若い頃は信長と共に奇抜な格好で町を闊歩していた悪ガキグループの一人だったようです。


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